数学する身体

著者 :
  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103396512

作品紹介・あらすじ

「数学を通して世界をわかりたい」。30歳、若き異能の躍動するデビュー作! 思考の道具として身体から生まれた数学。ものを数える手足の指、記号や計算……道具の変遷は数学者の行為を変え、記号化の徹底は抽象化を究める。コンピュータや人工知能の誕生で、人間の思考は変貌を遂げるのか? 論考はチューリング、岡潔を経て生成していく。身体を離れ、高度な抽象化の果てにある、新たな可能性を探る!

感想・レビュー・書評

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  • 数学というと、どうしても現実世界とは切り離された世界の中で一貫した構造を構成する学問とイメージしがちだが、その中に閉じるのではなく、使う人や環境の中との融合・交感に意味を感じる思想。機械学習によりある回路を作成したところ、自動的に作成された接続されていないはずの部分が重要だったという実験の話が面白い。

  • 音楽や美術のように、数学も表現の行為だ。数学を通して「人間」に迫る、30歳、若き異能の躍動するデビュー作!
    「BOOKデータベース」より

    情熱的.
    「零までが大切」、この岡潔のことばは、自分の胸にも刺さった.ものごとの根源へ思考を馳せる.学問を志す者にとって必要な姿勢.博士の学位がなぜPh. D (Doctor of Philosophy)なのか、ということですね.

  • p167
    自他の間を行き交う「情」が、個々の人や物の上に宿ったとき、それが「情緒」となるというのである。

    p170
    「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。これが岡が道元や芭蕉から継承し、数学において実践した方法である。
    なぜそんなことができるのか。それは自他を超えて、通い合う情があるからだ。人は理でわかるばかりでなく、情を通わせ合ってわかることができる。他の喜びも、季節の移り変わりも、どれも通い合う情によって「わかる」のだ。

  • 「数学する身体」森田真生著、新潮社、2015.10.15
    206p ¥1,728 C0095 (2023.03.19読了)(2023.03.17借入)(2016.12.25/10刷)
    新聞のコラムで紹介されていたので、読んでみることにしました。
    ちょっと変わった数学史の本というところでしょうか。
    数学は、人間の心と体に制限されて作られている、ということのようです。
    たとえば、漢数字の一、二、三やローマ数字のⅠ、Ⅱ、Ⅲ、等は、三個までは、ひと目で認識できるので数をあらわすのにもそのまま使われている、ということです。
    後半の方では、アラン・チューリングや岡潔が取り上げられています。
    著者は、大学では文系に属していたけれど、岡潔の『日本のこころ』という文庫本に出合って、理系に鞍替えし、数学の勉強を始めたのだそうです。

    ●学校で教わる数学(49頁)
    私たちが学校で教わる数学の大部分は、古代の数学でもなければ現代の数学でもなく近代の西欧数学なのである。

    【目次】
    はじめに
    第一章 数学する身体
    人工物としての〝数〟
    道具の生態系
    形や大きさ
    よく見る
    手許にあるものを掴みとる
    脳から漏れ出す
    行為としての数学
    数学の中に住まう
    天命を反転する
    第二章 計算する機械
    I 証明の原風景
    証明を支える「認識の道具」
    対話としての証明
    II 記号の発見
    アルジャブル
    記号化する代数
    普遍性の希求
    「無限」の世界へ
    「意味」を超える
    「基礎」の不安
    「数学」を数学する
    III 計算する機械
    心と機械
    計算する数
    暗号解読
    計算する機械の誕生
    「人工知能」へ
    イミテーション・ゲーム
    解ける問題と解けない問題
    第三章 風景の始原
    紀見峠へ
    数学者、岡潔
    少年と蝶
    風景の始原
    魔術化された世界
    不都合な脳
    脳の外へ
    「わかる」ということ
    第四章 零の場所
    パリでの日々
    精神の系図
    峻険なる山岳地帯
    出離の道
    零の場所
    「情」と「情緒」
    晩年の夢
    情緒の彩り
    終章 生成する風景
    あとがき
    註と参考文献

