呪いの時代

著者 :
  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (285ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103300113

作品紹介・あらすじ

巷に溢れる、嫉妬や妬み、焦り-すべては自らにかけた「呪い」から始まった。他者へ祝福の言葉を贈ることこそが、自分を愛することになる-呪いを解く智恵は、ウチダ的"贈与論"にあり。まっとうな知性の使い方と時代を読む方程式を考える一冊。

感想・レビュー・書評

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  • 内田先生の本です。

    印象的な部分を引用します。

     だったら、そういうピットフォールに落ち込まないように、自説の正しさにつねに留保をつけておく節度が必要だと僕は思います。「私はとりあえず手持ちのデータに基づいて『正しいことが事後的にあきらかになる蓋然性が高い見通し』を述べている。しかし、私はすべてのデータを網羅したわけではなく、これから起きる出来事の全てを予見できるはずもないので、私の見通しは誤る可能性がある」という宣言を議論の出発点に置くべきなのです。そのときにはじめて「私が吟味しなかったデータを吟味した人」、「私が予測しなかった出来事を予測した人」との生産的な対話が成立する(P83~)。

     贈り物というのは、それ自体に価値があることが自明であるようなものではないのです。贈り物は受取った側が自力で意味を補填しないと贈り物にならない。挨拶を送った側が返礼がないと傷つくこともそれで説明できます。挨拶を返さない人は、「あなたが発した空気の振動には何の価値もない」という判定を下した。僕たちはそのことに傷つくのです(P179)。

     「木で鼻を括ったような説明」が私たちを不快にさせるのは、そこで述べられていることが間違っているからではない(必ずしも間違ってはいない)。そうではなくて、そこに聴き手の知性や判断力に対する信頼と敬意の痕跡を見て取ることができないからである。「お前が私の意見に同意しようとしまいと、私の意見の心理性は揺るがない」と耳元で怒鳴りつけられ続けていると、私たちは深い徒労感にとらわれる。それはその言い分が実践的には「おまえは存在する必要がない」という宣言と同義だからである。「お前ななんかいいんだ」と言われ続けていると、その呪詛は私たちの生命力を酸のように侵してゆく(P274~)。

  • 面白かった。
    たぶん自分の考え方とは違うところもあるけど、
    自分では考えてみなかった視点とかが提示されてた。
    で、なるほど、と思って読める。考えられる。

    今の人って古くさいもの(祭祀的なもの)を
    遠ざけて私って現代人だぜ、みたいな体でいる。
    でも抜け出しきれてないんだなぁって思った。
    その祭祀的なものっていうのは
    怪しかったりオカルトだったりするわけじゃなくて、
    人として生きていく上で逃れられないものなんだなぁ。

    それはどこで生きていてもそう。
    どんな宗教でも風習でもそう。
    だからどんだけグローバルになっていっても、
    そういったローカルさって消せないのかも、と思った。

    死者を弔うのは人間だけっていうのもそうなんだよなぁ。
    なにがいいってわけではなく、そういうものなんだねぇ、と。

    原発についての文章もなるほど、と思うところがあった。
    一連の報道とか、人の意見とか、いろいろ見てて、
    なんか腑に落ちないというか、ずっともやもやしてた。
    自分の立ち位置が考えても考えてもよくわかんなかった。

    だけどこの本読んで、
    あー私がどの立ち位置にも落ち着けなかったのって
    この視点がなかったからかも、と思った。
    私たちはこれから長い長い時間をかけて、原発を弔わなきゃいけない。
    自分たちで抑圧してきた危険と向き合わなきゃいけないんだなぁ。

