- Amazon.co.jp ・本 (204ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103316916
作品紹介・あらすじ
五〇世帯の村から七〇〇〇世帯が住む街へと変貌を遂げた、川崎市宮前区土橋。長年農業を営んできた著者の実家の古い土蔵で、護符がなにやら語りかけてくる。護符への素朴な興味は、謎を解く旅となり、いつしかそれは関東甲信の山々へ-。都会の中に今もひっそりと息づく、山岳信仰の神秘の世界に触れる一冊。
感想・レビュー・書評
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川崎市宮前区土橋、田園都市線の鷺沼駅、宮前平の間に広がる地域です。この地域出身である小倉さんの家に昔からある一枚のお札、”武蔵国 御嶽山 大口眞神”に由縁して、関東一円に広がる御嶽講の大元へ旅を進めていきます。
現在の田園都市線宮前平周辺は東京郊外の町として例外ではなく、瀟洒な戸建の分譲住宅、国道246や尻手黒川線沿線のファストフードが立ち並ぶ、典型的な郊外都市です。私も学生時代に住んでおりました。作者も今を生きる世代として、古い地域の慣習からは遠く離れた存在でした。
そんな現代でもなお残る、古くからの御嶽講に加わり、その背後にある自然と人との深い関わり合いを辿っていくと、奥武蔵三峰山のオオカミ崇拝までたどり着きます。
多摩川、多摩丘陵、奥多摩は自身の活動エリアでもあります。御嶽山、三峰神社に行った時も、”これ狛犬じゃないよね、オオカミだよね”と話していた内容を、奇しくも辿る形になりました。
深い山で幕営したとき、何もない闇の向こうに気配を感じてしまい、自然を畏れるという感覚をいだいたことがあります。自然を制御すべき外界ととらえるのではなく、自然に中で生かされているという、本来の感覚を持つとき、山岳信仰、自然崇拝という関係が意味を持ちます。
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現代社会に生きていると、近代化が行われる以前の過去とは隔絶された時代を生きているように思える。しかしひとたび歴史を紐解いてみると、現代は過去の延長線上にあり決して過去と不連続ではないこと、そして過去の人びとの習慣やその土地の培ってきた文化は、今も暮らしのそこかしこに息づいている。そんなことを再確認させてくれた本だった。
代々農家を営んでいた著者の生家の土蔵には、「おイヌさま」と呼ばれる黒い獣を描いた護符が貼ってあった。この本はこの護符に興味をもった筆者が、過去を知る古老を訪ねて個人で映像記録を残し始めたことをきっかけとして作られた映画を書籍としたものである。これだけで既に物語性があって興味を引くところだが、護符に描かれた獣がニホンオオカミであったことが明らかになり(http://musashimitakejinja.jp/history/oinusama/)、そこから生まれた疑問や関心がその背後にあるオオカミ信仰や山岳信仰を調べるきっかけになるところや、地元の歴史を改めて知る過程も引き込まれるものがあった。
過去に重点を置く本だったが、過去を過度に持ち上げない著者の姿勢にも好感を持った。人が生まれた所で生き続ける時代ではなくなった今、昔のままの行事をそのまま続けても意味はないように思えるが、かといって全てを無くしてしまうことにも納得はできない。現状は行事の回数を減らしたり簡略化したりすることで対応しているが、その意味も分からず形式だけが残るのも幸せなことではないという。旧世代の価値観を持ちつつ現代社会の一員として、これらの橋渡しをすることに意義を見出す筆者に感銘を受けた。 -
首都圏のベッドタウンとしてすっかり開発されてしまった町に生まれた著者は、実家の倉に貼られたオオカミが描かれた護符に引きつけられるように、オオカミ信仰そしてその先の山岳信仰の世界へと惹き込まれていきます。
様々な「講」と呼ばれる民間信仰のようなものがあったことは、石碑を尋ね歩くなかで知ってはいました。
しかし、まさかいまだにそれが続いているとは・・正直、驚きました。
しかも続いているその土地、地域は首都圏の中、私から見れば都会もいいところです。
そこで続いているのなら、身近にもきっと続いているんでしょうね・・。
しきたりや儀式のようなものがあり、その様子は生き生きと描かれています。
とても分かりやすい文章で、非常に興味深く読めました。
山へ詣でる里の人たちを迎える、山の人たちもしっかりと伝統を守っています。
山に囲まれ、自然に抱かれて暮らすというのは、身近になにか特別な存在を感じるのかも。
神様とか、お山とかを敬う気持ちって、自然と湧き出るようなものなのかもしれません。
仏教に取り込まれたり、廃仏毀釈の波に遭ったり・・いろいろありながらもずっと続いてきたこうした風習って、日本人・・というか人間の根っこのところになんかつながってる感じがしました。
民間信仰とかに興味のある方は楽しく読めると思います。
でも、入門書的かな・・詳しい方には物足りないかも・・^^;。 -
筆者の生まれ育った川崎市宮前区土橋は、東名の川崎インターや、鷺沼・宮前平といった私にとっても馴染み深い地域。現在は新興住宅街で、文教地区としてのイメージが強いが、筆者はそこの昔からある農家の出身であり、かつてはそれがコンプレックスでもあったのだという。
この地域の農家では昔から「おイヌさま」と呼ばれる護符を貼っており、年に一度、奥多摩の武蔵御嶽神社にその護符をもらいにいくのが地域の一大イベントでもあった。
そこからかつてのオオカミ信仰をたんねんにたどっていくのが本作品。今はほとんど失われてしまった風習が興味深い。 -
借りたもの。
今はベッドタウンと化したその地域から、記憶をたどるように三峰のオオカミ信仰に辿り着く民俗学。
著者のご実家の農家で見た真神の護符から、山岳信仰の「御嶽講(みたけこう)」という地域コミュニティの存在を知る。
※御師・溝とは何ですか?
