学生との対話

  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (205ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103082071

作品紹介・あらすじ

「さあ、何でも聞いて下さい」と〈批評の神様〉は語りかけた。伝説の対話、初の公刊! 「僕ばかりに喋らさないで、諸君と少し対話しようじゃないか」――。昭和三十六年から五十三年にかけて、小林秀雄は真夏の九州の「学生合宿」に五回訪れた。そこで行われた火の出るような講義と真摯極まる質疑応答。〈人生の教室〉の全貌がいま明らかになる。小林秀雄はかくも親切で、熱く、面白く、分かりやすかった!

感想・レビュー・書評

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  • どんな分野でも、まともに向き合っていると必ず通ることになる、文字通り避けては通れない場所がある。今いる環境に関わらず、歩みを継続していたら必ず通過する場所。真剣にゴールを目指した先人の誰もが、足跡を遺していった道。その道こそを古典と呼ぶのかもしれない。雑多なコンテンツは、古典に通じるヒントにすぎない。

     「問い」と「想像力」について。印象に残った表現を以下に引用する。
    <質問するというのは難しいことです。本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのですよ。僕は本当にそうだと思う。ベルグソンもそう言っていますね。僕ら人間の分際で、この難しい人生に向かって、答えを出すこと、解決を与えることはおそらくできない。ただ、正しく訊くことはできる。>

    <だから諸君、正しく訊こうと、そう考えておくれよ。ただ質問すれば答えてくれるだろうなどと思ってはいけない。「どうしますか、今の、現代の混乱を?」なんて問われてもどう答えますか。質問がなっていないじゃないか。質問するというのは、自分で考えることだ。>

    <想像力という言葉を、よく考えてください。想像力、イマジネーションというのは、空想力、ファンタジーとはまるで違う。でたらめなことを空想するのが空想力だね。だが、想像力には、必ず理性というものがありますよ。想像力の中には理性も感情も直感もみんな働いている。そういう充実した心の動きを想像力というのだ。>
    p.143

    <とにかく想像力を磨くんです。想像力というものは、さっきも言ったように、空想とは違うのだ。その違いさえ知れば、君は存分に想像力を働かせればいい。想像力は磨くこともできるのです。想像力だってピンからキリまであるから、努力次第ですよ。精神だって、肉体と同じで、鍛えなければ駄目です。使っていないと、発達などしません。想像力も自分で意識して磨いていけばどんどん発達するものです。>
    p.144

     想像力を鍛えること、これを個人的な人生のテーマに設定していた。仕事から人間関係まで、あらゆる活動の根本にこの能力が関係し、とてつもない奥行きを持つことを薄々感じていたからだ。それをこうも見事に言葉にされてしまった。自分自身が感じていたことのはずなのに、そんな自分よりもクリアに言葉にしている人がいる。もっと言葉を鍛えていかないと、自分という存在が消えてしまうぞ。

  • ☆5(付箋23枚/P205→割合11.22%)

    この会を本にすることが出来た編者は言う。
    (小林秀雄は講演を本にすることを酷く嫌った)

    先生は、はじめにこんな話をされた。「うまく質問してくださいよ」、「問題がなければ質問しないわけですからね。問題が間違っていれば、質問しても仕方ないわけです。うまく問題を自分でこしらえて、質問をこしらえなければなりません」。
    先生は、対話を進めていけば自問自答になる。さらに進めば「答えを予想しない問いはない」ところにいく。だから「問答を実らせる力は問いのうちにある」とおっしゃったこともある。

    立て方が正しければすでにそれが答えになる。批評、文筆、歴史家の知恵の書。

    〇科学は、本当に物を知る道ではなく、いかに能率的に生活すべきか、行動すべきか、そういう便利な法則を見いだす学問なのです。
    それもたいへん必要なことだけれども、見誤ると、科学さえやっていれば僕らは物を知ることができると思ってしまう。
    「そっちの原因は何だ?」「そっちの原因はこうだ」
    「じゃ、あっちの原因は?」「あっちの原因はこうだ」。
    これ、無限でしょ?原因は無限に、いくらでも調べることができる。一体、これが物を知ることですか?