    • ikusaさん
      昨日コメントしたつもりですが、ブログを始めたばかりで、うまく行かなかったみたいですので、念のため、再度投稿します。ダブっていたらごめんなさい...
      昨日コメントしたつもりですが、ブログを始めたばかりで、うまく行かなかったみたいですので、念のため、再度投稿します。ダブっていたらごめんなさい。
      私も5つ星付けました。内田樹は今一番気になる書き手の一人です。映画論もいいですね。ちなみに、私は小津安二郎の映画が大好きです。まだでしたら、ぜひご覧ください。本棚のレビューすべてざっと読ませてもらいました。物凄い読書量なのに、レビューの文体がいいですね。村上春樹、川上弘美、養老猛司も愛すべき作家・著述家ですね。これからも、レビュー読ませてもらいますのでよろしく。今回はこれにて。
      2012/02/05
    • きたいさん
      お返事遅くなってすみません!コメントありがとうございました!
      内田樹、面白いですね。最近になって読み始めたので、読む本がたくさんあって楽しい...
      お返事遅くなってすみません!コメントありがとうございました!
      内田樹、面白いですね。最近になって読み始めたので、読む本がたくさんあって楽しいです。
      小津安二郎の映画は観たことがないので、この機会に手に取ってみようかなと思います!
      村上春樹や川上弘美はずっと好きで、養老孟司も最近読み出しました。みなさん味わいのある本を書かれますねー
      拙いレビューですが、そういう風に言っていただけて嬉しいです。よろしくお願いします!
      2012/02/23
    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「自分では考えてみなかった視点」
      それが、内田センセの売りですからね!明後日、久々にお話拝聴してきます。
      「自分では考えてみなかった視点」
      それが、内田センセの売りですからね!明後日、久々にお話拝聴してきます。
      2013/06/21
  • 久々のウチダ本は相変わらずの切れ味。
    ワタシは内田センセイが以前から唱えている「贈与論」には強く共感している。考えてみると、先輩から「お前が先輩や上司の立場になったらおごってやれ。金はそうやって回る。」と言われていつもおごってもらったり、アントニオ猪木が「笑顔は施しだ」と言っていたり、先日読んだ『モリー先生との火曜日』でモリーが「ほんとうの満足は『自分が人にあげられるものを提供すること』によって得られる。」と言っていたのも、実は根っこは贈与論なんだと思う。贈与万歳。これからも贈与できるものは贈与しよう。

  • ■書名

    書名:呪いの時代
    著者:内田 樹

    ■概要

    巷に溢れる、嫉妬や妬み、焦り―すべては自らにかけた「呪い」か
    ら始まった。他者へ祝福の言葉を贈ることこそが、自分を愛するこ
    とになる―呪いを解く智恵は、ウチダ的“贈与論”にあり。まっと
    うな知性の使い方と時代を読む方程式を考える一冊。
    (From amazon)

    ■感想

    相変わらず、独特の切り口で物事を見ている方です。
    本書は「言霊」というものを切り口にして、言葉の呪いはやめよう!
    他社と共存して、幸せになろう!みたいなことを軸にしています。
    (その他にも色々な事を言っています。)

    言っていることは素晴らしい事ですし、楽しめます。

    でも、しかし、この人の言葉には、罠があるように感じます。
    この人が使っている言葉は抽象的で難しいです。
    いかような解釈が出来る言葉を多数使っています。
    最たる例が、「記号化」という言葉でしょう。
    これ、恐らく読者はなんとなくイメージは分かる、けど、この
    言葉を具体的に説明できる!という人はそうそういないのでは?
    と思います。
    で、内田さんは「記号化」を危険と言っているように思いますが、
    自身の評論も、かなり「記号化」されています。
    そもそも、抽象化と記号化って同じ意味だと思うので。

    人間って面白いです。
    言葉ではいかようにも言えますが、真実は行動にしか無いです。
    で、この内田さんの言っていることを内田さん自身が実践して
    いるか?という観点で、誰か本を書けば面白いと思います。
    (実際、どういう結果が出るかは私は知りません。)

    私は、別にこの人が言っている事を批判するつもりは全くあり
    ません。その通り!と思うことも多々あるし、なるほどな~と
    思うことも多々あります。
    文章や評論の切り口も独特で面白いです。
    この人の本を読むと、自分が知っている知識で、別の物事を解釈
    し説明する力をこれほど持っている人もいないだろうな~と思い
    ます。
    内田さんの本を何冊か読むと余計そう感じます。
    というのも、基本的には同じ知識、別のことを物語っている事
    が多いです。
    けれど、そういう人があまりいないから、この方の本は読んでいて
    楽めます。

    話がとっちらかりました。


    自分で思考して議論したい人向けの本かな?と思います。

    ■自分がこの作品のPOPを作るとしたら?(最大5行)

    内田さん好きには堪らない一冊!
    自分も呪いから解き放たれたくはないですか?
    世の中に祝福を!!!

