- Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103354116
作品紹介・あらすじ
その種類400以上、創業1560年。庖丁こそ、和食である。桶狭間の合戦と同年の創業以来、自己革新を続けてきた老舗、有次。錦市場にある「鰻の寝床」の店舗は、いまや世界中の料理人が集う新“名所”だ。つくる人とつかう人の間で京料理、“和食”を支え、京都と共に歩む世界のARITSUGU――全面協力のもと、ものづくりの精髓とその類まれな存在、軌跡をたどる。写真とイラスト満載!
感想・レビュー・書評
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片山真一先生(総合科学部数理科学コース)ご推薦
400年を越えた刀鍛冶の伝統を受け継いだ京都の包丁の老舗の名前が「有次(ありつぐ)」です。ドキュメンタリーとしては、焦点がやや絞り切れていない面には目を瞑り、斜に構えた京都案内として読むことがお勧めです。例えば、有次は錦小路の東の端に位置するのですが、その地名は、どんな由緒を持つのか?また中京あたりの商家の女の子達の無邪気を装ったイケズな言動はどんなにエゲツナイか等の京都の蘊蓄がそこかしこに散見されます。有次は、刀鍛冶として最初から太刀に比べあまり評価の高くない小刀鍛冶を本業としました。その理由に、同門に和泉守兼定(土方歳三の愛刀として著名)がいたという興味深い指摘もあります。また庖丁の銘柄や切れ味がさんざん述べられているので、読んでいるうちに、まず自宅の庖丁の銘柄を調べ、自分の庖丁の切れ味を確かるために、実際にキュウリやトマト等、色々切ってみたくなること請け合いです。 -
思わず我が家の有次(三徳文化牛刀)をクレンザーで磨いて、研いでしまった。
料理のプロとの真剣勝負から極められていく有次。
素人が興味本位で手を出すのはちょっと恐れ多い。 -
道具を大事に扱うことが、丁寧に生きることへの一歩。
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これはヤバい。もし今錦市場に行ったら間違いなく庖丁を買ってしまうだろう。ちゃんと手入れをするとは限らないのに・・・
「切れへん庖丁やな。ぐだぐだになってるやん。キズシか何かわかれへんやん。せっかく上手く作ってきたのに。いい包丁買ったろか、あんた」著者の友人の女性ライターは新築祝いにきてくれる友人に備えて万全のおもてなし体制を整えたつもりだったが切れない庖丁のために台無しになって恥ずかしい思いをした。このライターによると「主婦は自分の庖丁が切れるかどうかについての認識がない」という。
自分の身になるとよく分かる。確かに今使ってる庖丁は全然切れない。備え付けのステンレス製でろくに手入れもしないからしょうがないのではあるが。鋼の庖丁はほっとくとさびるし過去にシャープナーを使ったことはあるがあまり切れ味が変わったという実感はなかった。
地元京都の家庭では中京・下京辺りの家庭ではほとんどが有次の庖丁を使っているらしい。1560年といえば桶狭間の合戦があった年で刀鍛冶「藤原有次」が創業した。江戸末期には京都の日本鍛冶宗匠家である三品家の弟子として御所に出入りする小刀屋弥次兵衛となり仏師や職人が使う小刀鍛冶を扱い、現在の社長が物心ついた頃には庖丁屋になっていた。明治以降東京で洋食屋が流行りだすとともに両刃の洋庖丁を作る鍛冶屋や庖丁屋が現れ、有次家の兄弟のうち二人は東京に浸出し築地有次のルーツを作った。
村上水軍の刀鍛冶の流れをくむ沖芝家は明治期に広島から堺に入り、堺の伝統工芸である鍛造の和庖丁を手がけていた。沖芝家と有次のつきあいはこのころに始まる。堺の和庖丁の特徴は鋼と極軟鉄の鍛接により切れ味とねばりを両立したところにあるが、沖芝昴氏は玉鋼だけを用いて日本刀を作刀するのと同じ焼き入れ技術を用いた本焼き庖丁を作っている。熟練した料理人でも研ぐのに3倍時間がかかるというが上手く研ぐと切れ味が長持ちし、また客の前で庖丁を握り腕前を披露する割烹の板前に取ってはその日本刀様の波紋は一つのステイタスなのだそうだ。伝承者がいないとこの本焼き庖丁はそれこそ幻の一品になってしまうかも知れない。
庖丁を打つ様子、地元の普通の家で有次が使われている様、割烹、うなぎ、ふぐ、はもに留まらず中華、牛刀から果てはハム切り専用庖丁や葉巻専用庖丁まで使う人たちのこだわりとそれに答える有次の様子が大阪人の著者と京都人の有次の社長や店長の掛け合いなどそれぞれのエピソードがなかなか面白い。ちょっとイケズな京都人に無遠慮に突っ込む大阪人というと角が立ちそうだが、長年のつきあいらしくほんわかした話になっている。実際最初のエピソードは大阪と京都の「きつね」と「たぬき」の話から始まりお店の周りの夏の打ち水のやり方が続く。京都では隣の店の前まで水を撒くのはやりすぎで、まるで「お宅が掃除しはらへんから、うちがやっときました」とかいしゃくされるんだそうだ。そうなると「ややこしい」し場合によっては「いけず」になるとはさすがに京都、ややこしい土地だわ。一方で年に一度ええ聖護院かぶらが出たときにだけ千枚漬けを作るためだけに一般家庭で専用の白木のまな板の上に薄い刃が斜めについた大型のスライサーを買う人がいるという。たこ焼きプレートが必ずどの家にでもあるというレベルではない。これもさすが京都だ。
庖丁を研ぐというと難しく感じるが、その前に毎日の手入れとしてはタワシにクレンザーをつけてまな板の上にきっちり置いて刃の方に向かって汚れを落とし、裏返してもういちど。後は水洗いをして乾燥するだけで切れ味が延びるらしい。フランス料理では一流のシェフでも自分では庖丁は研がないのに対し、日本料理は錆びる庖丁を毎日手入れし、それが庖丁以外の道具も手入れし台所を清潔にすることにつながる。著者自身もよく切れる庖丁を持つと切ったネギが転がり、トマトも庖丁の重さだけで切れるとだんだん楽しくなり、魚も切り身じゃなく固まりで買うようになりだんだん食材の目利きができるようになるといっている。これはヤバい。 -
有次の前は何度も通っているが、店の中には入ったことがない。錦の包丁屋が職人同士をつなぐ機能を続けてきたことに感銘。まずは家の包丁をシャープナーにあててみよう。