- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103531111
作品紹介・あらすじ
この人が関わると物事が輝く! 気鋭の情報学者がデジタル表現の未来を語る。ぬか床をロボットにしたらどうなる? 人気作家の執筆をライブで共に味わう方法は? 遺言を書くこの切なさは画面に現れるのか? 湧き上がる気持ちやほとばしる感情をデジタルで表現する達人――その思考と実践は、分断を「翻訳」してつなぎ、多様な人が共に在る場をつくっていく。ふくよかな未来への手引となる一冊。
感想・レビュー・書評
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最近、研究者の中に、何をやっているのか、専門は何なんのか、よくわからない人が増えてきた。彼らは、人類学、哲学、科学、工学、医学、それらを行ったり来たりする。社会が既存の学問体系ではカバーできないほど複雑になっている今、今後の学問のあり方を体現している人たちだ。私にとって、本書の著者のドミニク・チェンさんもそういう学者の一人。
本書は、注目の若手学者ドミニク・チェンがコミュニケーションについて、自身の半生と絡めて論考したものだ。私たちは完全にわかりあえることはできないという前提に立つことからコミュニケーションは始まる。それでもあえて共に在るために、という言葉は力を与えてくれる。子どもの誕生からたどり着く著者の結論は温かい。子どものいない私のような者でも共感を覚えた。
しかし、一般向けのエッセイのような装いながら、これがなかなかに高度で、難しい。読者は本書を読むことで、著者の思考過程をトレースする。もちろん、チャレンジするだけの価値はある。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ITやデジタルの論客とされる人たちの語り口がどうにも気になる。もちろん、全員がそうだとは言わないけれども、挑発的でとんがっていたり、上から目線だったり、ご自身の知識をひけらかしたりする人が少なくない。もっともなことを言っていても、そんな言い方されちゃうとなんだか素直に聞けないなあなどと思ったりもする。
そこで、ドミニク・チェン。「気鋭の情報学者がデジタル表現のこれからを語る」という帯の惹句だけ見るとこの手の論客と見えるが、実は正反対。衝撃を受けるほど正反対。デジタルに対してこんなにあたたかい語り口とアプローチがあったのかと目を開かされる。
人と人とのコミュニケーションとは、副題の通り「わかりあえなさをつなぐため」のもので、そのわかりあえなさとは埋めるべき隙間ではなく、新しい意味が生まれる余白である、と。コミュニケーション、そしてそれに使われる言葉に対する研ぎ澄まされた感性と繊細で緻密な観察がまずあって、デジタルはそのための手法のひとつに過ぎない。この考えがベースにあるから、本書で書かれる言葉は穏やかであたたかく、美しいとさえ言える。
言葉に対する著者のこの感性を思ったとき、その生い立ちに触れずにはいられない。母方の日本の家族、父方の台湾の家族はそれぞれ第二次大戦で各地を移り住み、特に父親は5か国語を操って日本留学中にフランスに帰化するという奇異な人生を送ったという。そして、著者本人は東京でフランス国籍者として生まれ、在日フランス人の学校に通った日本語・英語・仏語のトリリンガル。こんな人が考えるデジタルは、人に優しいものになるに違いない。 -
2020年22冊目。
とんでもない本に出会ってしまった...。もう一度読み直して、咀嚼し直すことを前提としつつも、一読目の感覚を拾っておきたい。
「誰かに寄り添う」ということは、僕のなかでは「相手を理解し切ることはできないという前提に立ちながら、不動の理解を手にしたいという欲求を抑え、理解しようとする途上に居続けること」だった。大切にしてきたその感覚の粒度がこの本によってさらに細かくなり、もっと言うとアップデートされた。
この本のなかで度々出てくる概念である「環世界」。それは、「それぞれの生物に立ち現れる固有の世界」のことだそう。同じ人種の、同じ国籍の、同じ血筋の人同士であったとしても、個体ごとに知覚の様式は異なり、世界の認識・見え方も違ってくる。もっと言うと、同じ一人の人間のなかですら、使用する言語や表現形式によって、その広がり方は変わってくるという。