    ■気になった点

    ・「君は「こんなこと」もしらんのか?」と気色ばむ学者は、
     「こんなこと」が議論の始点にならなければならない理由について
     ほとんど説明責任を感じていないようでした。

    ・学者というのは「知識を持つ人間」ではなく「自分の持つ知識に
     ついての知識を持っている人間」だと思います。

    ・「現実を変えよう」と叫んでいる時に、自分がものを壊しているのか
     創り出しているのかを吟味する習慣を持たない人はほとんどの場合
     「壊す」ことしかしない、という事です。

    ・破壊は創り出すよりはるかに簡単です。

    ・想像するというのは個人的であり、具体的な事です。
     だから、難しいのです。

    ・創造する者は匿名性にも忘却にも逃げられない。自分で創ってし
     まった物がそこにあるのですから逃げも隠れも出来ない。
     創造の怖さというのは、そのことです。

    ・全能感を求める人はものを創る事を嫌います。
     想像すると自分がどの程度の人間かあからさまに暴露されてしまう
     からです。

    ・「自分は十分な権威を受けていない」と思えば、どれほど偉い人
     でも、恨みがましい人間になる。

    ・無差別殺傷事件は本質的に模倣犯罪です。それは記号的なものです。

    ・「努力しても意味が無い」という言葉によって自分自身に呪いを
     かけるように仕向けるのが、格差の再生産の実相なのです。

    ・「この世の中の仕組みを私は熟知している」という前提から導か
     れる実践的方針は「だから私は学ぶ必要がない」です。

    ・学歴、職歴でもハンデを背負っている人が学びを拒否すれば、もう
     この先プロモーションのチャンスはありません。

    ・アンフェアであるという事実を呪いの構文で記述している限り
     そこから抜け出すことは出来ないということを忘れてはならない
     と思います。

    ・自分探しと言って探しているのは自分ではない。彼らが捜してい
     るのは、彼らの欠如、不足感を満たしてくれるような他者です。

    ・言明を否定するには「言及されていない事例」を一つあげればいい。
     そういう反論の立て方になれてしまった人間の思考能力は急激に
     空洞化していきます。

    ・呪いが機能するのは、それが記号的に媒介された抽象物だから
     です。

    ・なまの現実が記号化されて「情報」になるプロセスを情報化と呼
     びます。

    ・祝福は呪い(抽象的、記号的、集合的、汎用的)の反対物となります。

    ・「出方」を待つということは、後手に回るということです。

    ・「問題に正解しなければならない」という発想をする人は、構造
     的に敗者であるということになります。

    ・「その責めは最初にその言葉を口にした私にある」といえなければ
     言葉は重くならない。

    ・英語で自分の意見を語れないのは不便である。母国語で自分の意見が
     語れないのは悲劇である。

    ・日本は英語が出来なくても生活に困らない。

    ・就職情報産業、婚活情報産業は、「これが本当に私の天職(運命の人)
     なのだろうか」という不安から決して自由になれない人々を量産する
     ことにより利益を上げるビジネスモデルであるということは自覚して
     おいたほうがいいと思います。

    ・結婚が必要とするのは「他者と共存する力」です。

    ・人間は無目的には狂いません。
     狂うことによって現実との直面を回避した方が失うものが少ない時のみ
     人間は狂うのです。

    ・弱く幼い人間が連帯の技術を知らないまま、誰の支援もなしに「自分ら
     しさ」なんか追及していたら、社会的に下降する以外に道はありません。

    ・贈与経済が成り立つ条件は、市民が成熟している事だけなのです。

    ・僕たちが決して聞き落さないのは「自分あてのパーソナルメッセージ」
     と確信するものだからです。

    ・呪鎮の目的は、「恐れるべきもの」を「恐れるべきもの」として
     、常に脳裏にとどめておき、たえざる緊張を維持するための「覚醒」
     の装置が必要だったのではないか?

