リヴァイアサン (新潮文庫)

  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (413ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784102451076

作品紹介・あらすじ

一人の男が道端で爆死した。製作中の爆弾が暴発し、死体は15mの範囲に散らばっていた。男が、米各地の自由の女神像を狙い続けた自由の怪人であることに、私は気付いた。FBIより先だった。実は彼とは随分以前にある朗読会で知り合い、一時はとても親密だった。彼はいったい何に絶望し、なぜテロリストになったのか。彼が追い続けた怪物リヴァイアサンとは。謎が少しずつ明かされる。

感想・レビュー・書評

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  • これまで読んだオースターの作品とはまるで違うものだった。
    たとえばそれまでのものが後半に向かって盛り上がっていくのに対して今回のは前半にぐっと惹き付けて一気に読ませてしまう。
    たとえばそれまでは主人公がいるのに対して今回は語り手となる人物がいても複数の人物それぞれが主人公でありすべての人物が繋がっている。また、その繋がりは偶然による産物であるというところがオースターらしいと私は思う。

    人生は偶然によって導かれる。偶然によって運命は変わる。誰かと出会ったり、誰かと恋に落ちたり、誰かを失ったり、そういうことは自分で選びようがない。オースターはそういう偶然からいつも何かを見出して進んで行く。どの本の登場人物も偶然を重く捉え、その意味を考え、自分の人生の道を作っていく。
    オースターの作品では起きた偶然を吟味しそこから何かを得て人生を作っていくのに、私はこれまでそれをしないで来てしまった。偶然はただの偶然だし、それによって今があることは分かってもそこに深い意味や自分の生きる意味なんて考えもしなかった。もちろん自分で気付かないうちに自分に多大な影響を与えた偶然というものも多々あるのだろうけれど、うすのろで筋道の立てられない感情直感型の私はたぶん多くのことを見過ごして(もしくは見ないふりをして)来てしまった。前も後ろもしっかり見詰めることができない自分が情けなくなった。

    リヴァイアサンというのは旧約聖書に出て来る巨大な海の幻獣のことらしい。それと、トマス・ホッブズによる近代国家論の先駆をなす書物のタイトルでもあるらしい。私は旧約聖書もトマス・ホッブズも読んだことがないからよく分からないが、いつものオースターの作品同様このタイトルは非常に内容を言い表していると思う。

    とても面白い本なのでおススメの1冊。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「「偶然」であり「己の人生とは何か」ということだ。」
      無数の選択肢の中から抜き出した一つは、「運命」でも「必然」でもない、でもそれによって「...
      「「偶然」であり「己の人生とは何か」ということだ。」
      無数の選択肢の中から抜き出した一つは、「運命」でも「必然」でもない、でもそれによって「真実」に近づいていく気がするのですが、何かが「欠落」しているようにも思える。。。って何が言いたいんやろ私って、、、
      2013/07/06
  • 猛烈に面白かった!!

    構成がずば抜けていて、
    ひとつの事件から始まり、
    人物を掘り下げていくように見えて、
    語り手からの視点があることで、
    現実の出来事ではなく、
    語り手の知り得たことと想像と、
    多くの投影と心的現実で語られるからこその、
    真実はなにかというサスペンスにも見えるが、
    物語は過去と現在とその先へと、
    縦横無尽に駆け抜け、
    これが一体誰が主体の話なのかがわからなくなり、
    そして振り出しに戻り、
    そこから少しだけ先に進んで終わる。

    登場人物たちのキャラクターが濃密で、
    そして互いの関係性も複雑で、
    誰を欠いても、何を欠いても、
    そしてそれぞれを執拗に書いても、
    不完全なのだ。

    それなのになお非常に映画的というか視覚的なのが、
    本のタイトルが決められる瞬間。
    どーーんっと現れたタイトルバックのように、
    重厚すぎてため息が出た。

    あー、すんごくドラマチックで、
    とにかく面白かった!!

