- Amazon.co.jp ・本 (349ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102201510
作品紹介・あらすじ
オハイオ州の架空の町ワインズバ ーグ。そこは発展から取り残された寂しき人々が暮らすうらぶれた町。地元紙の若き記者ジョージ・ウィラードのもとには、住人の奇妙な噂話が次々と寄せられる。僕はこのままこの町にいていいのだろうか……。両大戦に翻弄された「失われた世代」の登場を先取りし、トウェイン的土着文学から脱却、ヘミングウェイらモダニズム文学への道を拓いた先駆的傑作。
感想・レビュー・書評
-
人生が複雑怪奇であるということは真実だ。平凡な人生というものはありはしない。と、解き明かすような、アメリカの想像上のある町「ワイインズバーグ」に住む人々の暮らしや心模様の物語群でした。ひとつひとつの物語でもあるが、若い地方新聞記者ジョージ・ウィラードは聞き役でもあり、つなぎ役でもあり語り部です。
1900年代の初めに書かれたアメリカ文学、ヘミングウェイやフォークナーに影響を与え、モダニズム文学のさきがけということです。この前に読んだ佐藤泰志『海炭市叙景』の下敷きのようなものということで読みました。
なるほど、あるまちを創造、住人の人生模様を癖や性格などを素材にして物語るのは同じようです。でも、この「ワイインズバーグ」に住む人々は、「海炭市」に住む人々の生活がなんだか哀しげな様子なのに対して、こちらはとても奇妙な、むしろあっけらかんとしているような人間模様です。それなのにすごく人間らしいんですよ。人間はみんなどこかしら「いびつ」なところがあるんだよ、と言っています。
作者の観察眼、資質の違いですね。それともアメリカモダニズムと私小説派の違いかも。
こちらも結論は出ません、明るい未来の予言もありません、けれどもどこかしらおかしみを感じ、ほっとしたのも本当です。それに両方とも人間観察の背景に自然が美しく配されているのが印象深く、感動します。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
新訳で3年ぶりに再読。憶えていたより登場人物たちがずっと「いびつ」で驚いた。100年前は何が普通かなんて、情報もないし生活も厳しいし、気にしようがなかったのかもしれない。多種多様ないびつさと、それを取り繕うこともできない不器用なひとたち。
とはいっても今のわれわれだって、ある程度深い付き合いをしてみれば誰もがぎょっとするようなクセを持っていると思う。誰かがつるっと滑らかに幸せにみえるとしたら、それはその人のことを知らないからっていうだけだろう。人がいびつであっても、それを良いとも悪いとも書かないところが、本書の優れたところなのではないかと思う。どうともオチがついていないからこそ、希望が持てる。みんながそれぞれに生きていけるように、と祈るような気持ちが残る。 -
19世紀アメリカ西部の田舎町、ワインズバーグ。新聞記者の若者ジョージ・ウィラードを中心に、町に住む「いびつな者たち」の物語を綴る連作短篇集。
この作品に描かれた「いびつな者たち」とは、大きく括って社会的なマイノリティーの人たちを指しているのだと思う。さまざまな理由ではぐれ者扱いを受けている人たち。「手」のビドルボームや狂言回し役のジョージが抱える葛藤から、〈男らしさが至上の世界からこぼれ落ちた人びと〉というテーマを受け取った。ヒーローにも不良にもなれず、世間から賞賛されるようなことはひとつも成し遂げられない苦しみ。〈落ちこぼれ〉のなかには当然〈女〉も入ってくる。
ジョージの母エリザベスを主人公にした「母」からものすごいのだが(一つ前に置かれた「紙の玉」との対比がのちのち「死」で効いてくる構成も見事)、「狂信者」の息子を愛せない女性ルイーズの描き方には本当にギョッとした。赤ん坊が「家に侵入してきた人間の欠片のようなもの」に見え、「これは男の赤ん坊だから、欲しいものを自分で手に入れるわよ」「これが女の子だったら、どんなことだってしてあげるでしょうけど」と言い放つルイーズ。でもこの小説はネグレクトする母親を断罪しない。100年前の男性の手で書かれたと思えないくらいフラットに彼女の鬱屈した感情に寄り添っている。