    ・「事故が起きなければ儲けの多いビジネス」に関わる人は、必ず
     「事故が起きる可能性」を低く見積もるようになる。

  • 最近は内田樹をよく読んでいる、と言ったら、急に古文の先生なのだけれど哲学も教えている先生から貰った本。
    先生の書き込みがあって面白い。

  • また、目からうろこてきなとこがいっぱいにあったのだけれど、

    そうか。と印象に残ったのは、

    ネットという匿名性の環境で、顔を合わせたこともない人間に、平気で「氏ね」だとか人を傷つける言葉を浴びせかける。
     それが複数集まって、それを受けた人が、深い傷を負ったり、自殺に追い込まれていくような状況が実際存在する。

     それは、当の本人にそんなつもりなくても、言葉が命を持って人を呪い殺しているようなものなのだと、言うような件。(いや、内田さんはもっと人に深く届く言葉でこのことを語っていらっしゃいます。なんでですかね。私が似たようなことを言葉にすると、説得力が淡くなっていく。)

     わたしは、本を読んだ感想を、自分の思ったことを忘れないように、別に誰かに読まれたいとかそういう気はなく、でもただ、「知らない複数の誰か」に語りかけるように、ここにつづっている。

     たまに、「何でこんな語りつくされているような内容を、とってつけたような言葉で本にしてしまったの?」と、憤りを隠せない本の感想を載せてしまっているのだけれど、

     もっと、言葉を選んだほうがいいのかも、とちょっと反省。

     でも、上記のようなひどい本は確かにある!これからはそれを、「質のよい本ではない」と見分けられなかった自分を責めよう、と思った。

  • p12
     学者というのは「知識を持つ人間」ではなく、「自分の持つ知識についての知識を持っている人間」のことだと僕は思います。ですから、自分の知っていることは「知るに値すること」であり、自分が知らないことは「知るに値しないこと」だと無反省的に信じ込める学者のことを僕は端的に「学者の腐ったようなやつ」と呼んでいました。
     しかし、かつては学会だけの固有種であったこのタイプの人々が今ネット上では異常増殖しているように僕には思われます。ディスプレイに向かって、グーグルでキーワードを検索しながら、個別的なトピックについてのトリヴィアルな情報を入手することをそれ自体は愉快なことですし、誰の迷惑になる訳でもありません(僕だって大好きです)。けれども、そうやって自分が仕入れた知識の価値を「知識についての知識」というメタレベルから吟味する習慣を持たない人にとっては、どれほどトリヴィアルな情報を収集しても、それは学的には無価値だということは忘れない方がいいと思います。
    (注、「学的には」にあった傍点は略)
     僕がかつて専門にしていたユダヤ人問題の領域では、「ユダヤ問題専門家」と自称する人々がたくさんおられました。彼らはしばしばたいへんな事情通で、「ユダヤ人問題」のデータや統計や「アンダーグラウンド情報」を次々と並べ立てることができました。けれども、それらの情報はしばしば「ユダヤ人の秘密結社が世界を裏から支配している」というチープでシンプルな物語のユレームワークの中に押し込められていました、僕はそういう「自称専門家」から「お前は『こんなこと』も知らんのか。『こんなこと』を知らない人間にはユダヤ人問題について発言する□はない」というご批判をしばしば頂きました。
     たしかに彼らはユダヤ人について実に多くのことを知っていました。けれども、彼らは自分がどういう基準で情報を収集しているのか(逆に言えば、どういう基準で情報を「棄てているか」)については意識的に考えたことがないようでした「ユダヤ人の世界支配」は、彼らにとっては、論証の余地なく自明のことだからです。僕は彼らとの論争には申し訳ないけれど一秒も時間を割きませんでした。それは純粋な消耗だからです。
     ネット論壇で頻用される「こんなことも知らない人間には、この論件について語る資格はない」という切り捨て方はこの手の「学者の腐ったようなやつ」のやり方をそのまま踏襲しています。そのタイプの書き手が今ネット上に数十万単位で出現してきているのを見て、僕はまことに気鬱になるのです。
     ネット上では相手を傷つける能力、相手を沈黙に追い込む能力が、ほとんどそれだけが競われています。もっと少ない言葉で、もっとも効果的に他社を傷つけることのできる人間がネット論壇では英雄視される。それが「もっとも少ない貨幣でもっとも高額の商品を買うこと」が消費者としてのパフォーマンスの高さとして賞美される消費社会のメカニズムをそのまま模写していることにたぶん彼らは気づいていない。そのことが僕の気鬱をさらに重たいものにするのです。

