闇彦

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (158ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103343271

作品紹介・あらすじ

幼いころから「私」の眼前に見え隠れする不可思議な存在"闇彦"。それはどこから来て、何を伝えようとしているのか。むかし聞かされたお婆あの言葉、死んだ同級生の少女、海沿いのひなびた温泉宿、ギリシャの血をひく美貌の女優…。人生の要所要所に現れる"闇彦"に導かれるように、「私」は神話と物語の源流に遡っていく。短編の名手が初めて明かす物語の原点、創作の現場。特別書下ろし長編。

感想・レビュー・書評

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  • とっても久し振りの阿刀田作品。
    神話に語られざる「闇彦」を読んで古事記を読み直したくなりました。
    主人公と闇彦の繋がりは何となくわかったものの、婆やを始め他の登場人物は全て中途半端なまま。
    やっぱり短編がいいです。

  • 幼いころから「私」の眼前に見え隠れする不可思議な存在“闇彦”。
    それはどこから来て、何を伝えようとしているのか。
    むかし聞かされたお婆あの言葉、死んだ同級生の少女、海沿いのひなびた温泉宿、ギリシャの血をひく美貌の女優…。
    人生の要所要所に現れる“闇彦”に導かれるように、「私」は神話と物語の源流に遡っていく。
    (アマゾンより引用)

    この作家さん、ちょいちょい同じようなエピソードをぶっこんでくるの何?

  • 日本ペンクラブの会長でもある阿刀田高氏の小説『闇彦』を読了。主人公は双子で生まれたのだが生後すぐに弟が亡くなった事から幼少の頃から自分以外の存在がどこからか自分を見守っているような感覚をもって感じる『闇彦』の存在。幼少の頃から大人のいまにいたる『闇彦』を巡る彼の経験が自伝的に語られるユニークな小説だ。ショートショートの名手の本だからもちろんショートショート的な小説かと思い買ったが、あにはからんやギリシア神話や日本書紀への深い造詣も伺える非常にしっかりとした骨組みの小説だった。この小説も読み返すたびに新たな魅力が感じられるだろう隠し味を沢山持っている気がする。

  • なかなかよかった。
    なんていうか他の作者よりもセンスってものを感じる。
    この作者、ピアノ弾いたらいい感じの音出しそう。なんかそんな感じがした。

  • 自伝みたいな小説?
    自分の知っている地名が出てきて、自分なりにつながってしまった。

  • 「闇彦が教えてくんる」
    人が亡くなる度に、誰かの口から聞く「闇彦」という言葉。
    「闇彦」とは何なのか?
    分からないまま少年は大人になり、作家となる。
    そして思わぬ所で、思わぬ人から「闇彦」とは何かを知らされる。

    この本の表紙と「闇彦」という不気味なタイトルに惹かれました。
    モダンで素敵な表紙~。
    これは小説ですが、もしかしたら自伝的な意味合いもあるのかも・・・。
    主人公が作家になったあたりからそう思いました。
    それだったらこれは阿刀田高さんのお話の原点だ!そう思ったら、この本の内容紹介にそのまんま書かれていて「おぉ~」と思いました。
    確かに、これは原点のお話です。
    阿刀田高さんの本を読まれた事のある方なら一読の価値ありだと思います。

    「闇彦」の意味を知って、なるほど!と思いました。
    あ~、そういう事だから、あのシチュエーションで耳にしたのか・・・と。
    阿刀田高さんは確かに「闇彦」の血を引いた方だと思います。

  • 1935年生まれ。結核で2年遅れで早稲田を卒業し、国会図書館に勤めた。
    あの赤坂離宮に通っていたのか。

    新潟生れとか。その辺の伝承。早世した双子の弟。
    回顧みたいな、随筆みたいな、それでもちょっと深そうに見せて、手慣れたものだ。

    最初からストーリーを書くことに困難はなかったらしい。するすると書いたらしい。
    そして推理作家協会賞、直木賞を受けて、紫綬褒章、旭日中授章授章。現在日本ペンクラブ会長。

    こういう人もいるんだなと思う。

  • 生きること、悼むことを語ることに集約し
    物語とはなにかを掘り下げた作品。

    主人公が人生の要所要所で出会う闇彦。

    日本神話で語られざる神を設け
    それを軸に物語とは何かと
    問いかけてくる小説でした。

    出会う女性たち
    語られる神話
    それぞれに印象深く
    あっという間に読めてしまったのに
    心に奇妙な引っ掛かりを残す
    阿刀田先生作品の味でした。