    ☆関連図書(既読)
    「春宵十話」岡潔著、毎日新聞社、1963.02.01
    「岡潔 数学の詩人」高瀬正仁著、岩波新書、2008.10.21
    「精神指導の規則」デカルト著・野田又夫訳、岩波文庫、1950.08.10
    「方法序説」デカルト著・小場瀬卓三訳、角川文庫、1963.11.10
    「近世数学史談 3版」高木貞治著、共立全書、1970.10.20
    (アマゾンより)
    思考の道具として身体から生まれた数学。
    ものを数える手足の指、記号や計算……
    道具の変遷は数学者の行為を変え、記号化の徹底は抽象化を究めていく。
    コンピュータや人工知能の誕生で、人間の思考は変貌を遂げるのか?
    論考はチューリング、岡潔を経て生成していく。
    身体を離れ、高度な抽象化の果てにある、新たな可能性を探る。

  • おもしろかった〜数字は自然なものではない、の一言にホッとしたりした。相変わらず数字を見ると思考が止まるけどいいものを読んだ。ありがたい…装丁がすごく良くてそこだけで好きになる。グレーの紙っぽくない質の紙にグレーのしおり紐、中を開けば鮮やかな青。

  • 面白かった。文系にもわかる数学の本。数学って学校で習った内容のイメージが強いけど、それはほんの一部で、本来哲学だったり心理学だったり、もっと広い分野に開けているものなんだな、と再認識させてくれた。チューリングと岡潔は個人的にも気になる人なので楽しかった。ブルバキって個人名じゃなかったんだ!ってこの本読んではじめて知りました。

  • 2015.11.2-2015.11.3
    武術家の甲野善紀氏が勧めてゐるので購入。独立の研究者といふ著書の行き方にも関心があつた。
    数学が発生段階から身体と不可分であり、考へるといふことは、普通に思はれてゐる以上に身体的な過程なのだ、といふ論点は興味深い。それがギリシャ時代の数学を例に説かれてゐるあたりは秀逸だ。
    他方で、人工知能が人類の脅威になるのではないかと心配される程に発展し、「情報」が一人の人間の処理能力とは無関係に増殖する時代に、数学を身体化するといふ岡潔の理想がどのやうな指針となるのかは不明確だと思はれる。
    とは言へ、他の人達の力を借り、過去の遺産の助けを得ながらも、他人には伺ひ知れないものを抱へて生きる他ないのが人間である以上、頼りになるのはこの身体であり、その持つ潜在力が充分に使はれてゐないのは確かなので、頭でつかちになり勝ちな今の日本で、読まれる価値がある本だらう。

  • 岡潔や芭蕉、禅の本を読みたくなった。
    何かを突き詰めて行くと、同じようなところにたどり着くのだろうか。
    俳句であっても、数学であっても、料理であっても、重ね煮クラッカーであっても。


    ・学びとは、はじめから自分の手許にあるものを掴み取ることである、とハイデッガーは言う。同様に、教えることもまた、単に何かを与えることではない。教えることは、相手がはじめから持っているものを、自分自身で掴み取るように導くことだ。
    ・動くことは考えることに似ている。
    ・その人とはその人の過去のことである。
    ・「わかる」という経験は、脳の中、あるいは肉体の内よりもはるかに広い場所で生起する。
    ・「自分の」という限定を消すことこそが、本当に何かを「わかる」ための条件ですらある。
    ・「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。
    ・自我を薄め、情緒を清め、深めなさい。

  • 485
    森田真生(モリタ・マサオ)
    1985年、東京都生まれ。独立研究者。東京大学理学部数学科を卒業後、独立。
    現在は京都に拠点を構え、在野で研究活動を続ける傍ら、全国各地で「数学の演奏会」や「大人のための数学講座」など、ライブ活動を行っている。