  • ポールオースターの本は、読後、寂しくなるというか
    空虚感に包まれる気持ちになってしまう印象があった。
    だが、この本は最初から結末が分かっている。
    親友が死に、親友について主人公が語るのだから。
    ラストシーンも淡々としておらず、最後まで読ませる。

    様々な人物、出来事が絡んでくるが、何度か語られる
    人生が人を捉えてしまう、という言葉は、我々が
    生きていく上で、あまりに哀しい事実だ

  • とある男の爆死を知った私。
    それはかつての親友だった男だった。

    その男はなぜ爆死などしなければならなかったのか。
    オースターらしい因果律と偶然、共時性で語られる、
    滑稽さと狂気と、孤独の物語。

    オースター版「グレートギャッツビー」という読後感でした。

  • 個人的メモ的感想


    読みやすい。
    過去の物語をどんどんひもといていく、という感じでいろんな事件が語られるから、頭んなかで整理できていない部分はあるが、まぁ読みやすかった。納得いく作品だった。柴田さんの翻訳も多大に貢献していると思う。
    ホントに、様々なことが順を追って語られるが、「主人公が書き進めている」という作品の構造上無駄な部分は一切ない。何気ない、なんてことないシーンでも、この「リヴァイアサン」においてはすべて考えるに値するものだし、必要なものなのだ。読み進めてそれを理解すると、ただ読むだけでも、楽しさが増す。これはなかなかうまいなあ。

    オースターの作品を読むのは久しぶりだが、やっぱりおもしろかった。『偶然の音楽』、『ミスターヴァーティゴ』よりよかった。

    主人公の親友サックスは、大小様々な事件に遭遇することで、それらの偶然が自分にとってどんな意味があったのか考えずにはいられなくなり、どんどん思考が飛躍し、自分というものが変化していく。考える事それ自体は人間にとっていたって当たり前のことなんだけども、サックスの世界の捉え方はちょっと歪。少し前の自分では想像もしないほうへ、変貌していく。
    サックスは、そうなったからにはそうなるしかない、そうなるべきだった、とも言えるかも知れない、的なスタンスで、ひとつひとつの事件に翻弄されていく。つまり彼にとって、偶然はほとんど必然だったのだろう。
    偶然や運命というものはなんておそろしく、魅力的なのか、っつー感じのオースターっぽい話。

    主人公、あんまり売れてない作家ピーター。は、なんだか他の人物に比べて、いわゆる「普通」にみえる。誠実で真面目なんだが、彼の考えは、他の登場人物より後手にまわっているというか、まぁ普通というか。
    そういう意味で、彼の語り方は読者にとって入りやすく、わかりやすい。サックスがわけのわからん理論(でも本人にとっては完璧にスジが通っている)を披露するときも、ピーターは「そんなこと普通は考えへんよ。普通に考えたらこうするべきだよ、そんなことで悩むのはおかしいよ」って感じで対応する。だから彼が「普通」っぽく見えるし、サックスとかマリアみたいな「変わった奴ら」を見る視点が、読者と同じ高さにあるので、安心して読める。オースターはそういう構造を意識したのだろうか。
    もちろんピーターはただの阿呆じゃなくて、後手に回ったとしてもそこからちゃんと考える。なんとか自分なりの答えを出そうとする。なんとか自分なりの解釈を拵えて、現実に向き合う。それは、偶然に翻弄される人間として当たり前の姿で、同時にすごく大切なことであると思う。

    いまこれを書いていると、この作品をもうちょっと好きになってきた。不思議な感じ。もういちど読むともっとおもしろくなるタイプの作品だな、これは。たぶん。
    よい読書体験でした。

  • ほんのわずかに狂い出す瞬間から、ものすごいスピードで物語が駆け巡る。

  • 「トゥルー・ストーリーズ」を読んだ後で、全てはすっかり変わってしまった。自分にとってポール・オースターを読むことは、どこかしら川上弘美を読むことにも通じるわくわくした気分のことであったのだが、この「リヴァイアサン」を読みながらオースターを読むことはある意味息苦しいことであるという思いに至ったのだ。もし何も知らなければ、この小説も今までと同じようににポール・オースターの創作として楽しく読み、オースターの独創的な物語の糸の絡まり方に、くぅとうなって、わくわくしていただろうと思う。しかし、ここに書かれていることの内のどれ程がオースターの創造であるのか、という点が気になりだすと、物語を追いかけながらぐるぐると答えの出ない問いを考えつづけているような、まるで無間地獄に落ちていったような気分の状態から遂に逃げ出すことが出来ないまま、最後の頁まで読み終えてしまったのだった。