    〇カントは、物が―物質でもいい、精神でもいい、世界でもいいですが―本当は何であるかということは、学問で証明することは不可能なのだと証明したでしょ?
    科学は、実在とは何かを知ろうとしているのではないのです。実在の<関係性>を調べるのが科学です。実在の本質 、つまり物自体とはどういうものであるかを調べるのは形而上学です。その形而上学が不可能であるということをカントは証明しました。

    〇学生D:
    われわれ学生はいかなることを理想とすべきか、また個人と全体との関係はどうあるべきか、それが理屈としては わかりますが、実感として湧いてこないのです。先生はどうお考えですか。

    小林:
    君に実感として湧いてこない理想を、私が君に与えることはできない。孔子が「憤せざれば啓せず」と言ったように、あなた自身が憤することが大切だ。理想というものは、人から教わるものではない。
    参考にするものはいくらでもあるが、理想に火をつけるのは君だろう?
    孔子は続けて「悱せざれば発せず」とも言っています。口でうまく言えず、もぐもぐさせているくらいでなければ、導いてやらないというのです。こういう教育はだんだん少なくなったが、原理としては、これが亡びるということはない。
    だから、君の質問には、僕は答えられない。いまどういう理想をもったらいいか、ああ、それはこうだよということ は言えない。君が発明したまえ。学問には必ず自得しなければならないものがあるのだ。
    個人と全体の問題もやはりそうですよ。自分だったらどうするか、ということになるわけです。だから本当の知恵などというものは、そんなにたくさんはないのです。


    ああ、いいですね。学ぶという事は厳しいことでもあって、それが楽しい。
    最後にもう一つ、女子学生の質問から。

    〇女子学生D:
    先生は「昔の人の心を知るのには、昔の心を持っていなければならない。今の人はみんな、現代の心を持って昔の心を見ているだけで、そこには想像力がまるで働いていない」という旨をおっしゃいました。
    では今の私たちが古人の心を知り、その心を持つためには、想像力だけで十分なのでしょうか。

    小林:
    十分です。想像力という言葉を、よく考えてください。想像力、イマジネーションというのは、空想力、ファンタジーとはまるで違う。でたらめなことを空想するのが空想力だね。だが、想像力には、必ず理性というものがありますよ。想像力の中には理性も感情も直感もみんな働いている。

    歴史を知るには、想像力だけで十分なのでしょうか?
    →十分です。

    この言い切り、思考の経験。痺れました。

    ***以下抜き書き**

    ・諸君は本居さんのものなどお読みになら ないかも知れないが、「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」という歌くらいはご存知でしょう。
    この有名な歌には、少しもむつかしいところはないようですが、調べるとなかなかむずかしい歌なのです。先ず第一、山桜を諸君ご存知ですか。知らないでしょう。山桜とはどういう趣の桜か知らないで、この歌の味わいは分かるはずはないではないか。宣長さんは大変桜が好きだった人で、若い頃から庭に桜を植えていたが、「死んだら自分の墓には山桜を植えてくれ」と遺言を書いています。その山桜も一流のやつを植えてくれと言って、遺言状には山桜の絵まで描いています。花が咲いて、赤い葉が出ています。山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の 桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。
    …宣長さんは遺言状の中で、お墓の恰好をはじめ何から何まで詳しく指定しています。何もかも質素に質素にと指定していますが、山桜だけは本当に見事なものを植えてくれと書いています。今、お墓参りをしてみると、後の人が勝手に作ったものですが、立派な石垣などめぐらし、周りにいろいろ碑などを立てている。しかし肝心の桜の世話などしてはいないという様子です。実に心ない業だと思いました。

    ・今の歴史というのは、正しく調べることになってしまった。いけないことです。そうではないのです、歴史は上手に「思い出す」ことなのです。歴史を知るとい うのは、古の手ぶり口ぶりが、見えたり聞えたりするような、想像上の経験をいうのです。