  •  『闇彦』というタイトルから、私は何かしら、神話の暗部だとか秘事だとかに沈潜していくような、追い落とされるような、そんなおどろおどろしい物語を想像していたのだけれど、実際に読んでみると、文体も展開も意外なくらいにあっさりしていて、水の上をたゆたうような印象のなかで読み終えることが出来た。

     日本の神話とまるで無関係なわけではない。秘事、謎といったような日本神話であまり深く語られてこなかった部分に、「海彦」「山彦」らにとっては三人目の兄弟であったかもしれない「闇彦」なるものの存在が見え隠れしており、その「闇彦」が、主人公の「私(弓彦)」の人生にも、時おり顔をのぞかせる。そして、その「闇彦」に関わる者たちは何故か皆、類まれなるストーリーテラーであり、人は、人類は、なにゆえかように物語を求めてしまうのかというテーマのもとに書かれているのが本作品である。

     私(弓彦)が、自分と闇彦との関わりを意識し始めたのは、物心がついて直ぐの頃からであった。双子の弟・吉彦が三歳で病死してからというもの、お守り役のお婆あが語る言葉の端々に、闇彦という名前が出てくるようになったからである。弟の吉彦は死者ではあるが私とともに同じように成長しているらしく、お婆あは「吉(よ)っちゃん、吉っちゃん」と呼びながら、死んだ弟のことを語る。時に「庭に来ている」と云い、「大きくなって、七五三でセーラー服を着ている」と云う。そして、それらのことは闇彦が教えてくれるのだ、とも。私は、眼には見えない闇彦なるものの存在があって、それは死者に関わる何かなのであろうと漠然と考えるようになる。

     小学六年生の時には、舟宮稲子(ふねみやいねこ)という物語の上手な女子と出会う。彼女は普段は目立たないのに、色々なお話を級友たちに話して聞かせるときだけは、皆を惹きつけてやまない不思議な魅力を発するのである。頭の中に入っている物語は数限りなく、そして人の死ぬ話が多くを占めていたようだった。そんな稲子は、学芸会で舞台に立ち、物語をするという大役を果たしてしばらくした後、不意に病死してしまう。葬儀は新潟県の海辺の村で執り行われた。私はクラスを代表して彼女の葬儀に出席し、馴染みのないしきたりに少々面食らいながらも、そこでまた闇彦の存在を感じるのである。薄闇の中で一本の蝋燭を手から手へと受け渡しながら、蝋燭を持っている者が故人について、短く静かに思い出を語る。浜辺で死者を納めた棺を筏(いかだ)に乗せ、火を点けて沖に流す。不思議な弔い方の背後で聴こえるのは、「向こうに島がある。稲子は闇彦の血だすけに」という年寄りの声だった。

     闇彦とは何なのだろう―――?
    闇彦に関わるとされる人たちは、何故、お話が上手いのだろう―――?
    なにより、人はどうして、お話を聞くことを求め、物語を読むことを好み、語られることに我知らず惹かれていくのだろう―――…?
    そんなことを考えるともなしに考えながら、主人公の私(弓彦)は新潟を離れて東京住まいとなり、自らも小説家となる。自分自身も死んだ弟や同級生を通じて闇彦と繋がっているせいなのか、ごく自然にストーリーテラーになったのだ。

     同級生の舟宮稲子を弔って以降も、人生の其処ここで闇彦は私の前にふと立ち現れる。そして、闇彦の正体らしきものが垣間見えるきっかけとなったのは、西村夕海子(にしむらゆみこ)と舟宮糸子(ふねみやいとこ)との出会いであった。

     西村夕海子は劇団の女優であり、ギリシア人の血が八分の一だけ入った美しい女性。役者としての熱心さからか、自分の体内に流れるギリシアの血がそうさせるのか、或いはその両方か、夕海子は、演劇にも多大な影響を与え続けるギリシア神話に特別の関心を寄せているようである。一方、舟宮糸子は新潟生れで、血のつながらないお婆あに育てられている。昔病死した同級生・舟宮稲子と同姓だが、糸子と亡くなった稲子の間に関係があるのかどうかは分からない。だが、糸子を育てたお婆あの語る闇彦の物語がまた秀逸なのである。主人公の私は、この二人の女性から様々な刺激を受け、人間が物語りすることの本質というものを捉えていくようになる。

