- Amazon.co.jp ・本 (207ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102148211
作品紹介・あらすじ
わずか一歳で光と音を失い、七歳までことばの存在を知らなかったヘレン・ケラー。三重苦の彼女は、サリバン先生の愛に導かれ「ことばの世界」に目ざめる。そして負けず嫌いで前向きな性格と驚異的な努力により、十九歳で名門ラドクリフ・カレッジ(ハーバード大学の女子部)に合格-知的好奇心に満ちた日々を綴った若き日の自伝。大人のための新訳。
感想・レビュー・書評
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図書館。直感的に読んでおくべきだと思ったから。また、本人について概略的なことしか知らず、本人の言葉をもって知りたいと思ったから。
結局ヘレンの元々もっている頭脳は何の綻びもなく、シナプスがしっかり働いてるがゆえ、サリバン先生やその他の人々の教育が行き届いたのだなというのはある。
でも、一歳七ヶ月までに一度享受していた光と音を失う恐ろしさは、どれほどだったか。また、サリバン先生や親は、本人に対する絶望や諦めを難度感じたことか。そこからの復活が、やはり「奇跡の人」と言われる所以だし、人間の希望とも言える。
相手を諦めない。 -
ただただ、素晴らしかったです。
自分が見失っている事、気付かず染まっている事をヘレンが直接教えてくれているように感じました。
早く読み進めたい気持ちと、読み終わってしまうのが惜しい気持ちが交差する書籍。本書から得た学びと幸せは、一生の宝物と思えます。おすすめです。 -
ヘレン・ケラーが偉人と言われる意味がよくわかった。
大学入試や入学後の猛勉強ぶりのタダ者でなさ。
周りの助けもあったとはいえ、例えば数学で図形を学ぶために、針金で模型を作り、触って理解できるようにするなど、学ぶために労力や工夫がいる。
授業や講義にはサリバン先生がついていて、教科書の内容と教授の話を絶えず指文字で翻訳してくれる。
でも、それは時間に連れて進んでいくもの。
ノートも取っていたようだが、かなりの部分を頭に入れていたようだ。
凄まじい吸収力。
子どものころの汚点として書かれている盗作疑惑事件も、この吸収力のなせる業なのかと思った。
サリバン先生との出会いで、よく語られるのが、あの「ウォーター」のエピソード。
演劇などでは野生児のようだったヘレンに体当たりで教育する姿が有名だけれど、この本ではほとんどそんなことは出てこない。
出会って間もなくまず、人形という言葉を指文字で覚え、言葉に魅了されて次々と覚えていく。
二十一歳の彼女の自伝だからか、むしろサリバンの教育をほとんど抵抗なく受け入れたような印象だ。
水という言葉は、最初に獲得した言葉ではないようだ。
それは、彼女が大病によって障害を負うまでに、つまり一歳の赤ちゃんの時には、すでに理解し、それを発音できそうなところまで達していたことがこの本を読むとわかる。
恐ろしく知的に恵まれていた人だったようだ。
この自伝で語られるのは、むしろ言葉を獲得し、知識を得ていくことの喜びと、周りの人々への愛だ。
家庭環境に恵まれなかったサリバン先生が、ヘレンに「あなたを愛している」と伝え、愛というものを教えていく姿は感動的だ。
最後に、この本で最も驚き、印象も深かったのは、文章の美しさだ。
「夜明けとともに起きて、こっそり庭に出かけることもある。草花はしっとりと露に濡れている。バラの花を手でつつむと、柔らかな弾力のある感触がする。朝のそよ風に揺れる、ユリの美しい動き――この喜びを知る人はまずいない。花を摘んでいると、花の中にいる虫を捕まえてしまうこともある。花ごとつかまれたことに気づくと、虫は慌てて二枚の羽根を動かす。その時のかすかな振動を私は手に感じることができる。」
子どものころの思い出を語ったくだりだ。
全身で世界を感じているせいか、彼女が文学を好んだせいか、描かれる世界が何とも美しい。 -
2歳頃からの難聴が37歳にして治り、気持ちの複雑さが半端ない。
ゆえに聾者や難聴者関係の本を読んでしまう。
だからヘレンケラーを読む。
小学生向けの自伝は読んだことがあるが。