    ・歴史を知るというのは、みな現在のことです。現在の諸君のことです。古いものは全く実在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。思い出せば諸君の心の中にそれが蘇って来る。不思議なことだが、それは現在の諸君の心の状態でしょう。だから、歴史をやるのはみんな諸君の今の心の動きなのです。こんな簡単なことを、今の歴史家はみんな忘れているのです。「歴史はすべて現代史である」とクローチェが言ったのは本当のことなのです。なぜなら、諸君の現在の心の中に生きなければ歴史ではないからです。それは史料の中にあるのではない。諸君の心の中にあるのだから、歴史をよく知 るという事は、諸君が自分自身をよく知るということと全く同じことなのです。

    ・もう一つ重要なことは、歴史は決して自然ではないということです。現代ではこの点の混同が非常に多いのです。僕らは生物として、肉体的には随分自然を背負っています。しかし、眠くなった時に寝たり、食いたい時に食ったりすることは、歴史の主題にはならない。それは自然のことだからです。だから、本当の歴史家は、研究そのものが常に人間の思想、人間の精神に向けられます。人間の精神が対象なら、それは言葉と離すことはできないでしょう。

    ・学生A 先生がフロイトについて話されたところで、精神は生理的要因にあまり影響されないと言われたと思いますが、実際の生活で全面的にそういうことが言え ますでしょうか。

    小林 無論、生理的なものと精神的なものは絶対に密接な関係があるんです。ですから、生理的な原因から説明することのできる精神現象はたくさんあります。けれど、フロイトは、異常な心理を扱った心理学者です。
    そんな異常な心理は、いわゆる解剖学的な、肉体の生理学的な原因からでは、とても説明ができそうもない。生理的には全く異常のない、すこぶる健康な患者が出てくるわけですからね。

    ・カントは、物が―物質でもいい、精神でもいい、世界でもいいですが―本当は何であるかということは、学問で証明することは不可能なのだと証明したでしょ?科学は、実在とは何かを知ろうとしているのではないのです。実在の<関係性>を調べるのが科学です。実在の本質 、つまり物自体とはどういうものであるかを調べるのは形而上学です。その形而上学が不可能であるということをカントは証明しました。

    ・もう一つ、庶民という問題があるね。庶民は物を考えなかったなんて、これは嘘です。そんなものは今の色眼鏡で見た考え方です。もう少し、昔の学者の生活を調べなければいけない。伊藤仁斎という人は材木屋の息子で、学問が好きで、独学を続けた。やがて京都で塾を開いて、ひたすら月謝によって彼は生活したのです。その月謝というのはどこから来たか。これはあらゆる階級から来たのです。無論、農民もいます。町人もいます。公家もいます。武士もいます。
    彼らは学問が面白かったのですよ。面白くなくて、どうして百姓が来ますか、町人が来ますか。

    ・学生B 社会のあらゆる分野が専門化されていく時代に、現在の教育制度はどのように変えて行ったらよろしいでしょうか。

    小林 学問の分化をはばむ理由は何もない。学問が分化しながら進歩するのは当然でしょう。しかし教育の問題となると、学問の分化以前のことで、「学ぶ」という基本的な意味が考えられていなくてはなりません。教育論などという大問題は、私にはお話しできないが、さしあたり考えるに、現代の教育に一番欠けているのは感情の教育でしょう。情操の教育が一番欠けているのではないですか。
    学校の先生方が、生徒を美術館に連れていったりしますが、きわめて形式的なことです。あれは美術に関する知的教育をやっているのであって、美しいということを感じる力が育成 されるのかどうか、そこはまったく考えられていない。

    ・もう一つ悪いのはジャーナリズムの趣味です。戦後の青年はどうだとか、いまの青年はどうだとか、騒ぎ立てすぎるのではないですか。戦前の人と戦後の人の間の思想の食い違いというようなことなど、お互いに捨てるがいいのです。これは一種の猜疑心です。
    いくら外面的なことが変っても、少し深い問題とか、微妙な問題に入ってみると、戦前も戦後もない大問題が人生にはたくさんあります。いまの世の中がむずかしくなったとか何とかいうけれども、敏感で利口な人には、人生がやさしかったことなど一度もありません。

