- Amazon.co.jp ・本 (265ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102147030
作品紹介・あらすじ
雨に濡れそぼつ子ども時代の記憶と、カリフォルニアの陽光。その明暗のはざまに浮かびあがる、メランコリアの王国。密造酒をつくる堂々たち祖母、燃やされる梨の木、哀しい迷子の仔犬、ネグリジェを着た熊、失われた恋と墓のようなコーヒー、西瓜を食べる美しい娘たち…。囁きながら流れてゆく清冽な小川のような62の物語。『アメリカの鱒釣り』の作家が遺したもっとも美しい短篇集。
感想・レビュー・書評
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「西瓜糖の日々」と「アメリカの鱒釣り」は生に満ち溢れた(少なくともすごく肯定的な)雰囲気だったのにこれはなんとも言えない影とアメリカを問い続ける問題意識みたいのが見え隠れしていて、今まで読んだ作品とは違った雰囲気を味わえた。
私はこういうの好き。
「太平洋のラジオ火事のこと」が一番よかった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『アメリカの鱒釣り』のあとに書かれた作品を集めた短篇集。
今まで何回もパラパラと開いてきたが、読み通すのは初めてだと思う。柴田元幸の『翻訳教室』を読み返していたら、そこで取り上げられている「太平洋のラジオ火事のこと」でボロ泣きしてしまい、今が『芝生の復讐』を読むタイミングなのかもと思ったのだ。何を読んでも泣くスーパーセンシティブ状態だったけど、本当にめためたになったとき、ブローティガンの言葉がこんなに入ってくることがあるんだなと思った。
『アメリカの鱒釣り』は世界の空虚さを描きながらも言葉を使うことの楽しさ、ジョークの愉快さに満ちていたが、それに比べて『芝生の復讐』は湿っぽい印象があった。読み終わってもやっぱりそれは正しい。ブローティガン流の、比喩と現実が完全に等価であるような、言葉に置き換えられた途端にすべてが質量を失ってぺらぺら飛ばされていくような軽さはそのままなのに、笑いが消えて真顔に変わっている。自分がびしょぬれのボロ雑巾だと気づいた人間のための言葉たちだ。
記憶のスケッチから散文詩まで短い文章が集められているが、私はやはり物語風のものが好きだった。コーヒーを求めて関係を持った女たちを訪ねる「コーヒー」、1ポンドも肉を買う老婆の秘密を描いた「サン・フランシスコの天気」、安楽死させた犬の死骸を高級な絨毯で包んで葬る「冬の絨毯」。あるいは、ドライな風景描写が独特の美しさをみせる「砂の城」、夜の闇に恐怖した少年時代がありあり蘇る「許してあげよう」。
言葉が心にぴたりと寄り添い、ここに自分のための言葉があったのかと思える体験は特別だ。それがブローティガンだったというさみしさも格別だ。藤本さんの訳者あとがきも愛に満ちていて、読むと心がしみしみになる。ブローティガン、死なないでほしかったな。 -
「ことばで表わすことのできない感情と、ことばでよりはむしろ糸くずの世界をもって描かれるべきできごとに、今夜のわたしは取り憑かれている。
わたしは子ども時代のかけらたちのことを考えていた。それらは形もなく意味もない遠い昔のかけら。ちょうど糸くずのようなことがらなのだ」「糸くず」 -
状況の風景と心象の風景とが渾然一体となって伝わってくる。面白いと言うより心地よいと言う方が読後感として適切だろう。
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大好きなブローティガン。数少ない現在も出版されているもの。『アメリカの鱒釣り』の続編にあたる。少しその点についても触れられるのでそちらを読んでからこちらを読むべきである。短いチャプターをつないでいくのは『西瓜糖の日々』に近いがこちらはひどく自伝的内容である。名訳者・藤本和子と、リチャード・ブローティガンが出会えて本当によかった。原典は簡易な英語で綴られているようなのでいつか原典にも当たってみたいと思う。
