著者は大女優の岸惠子さん。初めて観た彼女の出演作品は監督市川崑の『黒い十人の女』。素晴らしく美しい女優たちが競演した本作、なかでも岸惠子さんと山本富士子さんがとびきりかっこよかった。
たまたま見かけた日経新聞の人気コーナー「私の履歴書」で岸惠子さんが取り上げられており、それがめっぽう面白かった。その後エッセイを出版していたことを知り、読んでみるに至った。
岸惠子さんは1932年生まれの現在88歳。つまりは戦前に生まれ育ち、戦争を経験している。まだ気軽に海外旅行なんていけない時代に、フランス人の男性と結婚し、二度と日本に戻らない覚悟でフランスに嫁いで行く。
一からフランス語を学び、上流社会のマナーを身につける。今よりもアジアの地位がずっと低く、いまよりもずっと故郷が遠かった時代に、岸さんは日本人の誇りを胸にフランスの荒波に揉まれながら強く逞しく生きていく様が、彼女独特の語り口調で率直に綴られていた。
女優・高峰秀子さんのエッセイも一時期いろいろと読んだが、この時代の一流の女優は審美眼にも長けているようだ。岸さんのエッセイからも彼女のインテリアに対するこだわりが垣間見える。
また彼女はジャーナリストとしての顔を持つ。彼女はまだベルリンの壁が存在し、機能していた頃に訪れている。その時のエピソードが印象的だ。
65歳を超えた老人にだけ許された(監視付きの)通用門があった。一見何のヘンテツもない三人の老人の淡々とした別れ。老人は一度も振りかえらず、それでも手を振り続ける残った二人。家族か尋ねる。東側へ渡った老人は91歳になる老女の父だった。
>「東の方が棲みいいのでしょうか」
「ちがいますよ」
「ではなぜですか、こちらにはあなたというご自分の娘さんがいるのに」
老女は不思議な生き物を見るような眼で私をみた。
「それはねあなた、父の棲家が壁の向こうのあそこなんです。父は死んだら母と同じ墓に入りたいと言っているンですよ」(P147)
戦後に日本は四分割されて、米英露中で統治される計画があったと聞いたことがある。この話を読み、他人事とは到底思えなかった。
自分の国とは。故郷とは。家族とは。愛とは。様々なテーマを投げかける。
特に冒頭の不倫をした夫と対峙するシーンは圧巻。「女優さんのエッセイ」という私の先入観を大きく裏切る作品だった。