    ・学生C 先生は、学問とは知る喜びである、道徳とは楽しいものであると言われましたが、私には苦しいことのほ うが多いのではないかと思えます。いかがでしょうか。

    小林 喜びといっても、苦しくない喜びなんてありませんよ。学問をする人はそれを知っています。嬉しい嬉しいで、学問をしている人などいません。困難があるから、面白いのです。やさしいことはすぐつまらなくなります。そういうふうに人間の精神はできているのです。子どもの喜びとは違うのです。
    喜びというものは、あなたの心の中から湧き上がるのです。僕が与えることのできるものではない。学問が喜びであるか、苦しみであるか、というような質問は、質問自体がおかしい。それはあなたの意思次第です。

    ・学生D われわれ学生はいかなることを理想とすべきか、また個人と全体との関係はどうあるべきか、それが理屈としては わかりますが、実感として湧いてこないのです。先生はどうお考えですか。

    小林 君に実感として湧いてこない理想を、私が君に与えることはできない。孔子が「憤せざれば啓せず」と言ったように、あなた自身が憤することが大切だ。理想というものは、人から教わるものではない。参考にするものはいくらでもあるが、理想に火をつけるのは君だろう?孔子は続けて「悱せざれば発せず」とも言っています。口でうまく言えず、もぐもぐさせているくらいでなければ、導いてやらないというのです。こういう教育はだんだん少なくなったが、原理としては、これが亡びるということはない。だから、君の質問には、僕は答えられない。いまどういう理想をもったらいいか、ああ、それはこうだよということ は言えない。君が発明したまえ。学問には必ず自得しなければならないものがあるのだ。
    個人と全体の問題もやはりそうですよ。自分だったらどうするか、ということになるわけです。だから本当の知恵などというものは、そんなにたくさんはないのです。

    ・歴史家ならば、自分の心の中に、藤原の都の人々の心持ちを生かすという術がなければいけない。つまり、歴史家には二つ、術が要る。一つは調べるほうの術。そして調べた結果を、現代の自分がどういう関心をもって迎えるかという術です。

    ・批評というのは、僕の経験では、創作につながります。僕は、悪口を書いたことはありません。少し前には書いたこともありましたけれども、途中から悪口はつまらなくなって、書かなくなった。悪 口というものは、決して創作にはつながらない。人を褒めることは、必ず創作につながります。

    ・科学は、本当に物を知る道ではなく、いかに能率的に生活すべきか、行動すべきか、そういう便利な法則を見いだす学問なのです。それもたいへん必要なことだけれども、見誤ると、科学さえやっていれば僕らは物を知ることができると思ってしまう。
    「そっちの原因は何だ?」「そっちの原因はこうだ」「じゃ、あっちの原因は?」「あっちの原因はこうだ」。これ、無限でしょ?原因は無限に、いくらでも調べることができる。一体、これが物を知ることですか?

    ・人生というのは、大きな芝居みたいなところがありますが、さまざまな俳優がいろいろ面白いことをしているのを客席から見ているだ けではいられなくなる。僕らはその芝居の中へ入って、自分も俳優になろうとします。それが人生だよ。そして、そこで働くものが認識なのです。

    ・人間は、自分の得意なところで誤ります。自分の拙いところではけっして失敗しません。得意なところで思わぬ失敗をして不幸になる。言葉もそれと同じだな。あまり使いやすい道具というのは、手を傷つけるのです。

    ・僕は自分の子供の頃をよく振り返ってみるが、親父のことなんか、みんなお見通しだったね。ああ、親父はこういう性質を持っているなと見抜いていたよ。いい性質もあった。悪い性質もあった。僕は14、5歳の時に、そのくらい見抜いたね。諸君だってそうだろう?子供ってみんなそういうものだよ。非常に敏感なものだ。子供の教育と かなんとかって、今やかましいことを言うけれど、子供に対して少し恥じればいいんだよ。

    ・昔は、『増鏡』とか『今鏡』とか、歴史のことを鏡と言ったのです。鏡の中には、君自身が映るのです。歴史を読んで、自己を発見できないような歴史では駄目です。

    ・経験、経験と一口に言うが、自分が本当に何を経験したかなんて、実はよくわかっていないものなんだよ。本当の経験の味わい、経験のリアリティなどというのは、自分でもよくわからないんだ。何か強烈な経験をした時、直かに来る衝撃が強いでしょう?その強い衝撃で、みんな我を忘れていますよ。その時、自分が本当に何を言ったか、何を感じたか、どう行動したか、どう変化したのか、どんな意味があるのか、本当に強烈な経験をした 場合、なかなか知りえないものです。