自分に見えている世界をなんとか他者に伝えようとするときに、人は言葉を使う(もちろん、音や絵を使うこともある)。けれどその言葉は、どれだけの精度を持って放たれたものであったとしても、その人が見ている環世界の全てを表すことは決してできない。
僕はいつもその感覚を思うとき、「引き伸ばしたクッキー生地」をイメージしていた。丸とも四角とも割り切れない歪な形に伸びた生地を、そのまま誰かに提供することはできない。だから、丸や四角や星の型で生地をきれいにくり抜き、絶妙な加減で焼いて仕上げることによって、「はい、これがクッキーです」とようやく手渡せるようになる(作ったことはないけれど、たぶんそんな感じだと思う)。この整形されたクッキーが「言葉」であり、切り捨てられてしまった周囲の歪な生地も含めた全体が、本書で言う「環世界」なのだと思う。
各人が感じている世界は、こんなにも個別的で、流動的で、歪であるならば、誰かと対峙するときに僕らが立つべき前提は、「わかること」よりも「わからないこと」なのだと思う。その人が自身の環世界を必死で表そうとする行為は、この本がいうところの「翻訳」で、「その翻訳行為から常にこぼれ落ちる意味や情緒もある(p.195)」ということを忘れてはいけない。その人が語ることができたものの背景に、どれだけの「語り得ない感覚」があるのか。
この本ですごいと感じたのは、そんな「語り得ない」「わかり得ない」ものへの想像力を育んでくれるだけでなく、「わかりあえないものこそが繋がりを生む」と逆説的に捉えているところだった。読みながら震えた箇所を二つ引用させていただきたい。
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●そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。「完全な翻訳」などというものが不可能であるのと同じように、わたしたちは互いに完全にわかりあうことなどできない。それでも、わかりあえなさをつなぐことによって、その結び目から新たな意味と価値が湧き出てくる。(p.197-198)
●固有の「わかりあえなさ」のパターンが生起するが、それは埋められるべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白である。このような空白を前にする時、わたしたちは言葉を失う。そして、すでに存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる。しかし、じっと耳を傾け、眼差しを向けていれば、そこから互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる。わたしたちは目的の定まらない旅路を共に歩むための言語を紡いでいける。(p.199)
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この言葉に、本書のなかで語られる本当に様々な事例(過去の哲学者たちの考えから、現在のテクノロジーや著者の実体験まで)を潜り抜けてから辿り着くと、言葉そのものが表している意味以上の希望を抱くことができる。
「拙速に理解して、思考や感情を安定させてしまいたい」、これは脳処理負担を下げるために生み出された、人間の本能レベルの感覚だと思う。けれど、それを手放し、不可解さのなかにとどまれるネガティブ・ケイパビリティを持って向き合えたとき、そこには「Aが伝え、Bが理解する」という一方通行のやりとりでは生まれ得なかった共創が出現するのではないか。
おそらく、「for〜(〜のために)」は「with〜(〜とともに)に取って代わられるのだと思う。そうしたwithの関係性から生まれたコミュニケーションが、結果的に本当にお互いのためになるforを生み出すのかもしれない、とも。
そんなwithを生み出す出発点は、「わかりあえなさ」や「エラー」という不完全性にある。そう捉えさせてくれたこの本は、僕にとって本当に希望になった。
一つひとつの出来事から素晴らしい洞察を見出し、それを惚れ惚れするほどの解像度で綴った著者への敬意がやまない。そして、ここまで言語化された本書が、やはり著者の環世界の一部に過ぎないのだと想像すると、途方もない気持ちとともに、ますます敬意が増してくる。「わかり得ないもの」に想いを馳せることにはこんな素敵な効果があるのだと、こうして書きながら改めて思う。