まずはじめに驚くのが、電話を発明したグラハム・ベルはもともと聴覚障害者教育に携わっていて、ヘレン・ケラーのアドバイザーだったということだ。
やはり、という感覚がとても大きいが、聾者は言葉を覚えられない。覚えられるのだが、とんでもない努力をしなければならない。しかも目も見えないので、指で手のひらに文字を書いて言葉を知るのだが、モノに名前があることから知り、単語を知り、文章で理解する、という言葉の広がりをあきれるほど地道に、しかも繰り返していく。
霧の女王事件では、意図はなかったが、結果として盗作になってしまい、自分の記憶や言葉を疑い、言葉の危険性を知り、言葉遊びをやめて、より言葉使いに慎重になる。
そして大学に行けるほどの能力を持つことになる。
宗教心も持ち、人としても強くなる。
読み手としては、ヘレンケラーの本の趣味を語る箇所が多すぎて、自己陶酔的な面は否めなかったが、3重苦を持った人間が知力を得るまで、どのような訓練をしたのか、その過程を知ることができた。
また、たぶんほとんどの人は、ヘレンケラーがすごくてサリバン先生がフォロワーくらいにしか思っていないだろうが、この自伝を読むと、二人は一心同体だったことがよくわかる。生活も死ぬまで一緒だったし、授業も一緒に受けている。サリバン先生もそうとう知力がついたのではないかと思ってしまった。
だから、というかヘレンケラーも自覚しているようだが、その言葉がヘレンケラーの言葉なのか、サリバン先生の言葉なのか、わからなくなることがある。改善の余地はないので、一心同体でよいのか。
余談だが、ヘレンケラーはこんなに需要があったのだから、リッチなのだろうと思っていた。しかし実際は世の中に必要とされるまで時間がかかっており、42,3から収入を得られるようになっている。(死後も著作が売れているが。)ヘレンケラーでさえも、という感想だ。最後まで希望を捨てなかった彼女はやはり尊敬できる。 -
22歳のヘレン・ケラー自身によるエッセイ。
飾らない彼女の言葉はとても魅力的で、その真っ直ぐな心に強く惹かれた一冊。
なんとなくですが、ここからまた新たな一歩を踏み出せるような気がしました。 -
著者が大学時に書いた自叙伝。他人の何倍もの努力が実感として伝わるとともに、サリバン先生の粘り強さも生まれ育った環境から培われたことがわかった。2024.1.29
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盗作ではないかと糾弾された過去があったことに驚いた。自分の目で見て、聞くということと、他人からの情報を自分のものにすることの違いを考えた。
ヘレン・ケラーの見える世界は現実よりもはるかに美しく、その感受性には宗教的な影響も含まれていたと思う。 -
本書はヘレン・ケラーの著作、The story of my lifeを翻訳したものです。
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記録
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小説としては物足りないが、言葉を獲得することによって知識が爆発的に増え、世界が広がっていくところにはやはり感動する。
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本書は、視覚と聴覚に障害を持ったヘレン・アダムズ・ケラーが、22歳のときに月刊婦人雑誌「レディース・ホーム・ジャーナル」に掲載した自伝を、翌年(1903年)、『The Story of My Life』として出版したものの新訳(2004年)である。(尚、ヘレンはその後も自伝を書き、1929年に『Mid-stream:My Later Life』を出版している)
ヘレンは、1880年に米国アラバマ州で生まれ、1歳半の時に高熱に伴う髄膜炎に罹患して視力と聴力を失ったが、7歳のときに家庭教師のサリバン先生に出会い「話すこと」ができるようになり、20歳でラドクリフ・カレッジ(現ハーバード大学)に入学。卒業後、世界各地を歴訪して障害者の教育・福祉の発展に尽くし、84歳のときには米国最高の勲章「自由勲章」が贈られ、1968年に87歳で死去した。3度の来日経験もある。