    ・女子学生D 先生は「昔の人の心を知るのには、昔の心を持っていなければならない。今の人はみんな、現代の心を持って昔の心を見ているだけで、そこには想像力がまるで働いていない」という旨をおっしゃいました。では今の私たちが古人の心を知り、その心を持つためには、想像力だけで十分なのでしょうか。

    小林 十分です。想像力という言葉を、よく考えてください。想像力、イマジネーションというのは、空想力、ファンタジーとはまるで違う。でたらめなことを空想するのが空想力だね。だが、想像力には、必ず理性というものがありますよ。想像力の中には理性も感情も直感もみんな働いている。

    ・どうして宣長までたどり着いたか、確かなことは言えません。ただ、感動から始めたということだけは間違いない。感動というのは、いつでも統一されているものです。分裂した感動なんてありません。感動する時には、世界はなくなるものです。感動したときには、どんな莫迦でも、いつも自分自身になるのです。
    これは天与の知恵だね。人間というのは、そういう生まれつきのものなのだな。感動しなければ、人間はいつでも分裂しています。だけど、感動している時には、世界はなくなって、自分自身と一つになれる。自分自身になるというのは、完全なものです。莫迦は莫迦なりに、利口は利口なりに、その人なりに完全なものになるのです。つまり、感動している正体こそが個性ということですよ。

    ・「無いにも有るにもそんな事は実はもう 問題で無い。我々はオバケはどうでも居るものと思った人が、昔は大いに有り、今でも少しはある理由が、判らないので困って居るだけである」―柳田国男

    ・先生は、はじめにこんな話をされた。「うまく質問してくださいよ」、「問題がなければ質問しないわけですからね。問題が間違っていれば、質問しても仕方ないわけです。うまく問題を自分でこしらえて、質問をこしらえなければなりません」。先生は、対話を進めていけば自問自答になる。さらに進めば「答えを予想しない問いはない」ところにいく。だから「問答を実らせる力は問いのうちにある」とおっしゃったこともある。

  • 科学だけが、表面的に、あまり信じられてしまうと効率性のないものは非科学的であるから能力がないと、人も物もごっちゃに品定めをすることになる。どこかが優秀であっても、どうしてもどこかは劣悪だという結論になる。非倫理的になる。そういうことで苦しむ時世だ。
    そういう非倫理は、本居宣長の昔からあって、だから、もののあはれは批評性として今も息づく。交わりの中に居なければ考えたことにはならないという、今ここの、与えられた状況から無心に感覚を働かせることで、降ってくる感触こそリアルだという現象学のようなものにも通ずる。
    だから、身体性と言わなくても「考える」というだけで充分だったり、さらには、ちゃんと「生活」するというだけでよいということを教えてくださった。

  • 質問するというのは難しいことです。本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのです──と書きながら、全国学生青年合宿教室で学生に「質問してくれよ」と無茶を言う著者。
    その上での質疑応答なので、著者の回答はもちろん、学生の質問もそれなりに高度なものに。
    大和心や大和魂は、平安期においては漢文の学問や知識に対する、人間味あふれる優しい正直な心を表す語だったという。
    また、本居宣長が『古事記伝』を書くまで、古事記は殆ど忘れられていたと。それを正しく読むには、当時の人になり切る想像力が必要だとする。
    そして、保守や革新、右翼、左翼といったイデオロギーで徒党を組むことを、「無意味」と断ずる。
    「こんな古い歴史を持った国民が、自分の魂の中に日本を持っていない筈がないのです」と。
    世間一般で区分けされる思想分類に収まらない幅のある人物に思えるのは、福田恆存氏と共通しているような。
    お二人とも、ちょっと難しいのだけれど、他の作品も読んでいこうと思った。

