- Amazon.co.jp ・本 (489ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102156117
感想・レビュー・書評
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http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4102156119
── ドナ・ウィリアムズ/河野 万里子・訳《自閉症だったわたしへ 20000628 新潮文庫》
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感情移入しすぎて泣きそうになりました
普通じゃない人は排除されるか偉大な事をして尊敬されるかのどっちかです
私も昔人との関わり方が下手で変人で、その時の辛い感情が蘇ってきました
あの時の私を周りの人は、気にかけて優しくしてくれました
私もあの時の優しい人達のようにドナのような普通じゃない人の立場に立って一緒に考え、理解したいです -
ドナさんの写真の、彼女の目を見ると、本当に彼女が「自分の世界」の中にいたことが分かる。
「自分だけしか分からない世界」があって、それをすべての周りの人から理解してもらえず、「不思議ちゃん」「空気が読めない」なんて、笑われたり、馬鹿にされたりして、
とても寂しかったり悔しくて悲しい思いをしたことってみなさんにもきっとあるでしょう。
それに、こんな人が自分の周りにいたら?
どうしても集団の規律を重んじるあまり「厄介もの」にして知らず知らずのうちに排除したりしないだろうか?
出来る限り詳しく、すべてのことを記そうとした、彼女の豊かな世界観が綴られた文章であるが、
僕からしても、「読みづらい」ものだった。
けれども、それ以上の周りとの世界の接点の難しさを自閉症者の人たちは感じているのかもしれない。
ドナさんは、自分の中に3つの別の人格を作り出して、それを演じていたという。
そのままの自分が認められないほど辛いことはない。
内面の告白が綴られた本書を読みつつ、自閉症者の感じ方をなんとなく「理解しよう」と努力することはできたかもしれない。
ドナさんの周りに優しく「理解しよう」という支援者が多からず確かにいたから、彼女は前に進んでいくことができたのかもしれない。
それにしても本書がわずか4週間で書き上げられたことは驚嘆に値する。
世界を捉える「秩序」は人によって違っていて当然だし、
マジョリティである自分達の世界で「いい」と信じて疑わないことが、自閉症者にとって迷惑極まりない暴力だったりすることだってあるかもしれない。
本当の「愛」とは、まず「理解」から始まる。
「自閉症」という単語が登場するのは物語の本当に後の方の部分。
知的に問題がない場合がある時など、本当に、周りに理解されにくい「障害」で、サポートも受けづらいものなんだなということを知りました。
今では、少しは社会の理解も深まって来ているようですが・・・。 -
自分の子ども時代もなぜだか振り返ってしまった。たくさんの苦悩と周囲との葛藤が描かれていた。自閉症のドナの世界の見え方は、彼女自身は普通と述べるが、豊かな感性と思考がみられて魅力的だった。
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私が精神関連の本を読み漁るきっかけになった1冊。
文章が何の飾りもなく、それなのにキラキラしている感覚。 -
ああ、自閉症ってむずかしいんだなあ、というのが感想。
この本の画期的なところは、今まで外からの観察者の眼という視点しかなかったところに、本人が実体験として「自分の」感じたことを、今までとうていたどり着けなかった「真実」を語ってくれたという点にある。けれどその「自分」はあくまでこの本の著者であり、自閉症の人一般に敷衍できるかといえば100%ではない。だから「真実」はあくまで括弧つきになる。それは他の事物だって同じではあるけれど、自閉症である上に一般の世界に通じる言葉で語りいだしてくれる人は少ないから、たくさんの声を集めて普遍を抽出するという作業がしにくい。それらを念頭においた上でこの本の内容を受け止める必要がある。
とてもいいレビューを見つけて、そうそうこれこれ!と思ったのでリンク貼ります。りんさんのレビュー。
http://booklog.jp/users/rinshan/archives/1/4102156119
レビューの内容で特にそうそうこれ!と思った点を要約させてもらうと、「この物語は感動的だが、すごく一方的でもある。彼女に共感し、彼女を理解できなかった周囲を糾弾するだけでは済まない問題を、我々は抱えている。自閉症の人を本当に理解することは基本的にはできない。できるのは、自分が受け容れることのできるキャパシティを、試行錯誤しつつ広げていくことだ」という。
彼女がどれだけ大変だったか、本を読んで想像するだけでもすさまじいものがあるけれど、それは決して彼女の生の苦しみにはたどりつかないだろう。だからといって想像するのをやめていいわけではない。想像が害に堕さないためには、最低限、想像であることをわきまえていることが必要だろう。 -
豊かな内面世界。
長い文章の合間に切れ切れに、自分の子ども時代の記憶と重なる情景が浮かぶ。
普段は社会の中で生きるため、内面と外面を切り離しながら生きているけど、それって私の心を騙しながら生きているってことなのかな。と思った。
苦悩を重ねに重ねながら、それでも自分の心と向き合い続けてきた筆者に感銘を受ける。 -
012056.