私は子供の頃に伝記を読んだ記憶はあるが、今般改めて「自伝」を読んでみた。
障害者が一般的にどのように世界を認識しているかについては、伊藤亜紗の『目の見えない人は世界をどう見ているのか』の中に、健常者が目をつぶった場合は、4本脚の椅子の1本が欠けたのと同じような状態で、傾いてしまうが、視覚障害者は、もともと3本脚で立つように作られた椅子と同じように、バランスがとれた状態なので倒れることはない、と非常にわかりやすい例で書かれており、それを意識して本書を読み始めた。
また、ヘレンの状態・気持ちを想像するために、読みながら、目を閉じ、耳を手で覆ってみることもあった。
しかし、読み進めるうちに強く感じるようになったのは、ヘレンはやはり「奇跡の人」なのではないかということだった。健常者が外界から得る情報の8~9割は視覚からと言われ、また、人間同士の情報のやり取りの主たる手段である言語は、基本的には、目で見、耳で聞くものである。視覚・聴覚両方に障害があったヘレンは、それ以外の感覚で世界を捉えていた(言葉は触覚による)わけだが、知れば知るほど、ヘレンが成し遂げたことへの驚きとリスペクトは大きくなるばかりだ。
何がそれを可能ならしめたのかは、本書を読んでわかることもあるし、わからないこともある。
子どもが偉人伝として読むのであれば、「努力することが大事」ということになるのだろうが、ヘレンの天賦の能力(特に、物事を吸収する能力と想像する能力であろうか)が無二のものであったことも間違いなく、それ故「奇跡」は起こったと思われるのである。
(2022年8月了) -
見えない聞こえない世界を想像できない。
嗅覚味覚触覚はある。運動能力はある。
この状況を頭の中ではどのように構築するのか。
言葉を獲得し,文法を獲得し,それを運用する。
指文字,点字,タイプライター,さまざまな道具や方法で知識を入れ,思考を出力する。
本当にそんな人がいたのか。まさに奇跡の存在か。
ヘレンケラーはその時代の中では恵まれた環境にいたのだろうが,環境がよいからといって本人の努力なしではなし得ないことである。世界を知ろうとする好奇心の追求なのか。
・知識は力なりという。しかし,私は知識とは幸福だと思う。 (p.143) -
ヘレンケラーが22歳の時に上梓した自伝。
電話の発明で有名なベル博士の紹介で盲学校を知り、サリバン先生と出会う。 -
子供の頃に読んだ『ヘレンケラー物語』とはだいぶ印象が違った。
心が汚れてしまったか。 -
「ものに名前が存在することを知らなかった。」
この一文に衝撃を受けた。
ヘレンの家庭教師であるサリバン先生が、ヘレンの片手に井戸水をかけ、もう片方の手にwaterと綴った時に、「言葉の神秘の扉が開かれた」。それまでも手に文字を綴り単語を覚えていたが、ただの形遊びだった。実物の水とwaterという言葉が対応している事を知ったことで、言葉によって世界を構築することができるようになった。
私はこの本を読みながらどのようにするとヘレンケラーを追体験できるか、ということを考えていた。目をつぶって冷たい水を触りながら、手の感覚だけで頼りに感じるままにできるかどうかを確かめた。すると、"冷たい"とか"流れる"とか、どうしたって水を形容する言葉が浮かんでくる。それでもそれらの言葉を封じ込め、どうにか感じるままに"こんな感じ"と思うようにしても、"これはこんな感じである"と言葉で表現していることに気がついた。指示語もまた言葉であった。私たちは感じるままにはできない。そして言葉で考えている。
ヘレンは単語を覚え外の現実の世界を内面に描いていった。驚くべきことに全てが想像の世界に生きていたことを知った。
「私が住む音と光のない世界には、悲しみや後悔などという胸をつく思いも愛情もなかったのである。」「愛情とは、愛にあふれることばや行為に接し、人と心が結ばれてはじめて芽生えるものだからだ。」
それまでヘレンは、手で触れられるものが世界の全てだった。抽象的な世界を知らなかった。言葉を覚えてからは、頭の中であれこれする事が"考えること"だと初めてはわかった。
いろいろな想像が駆け巡る。
私たちも赤ちゃんの時にきっと同じ体験をしてたんじゃないか?目が見え、音が聞こえることで、ヘレンよりもはるかに早いスピードで、そして一人で世界を構築してきたんじゃないか?