    p15
    ネット世論の語り口の問題点は、「私」の自尊感情の充実が最優先的にめざされているせいで、「公」的な次元で対話することへの努力が配慮されないことです。

    p42
    「拒否することによって、おのれの純粋さを際立たせる」という戦略は、ネット論壇に飛び交う言説のきわだった特徴です。彼らが他社を批判するときのロジックは、つきつめていうと「おまえは、無謬でないから、ダメだ」ということなのです。彼らはほとんどあらゆる人間の言動を否定し、嘲弄しますが、それはつきつめていうと、驚くべきことに「この人間は全知全能ではない」という理由なのです。

    p48
     身体という限定を持つことによって、人間は自分の活動できる範囲を限定しています。自分自身が引き受けられる仕事について「ここまで」というしきりを設けている。「抑制」というのは、自分にできることとできないことの見きわめができるということです。できないことについては「できない」と言える人のことを僕たちは「おのれの分際をわきまえた人」とみなします。
     けれども、現代日本では「分際をわきまえる」ということが聖女区した市民の条件だという了解はほとんど共有されていません。むしろ、どれだけ「分際をわきまえずに」、他人を押しのけて前面に出て、できもしないことを言い募るか、それが競われている。

    p51
    僕たちの社会では、第一次データは「記号」です。数値です。数値的に示されてないものは存在しない。数値以前のデータは無視してよい。現に、あらゆる場面で僕たちの推論や仮説は「データを出せ」「数値的根拠を示せ」と言って突き返されます。

    p79
     日本におけるマルクス主義運動の末期のことを僕は思い出します。1970年代の中頃に、日本のマルクス主義たちは「マルクス主義の名において」自分以外のマルクス主義者たちがなすことの責任を取ることを拒絶しました。「あれは『ほんとうのマルクス主義ではない』」という言い分が通ると思ったからです。でも、イデオローグたちが、同じなを掲げた政治党派の犯した失敗について責任を取ることを拒否するとき、その名を掲げた政治思想は死滅する。政治思想とはそういうものです。
     マルクス主義者が政治思想としてのマルクス主義をいき伸びさせたいとほんとうに思っていたなら、マルクス主義の名においてそれまでになされた、これからなされるすべての蛮行や愚行について、「それもまた私の責任として引き受けざるを得ないでしょう」と言うべきだった。責任の取り方はいろいろでしょう。別に「じゃあ、ここで今すぐお前が腹を切れ」というような無法なことは誰も言いはしない。あなたの責任じゃないということはわかってるんですから。それでも「マルクス主義運動の名においてなされた非行は、同じマルクス主義者を名乗る私の責任でもある」と言うべきだった。そう言えば、その政治思想は生き伸びることができた。でも、誰もそうしなかった。誰もマルクス主義運動を弔うときに、「喪主」になることを受け容れなかった。だから、日本におけるマルクス主義運動は死んだ。僕はそう思っています。