ルイーズの反対目線、つまり女性を妊娠させた責任から逃れきれなかったことを後悔し続けている男性レイの物語「語られなかった嘘」もしっかり入っていて、最後の段落でタイトルが回収されるとレイへの悪感情がすべて霧散し、寂しさだけが残る。男と女、それぞれに押し付けられた役割とそこから逃れようとする〈弱さ〉を描き、解放されたいという願望も「タンディ」のように新しい言葉を創りだして提案する。「冒険」のアリス、「教師」のケイトなど当時ならまだオールドミス扱いを受けただろう年齢の女性たちの苦しみも、なんと現代的に描写していることか。
田舎町に住む変人たちを観察する青年の成長物語ということで、サローヤンの『僕の名はアラム』に近くもあるが、サローヤンが人種的マイノリティのコミュニティをどこかユートピア的な連帯感のある場所として書いているのに対し、『ワインズバーグ、オハイオ』は一人ひとりが孤独な星のように描きだされる。だからこそ、「見識」でジョージとヘレンが無言のままお互いに敬意を示し合う場面の美しさが胸に迫るのだ。「それぞれの心には同じ思いがあった。『この寂しい場所に来たら、この人がいた』」。
さまざまな生きづらさにスポットを当て、架空の町ワインズバーグに息を吹き込んだ古典的名作。ミルハウザーの芸術家小説や、ルシア・ベルリンの刺すようなユーモアなど、自分の好きな現代小説が描く〈孤独〉のルーツがここにあるような気がした。 -
19世紀後半(推定)
オハイオ州ワインズバーグ――架空の地名――に暮らす人々の
悲喜こもごもが、
主に地元新聞の若き記者ジョージ・ウィラードの目線で描かれる
掌短編連作集。
地味だが奇妙な味わい深さがある。
流行らなくなったホテルの経営に悩みつつ
打開策を見いだせない女性(ジョージの母)、
スキャンダルで職場を追放された元教諭、
ほとんど診察しない医師、
狂信的に神を愛す農場主と、それに反発する家族、
流れ物の身の上話と教訓に深く感じ入る女児、
心の平衡を失った牧師の強硬策、etc。
興味深いのは、人間関係が密な昔の田舎町を舞台にしながら、
本当は誰も共同体内の真実を知らない、
といったストーリーになっていること。
これは作者が利かせた黒いエスプリなのかもしれないし、
事件の背後に子に対する親の過干渉が潜むケースもあって、
ううむと唸らされた。
最も共感したのは、
職を求めて大都会へ出た初めての恋人ネッド・カリーを想い続ける
アリス・ハインドマンの奇行を綴った「冒険」。
自分の生活に変化が起きないことに虚しさを覚えたものの、
我に返った彼女は結局、一人で生き、
死んで行かねばならない事実を痛感する、という……。 -
以前冊子で読んだ「講談社文芸文庫 私の一冊」で、川上弘美さんがあげていた1冊が『ワインズバーグ、オハイオ』だったのだけど(http://bungei-bunko.kodansha.co.jp/recommendations/6.html)文芸文庫はちょっとお高いしそもそも絶版じゃんと思っていたら新潮文庫から去年新訳が出て、読もう読もうと思いつつ、忘れていたのを急に思い出しました。
オハイオ州、ワインズバーグという架空の町を舞台にその住人たちを描いた連作短編。巻頭に町の簡略な地図もついているけど、自分でどんどん書き足していきたい誘惑に駆られる。大人になってからは同じ本を繰り返し読むことはほとんどなくなったけれど(読みたい本が多すぎて)、もし自分が子供の頃にこの本を手にしていたら、きっと何度も読み返し、登場するすべての住人を書き出してリストを作り、詳細な地図を作成しようとしたかもしれない。むしろ今でも時間があればやりたい。
なんというか、ミニチュアのドールハウス造りに近い感覚かも。脳内にしかない架空の街をいかに綿密に想像して実在に近づけるか、みたいな。これたぶん究めすぎるとミルハウザーの小説の登場人物か色川武大みたいになっちゃう。ああシルヴァニアファミリー的なやつでワインズバーグの町を作ってみたい!
