- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103321323
作品紹介・あらすじ
メイク・コカン・グレイト・アゲイン! なぜ「そこ」を、隠さねばならないのか。裸体表現の秘所をさぐる天下の奇書が、満を持して帰ってきた! 『新股間』では江戸の春画から21世紀の写真・立体作品まで射程をひろげ、猥褻か芸術かという不毛の問いにもツッコミます。腰の葉っぱが覆うもの、「ゆるふん」からはみ出たものを追いかけて、股間研究の種は尽きまじ。
感想・レビュー・書評
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タイトルからしてセンスが際立っていてウケる。芸術における股間表現などを歴史的に丁寧に解説。そのほか全国各地に散らばる裸の彫刻たち(股間若衆)などを紹介するページでは、著者のとぼけた解説がとてもユーモラスで笑えた。男性のナニを奉る神社も面白い。旅行する機会があったらぜひ訪れてみたい。ろくでなし子さんの裁判に関する著者の見解も興味深かった。「◯◯◯と聞いても何とも感じないがむしろつんびーと聞くと…」ってとこが個人的にツボる。カバー袖の、楽器を奏でる若衆の写真を熱心に撮っている著者の姿に研究者としての姿を見た。
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(後で書きます。前作から続く股間若衆に始まり、藤田嗣治と水木しげるの戦争、原爆の図の裸体表現、春画、ろくでなし子裁判まで)
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過大に
話題に
しては
いけない
まつり -
彫刻や絵画において股間をどのように表現しているのかを論じている。
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芸術とワイセツの境界線の難しさ
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木下さんは東大の美術の先生である。その美術の先生が股間に執着して書いたのが本書。人はなぜ股間を隠そうとするのかという問題意識が本書に一貫している。たとえば、黒田清輝がヨーロッパから帰ってきて『朝化粧』を発表したとき、人々は女性のヌードに驚き、その後の絵に対して股間を布で覆うよう要求したりした。これは今もあちこちの美術展で見られる光景であるし、あちこちの銅像がどうつくられているかにも関わる問題である。アダムとイブにしても、ルネッサンスで全裸の二人が描かれたが、それ以外では二人の股間は葉っぱや布で覆われている。『最後の審判』の絵にしても、その股間を塗り隠す専門の絵描きがいたほどだ。さらに、ぼくも見たが『原爆の絵』にはほとんど裸で逃げ回る人が多く描かれているが、発表当時は内容がいいにもかかわらず、その部分の描き方で非難されたとか。一方、木下先生が全国各地を回るとあちこちに男根信仰が見られるし、祭りで神輿になることもある。こういうことも現在しにくくなってきているのだろうか。ぼくは股間にそれほど執着はないが、これをタブー視するのもどんなものかと思う。
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<目次>
第1章 帰ってきた股間若衆
第2章 股間風土記
第3章 日本美術の下半身
第4章 春画ワ論
第5章 性地巡礼
第6章 猥褻物チン列頒布論
<内容>
近現代の文化資源学を研究する?学者。要するに「美術か猥褻か?」の世界を学んでいる(違うか)。タモリ倶楽部でも「股間若衆」をやった際に研究者ゲストだった。「芸術新潮」ほかの文を加筆訂正してまとめたもの。近世には問題のなかった「春画(読み方は「わらゐえ)」。おおっぴらで、あけっぴろげだった文化が、「西洋の」文化に触れて「猥褻化」したことを語っている。それを美術と言い張ったのが黒田清輝だったとは…。近年の「ろくでなし子」の事件などについても、反警察側として文を書いている。一貫した姿勢が嬉しい!