思えば目と耳が健常な者だって、現実の光の情報を目から、音の情報を耳から取り入れて、脳で世界を認識している。私たちは実はパーソナルな想像の世界に生きている。そう考えると潜水艦の中にいるような閉塞感を感じる。潜水艦にはもちろん乗ったことがないけど。(潜水艦に乗ってみたい気もするけど、閉所恐怖傾向なので多分無理だ。)なおのことヘレンの世界を追体験するのは恐ろしい。
耳をふさぎ目を覆うだけではヘレンケラーの苦労は追体験できないだろうと思う。五感を使ってもなおわからないということを体験する事の方がより近いような気がする。例えば、私たちはデジタルハイビジョン映像で美しい風景を目で見ることができる。その風景を再現する、TVが受信した0と1の情報を紙に印刷しその羅列からハイビジョン映像を翻訳するようなことではないかと想像する。000101010が海を意味し、他の配列は山や木を表すということをAIサリバン先生に教わり。0110010100111に続く情報がそれらの色や質感を表す。などということも逐一教わりながら、0と1だけのテキストを読み解きハイビジョン映像が頭の中で再生されるようになるまで繰り返して、世界を認識していく。こんなことをヘレンケラーはやってきたのではないかと想像した。頭が下がる。どころか顎が外れそうだ。何よりもサリバン先生の忍耐は本当に奇跡としか言いようがない。
『「つながり」の進化生物学: はじまりは、歌だった』に引用されていたヘレンケラー自伝をいつかは読まなきゃと思っていたが、思った以上の衝撃だった。 -
舞台「奇跡の人」が好きだ。何度目かの鑑賞後、この本を読んでみた。
という経緯があるので、避け得ず美化される記憶の後ろに、どれだけの献身があるのだろうと思いながら読んだ。
あわせてサリバン著も読むとよいのではないか。
知性の飢えを知るからこその爆発力があったにせよ、ヘレンは才媛だったのだと思う。そしてサリバン女史も。
稀有な人が稀有な人と出会った話。 -
ヘレン・ケラーと言えば、高校生の時、見た演劇で知ってるだけだったが、彼女が如何にして概念を獲得していったかに興味が湧き、読んでみた。
彼女の場合、1歳数か月までは目も耳も正常で、世界をそれなりに認識していたという事が、その後の勉強に大きく役立ったのではないかと思った。
有名なウオーターという言葉は、実際に覚えかけていたのを思い出したからであって、全くの生まれつきであったらきっと難しかったのではないかと思う。
それでも、彼女のやり遂げたことは偉業と言わざるを得ない。
弱冠22歳でこの自伝は書かれているということは本当に驚き。
内面の豊かさが生き生きと伝わってくる。
障害を持つ人に大きな希望を与えたのは事実だろうと思う。 -
2018.06.30 読書開始
2018.07.05 読了
2018.07.18 品川読書会で紹介する。
2018.07.20 社内読書部で紹介する。
2019.01.07 朝活読書サロンで紹介を受ける。
http://naokis.doorblog.jp/archives/reading_salon_124.html -
ヘレンケラーの絵本を幼い頃に読んで、何度も勇気をもらった覚えがある。
本書では彼女の生い立ちだけでなく、人や自然との中でどのようなことを感じ、考えたかということが書かれている。
いたずら好きで好奇心旺盛、負けず嫌いで努力家。彼女が三重苦の中でも、とても生き生きとしていたことを知れた。
愛は雲のようなもの。
喜びは自分を忘れることにある。
この2つの言葉はとても心に響いた。