・・・というオタク的欲求はさておき。序文的な位置にある「いびつな者たちの書」(原題:The Book of the Grotesque)のタイトルが、ある意味この本の内容のすべてといっても過言ではないでしょう。悪人ではないけれどちょっとイビツな(でもたぶんそれが自分も含めて人間としては普通の)住人たちが次々出てくる。四部仕立てになってる「狂信者」なんかはベントリー農場の一家の年代記的な趣きがあり、これを発展させるとフォークナーのヨクナパトーファサーガになるんだろうなと。
一応、最多登場の、新聞社で記者をしている若者ジョージ・ウィラードが主人公的な位置づけなのだけど、時々デートしていた女性に本命への当て馬にされたり、ろくに話したこともないご近所さんからいきなりボコボコにされたり、変なおじさんの話し相手に選ばれがちだし、お母さんは息子の部屋にこっそり侵入して何か叫んでるし、本人それほど不幸ではなさそうなものの、結構かわいそう(苦笑)
変なひとだらけだけど人間みんなこんなもん、自分も他人からみたらきっとそれなりにクセの強い人かもしれないし(でも自分だけはまともだと思っていたり)そしてほとんどの登場人物に共通するのは、ここから出ていきたい=場所の問題じゃなくてこの生き方から逃れたいという願望があるようで切ない。どこに行っても自分の居場所がない感じ。そして理解してくれる人、愛してくれる人を求め続けている。
20人のイマジナリーフレンドと暮らしていたおじさんの「孤独」が個人的に印象深かった。いびつでも孤独でも変人でもなんでも、人は自分自身の人生しか生きられない、と、読後しみじみ思った。
※収録
いびつな者たちの書/手/紙の玉/母/哲学者/誰も知らない/狂信者――四部の物語/アイデアに溢れた人/冒険/品位/考え込む人/タンディ/神の力/教師/孤独/目覚め/「変人」/語られなかった嘘/飲酒/死/見識/旅立ち -
必読書としてよく挙げられてはいるものの、なかなか読む機会を得なかった『ワインズバーグ、オハイオ』、新訳が出た、ということですぐに入手した。
で、読み始めたものの何やかやで途中でページが止まっていた、のだが、今朝、ふと再開したところ、とにかく止まらなくなってしまった。
無数の人たちが次々に現れては短い物語の主人公となったり、脇役となったりする。当初は、だれに心を寄せればよいのか掴み切れず物語に入り込むことを難しく感じたていた。それも途中で手が止まっていた要因かと思う。
ところが、なぜか、今日は読み始めたときに「これは、読める」と思った。そして案の定、一日をかけて、すべてを夢中で読んだ。読書には、なぜか「その時」があるものだ。
今からちょうど100年前のアメリカの小さな町に暮らす人々の話だというのに、なぜこうも瑞々しいのだろう!
