歌に私は泣くだらう: 妻・河野裕子 闘病の十年

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  • Amazon.co.jp ・本 (190ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103326410

感想・レビュー・書評

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  • ☆4(付箋14枚/P199→割合7.04%)

    「考える人」という新潮社の季刊誌があって、その編集長が週一で出しているメルマガに登録している。
    教養誌の趣きがあるだけあり、劇、映画、スポーツ、幅広い話題が触れられて、僕の守備範囲外の話題でかつ、とても読ませるので、いつも楽しんでいる。その最近の号で(http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/mailmag_html/622.html
    この著が紹介されていた。

    あまり説明がいるようにも思わない。
    この数々の歌をみるだけで、胸が打たれませんか?


    ・最終的には来週結果(生体組織診断で乳がんかどうか)が出ますとおっしゃったが、それが一種の気休めであることは、口調からも察せられる。事の重大さにこちらの口調がうわずってくるのが、自分でもわかる。落ちつけ、落ちつけと思いながら、次第に焦っていくのが自分でもなさけない。
    まだ決まったわけではありませ んからと念を押され、礼を言って電話を切った。

    そのすぐあと、裕子から電話がかかってきた。元気な声である。いま終わったから、そっちに車を取りに行くと言う。
    …できるだけ平静を保ち、どうだったと尋ねる。エコーで乳房に大きな影があり、脇の下のも真っ黒なのよ、と言う。なんでこんな時に、そんな元気な声で呑気に話ができるのかと、あきれる思いでもあった。しかし、彼女自身は、まだそんなに大変なことだとは思っていないらしい様子にほっとする。
    西村教授からの電話の内容には触れずに、ふんふんとこちらも莫迦なような対応である。
    …あっけないくらい元気だと思っていた河野が、実はそんな気楽ではなかったことを知ったのは、一ヵ月ほどあとのこと。連載中の彼女の歌を 読んだときである。

    何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢゃない

    私のそれまでの人生で、この一首ほど辛い一首はなかったと言ってもいいかも知れない。できるだけ平静を装っていたつもりなのに、お見通しだったということか。どんな形相をしていたのだろう。

    ・あと何日おまへは私でゐられるかきれいだったねと湯にうつ向けり

    という歌があった。左の乳房のほうが形がいいとはいつも言っていたことだが、よりによってそちらが切られてしまう。「あと何日おまへは私でゐられるか」は、その左の乳房に向かって言っているのである。

    ・河野はまだ麻酔からは覚めず、呼びかけにはかろうじて応じるものの、話はできなかった。

    君のこゑ聞けどふらふらと海月 (くらげ)なり湯あたる遠浅をゆき戻りして

    この歌はもちろんあとから作られたものだが、このあたりが河野の歌のとぼけたおもしろさでもある。

    ・そのような河野の日常生活の変らなさにも助けられて、私もそれまでと同じような生活を続けたのだったが、それはやはり彼女には寂しいことでもあったのだ。
    …せめて、こんなときには傍にいて欲しい。その単純なひとつ事さえかなわない自分たちの生活に、一方では十分満足し、手ごたえを感じつつ、一方で自分ではどう処理しようもない寂しさを抱え込んでいったのかもしれない。

    ああ寒いわたしの左側に居てほしい暖かな体、もたれるために

    ・見舞うのはこれが最後かも知れない。一度は市川さんに言っておかなければならない言葉 があった。「ありがとうございました」というひと言である。私がなんとか学者として生きてこられたのは、まさに市川さんという存在があったからである。そのことだけは言っておきたかった。
    しかし、どうしてもそのひと言が私の口からは出せなかった。言ったらお終い、それは別れの挨拶になってしまうだろう。ベッドサイドで取りとめもない話をしているあいだ中、私はそのひと言のタイミングをはかっていた。しかし、どうしても言いだせない。
    市川さんが「吸呑とってくれへんか」と言われたのを幸いに、茶を飲ませ、「また、来ます」と強いて平静を装って、廊下へ出たのだった。その時、病室から突然市川さんの声が聞こえた。驚くほど大きな声だった。「永田君、ありがとう」。
    …「あり がとうございました」。私も廊下から叫んだのだったが、こみあげてくる嗚咽のほうが強くて、それは声として市川さんに届いたかどうか。
    これから死のうとしている人。その人への感謝の気持ちを伝えるということがこれほどむずかしいものであるとは。
    容体はその夜に急変し、明け方近く、亡くなった。十二月二十一日、あと十日で二十一世紀という冬至の日であった。

