- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103021322
作品紹介・あらすじ
私とは、死とは、仏教とは何か――。「諸行無常(=すべての“実存”は無常である)」。そうブッダが説き始まった仏教は、インドから中国、そして日本へと伝わる過程で、「仏性」「唯識」「浄土」などの「超越的理念」と結びつき、大きく変化していった。「恐山の禅僧」が、ブッダから道元までの思想的変遷を「超越と実存の関係」から読み解く、かつてない仏教史の哲学。
感想・レビュー・書評
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はい。調子に乗り過ぎました。僕なんかにこんな難解なものは分かるはずがなかったんです。まるで意味不明のお経を唱えるような気持ちで読んだっていうか文字を追っただけで、エピローグぐらいしか頭に入ってこなかったです。あと100年ほど勉強したら分かるかな?
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「苦」に苛まれる「私」の外側に「God」という超越的存在を措定し、そこに救済を求めるのが一神教。
対して釈尊は、絶対不変というものはない、正確に言えば、そのようなものを我々は感得することはできないと看破し(無常観)、自分の外側に解決を求めるのではなく、「私という存在」のありようを諦め(明らめ)ることで「苦」から脱することができると説いた。
その境地が「悟り」と呼ばれるものだが、「悟り」がどういうものであるかは書き残されていない。
種々の宗派はその無常観や悟りを様々なコトバで表現しようとし奮闘するのだが、コトバを駆使する限り、「無常」は表現できない。
そのブレークスルーが著者にとっては道元だったらしいのだが、その辺りの消息は詳らかにされていない。
ただ、釈尊と道元がいてくれて良かったと語るのみ。
各宗派に対する著者のコメントには一々「ちょっと待ってよ」と言いたい部分はある。本書を以て仏教史を理解できたとは考えるのは危険だが、ここで述べられている仏教史は結論に至る過程でしかないので、それはそれで了解しても良いかな。
同じ著者の「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」ほどの衝撃感はなかったが、引っ張り込まれる。
本書は宗教というより、哲学書。
著者は序文で言う。真理とかいったものはどうでも良い、自分に必要だったのは「人は何故死ぬのか、私とはどういう存在であるのか」という問いに答えてくれる、「使える」教えであった、と。
「使える」というのは、「色即是空」の後の「空即是色」を指す筈だが、そこまで踏み込んでないのが、ちょっと残念。 -
ラディカルな論考。序章の1ページめから驚かされる。実存と超越、ぱっと見ると仏教書にしては変わったタイトルに感じるけれど、考えてみれば、仏教はずっとこの問題に向き合ってきたのだ。親鸞に関する論考は面白かった。自然法爾からあそこまで解体されるものなのか。釈徹宗先生あたりの意見も聞いてみたい。
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月島
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親鸞の成無常、道元の観無常、に至る仏教史について書かれたもの。日本の仏教史においては、それ以外は思想的にはあまり重要ではない、とのこと。無常にとどまる仏教と、そこからの超越を想定する仏教以外の思想、という対比が興味深い。
論理展開によどみは無いものの、全体的に難解で、少なくとも一般人に向けて書かれたものではないと思われる。仏教関係者向けだとしたら、かなりニッチ。 -
いまひとつと思った。読み易さはあったし、興味そそる箇所もあったが、薄い感じがしました。親鸞と道元の問題意識が引き継がれなかったのか。
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3回目読んでます。
南直哉さんのファンに
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赤裸々に書いているのが素晴らしいが、本当に高村薫の小説の登場人物の禅僧のようで私は合わなかった。
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p8 問題を共有する人間が、かつて確かに存在していたということこそが、救いだったのだ。
p43 「自己」という様式で実存する〜「自己」は〜「私である」と認識する実存と、それを承認する「他者」が共同で仮設している〜
p46 「自己」という実存様式は、〜自意識として現象化する。〜自意識的実存であり、言語内存在なのだ。
p47 これとまったく同じ理屈が、「私がいる」という認識〜にも作用している
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18/01/27。