    「事実と虚構を混ぜ合わせることを許可してくれたソフィ・カルに感謝する」と、物語が始まる前に作者は書き残している。それはまるで催眠術師が何気なく口にした言葉のように、潜在意識に忍び込んだ。そして動きだす物語。そこには「トゥルー・ストーリーズ」を通して既に知ってしまった逸話がふんだんに登場する。そもそも、この本の主人公であり本の著者でもあるピーターは、明らかにポール・オースター自身のことを暗示しているのだ。ピーターの語る経歴、コロンビア大学卒業後パリへ数年出奔し、帰国後結婚と離婚を一度ずつ経験したこともオースターの経歴そのままといってよく、二度目の結婚相手であるアイリス(Iris)の身体的特徴を語る場面ではあたかもそこに本当の妻シリ・ハストヴエット(Siri <=> Iris)の実際の容姿と重なっている。少なくともピーターに限って言えば、言及されるエピソードはほぼ直接的な形でオースターが実際に経験したものと想像できるし、例えば「月(ルナ)」という小説を書いたとされる部分は「ムーン・パレス」のことを指しているのだな、というように比較的単純な連想が可能なのである。

    それだけであれば、現実にあった出来事を上手く虚構に押し込めるのがオースターの特徴なのだ、ということで納得もしてしまえる訳だが、「トゥルー・ストーリーズ」を読んで感じる恐怖の根源は、類似点の発見にあるのではない。例えば、オースターが(そしてピーターが)通っていた当時、つまりベトナム戦争当時のコロンビア大学の状況が語られる。そこはいわゆるリベラルの集まる場所であり、大学の解体を叫ぶ者の集まる場所でもあった訳だ。であればこそ、「トゥルー・ストーリーズ」の中でオースターがおたずね者のポスターの中に知り合い(それも半分以上が知っている者だという)を発見したという逸話と、この「リヴァイアサン」の重要な登場人物であるサックスが結びついてしまい、彼には恐らくモデルとなる実在の人物が居るのではないだろうか、と考えるプロセスがひとりでに動き始めてしまう。そのひとりでに動きだす思考のメカニズム、それこそが恐怖の根源だ。

    どうでもよいと言えばどうでもよいことなのだが、この読んでいる側のスタンスを揺さぶるような感じ、それはこれまでオースターをエンターテイメント的に読んで来たものとして、何にも解っちゃいなかったんだな、という自信喪失みたいな感情から生まれているものだと思う。そう知ってしまった以上、どうも前のようにすらすらと読んではいけないような気に襲われながら、それでもぐいぐいと小説に挽き込まれていっている自分がいて、恐くなってしまうのだ。

    もう一つ、今回に限っていつもと違ったことがあった。それは、あとがき、に関することである。本書は当然のことながら柴田元幸が翻訳をしている。翻訳者としての柴田元幸に信頼がおけるのもさることながら、米文学者としての考察もなされる彼のあとがきはいつもためになる。もちろん、本編終了後いつも真っ先に読むのだが、今回は少し合点が違った。今回のあとがきはこんな風に始まっている「一人の人間の話に終始していたわけではもちろんないのだが、『リヴァイアサン』以前のポール・オースターの小説は、ひとまず「これは基本的に誰々の物語である」と規定できる作品だったように思う」。しまった、この先は読んではならない。今自分が感じていることを書き留める前には読めない。実は、小説の中の事実を巡る真実、などというものは本質的なことではない、と思ってもいた。そのことに関して自分なりに考えないうちに、このあとがきは読めない、と思ったのだ。何故なら、この柴田元幸のセンテンスに、自分の感じている本質的な問題のポイントが既に見えてしまっているからだ。それを、一言でいうなら「境界の喪失」である。