    ・今ならばまつすぐに言ふ夫ならば庇つて欲しかつた医学書閉ぢて

    肩が凝り、痛いのはわかっていても、どうしてやることもできない。ほんとうは、「うんうん」と言いながら、肩を揉み、痛いところを撫でてやるのがもっともよかったのだろうと、いまなら私にもわかる。
    …「なんでこんなにしんどいのやろ」という問い に、「線維化しているから、仕方がないなあ」という答は、一度は有効でも、二度三度と繰り返されると、同じ答を繰り返すこともできず、答えるほうはひたすら苦痛である。肩を揉んでやること以外に、どうしてやることもできない。

    ・つき合ひにくい生身とこころを連れてゆくコスモスの花の揺れゐる中へ

    自分でも辟易するほどに、こころが身体から遊離している思い。必死に自分の「生身とこころ」に折り合いをつけようともがきながら、彼女は再発、そして死の恐怖に耐えようとしていた。

    ・あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて

    どう言ってもわかってくれない。どう接しても、心がつながらない。途方に暮れて、ある時、彼女を抱きしめたまま、泣いた ことがあった。確かに私も悔しい思いで、そのことを覚えている。彼女のこの一首を見た瞬間、あの忌まわしいと思っていた夜のことが、とても懐かしく、甘美な匂いに包まれてしまったような気がしたのは、我ながら不思議であった。
    この一首は、その後もなおしばらく続いた彼女の発作の折も、そして、河野裕子が私の前から死という境を越えて居なくなってしまってからも、私を支え続けてくれるお守りのような歌になったのである。

    ・木村先生は、自分からはどうこうおっしゃらず、ただ聞き役に徹しておられたようだが、それが河野にはとてもよかったのだと思う。遂に私にはできなかったことだ。

    ・白梅に光さし添ひすぎゆきし歳月の中にも咲ける白梅

    その年のお題は「光」。披講さ れた河野の歌である(新年の歌会始で、選者でもあった)。

    ・薬袋にもティッシュの箱にも書いておく凡作なれど書きつけておく

    彼女の死後、私は空になったティッシュの箱を捨てようと、その端に親指を突っ込んであわやその箱を壊そうとした。そのとき、不意にティッシュの箱の上面に、きわめて薄い字が見えるのに気がついた。それはどうやら歌の断片らしかった。

    ・のちの日々をながく生きてほしさびしさがさびしさを消しくるるまで

    「さびしさがさびしさを消しくるるまで」、そんなことができるはずがないじゃないか。彼女が生きていたら、そう言ってやりたかった。さびしく笑って、それでも喜んだだろうか。やさしい言葉は、伝える術を失ってから浮かんでくるものだ。

    ・モルヒネを使ってもらっては困りますという私の反応は、まことに残酷なものではあったが、それで良かったのだと思う。もし、あの時点でモルヒネを使っていれば、先の歌を含めた彼女の最後の代表作はついには遺ることがなかったのである。それでは、彼女はあまりにも悔しかっただろう。

    手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

    河野裕子の最後の一首である。死の前日に作られた。近代以降、これほどの歌を最後の一首として残した歌人はいないのではないかと私は思う。私が自分の手で、この一首を口述筆記で書き遺せたことを、涙ぐましくも誇りに思う。

    ・不意に「歌まくら、楽しかったなあ」と、はっきりした言葉で言う。とっさに「一緒の本をもっといっ ぱい作ろうな」と応えると、手を伸ばし、黙って私の頭を抱き寄せた。もう決して河野の目に触れることはないだろう二人の本を思いながら、私は髪を撫でられていた。

    さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ

    死の前日に、私が口述筆記で書き遺した数首のうちの一首である。河野裕子にとっても、そして私にとっても短かった「この世」の時間。寂しくても、暖かかったと感じてくれたことを、そして、そんな「この世にて」私と出会い、私たち家族と出会って幸せだと思ってくれたことを、今は何にも替えがたい彼女からの最後の贈り物だったと思うのである。

  • 絶唱の向こうにいろんな思いがあることを教えてくれる一冊。
    前著では、すれ違い噛み合わなかった部分が目について
    痛ましかったがこの本はしっとりした感じがどこかにある。
    少し時間が空いたせいで、ゆっくりと振り返る事ができてこの本が出来たのかもしれない。

    河野裕子さんのこころの振幅の激しさや
    感じやすさの内実をよく知るご家族も苦しまれたろうが、
    河野さんご自身も、伝えきれない思いと
    時間の足りなさの中で、それでもご家族を深く愛し、
    歌人としても精一杯の成果を残そうとしたことがわかる。

    傷ついても唯一無二の人生の交差がある。

    ぎりぎりの、「私」という居敷が保たれている限り、
    ひとは愛する人と思いを交わしあいたいものなのだと知る。

    私には?