     夕海子はギリシア神話のオルフェウスとエウリュディケの悲話が好きだという。竪琴の名手・オルフェウスとその妻・エウリュディケは仲睦まじく暮らしていたが、ある日、妻のエウリュディケが毒蛇に噛まれたことで突如死んでしまう。どうしても妻の死が受け入れられないオルフェウスは、冥府へと下って、冥府の王・ハデスとその后・ペルセポネの前で竪琴を奏で、妻のエウリュディケを甦らせてくれるように懇願する。オルフェウスの、涙を誘ってやまない竪琴の音色と哀願とにほだされたハデスとペルセポネは、オルフェウスにエウリュディケを伴わせ、冥府から逃がしてやることを決める。その際、王から付けられた条件が「冥府から脱出するまで、決して後ろを振り返ってはならぬ」というものであった―――。冥界の闇の中を、オルフェウスは妻を連れて地上へ戻ろうとする。行く手に光が見え始め、あともう少しで自分たちの暮らす地上へ出られるという時に…、オルフェウスは振り返ってしまうのである。妻がちゃんと付いて来ているか、不安に駆られた夫は、ハデスとの約束を破って、後ろを振り返ってしまったのであった。彼は妻の顔を一瞬見たものの、それが永遠の別れとなってしまった…。

     これと酷似した話が日本神話にもある。いうまでもなく、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)のエピソードである。イザナギとイザナミは夫婦の神であり、天地開闢(かいびゃく)以来、国産み・神産みを進めてきた。ところが、火を司る神・軻遇突智(かぐつち)を産んだ時に火傷を負い、それが元で、妻のイザナミは死んでしまう。夫のイザナギはどうしても諦めきれず、妻を取り戻そうと黄泉国(よもつくに)に赴く。イザナギは黄泉国でイザナミを発見し、彼女を連れ帰ろうとするが、イザナミが云うには「黄泉の国の食べ物を口にしてしまった以上、私は還れない」ということであった。しかし、イザナギはなおも彼女を説得し、根負けしたイザナミは「本当に還れないのかどうか、聞いてくるから待っていてほしい。その間、私の姿を見ないように」と条件を付けて一旦、夫の前から下がる。けれども、待てど暮らせどイザナミは姿を現さない。しびれを切らしたイザナギは、彼女が下がった辺りへ足を踏み入れ、そこで床に転がっている何かを見てしまう…。床に横たわったまま動かないそれは、イザナミの躰(からだ)であったのだが、よく見れば手足には恐ろしい雷神が取り付き、おびただしい蛆が湧き、腐乱している。妻の浅ましくなりはてた姿に肝をつぶしたイザナギは、黄泉国から逃げ帰ろうとする。自分のおぞましい姿を見られたイザナミは、黄泉醜女(よもつしこめ)らを使ってイザナギを追わせるも、彼は髪飾りや櫛を葡萄や筍に変えて時間稼ぎをし、最終的には桃の実を投げつけて黄泉国の追っ手から逃れることができたのであった。しかしやはり、死んだ妻とは永遠の別れをせねばならなかったのである。

     これらの物語を、夕海子はこのように捉えている。どんなに願っても、どんなに嘆いても、決して肉体的には戻ってはこない死者を唯一取り戻す方法があるとすれば、それは、恋しい人をもう一度振り返り、記憶にとどめ、語り継ぐことなのだと。

     冥府や黄泉の世界から突きつけられる「見てはならない」という禁忌は、死の世界に、生の世界の人間が立ち入ることはできないという暗示で、その「見てはならない」約束を破ってまで、生者の側がつい一瞬見てしまったり振り返ってしまったりする展開に至るのは、失ってしまった人の死に顔を、面影を、思い出を、もう一度目に焼き付けておきたいと思う人類の願望が物語化(神話化)したからではないだろうか。妻をこの手に取り戻そうとした男たちは、一瞬だけ死の世界を垣間見るが、見たことによって、死者と生者は決定的に違うこと、そして死んだ者は決して生き返りはしないことを思い知らされる。けれども、その一瞬の垣間見によって記憶された妻の面影を胸に抱き続け、恋しい人の思い出を物語ることで、彼らはこの世には既にいない人とも、永く共に生きることができるのである。