    「境界の喪失」という感覚。それには、もちろん「事実と虚構」の境の喪失も含まれるのだが、もっと無気味に感じるのは「自己と他人」の境界の喪失感の方だ。こう言えば、何故自分が柴田元幸のあとがきを後回しにしているのかが解ってもらえると思う。

    例えば主人公であるピーター。そして彼が爆破事故の被害者である確信しているサックス。この二人は太陽と月のように相照らすものとして描かれているようでもあり、その実、一人の人物の裏と表のようでもある。最初の内はすんなりと受け入れられる二人の関係だが、サックスの妻ファニーを巡る関係がこじれ始めると、この二人が二人である必然性は徐々に失われ、あたかも一人の人間のドッペルゲンガーが交互の物語に登場してくるような気にもなるのだ。登場する人物達の性的な関係が交錯するだけ交錯していくにつれ、この二人の人格の外周がぼやけるだけでなく、全ての登場人物の個としての輪郭が曖昧になってくる。このことが自分にとって何故か無性に恐い。自分の考えが自分の考えでなくなっていく恐怖と言ったらいいのかも知れない。そんな恐怖心がじわじわと沸いてくる。

    この本の中で主人公のピーターが必死に描こうとしているのは「真実は一つではない」というよく耳にするテーマだ。同じ事実も語る人によって切り取られる真実は変化する。そのことを自分は全面的に肯定する。いや、肯定できると思っていた。しかし、それは飽くまで他人にとっての事実と真実の関係について気軽に肯定できる、という意味しか持たず、一端自分がその多層的意味の罠に掛かってしまうと簡単に評論家づら出来なくなるのだということを、「リヴァイアサン」は追求する。それでも事実の断片を集め、自分なりの真実のストーリーを編み上げようとするピーター。その執念というか狂気のようなものは、あくまで論理的であろうとする彼の姿勢に由来するものであることは容易に読み解かれる。その姿勢に、どこかしら自分と似たような思考回路を見いだすにつれ、ピーターの陥るジレンマがいつの間にか本から抜けだし、自分自身を縛りつけているような気分になる。しかも恐ろしいことに、そんな気分は、しょせん小説なんだから、と片づけてしまえることを知りながら、一向に振り払う気配を自分自身が見せないことを知ってしまうのだ。片づけないどころか、そのジレンマを自虐的に楽しんでいるようでもある。そう、境界の喪失は本の中だけに留まらず、物語と読者の境界も曖昧にしてしまうのだ。

    例えばイタロ・カルヴィーノは、全ては舞台の上の出来事です、と断ったうえで事実と真実の境界を曖昧にし、読者と登場人物の間のすき間を見えないものにすることが出来た作家だったと自分は思う。カルヴィーノの言うことはよくよく考えて理解する必要があると思うけれど、その考える行為が何に対してなされているのか、という点はとても明確だ。その行為の対象は、自分にとってどこまでも形而上学的な抽象概念に留まっていて、自分の思考は自分でコントロールできているという安心感みたいなものが残る。一方オースターは、そういう前提があるようで、実はない。むしろ、全ては事実なのかも知れませんよ、と構えてさえいるようだ。その可能性を真剣に考慮して改めてオースターを読むと、いつの間にか小説の中から何かを読み解こうとしている自分に気付いてしまい、その行為が自分の意思でなされているのではないことにも同時に気付き、背筋が寒くなる。

    しかし、もう後には戻れない。それどころか、恐らく以前読んだ作品をまた読み返してしまうだろう。多分、ここまで自らのことを描けるものなのだろうか、と思いながら。もちろん、物語を書く時のオースターはメタ・オースターのような存在である可能性も十分にある。そのメタ・オースターの冷静な視点があるからこそ、事実と虚構を何度も何度も伸ばしては折り畳むようなことが可能になってもいるのだろう。なんて凄い作家なのか、と改めて、思う。

  • ひがさん

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