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どうしようもない愛おしく、
同時に心の底から嫌悪する「アメリカ」。
(もちろん「」の中は任意です。
あなたも思い当たる言葉を入れてください。
僕だったらあれやこれやそれや。)
なんであれ、
そんな引き裂かれた場所に立つ人は、
どんなふうに振舞えばよいのかと聞かれれば、
それはブローティガンのように、と答えます。
まるでライフルを持ったキチ○イのような。
まるでなにも知らない子供のような。
まるで死を直前にしてチューブにつながれ、
ベッドに横たわる老婆のような。
まるでそれを見守る息子のような。
自伝的でノスタルジックなトーンのみで書かれた
(なんてことだ!)「談話番組」と
「きみのことを話していたのさ」に涙涙。
でも、それでさえこの感情の渦のような
短編集のほんの一部の側面でしかありません。
たぶんそれはなにをもってしても代えがたいなにか。
文字を順番に書いて/読んでいくことでしか得られないなにか。
言葉だけがなしうるなにか。
いまいましくもいまいましい四月初旬は、
「芝生の復讐」からはじまる。
僕はそんなふうにして「アメリカ」「文学」
を読んでしまったのだった。 -
や、やっぱりブンガクって難しいなあ……。なんて、ネガティブな感想から入ってしまった。ごめんなさい!
もちろん、ぜんぜんつまらなかったとか、そういうのとは違うんだけど、浅学な身にはこの作品の面白さはわかりづらいです。いや、学よりも、むしろ感性の問題なのかな。
ストーリーに起伏があって、結末に向って収束するような『物語』ならば、肌にあう合わないは別として、すくなくともそこに一定の面白さはあるんですよね。
わかりやすい「おはなし」がなければ、あとはその小説の評価を決めるのは、どれだけ自分の心の琴線に触れるか、感情移入できるか、あるいは心をひっかくような何かを見出せるかだろうと、思うんですけど……
断片的に切り取られた情景、不思議でヘンテコな人たち。現実のこととは思われないような出来事。遠くからなんとなく眺める分には、所々に狂的な美しさがある、ような気がするのだけれども、「……えっ、これでおしまい? それで、このお話のキモは何だったの?」という感じ。なんて貧しい感想だろう。
小説に起承転結だとか、テーマだとか、カタルシスだとか、オチだとか、何かしらそういう脈絡を求めずにはいられない、良くも悪くも娯楽小説に飼いならされて育った人間の感想だなあという気がします。
うーん。目の前にある文章の行間に、薄膜一枚隔てた向こうに、何か私にはうまく見出せないでいる、不思議な魅力があるような、そんな手ごたえはあるんですよね。
でもその皮一枚を、どうとりはらっていいかがわからない。彼我の文化の違いがあるのかもしれないし、私個人の感受性の問題なのかも。
なんかよく分からないままで終わるのも悔しいな。本屋さんで見かけて衝動買いした一冊だったのですが、池澤夏樹さんが世界文学の紹介で、同じ作家さんの『アメリカの鱒釣り』をレビューしてらっしゃったので、いずれそちらを探して読んでみようなかなと思います。それまで評価保留かなあ。 -
ブローティガンの天才をあますところなく味わえる62の物語。雨の日に部屋にこもって読みたい本。自分の心の一番孤独なところに強く響いた。
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62作の短編が収められてるだけあって、一つ一つの作品が短く、わりと淡々と読めてしまいます。
あー作家のエッセイ的なやつだな。
あーこれはかなり気合い入れたな。
みたいな感じで。
しかし巻末の「訳者あとがき」「ふたたび、訳者あとがき」、さらに岸本佐知子の解説を読むと、藤本、岸本の熱さに心を揺さぶられ、
あれ?もう一回読まなきゃかなという気にさせられました。 -
様々な文体の掌編集。
アメリカ。
「グレイハウンドバスの悲劇」が切ない。
やらないで後悔するより、やってみて後悔するほうがいい、などとしたり顔で言う連中に読ませても、共感できないのだろうな。