    p106
     就活を始めるに当たって最初に叩き込まれるのが「適職イデオロギー」です。就職情報産業の営業マンがやってきて、大学2年生を講堂に集めて「空気を入れる」ときに彼らはこう言います。「諸君ひとりひとりには、この広い世界のどこかに、ただひとつだけ適性に合致した『天職』がある。これら1年余りのうちに、諸君は自分の適性に合致したこの職業に出会わなくてはならない。そのため捧げうるだけの時間とエネルギーを就活に投じなければならない」
    p109
     でも、だからといって、一度「適職イデオロギー」を内面化してしまった若者たちは「この職場に骨を埋めよう」と覚悟をして一箇所にいるわけではない。たまたまご縁が私をここに導いたのだとしたら、ここが私のいるべき職場なのだろうというふうには考えない。「いつか出て行きたいが、今は出て行けないので我慢してここにいる」という腰掛け的な就労態度をありありと表すことになる。そういう「はやく出ていきたい」的態度の人が職場で、上司に評価され、同僚に信頼され、部下に慕われるということはあまり起こりません。結果的に彼に対する勤務考課は低く、職場でのコミュニケーションは不調のままで、「はやく出て行って、『ほんとうに私の適性に合った仕事』がしたい」という切ない思いはさらにつのる……という仕掛けになっています。

    p125
     生物が「弱い」というのはどう考えても生存戦略上は不利なはずですが、ある種の社会ではそうではないらしい。「弱さ」をつよくアピールできた個体の方が、「強い」個体よりも、しばしば多くの利益を得る。そういう実例が蓄積しないと、「弱さを選ぶ」というような講堂に生物は踏み切りません。ということは、僕たちは今、「弱い」個体であることが生存戦略上不利とはみなされず、むしろ「弱さ」を適切にアピールすることのできた個体の方が有利な社会に暮らしているということになります。かなり衝撃的ですけど、言われてみれば「そうかな」と思います。
    「私は弱者です、被害者です、受難者です」と言い立て、まずそのポジションを確保してから話を始めるというのは、間違いなく、この20年ほどの日本社会に定着したひとつの行動様式です。とりわけ、「権利請求」の戦略としては「まず被害者の名乗り」をすることがほとんど常識化している。
    「クレーマー」というのがまさにそうですね。クレーマーたちは行政、医療、教育などさまざまな分野で権利請求の猛威をふるい、結果的にそれぞれのシステムは甚大な被害を受けました。学校や医療機関の中にはクレーマーのせいでほんとうに壊滅してしまったところもあります。
    (注、「ある種の社会」に傍点)

    p163
     でも、弱者が発生した瞬間に自動的に排除するようなものを「コミュニティー」と呼ぶのはおかしくありませんか? 病気になった、破産したという話を聞きつけたら、「じゃあ、とっとと荷物をまとめて出て行け」というような人たちの集まりを「コミュニティー」と呼べますか? 僕は呼べない。本来、共同体というものは、その成員の誰かが破産したり、失業したり、病気になったり、狂ったりしたときに、それでもその人を受け容れ、保護し、支援し、フルメンバーとしての条件を回復できる日を気長に待つというセーフティーのことではないのですか? 成員条件を欠くものでも成員として含むことができるコミュニティーでなければ、その語の厳密な意味でのコミュニティーとは言えない。僕はそう思います。
    (注、「成員条件を欠くものでも成員として含むことができるコミュニティー」に傍点)

    p188
    「ノブレス・オブリージュ」という言葉があります。一般的には、貴族(ノブレス)は、普通の人よりも重い負担を引き受けなければならないという意味で使われます。でも、僕の解釈はすこし違います。万人はそれぞれ固有の仕方で「ノブレス」であるというのが僕の解釈です。すべての人間はさまざまな種類の「他人にはできないことが自分にはできる、他人にはわからないことが自分にはわかる」という固有の能力があります。僕は「ノブレス」という言葉を階層社会における貴族という言葉ではなく、そのような特異性、多様性、個別性を指す言葉だと解釈したいと思います。

    p195
     レオポルト・インフェルトもガロアを「供養」したいと思った。その天才的な仕事が忘れ去られることを惜しんだ。死者に向かって「あなたのおかげで数学史は何歩か前に進んだ。そのことを僕たちはあなたに深く感謝している」と告げたいと思った。そして、同意を伝記の読者たちにも求めた。そういうマインドセットをもって書かれたものは「リーダぶるな書きもの」になる。僕はそう思います。「供養する」とき、僕たちは死者に向かって語りかけ、それと同時に生きている人々に向けて死者の事績を顕彰しようと願います。供養の言葉において、僕たちは2種類の受信者に向けて同時に語りかけている。