これってまるで自分のこと…?~ドナ・ウィリアムズ『自閉症だったわたしへ』
一読して「ああ、まさにこの人の症状って自分とおんなじ。やっぱりオレって自閉症だったんだ!」
と、おのれの運命を嘆いた私でしたが、
似たような感想を抱いた人はきっと少なくないことでしょう。
だからこそ本書が話題を呼びベストセラーとなったのでしょうから。日本でも現在新潮文庫でパートⅢまで出ているようです。
この本が多数の読者に受け入れられた理由、それは著者が告白する自閉症者の世界(あえて自閉症“患者”とは言わない)が、
まだ社会と上手にコミュニケーションがとれる以前の幼児が体験する世界と同質のものだからでしょう。
僕たちはドナのいる世界をあとにして、この社会にどうにか適応したのかもしれません。
ドナの世界、そこはある意味エデンの園のようにも思えます。パーフェクトに自己の中で完結し、十分に満たされきっている世界。
でも他者と折り合うためにはその楽園を出なければなりません。それは苦痛に満ちた体験でした。とくにドナのような自閉症者には。
彼女は自分の内面の動きを驚くほど正確に、客観的に観察する。それだけ自分に対し他人行儀になれるのも、あるいはこの症状の特長かもしれませんが。
幼少時の記憶も鮮明で、ある種「つくられた記憶」かと勘ぐってしまったりもするが、
彼女には体験したものを脳内にまるごとコピーできる「サヴァン症候群」のような一面もあるのかもしれない。
また状況に対処するため複数の人格を使い分けているところは多重人格障害にも通じるように思う。
異常で悲惨な体験がこれでもかとばかりに綴られますが、
反面、幼ないころのエピソードのひとつである、心を許せる親友との出会いのくだりなどは素晴らしく、万人に訴える普遍性を感じます。無二の親友が他の人のところへ去ってしまった時の嫉妬や悲しみの感情も、少女時代を過ごした人なら誰しもおぼえがあるでしょう。
とはいえ学校では級友から疎外され、中途退学や再入学を繰り返し、転職につぐ転職のあげく不誠実な男たちに翻弄される行き当たりばったりの彼女の人生は、
まさに転がる石そのもので悲惨さは否めません。やはり自閉症に生まれついた人間は不幸なのだと結論せざるをえないでしょう。
彼女の症状の場合、家庭環境や成育歴の影響も疑えませんが(当人は本書の中で否定していますけれど)。
もっとも不幸なのは、これだけの感性を持ちながら、この症状ゆえにそれを外側へ訴えるすべが限られている点でしょう。
同時にそれは、多くの自閉症者が自分を表現することもできず、陰に日なたに「馬鹿」だの「キ××イ」だのと嘲笑される過酷な生を送っていることを想起させます。表現力に恵まれたドナのような例は、まさに幸運なケースといえるでしょう。
全編をとおし、その筆致は冷静に自分の置かれた状況を綴り、かつ卓抜な表現に満ちていますが
これはひとえに訳文の適切さによるもの。訳者の河野万里子氏の功績でしょう。おもわず自分の身に重ね合わせて読んでしまいます。
ドナはあとがきで「直接誰かと対話するよりも、紙に書くとかタイプライターを打つなど無機物を介したほうが自分の気持ちを伝えやすい」と語っています。話し下手でネット弁慶の気もある自分はこんなところも、この人とよく似ているような気がします。
やべえ、この文章、ドナになりきって書いてしまったなあ…。
http://rcnbt698.blogspot.jp/2012/07/blog-post_25.html -
自閉症の筆者が過去を振り返り、いかにしてそのような自分と向き合い、「世の中」との折り合いをつけてきたかを描く。日本語訳では原文と違って章立てがされているのでかえって時間の行き来に混乱させられた。自閉症でない人たちは観察することでしか自閉症の人たちの世界に近づけない。それなのに理解したふりをして、「治療」しようとする。「当たり前」や「普通」なんて相対的なものでしかない。この本は自閉症の世界により近づくための助けになると思う。