  • 生前、講演の録音を禁止した小林秀雄の講演を出版社の責任において文字に起こして本にしたもの。録音はCDにもなっている。講演で聴くのと、活字で見ることの印象の違いなどを改めて感じる。本人がどう思っていたかを尊重した上でこうして講演や質疑を読むことが出来るのは結果としては嬉しい。テレビで消費されてしまう文化人、知識人とは違う真の文化人のあり方を見つめなおす上で、学生との対話というのは格好の入り口になるのではないかと思う。

  • 小林秀雄氏が「全国学生青年合宿教室」で行った講義と、参加した学生や青年との質疑応答の記録をまとめた一冊。
    氏の文学や科学についての話はやや難解だがおもしろい。本居宣長を例に説く歴史を学ぶ姿勢はなるほどと思えたし、ソメイヨシノを「一番低級な桜」とする氏の意見も共感できる。
    また本書では、対話や質問という行為そのものの意義についても考えさせられる。氏は学生たちに「うまく質問する」ように繰り返し言う。時には「どうしてそんな質問をしたのか?」と反対に問う。学生たちにはなかなかにきつかっただろうが、「先生が予め隠して置いた答えを見附け出す事」など真の学びではないという当たり前のことに改めて気付かされる。

  • 『5時に夢中!』にて中瀬ゆかりが推薦。

    本居宣長について。宣長は歴史に敏感だった人。
    朝鮮では漢文は支那の言葉のまま読んだ。朝鮮語に訳そうとはしなかった。に日本人は反訳しながら読み、日本語で表そうとした。宣長は『古事記伝』で漢字と仮名を使って複雑な表現を取らざる得なかった。

    歴史は自然ではない。本当の歴史家は、研究そのものが常に人間の思想、人間の精神に向けられる。人間の生きている心を、死んだ支援事実と同じに考えることは出来ない。人間の精神が対象なら、それは言葉と離すことは出来ない。歴史家庭はいつでも精神の過程である。言葉のないところに歴史はない。それを徹底的に考えたのが宣長だ。

  • ちょっと鼻息荒くなってしまうくらい、おもしろかった。情操教育について、想像力について、歴史について、それから、オバケについて!
    ここしばらく思っていたことや気になっていたことがなぜかここでつながっていく不思議。頭より、私の手が確信をもってこの本を掴んでいたような気がする。

    知る者は好む者に如かず、好む者は楽しむ者に如かず。

  • 普通。
    これ読むんだったら同じ著者の栗の樹をおすすめする。

  • 「語りえぬもの」に対し「沈黙しなければならない」と言ったのはウィトゲンシュタインだが、小林秀雄はぼくたちにとってのそうした「語りえぬもの」について(たとえば「なぜ生きる」「なぜ学ぶ」などの問いについて)、その問いそのものを「臓腑に落ちる」かたちで引き受けた上でそこからその問い自体を吟味しようとしているかのように見える。だからここでの小林にはChatGPTに期待されるような「歯切れのいい」答えはなく、ただその吟味からくる慎重にして丁寧な思索が展開される。それはぼくにとってはしっくり来る答えでもありタメになる

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著者プロフィール

1931年2月12日生まれ、東京都出身の作曲家。東京藝術大学卒。作曲を長谷川良夫、ピアノを水谷達夫、宅孝二、奥川坦、稲垣寿子に師事。1959年・1961年 NHKから委嘱された芸術祭参加作品のラジオ音楽劇2作がそれぞれ芸術祭奨励賞を受賞する。1966年に中田喜直らと「波の会」(現・日本歌曲振興波の会)を創設し、第二代会長を経て、後に社団法人となった同会の名誉会員を務めた。「落葉松」をはじめとする歌曲・合唱曲やピアノ曲、童謡「まっかな秋」、オペラ、器楽曲、小学校校歌など数多くの楽曲を手掛ける。また、本人が直接合唱団を指導することも。東京藝術大学音楽学部講師、愛知県立芸術大学教授、聖徳大学・同短期大学教授、活水女子大学教授などを歴任した他、1979年には文部省派遣在外研修生としてパリに留学した。このほか、ショパンやリストのピアノ作品の校訂を手掛けた。2017年7月25日死去。86歳没。

「2024年 『混声合唱のための組曲 優しき歌』 で使われていた紹介文から引用しています。」

小林秀雄の作品

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