http://musashimitakejinja.jp/2017/12/09/question_mitake3/
溝の仕組みは山岳信仰の宿坊、温泉とあそびを楽しむ機会、お金の貸し借り、共済機関……様々な役割を兼ねていた。
その農耕の民俗学は、多摩川の水源を遡り、上流の武蔵御嶽神社へと向かう。
川の流れと地域コミュニティの繋がりがある点でも、農耕との関係の深さを強く意識させられた。
その山岳信仰は三峰に繋がり、オオカミ信仰に至る。
そのオオカミ信仰は起源が古く、日本神話……ヤマトタケルにも繋がってゆく。
川崎市宮前区土橋……その近所に住んでいたが、特に何もない住宅街という印象を持っていて、アクセスの良さから渋谷などに出てばかりだった。
歴史的遺構も特にないと思っていた場所には、その地域のつながりが確かに存在していたことを、大人になってから知る。 -
川崎、多摩川、武蔵御嶽神社をつなぐ民の美しい営みに感動。失われつつある「講」では、「人と人の絆」「自然への謙虚さ」が重視されていたのでしょう。この二つは今を生きる自分とコミュニティにとって、必要なものなのではないかと感じました。
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今年の初詣は、御岳山でした。気持ちのいい山道がお気に入りで、それから奥トレやにわ大授業でも訪ね、御師の方とも知り合って。もっと御岳山について知ってみたいと思って読んでみた一冊。筑波山から横浜まで関東平野を一望できる御岳山に暮らす御師と、平野で暮らしてきた人たちのつながりやかつての暮らしを支えてきたオイヌさま(ニホンオオカミ)のこと、信仰の様子から僕らが根っこで大事にしている価値観まで見えてきたり、過去と今、自分と地域、小さな歴史と大きな歴史をつなげることもできるとても価値のある1冊だと思いました。一度、御岳山に登ってみてから読んでみるのがいいかもしれませんね。
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川崎市宮前区土橋、東急田園都市線の鷺沼と東名川崎ICの間にあり、昭和40年代前半までは農家が中心だった所だが昭和41年の溝ノ口ー長津田間の延伸と住宅開発により鷺沼、多摩プラーザはベッドタウンとして発展した。この辺りの経緯は最近の日経の特集に詳しい。
現在では7000世帯を超える土橋だが元々農家だった50軒ほどの間には今でも御嵩講の伝統が続いている。著者の実家では蔵に「オイヌさま」の護符をはり、多摩川上流の武蔵御嵩神社へ毎年御嵩参りを続けている。講の寄付金で旅費と再選を集めくじ引きで決めた代表者が代参するのだが、跡取り息子は15才になると村社会にデビューし御嶽講に参加する。土橋から歩いて立川辺りで一泊し、御嶽に泊まって代参した後山梨の石和温泉まで足を伸ばすのが楽しみだったと古老が語っているのが微笑ましい。距離としては倍近くの行程になるのだが。
関東一円に有ったオオカミ信仰や山岳信仰とヤマトタケルの東征の伝説、農作の吉凶を占う太占(フトマニ)の読み方やその結果から今年の天候を予測する農家など、古代の神事が現代にも生き残っている姿を撮った映画「オオカミの護符」は2008年に完成し、それを書籍化したのが本書だ。こういう地味な本が発行後半年で8刷まで売れているのは当時の記録を残したいと思う人が多いからなのか。
オオカミ信仰は農作物を食い荒らす猪や鹿を補食してくれることから、山岳信仰も農作物を奉納し、豊作を祈るところからなので後継者がへるとこの伝統もいつまで続くかは危うい。三峯神社の獅子舞も「自分の世代が死んだら、終わります。確実に」と巻末に紹介されている。 -
ふらりと本屋さんに寄っただけなのに、何故かその本の収まっている棚まで行って、迷わずその本を取り出す。こういうのは、もう本が私を呼んでいたと思っても間違いのでは無いかと思う。
読んでみると、初めて読んだのではないような不思議な気持ちになる。農家の暮らしやほんの2代前の祖父母の暮らしでさえほとんど何も知らない自分の中に、記憶にさえないにもかかわらず確かに流れているもの。今読むべくして読む事ができたとしか思えない。