ただ、自伝と書かれていたので彼女の半生が綴られていると思ったが、本書の執筆が22歳の時であり、その歳までの話となっている。
彼女の読んだ本への批評なども書かれているため、エッセイと思って読む方が良いかも知れない。 -
読んでいたはずだったんだが…。
奇跡の人は、どっちだ?という気持ちで読んだ。
でも、ガラスの仮面とか、部分的にしか知らない人だったので、自分で書いたものを読めてよかった。
“ウォーター”が潜在的に残っていた、とは。
そこからぐんぐん、か。
いろいろな経験と年齢をみてびっくり。すごい。 -
ヘレンケラーは目も見えない、耳も聞こえないという不自由な体でありながら私たち以上に勉強ができ、社会に貢献しているのですごい人だなぁと思った。また、私たちから見たら目も耳も使えない体なんて不便で大変そうだなと思うが、逆に目と耳から入る情報を遮断することで、心の目と心の耳の能力が開花されこの世界の心を感じることができるのだと読んで感じた。この心の目と心の耳は忙しい現代の私たちに忘れがちなものだと思う。私も何かで壁にぶつかったりくじけそうになったりしたら、目を閉じ一人きりになって静かに少しでも心の目と耳を研ぎ澄ませてみようと思う。
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ヘレン・ケラーは恥ずかしながら名前しか知らない人だったので読んでみようと思い読んだ。
窓ぎわのトットちゃんを彷彿とさせる好奇心を大切にする育て方が豊かな人間を生むのだとこの本を読んで思った。
周りの環境が良かったのはヘレン・ケラーの努力によるものであろうと考える。 -
ヘレンは凄い人ですが、本の内容はイマイチでした。
乙武さんの五体不満足もそうなんですが、どうしても私はね!ってアピールに感じてしまう。
想像を絶するような苦難を乗り越えて、健常者以上に人間らしく生きているのは素晴らしいと思いますし、実際私の身に同じことが起きたら、とても耐えられないでしょう。
だからこそ、少しでもその苦労や、創意工夫をもう少し知りたかった。
正直なところ、彼女が好きな本などは、ほんの少しでよかったのでは?と思ってしまいます。
それと、文章も、文章内の行動も、ほとんど健常者のような雰囲気なんですよね。
成長後に書いたものだから仕方ないですかね。
エンタメ性の高い、原田マハの本を先に読んだのが失敗でした。あれは面白かった。
内容的に少し期待はずれということで、低評価になってしまいました。
あまりオススメしません。 -
再読本。
目も見えず耳も聞こえないかつての幼き少女が、大人になり、ここまで強く美しい文を書いていることがにわかには信じ難いです。
けれどこれが真実。
もちろん彼女がこの奇跡のような人生を歩んでこられたのはサリバン先生のおかげ。
サリバン先生なくしてヘレンの後の姿はなかったのです。
驚くべき点は、ヘレンに手を差し伸べてくれた人たちの中に電話を発明したベルがいたこと。
こんな偉人までもがヘレンの教育に手助けをしていたのです。
この本を読むと教育の有り方について考えさせられます。
ヘレンは周りに恵まれていた。
サリバン先生の存在はもちろん、家族の愛、優しい友人たち、包み込む大きな自然、協力を惜しまない幾人もの大人たち…。
ヘレンの元々持つ愛され体質もあったのかもしれません。
ただ、現代においてこれだけ濃密な環境を与えてあげるのは大変に難しいと思います。
都市化が進む中、そろそろその空洞化に対処していかないと現代の子どもたちはあまりにも可哀想だなと思いました。
2013.08.16