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Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784103318170
感想・レビュー・書評
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テレビは「見て笑うものだ」という認識が私の中にあった。植木等の持つ独特の笑いは、瞬間的に人々の心を惹きつけた。底抜けに明るいその笑いは、誰もが楽しくなるものである。
渥美清の寅さんが1969年に始まったが、私はほとんど観なかった。笑うという行為はテレビを通じて行われるものであり、そのテレビによる笑いを私たちは消費してきたといえる。
この小林信彦の本書を読みながら、少年時代の記憶が蘇った。私たちの世代より下の世代にはドリフターズがいるが、私の時代の笑いのヒーローは植木等であった。まさに、「無責任男」のキャラクターとそのスーダラ節は、当時の私にとって特別なものであった。
植木等は1926年(大正15年)生まれであり、私の父と同じ年である。ジャズの時代には、コメディアンもジャズを背景に育ったのだと考えられる。フランキー堺はドラマーとして知られ、谷啓はトロンボーン奏者としてジャズ界で有名であった。
クレージーキャッツの面白さについて、小林信彦は舞台、テレビ、そして映画と多面的に語っている。彼の言葉を借りれば、「五人が舞台に上がった後に、六人目の男が現れる。白いステージ衣装は他の五人と同じだが、その態度はまったく異なる。『客をなめきっている』と見えるし、階段を降りながら『面倒だけど演奏してやるか』といった風に、じろりと客の入りを見つめる。顔は蒼白く、リーゼントで髪の一房が額に垂れている。色悪めいたムードを漂わせているかと思えば、にやにやと笑ったりもする。にやにやしていないときにはおおむねポーカー・フェースであり、ギターを持つ姿も不貞腐れたように見える」と述べている。
植木等は、そのような観客をなめきったふてぶてしさとともに、どこかひょうきんな一面を持ち合わせていた。植木等の多面的なキャラクターが、観る者に強い印象を与えるものである。
ウィキペディアによれば、植木等は1954年にオペラ歌手の平山美智子からクラシックの発声レッスンを受けている最中、フランキー堺の誘いを受けてシティ・スリッカーズに参加したと記されている。1957年にはシティ・スリッカーズから谷啓らとともにクレージーキャッツに加入。その後、主要メンバーとして活躍し、ジャズ喫茶等で人気を博した。1959年にはフジテレビの『おとなの漫画』に出演、1961年には日本テレビの『シャボン玉ホリデー』へ出演し、「お呼びでない?」などのギャグで爆発的な人気を得た。1962年には古沢憲吾監督の東宝映画『ニッポン無責任時代』に出演し、大ヒットを記録した。それ以降、「無責任男」をキャッチフレーズに、多くの映画に出演し、『スーダラ節』『ドント節』をはじめとするコミックソングもヒットさせている。
植木等と出会ったのは、『シャボン玉ホリデー』(1961~1972年)の時代であった。植木等の持つ軽やかさは、私に強い印象を残した。ザ・ピーナッツが名古屋出身であり、テレビを観るたびに、つい植木等もついてきたような感覚を抱いた。ひょっとすると、私がテレビを好きになったのは、植木等と長嶋茂雄、そして力道山の影響があったと思う。
『日本無責任男』という映画も観に行った記憶がある。小林信彦は植木等のことを好み、彼に限りなく近い存在として、長きにわたり植木等を観続けてきた。そのため、植木等の評価が非常に高いことも納得できる。
日本の「喜劇」とは何であろうか。それについて考えてみたい。現在の笑いは、かつてほど大きなものではなくなっているように感じている。規格はずれの要素が失われたとも言えるだろう。「無責任」を看板に掲げた喜劇の時代は、喜劇自体も枠にとらわれない時代であった。しかし、今は自己責任が重く問われる時代であり、「無責任さ」は受け入れられにくい風潮である。テレビで、スターはバッシングされる。
藤山寛美のバカぶりも好きであった。その芸風の継続性が失われたことが残念である。喜劇の役者は次第に喜劇タレントへと変貌し、その後、お笑いタレントへと進化している。笑いの規模が縮小しつつあるこの流れに対して、うらはらに、面白くない芸人がテレビを占拠している現状もあると感じている。テレビを見る時間が大きく減少した。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
自分が「喜劇人の哀愁」にめっぽう弱いことが判明。
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