    その問いがすっくりと立ち上がってきて
    どんな答えも、どこかに諦念が滲んだり、
    自分が見ないことにしている寂しさがあることがつらい。

    せっかく今日までを生きてきたのに。
    終わりの日が近くなったなら、せめて。

    愛しき言尽くして。

    そう胸張って言える日々が欲しい。

  • 「家族の歌」を読んでいたので、既知の部分もあったけれど、薬害に正気を失った妻と夫、母と子の相克はここで初めて明かされるものでした。
    自分も夫も子もみな歌人。夫と子どもは歌に仕事に邁進するのに、自分だけが術後の不調に耐え、再発の不安におびえる日々。だとしたら、「おいてけぼり」恐怖はどんなにつらいものだったかと思います。
    表現者ならばこそ、死を前にした不安も詠まねばならず、作品が残ればこそ、その作品を読むごとに詠われた時点に呼び返されて泣かねばならない。表現者ならばこそ、かつては伝わらなかった思いが詠われた作品によって伝わることもある。
    魂の交歓に時差がある夫婦。歌詠み同士の夫婦ならではの回顧録。泣けました。

  •  和田たんぽぽ読書会にて語り合う。OTさんは、短歌は難しかった、生きる事を赤裸々に描いてあると述べた。忍耐強い夫であり、息子がフォローしていると、自分の体験を含めて語った。
     TKさんは、2回、興味のある所は3回、読んだそうだ。夫婦に愛憎がありながら、支え合い高め合う、同志・ライバルだった所に感銘したようだ。
     僕は、2歌人の出会いから死別までを描いた、永田和宏の「たとへば君」(文春文庫)のある事と、この2冊は「伊勢物語」等の歌物語に通じる所がある、と述べた。
     IYさんは、闘病史、家族史と読んだ。永田和宏の能力、体力、維持力を讃えた。
     ATさんは、短歌を読むのは好きだが、詠まないとの事。自分が先に死んだら夫はどうなるのだろう、との共感を示した。
     MMさんは、かつてアララギ系の歌誌「柊」の会員だった事、また夫との相聞歌があると述べて、皆の拍手を受けた。今もある献詠を続けているとの事。

  •  歌に遺り歌に私は泣くだらう いつか来る日のいつかを怖る 和宏

     2010年、乳がんの再発でこの世を去った歌人 河野裕子さん。その闘病生活での彼女、そして家族の生きざまを夫で歌人である永田和宏さんがつづる。

     いわゆる「闘病記」は苦手。でも、読み始めてこの本は、いい意味で先入観を裏切ってくれた。突然のがん宣告、薬の副作用で攻撃的になり家族が翻弄され続けた日々、そして再発。すべてを赤裸々に綴っているのに、そこに「歌」が介在しているので、重い内容でありながらも、2人の思いを染み入るように感じることができた。
     一緒にいる時間を大切にしないとね。改めて。

  • 言葉に託されたものが生き続けるさま、生き続ける言葉を生み出すこと、生き永らえる意義、元は他人である人同士が家族であること。歌人である河野裕子さんの10年に渡る闘病の記憶を、やはり歌人である夫・永田和宏さんが辿る言葉たちに打たれた。

  • 短歌を詠む夫婦の闘病の記録。夫婦どちらも才能とエネルギーに充ちていて、いつも何かを求め何かと闘っている。すごいと思うが、著者の思いが強すぎて、今ひとつ感情移入できなかった。こうした作品は他と比較すること自体不謹慎かもしれないが、自分としては、俳句の江國滋の闘病記『おい癌め 酌み交わそうぜ秋の酒』の方が心に沁みた。

著者プロフィール

永田和宏(ながた・かずひろ)京都大学名誉教授、京都産業大学名誉教授。歌人・細胞生物学。

「2021年 『学問の自由が危ない』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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