     そんな死者について語ることを宿命づけられたのが闇彦だったようだ、と、私に教えてくれたのは舟宮糸子であった。彼女は、”闇彦は、神代において天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の間に生まれた神々・海彦と山彦の兄弟だった可能性がある”と示唆してきたのだ。ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメには、三柱の神が生まれている。すなわち、火照命(ほでりのみこと)・火須勢理命(ほすせりのみこと)・火遠理命(ほおりのみこと)の三柱で、ホデリは海の世界を支配する海彦、ホオリは山野の世界を支配する山彦として『古事記』に登場するのだが、不思議なことに真ん中のホスセリについては、誕生したという以外に詳しい記述がないのである。何を司る神なのかも知られていない。糸子のお婆あは、このホスセリこそが闇彦として死の世界を支配するようになったのだと、糸子に教える。ホスセリ=闇彦ということが知られていないのは、死に関する神であるために、あからさまに語られることがはばかられたからである、と…。この闇彦の血脈が一部人間(じんかん)に伝わり、舟宮姓を名乗る人々に死者を語る能力が備わったのだ、と…。

     このことは勿論、作者・阿刀田高氏の創作であるが、ホスセリが死を支配する闇彦であると空想してみるのは非常に面白い。闇彦の血を受け継ぐ者に「舟」の文字が冠されているのも、「御舟入り」という言葉が死者の弔い・葬儀を意味するように、死の世界を暗示するからだろう。「舟宮」とは言うなれば、闇彦(ホスセリ)が密やかに生き続ける「死の宮殿」なのである。闇に隠れたホスセリは、もはや神話の表舞台には現れない。現れないが、しかし、確実に存在し、生きとし生ける者の命数を、その手に握っているのである。

     加えて、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に、死を司る神が誕生したと考えてみることがとても興味深いのである。実はニニギノミコトには、もう一人、娶るべき姫がいた。それは、コノハナサクヤヒメの姉・磐長姫(いわながひめ)である。コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの父・大山祇神(おおやまつみのかみ)は姉妹二人ともをニニギノミコトに娶(めあ)わせようとした。なぜなら、イワナガヒメは、磐(いわ)が永くその姿を保つようにニニギノミコトの弥栄(いやさか)を寿(ことほ)ぐ役割を担っていたからである。ところが、ニニギノミコトは美しいコノハナサクヤヒメだけを嫁入らせ、器量の悪いイワナガヒメはオオヤマツミノカミに返してしまった。舅であるオオヤマツミノカミは落胆する。そして、こういう言葉を発するのだ。「コノハナサクヤヒメは、ニニギノミコトの世を美しく繁栄させはするが、花の命が短いように、彼の世も永くは保てないであろう」。

     ニニギノミコトはイワナガヒメを拒絶したことで、コノハナサクヤヒメとの間に闇彦を生(な)すことになったのかもしれない。上記の神話は、ニニギノミコトから連なる子孫の歴代天皇が、神々ほどには寿命を永く保てなくなった、限りある生命となったということの原因譚として読めるのだけれども、もっと云えば、人間の世界にはっきりと「死」がもたらされるようになったということの原因譚でもあるように思える。ニニギノミコト以前にも、イザナギとイザナミが人間の生死に関して呪詛と寿ぎを投げかけ合ったことがあったが、ニニギノミコトの代になって、命あるものは皆ひとしなみに死ぬということが決定的になった、そんな印象だ。闇彦は、本作品における想像上の神ではあるが、その神を、永遠の生命を蹴ってしまったニニギノミコトの子としてあてがっているところに、作者・阿刀田高氏の意図が見えるのである。

     人が物語を好む理由―――それは、物語りするという行為のそもそもの発端が、失われた愛する者たちの面影や思い出を心に刻みつけて共に生きたいと願う、強い祈りにあるからではないのか。命あるものが闇彦の存在によってモータルなものとされたことで、人類は語り継ぐことでしか永遠を手に入れられなくなってしまった。しかし、だからこそ幾多の物語は生まれ、幾世代にもわたって継承され、今もなお新しい物語が生まれ続けているのではないか。物語の根本は、死を受け入れて、死者の顔を、生涯を、死者と自分が生前どのような形で関わったかを反芻する営みである。ホスセリノミコトとして生まれ、闇彦として存することとなった一柱の神が、我々に「今は亡き、愛する者たちを物語れ」とささやいてくる。現代のあまたある物語がどんなに軽佻浮薄なものになろうとも、この闇彦のささやきがある限り、決して廃れることはあるまい。



     君を憶えている。君を憶えているよ―――。
    吾(われ)もまた、突然闇彦の国へと旅立った人々を思い出す。

     君の、闘病むなしく鬼籍に入ったことを聞かされたとき、君も吾もまだ小学生で、よもや級友が亡くなろうとは思いもよらなかったのだ。君が住んでいた邸の前を時おり通ることがある。廃墟となった君の邸は今ではもう、ひどく蔦まみれで…。君という愛息を失ったご両親は、何処でどうしておいでであろう。君の家の二階の窓から、小学生のままの君が顔をのぞかせることがあるのではないかと、吾はつい、蔦の隙間の窓硝子を見上げてしまうのだ。