    たとえば、「虚数」と呼ばれる数がある。虚数とは、2乗すると1になる数のことだ が、普通に考えると「意味」がよくわからない。どんな数も2乗すると0以上になるの ではないか。2乗したらマイナスになる数など、いったいどこに存在するというのだろうか。わかる、わからないにかかわらず、数式を変形していると、虚数が出てきてしまうことがある。「わからない」のはあくまでこちらの話で、数式の方は平気でそ の存在を主張してくる。 記号を使うとしばしばこういうことが起こる。計算をしているうちに意味の分からないものが出てきてしまうのだ。作図を使った推論の過程では、思考と意味が並走しているが、数式を計算していると、意味が置いてけぼりを食うことがある。それでも意味が あとから追いつくならば、問題ないのである。 実際、いまでは√-1の「存在」を疑う数学者はいないだろう。「虚数」という不名誉な呼ばれ方をしているが、その存在を抜きにしては現代数学は成り立たない。はじめは 直観を裏切る対象でも、使っているうちに次第に存在感を帯び、意味とその有用性がわかるようになってくる。そうして少しずつ、数学世界が広がっていく。

    私はその日手にした『日本のこころ』を、夢中になって読んだ。そこには今まで知ら なかった広大な世界が開けているように思われた。それでいて、どこか懐かしく知っている世界のような、不思議な感覚に包まれた。そこには狭い数学を超えて、生きること、あるいは「わかる」ことについて、全身の実感のこもった言葉が並んでいたのだ。


    岡潔の言葉を読んでいると、なぜか不思議と、バスケに捧げた日々を思い出した。こ の人にとって数学は、全心身を挙げた行為なのだと思った。頭で理屈を捏ねることでも、 小手先の計算を振り回すことでもなく、生命を集注して数学的思考の「流れ」になりきることに、この人は無上の喜びを感じていることが伝わってきた。 私は、岡潔のことをもっと知りたいと思った。彼が見つめる先に、自分が本当に知りたい何かがあるのではないかとも思った。簡単に言えば、「この人の言葉は信用できる」 と直観したのだ。 数学と身体を巡る私の旅も、ここから始まったのである。岡潔の語る数学は、それまで私が知っていたものとはまったく違った。そこには、生きた身体の響きがあった。 「数学」と「身体」――とてつもなくかけ離れて見えるこの二つの世界が、実はどこか深くで交わっているのではないか。その交わる場所を、この目で確かめたいと思った。 ならば、数学の道へ分け入るしかない。私は、数学を学ぶ決心をした。

    およそ十年前に岡潔の『日本のこころ』に出会って以来、私は何度も何度も、頁が擦 り切れるくらい、この本を読み返してきた。不思議なことに、その度に新しい発見があり、毎回違った箇所に線を引いている。文章の方は動いていないはずだから、変わってるのはこちらの方なのだろうが、まるで生き物のように、同じ言葉が何度し味を帯びて蘇ってくるのだ。実感に裏打ちされた言葉の底力である。

  • 岡潔、アランチューリングなどが数学とどのように向き合っていたのか、数学において、どのような心のあり方、働き方がなされるのか、といった数学の根本と哲学の関係性について語っている。
    岡潔が百姓をしながら数学を研究していたこと、宗教を信ずるようになり、念仏を唱えるようになった後に、人生第三、かつ最大の発見をしたことが印象に残る。不定域イデアルを発見したのが岡で、後に層という概念となる。
    チューリングについても、数理論理学から人工知能に興味を持ち、ひとの心を解き明かそうとしたことは興味深い。

    筆者の文才によって、簡潔かつ情感豊かに数学や哲学の深層を垣間見ることが出来た。筆者開催のセミナーなどにも興味がある。

    もう一度数学をしてみたいと思わせる。

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著者プロフィール

森田 真生(もりた・まさお):1985生。独立研究者。京都を拠点に研究・執筆の傍ら、ライブ活動を行っている。著書に『数学する身体』で小林秀雄賞受賞、『計算する生命』で第10回 河合隼雄学芸賞 受賞、ほかに『偶然の散歩』『僕たちはどう生きるのか』『数学の贈り物』『アリになった数学者』『数学する人生』などがある。

「2024年 『センス・オブ・ワンダー』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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