- Amazon.co.jp ・本 (295ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103259220
作品紹介・あらすじ
壊れかけた三人が転がるように行きついた、その果ては?人生の転機に何度も読み返したくなる、感涙の物語。
感想・レビュー・書評
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由人24歳、独身男性、一人暮らし。母親の愛情が自分だけには向かず、高校卒業後家を出て東京の専門学校に通う。その後、ブラック企業に就職、過労と失恋により、うつの薬が手放せない。(オーバードーズ)
野乃花48歳、独身女性、一人暮らし。絵の才能があるが家庭の経済事情により美大進学を断念、できちゃった婚からの育児ノイローゼで家出、離婚、就職、独立して会社経営のちに倒産、(ネグレクト)
正子16歳、女子高生、父親の転勤にあわせて転校を繰り返す。友人の死をきっかけに母親の過干渉を避け家出する。(拒食症、リストカット)
カルテ風に観察したのは、感情移入してしまうと、心に突き刺ささるからです。この作品が書かれたのは11年前だからなんとなく昭和臭漂う高度成長期からバブル崩壊し、就職氷河期からゆとり世代にかけての時代設定。年を重ねた今となれば、子の立場も親の立場も理解できてしまう。Wのうめきが共鳴して、堰を切って溢れだし決壊しそうになるのでセルフチェックしないと堤防守れない。
3人の痛々しいスリーコンボの生立はまるで ジェットストリームアタックのように攻撃してくる。バブル、ロスジエネ、ミレニアルそれぞれの世代の負の感情からなる波状攻撃。あるいは最強騎馬軍団を蹴散らした長篠の鉄砲3段撃ちの破壊力。
感じたことは、子育ての場に父親の存在が薄いのが共通点。父親は仕事中心で帰りが遅く、家庭では寡黙にすごし、酒を飲み育児は母親に任せっきりの旧態依然のスタイル。家族形態が核家族へと移行していくなか母親の負担増になり、その不安や不満を純粋な子供は敏感に感じ取ってしまい拠り所をなくし彷徨うことも否めないように思えてしまう。
そんな3人が出会ってしまい、湾の迷いクジラを見に行くのも必然なのかも、受動的に形成された自我から抜け出す道を模索して迷い込んだ迷宮に重なるようなクジラの姿。
ラストに向かってはもう感涙の嵐、心地よい幕引きでした。
泡のカーテンの向こうに通り過ぎる切れ長の目。
ハッキリとした道が示される訳でないですが、人の温かさに触れた時、微かに感じるマッチ売りの少女的幻影が東京タワーの光の様に現れる。
どんな人生になろうとも能動的に生きて最後まで微笑んでいたいって思いました。
迷いクジラと言えば、この1月淀川河口に現れた「淀ちゃん」残念ながら死亡が確認されて紀伊半島沖に沈められたニュースは記憶に新しいけど、深海に沈んだクジラの死骸は「鯨骨生物群集」と呼ばれる特殊な生態系が形成され多様な生物の命をはぐくむ深海のコロニーになるとか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
由人、野之花、正子3人の辛い子ども時代が詳細に描かれ、痛々しい。
3人の母親たちから、母の愛とは何かを考えさせられる。「母の愛」は神聖視され肯定的に捉えられてきたが、本作ではその内面の複雑を描きだしている。
「心配」でなんでもやってあげ、そこに喜びを感じてしまう由人の母。「心配」という言葉で正子を縛り上げている母。貧しさから抜け出させたいと堕胎させなかった野之花の母。どの母親も「子どものことを思って」が根底にあるのに、どこから歪んでしまったのか。親はどうしてこれほど子どもに盲目的になってしまうか。歯止めはどこにあるのだろう・・・。
子どもたちは大人の事情の中で生きている。それは仕方のないことだけど、大人の事情を理解し大人を思いやれと言うのは無理だ。