    p197
     言葉が届くとはどういうことか。それは「わかりやすく書く」ということではありません。論理的に書くということでも、修辞をこらすということでも、韻律が美しいということでもありません。そんなことはリーダビリティにとっては二次的なものにすぎません。いちばんたいせつなのは「私には言いたいことがある」という強い思いだと僕は思います。そして、その思いが最大化するのは、(潮政の親分が娘の墓前で語りかけたときのように)「言葉が届くはずのないほどに遠い人」になお言葉を届かせるべく、身をよじるようにして語るというふるまいにおいてではないでしょうか。インフェルトのガロア伝が、きわめて難解な数学上の知見についての書物であるにもかかわらず、リーダブルだったのは、インフェルトが身をよじるようにして、(僕のような)数学がわからない読者にさえも、言葉を届かせようとしたからではないかと僕は思うのです。

    p200
     中学生高校生が太宰治を熱愛し、耽読する理由は実はそれだと思うのです。子どもたちは社会的には非力な立場です。教化され訓育される側にいる。努力すればよい評点をもらうことはできますけれど、家族からも教師からも「その知性に対する敬意」を受け取る機械はまずありません。そのような環境に慣れている少年少女が、太宰治の文章を呼んだときに「がつん」と来るのは「この人は私を『知的に対等なもの』だとみなして書いている」という確信が持てるからです。「この人はほかならぬこの私に向かって言いたいことがあって、技巧の限りを尽くして、それを伝えようとしている」ということが確信されるからです。そんな大人とはじめて会った。だから、子どもたちは太宰治に夢中になるのです。
    (注、「そんな大人とはじめて会った」に傍点)

    p201
    読み手の立場になって考えればわかることですけれど、僕たちが決して聞き落とさないのは
    「これは私宛てのパーソナルなメッセージだ」と確信するものだからです。

    p216
    「原子力は金になるぜ」という下卑たワーティングは、日本人の卑俗さを表しているというよりは、日本人の「恐怖」のねじくれた表象だと思った方がいい。日本人は「あ、それは金の話なのか」と思うと「ほっとする」のである。金の話なら、マネージ可能、コントロール可能だからである。

    p257
    こういう約束ごとは景情とも市場価格とも関係がない。人と人の間の信義の問題である。そういうごく個人的あるいは地域限定的な要素によって市場における消費者の行動は変化する、そういうものだと思う。そして、定型的な消費者行動パターンから逸脱する個体が多ければ多いほど、その国の市場は「成熟している」とみなすべきだと私は思っている。

    p266
     敗戦のあと、教科書の「黒塗り」を経験した世代は、「これまで『信じろ』と言われてきたことを信じるのを止める」という経験をした。それも「これを信じろ」と教えてきた当の教師たちが、「私たちが『信じろ』と言って教えてきたことは、嘘でした」とカミングアウトするというかたちで経験したのである。

    p267
    「私たちが教えてきたことは嘘でした」という教師たちの告白からわずかなりとも実践的な指針を引き出すことが可能だとすれば、それは「『もう何も信じない』を信じる」というかたちをとるしかない。

    p271
    「言論の自由」というのは、「誰でも自分の思っていることを声高に主張する権利があり、そこには異論を遮ったり、恫喝によって黙らせたりすることも含まれる」という意味ではない(そう理解している人がたいへん多いが)。言論の自由とは、複数の理説が自由にゆきかう公共的な言論空間がいずれそれぞれの所論の理非について判定を下してくれるであろうという場の判定力に対する信認のことである。
    (注、「場の判定力に対する信認」に傍点)

    p275
    どうして、個別的な命題の真偽よりも、「命題たち」を受け容れて、それをすり合わせる「コミュニケーションの場」の存否の方が優先的に配慮されるかといえば、理由は拍子抜けするほど簡単なことである、その方が人類全体の知的パフォーマンスの総量が増大するからである。