     君が水底に沈んだとき、君の姉さんは悲しみをぐっと堪えていた。吾は今でも菩提寺への墓参の際に、君が沈んだ池の小道をめぐるのだ。中学生になれなかった君。青空のもと、睡蓮が清らかに咲く頃には、君の幼い顔もぽっかりと、蓮ともどもに咲いていることもあるのではと、吾はつい池の水面を、見守ることもあるのだよ。

     あなたが自らの身を焼いたその場所に、鉄塔が高く高くそびえていたっけ。その鉄塔は今でもあって、灰色の骨を晒しています。今も静かな山のふもとに、あなたの家も残っています。あなたが死を選ばざるを得なかった、その苦しみや悲しみの、因(もと)がその家にあったとしても、今も静かにあなたの家は、夕暮れの中に佇んでいて…。夕日が鉄塔に当たるとき、あなたを焼いた炎(ほむら)のように、赤く赤く染まるのを、吾は時折見ています。

     神戸を襲った大震災で、君はあっけなく逝ってしまった。なぜ震災の前の日に、君は神戸を訪ねたりした? ほんの一日違(たが)えていれば、君は今も吾と同じ、齢になっていたことだろう。君が神戸を訪れたとき、君の命があと一日も、残されてはいなかったことを、一体誰が知りえただろう。君が大人になって着るはずだった、仕立て上がりの振袖は、袖とおす主を失ったまま、畳まれたままに眠っている。

     ―――不慮の死を遂げた人々のことを思い出すたび、吾は、闇彦の国、すなわち死とは、暗渠(あんきょ)のようなものだと思いなす。この世に縦横無尽に張り巡らされた、実は我々の足元にも確実に流れている暗渠。普段はなかなか見えないが、ふとした折に、その滔々と流れる黒い水が現れることがある。全ての命を呑みこみ、溶け込ましていきそうなとろとろとした黒い水が、静かに静かに流れているのを覗きこめる時があるのだ。その黒い面(おもて)に自分の顔がくっきりと映る時、我々は心ならずもハッとする。(嗚呼、いつか吾もこの闇彦の国に、ひらりと旅立っていくのだ)と、今さらながらに認めることになるからである。

     関わりのあった人々が失われていくごとに、自分もまた少しずつ死んでいっているのかもしれない、と思う。あの子と遊んだ自分、あの人と語らった自分、さまざまな関係性の中でしか生きられないのが人間だから、その関係が死によって絶たれるたびに、その関係によって定義されていたはずの自分も死んでいくのだ。だから人は、物語ることによって、その失われた関係性を補っていくのに違いない。それでもそうして、自分の周囲が削られていって、最後に残った芯のような部分が死を迎えるとき、それが、自分というものの生物的な死なのだろうと思う。

     吾は今日も暗渠を覗く。
    そして、闇彦がずいぶんと身近にいることを確かめる。
    死はいつか吾をも襲う。
    しかし、そのときが来たら、着慣れた着物に身を包んで、白い足袋などもう要らぬから、気持ちよく素裸足になって、パラソル片手に、滔々と流れる黒い水の中へと溶けていきたい。
    自分もまた、誰かに語られ、思い出されることを夢想しながら…。


               平成二十三年五月四日 読了

  • ギリシャ神話のゼウス、ポセイドン、ハデスと日本神話の海彦、山彦、そして一般にはほとんど語られない闇彦との共通点を軸に、筆者が小説を書く意義のようなことが語られている。一見とりとめのないエピソードと神話との間には何の繋がりもないように思え、どうオチをつけるのかと思っていたが、きれいにまとめてある。闇彦とは何か?という不思議なものに対する興味もあって一気に読めた。

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著者プロフィール

作家
1935年、東京生れ。早稲田大学文学部卒。国立国会図書館に勤務しながら執筆活動を続け、78年『冷蔵庫より愛をこめて』でデビュー。79年「来訪者」で日本推理作家協会賞、短編集『ナポレオン狂』で直木賞。95年『新トロイア物語』で吉川英治文学賞。日本ペンクラブ会長や文化庁文化審議会会長、山梨県立図書館長などを歴任。2018年、文化功労者。

「2019年 『私が作家になった理由』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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