少しずつ読み進めるにしたがって、誰が誰やら、という状態だったのが、ひとりの青年に少しずつ焦点が集まってくる。そして次第にワインズバーグという町が立体的になってくる。
川本三郎さんによる巻末の解説に、とてもよい一文があった。
「アンダーソンは良き人々の心のなかの負の部分に着目する。それでいて決して彼らを否定するのではない。心に屈託を抱え、周囲に溶け込めない、心寂しき人々を、その負の部分を含めて肯定しようとする。愛そうとする。だから、読み終ったあと、読者は夜の暗さのなかに、夜明けの光を感じ取り、穏やかな気持ちになる」
善良で「いびつな」人たちの小さな物語(とはいえ、わずか数ページに人生が凝縮されていたりもする)は、今後また手に取れば、また違う面白さを見出すのだろう。ああ、それにしても面白かった。今はただ豊かな読後感に浸っている。 -
「CONFUSED!」という漫画のインスパイア元だと聞いて読んでみた。オハイオ州の架空の街ワインズバーグをめぐる連作短編集。1つの街を新聞記者の主人公を中心に立体的に描いてくところがオモシロかった。ただ本著は1919年に発表されたこと、またアメリカ中西部の話なのでなかなか情景が想像しにくい部分もあった。しかしテーマとしては人生における悲喜交々、艱難辛苦なので今の時代でも十分に響いてくる。
街に住む人たちの生活が描かれていて、その中から教訓めいたものが提示される。決して大きな事件ではないものの人生の中で一度は考えたことあるなぁという内容が多い。ゆえに時代を超えた普遍的な強さがあるのかと思う。また登場人物が大量に出てくるのも特徴的で「あれ、この人さっきの話で出てきたな?」という短編間の繫がりも強い。登場人物の相関図を書く必要があるのでは?と思わされる、まさに人間交差点。そこには当然「正しくない」人も出てきて自分の知らないことに対する想像力が鍛えられるような感覚もあった。これは人生のどのタイミングで読むかが重要だと思われるのでタイミングを見て再読したい。 -
実はあまり期待していなかった。要するに成長というか変化。とてもクールな散文詩。あまり書かれている意味とかストーリーを読み取らずに、理解しようとせずに、スーパーフラットに読んで欲しい。正しいブコウスキー。
-
シャーウッド・アンダーソン、初めて読んだ。
ヘミングウェイとか、カーヴァーとかに影響を与えた作家らしいのでとっても楽しみにしてた。
すっかり長編小説と思ってたのだがなんとオムニバス形式の小説だった・・・。
【オハイオ州のワインズバーグという架空の町を舞台にした22編の短編からなる】それぞれは独立した短編作品だが、登場人物が他の物語に再登場する相互リンクの要素があり、多くの作品に登場する青年、ジョージ・ウィラードが作品集全体の主人公格である。】
ジョージ・ウィラードが不器用でいとおしい。
この世代の小説、土着のもの多くないか?なんでだろう。
次は長編読みたいなあ。 -
アメリカのチェーホフ、或いは中西部のチェーホフ、という事らしいので読んでみたが、確かにその通りだった。
チェーホフにおいての閉塞感は、社会的なもの、制度的なもの、慣習的なもの、それらが生み出した慢性的な怠惰、というものが主で、ここではないどこかというテーマは、彼ら彼女ら個人では果たせない夢である事が多い。
出てもどこへも行けないし、多分何も変わらない。個の努力や能力によっては果たされない。
そこで生まれるのが、何百年かあとの世の中の幸福、というヴィジョン(ファンタジーとも言える)。或いはどん詰まりを何とか昇華させるためのユーモアやペーソス。
アンダーソンにおいては、流石にアメリカの田舎であって、行こうと思えばここではないどこかへ、ひょいと行ける。しかしそれからは個人の努力や能力、そして運。
全ては自分の責任であるせいで、ある意味、もっと過酷と言っても良いのかもしれない。ファンタジーの入る隙間は無い。
だから突きつけてくるものは(皮肉にも)さらに厳しく、つらい。
そこで我々はいびつにならざるを得ない。そのいびつさはチェーホフほどにはユーモラスではなく、まるで錐で刺される様に痛い。
しかし、何か神的な仕草がそこに宿ってもいるのかもしれないし、彼らが生きる時、そのフォルムは神話的にさえ見える。それはある種の美なのだろうか。人が愚かなりにも生きる意味も実はそこにあるのではないか。その感触はスタインベックに引き継がれたのかもしれない。
あなたは誰に似ている?私に似ているのはリーフィ医師。
簡素で硬質で映像的な表現は見事。
最小限の言葉で、多くを語らずに暗示させる手法はチェーホフから受け継ぎヘミングウェイへと繋がるのだろう、その流れが良くわかる。「誰も知らない」とか、とくに。
一度で読み切れる様な本ではなく詩の様に味わうべきだろう。
「チェーホフのような筆力で、母親の臨終を書くことができたら、……」と彼は自伝に書いているらしいが、「死」とチェーホフの「大ヴォロージャと小ヴォロージャ」を読み比べて御覧なさい。結婚に失敗した女性はアメリカだと馬車を乗り回すが、ロシアならトロイカなんですわ。