「子どもは優しくされたくて生まれてくる。理解するのは長く生きている大人の方じゃないか」忘れてはいけない。
おばあさんの言葉「やりたいことすればよか。正子ちゃんはそんために生まれてきたとよ」温かさが心に染みる。
『子どもの人生は子どもの』それを親はいつも心に留めておかなければならない。
入り江に迷い込んだクジラの苦しむ姿、海に戻っていった姿に3人は自らを重ね合わせる。クジラは海に戻っても死ぬ確率が高い、人間が助けることに意味あるのか分からないとうクジラ博士の言葉を聞きながら、それぞれの事情でクジラを助け、自然のサイクルに干渉してしまう人間。
対象物に自分を投影し物語を作ってしまう人間は、良い意味で他者の気持ちを想像し寄り添うことができるということか。
(これも良し悪しだが)目の前に苦しんでいる動物(人間も)がいたら、救ってやりたいと思うのが人間だ。
家族の中で傷ついてきた3人が疑似家族を演じ、おばあさんの家で穏やかな時間を過ごす。そのなかで血の繋がった家族以外にも寄り添う人がいることを知る。
正子が「人間はクジラとは別の生きものですよね。私は生きます」と断言した力強さに胸が詰まる。
3人の現状は何も変わらない、苦しいだろう。けれど前向きになれたのは、クジラに自らを重ねると同時に、他者に関わろうとする人の姿に触れたからだろう。 -
ひとつ前に読んだ「ファミリーポートレイト」をひきずっちゃうなぁ。
コマコほどではないにしろ、恐ろしい母の呪い、痛々しい心の叫びが重なります。
母親からの愛情を感じられず家を出て、仕事に忙殺されて彼女にフラれて、うつ病の薬が手放せない由人。
圧倒的な絵の才能が有りながらも泥沼から抜け出せず、子供のまま子供を産み、育児ノイローゼからすべてを捨てて逃げ、そしてまたすべてを失った野乃花。
強迫めいた母親のためにいい子であろうと頑張り続けても自分を見てもらえず、やっとできた友達を失い、生ける屍のようになった正子。
ぼろぼろの3人が道連れに、湾に迷い込んで出られなくなったクジラを見に行く。
それぞれの過去話は重苦しく痛々しくて、子供を捨てた野乃花でさえ嫌いになれず、必死にもがく様子にひりひりしました。
3人もクジラも、死の淵が一歩先まで迫っていたけど、そこを踏み出さずにいることはそんなに難しいことじゃないってことに気付いたラストは、すーっと心が凪いだ。
クジラの町で出会う人々、特におばあちゃんがいい。 -
なかなか息苦しくなるような話だったけど、最終的にはほーってなった。
おばあちゃんの言葉が印象的。
「正子ちゃんのここには、きっとお友達もお姉ちゃんもおるとよ。正子ちゃんはその人たちの代わりに、おいしかもん食べたり、きれいなもんを見たりすればよかと。それだけでよかと。生き残った人ができるのはそいだけじゃ。」 -
北関東の農家の次男として生まれた平凡な由人。
漁師の娘として生まれ、
物心ついたころから、絵を描くことが好きだった野乃花。
潔癖症の母親に育てられた“いい子”になろうと頑張る正子。
誰もが懸命に生きているのに・・・。
何処で間違えたのだろう。
上手く生きていくことが出来ない。
それぞれの想いを抱えながら、
迷いクジラを見守る。
うつ病。虐待。リストカット。
新聞やテレビで見慣れた単語が、
深く、重く、心を締め付けていく。
絶対に死ぬな。生きているだけでいいんだ。 -
こんなに読んで人の心に訴えてくる、いや人の日常や人生に影響を与え続ける小説を書くのは、氏と角田光代が断然である。
とっても辛く絶望的な部分が多く、結末も希望と言う嘘くさくはないけれど
これは特別な人たちの物語では決してなく、今現代に生きる人々の誰もが思い当たる登場人物たちだ。
物語も主人公たちの感情描写にも反古はなく、連作短編集の傑作。間違いなく今年の小説の代表作の1本だろう。
著者プロフィール
窪美澄の作品