    p282
     この成功した若い作家に対して投げ掛けられた批評家たちからの罵倒のすさまじさを私はいまも記憶している、それらの言葉を発した本人たちは「教化的善意」なり「批評的理想主義」なりに基づいて自分の攻撃性を正当化していたのだろうと思う。でも、彼らは作家がその批判によってさらに高い作品を書くだろうと思ってそうしていたわけではなく、「ものが書けなくなる」ような傷を負うことを願ってそうしていたのである。

    p284
     完膚なきまでに批判し抜くことが、個人に対しても制度に対しても、もっとも効果的な「改善」実践であるという左翼的な批判性の定型から私たちはもう抜け出すべきだと私も思う。「私がこのシステムの責任者です」と名乗り、それに対するすべての批判を粛々と受け容れ、批判されればされるほどパフォーマンスが向上するような「責任者」が存在するなら、そのような定型的批判も有効かも知れない。だが、実際には、そのような責任者はどこにもいないのである。
     私たちはもう「壊す」時代から抜け出して、「作る」時代に踏み入るべきだろうと思う。

    p285
     私たちの意識を批判することから提言することへ、壊すことから創り出すことへ、排除することから受け容れることへ、傷つけることから癒やすことへ、社会全体で、力を合わせて、ゆっくりと、しかし後戻りすることなくシフトしてゆくべき時期が来たと私は思っている。

  • 「源氏物語」で六条御息所は葵上を呪い殺した。しかし、現代ほど「呪い」が蔓延している時代はない、と著者は言う。ネット上で人びとは、言葉でいかに深く他人を傷つけられるかを競っているかのようだ。
    「本当の自分はこんなものではない」。もっと愛され、敬意を払われていいはずだという自己呪縛にとらわれた人間は決して幸せにはならない。
    頼りなく、かっこわるく、ぱっとしない自分のありのままの姿を受け入れる、そこから始まるものがたくさんある。
    読み進めると話がどんどん進んでいき、最終的には「呪い」からは外れていくのだが、やはり最初の章がインパクトが強かった。

  • 妬み。嫉妬。焦り…。巷に溢れる自分への『呪い』が社会全体を不幸にしている。筆者の主張にはもろ手を挙げて賛成できない箇所がままあるものの、『草食系男子』をめぐる話や、原発事故の考察は面白かったです。

    この本は雑誌か新聞で話題になっていたはずなので手にとって読んでみることにしました。内容はというと巷にあふれる妬みや嫉妬。焦りなど、自分自身への『呪い』をかける事が以下に社会にとって不幸であるか、ということを説いた時事評論。もしくはエッセイといえばよろしいのでしょうか?

    個人的にはこの本が魂を揺さぶられるほどの感動、というものはなくまぁ、そういう意見もあるだろうな。という受け止め方をしております。自分にとって印象に残っている箇所は筆者自身が女子大学で教鞭をとっていることもあって自分のゼミでテーマにもなった『草食系男子』についての話題や女性の社会での立ち位置。90年代は外資系や金融などでバリバリのキャリア志向だったのが近年は物を作る仕事がしたいなど、に意見が変わっており、若い女性たちが時代に対して敏感な反応を示すのが一番近くに感じられる箇所にいる筆者ならではの意見だな、と感じました。

    『草食系男子』(自分では自分がこの部類に属するのかよくわからない)『線が細い』『弱くてかわいい』を前面に押し出す。恋愛などの『性行動』に消極的。などの特徴が生物的に大きなマイナスながらも多数派になってきた、ということに関する意見が面白かったです。そして原発事故に関して言及した『荒ぶる神を鎮める』という諸脳くだりでは霊的なものをたとえに用いていたり、原発を市場原理にゆだねるのではなく専門家がきちんと管理するべきだということが切々と訴えられており、僕は筆者のブログはあまり読んでいないのですが、震災と原発事故があったときに公開された『疎開をしよう』という内容の記事にはずいぶんと賛否両論があったと述懐されていたことをはじめて知りました。

    自分自身に限っていえば『呪い』を自分にかける、ということはまったく否定しないので、その辺は筆者と立場を異にします。むしろ自分の中にある『負』の部分を推進力にしている部分がかなりあります。こうやって文章を綴ることができるのも、そのひとつなのかもしれません。

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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