言葉をはじめとした表現が持つ不完全性へのもどかしさを抱きながら歩む人に、心から読んでほしいと思える一冊だった。これは何度も読み直させば。
-----脱線-----
村上春樹さんは作品を描くとき、無意識の世界にまで降りていき、そこで見聞きしたものを、余計な解釈をせずに「総体としてそのまま受容する」と、あるインタビューで語っていた。表現とは切り取ることだと思っていた僕は、この言葉に驚愕し、村上作品が持つ物語の強さの秘訣を知った気がした。
本書を読んでから、村上さんのこの姿勢は「環世界を限りなくそのままを提示しようとする挑戦」なのだと感じた。(それでも環世界を表し切ることはできないだろうという前提を持ちつつ)それを他者に伝達することを可能にするものは、単発の言葉や文章の「意味」ではなく、ストーリー全体を潜り抜けることでしか表せない「体感」なのだと思う。それは文章量・情報量・意味量が増えることによって比例的に増すという意味ではなく、物語全体の流れや行間にしか発することができないものによって生み出されるように思う。
各単語の意味の総計以上の世界の広がりを物語によって見せる作家への敬意も、本書を読むことでますます強まった。 -
著者が人生を通して形作ってきた自分なりの「表現」や「コミュニケーション」に関する考えを、娘が生まれたことを契機に再発見する—著者の人生と父娘関係とが相互作用する様を綴った優しい優しいエッセイ集。
引用「だから今日、娘がわたしに何かを伝えようとしてなかなか言葉が見つからず、もどかしそうにしている時にも、なるべくじっと待つようにしている。(...)彼女の内なる思いの数々は、たとえ空気を震わせなかったとしても、彼女の心の中では確かに反響しているのを知っているから。」
上の引用文は、著者の吃音との付き合いの中で蓄積された体験が、娘を見つめる眼差しに投影されたもの。
著者の文章はフランス語の文章を日本語で読んでいるような、新鮮で懐かしい、不思議な感覚に包まれる文章でした。私は著者と言語的領土(日仏英)を共有しており、かつそれによるアイデンティティの曖昧さに悩んだことも共有しているのですが、それでもなお、著者が考察に駆使する哲学・芸術・情報科学等の知見に対して明るくないからか、著者の感性に他者性を感じながら読み進めました。それをゆっくり咀嚼する過程でじわじわと魅力を感じる、そんな文章でした。
極力まとめてみたものの、多面的で重層的で一言で形容し難い一冊。
例えば興味深いと感じたのは
・守破離↔︎正反合のベクトルの違い
・日本語での自然な会話は対話ではなく共話(能の「小鍛冶」が象徴的とか、いつか見てみたい)
・モンゴルの終わらない贈り物の挿話がすごく良かった
・わかりあえなさは「埋められるべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白である」 -
ぬか床と会話できる「NukaBot」は面白いです。ぬか床の菌類と共生している意識が芽生えます。とても今日的な理解を助けてくれる考え方がたくさんありました。「今日の社会では、依然として「個」の思想が強すぎるのだ。決して全体主義に陥ることなく、わたしたち個々の人間が、個体としてだけではなく、同時に「種」としての時間を生きる認識が生まれるにはどうすればいいのだろうか。」(P141)わかりあえなさを前提とした思考錯誤はコロナウィルスとの向き合い方のヒントにもなりそうです。
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本書の終盤近くに「コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。」とある。声高に自分の主張だけ叫んだり、一刀両断するよう物言いをしたり、分断されたグループだけで会話を進めたり、身近に当たり前のようになったのはコミュニケーションでも何でも無かったんだ。今さらながら、そんな当たり前のことに気づいた。
せめて、会話だけではない他者とのやりとり、キャッチボールをもっと大切にできるように、また本書のように温かく言葉を紡げるようになりたいものだ、と感じた。 -
今日もSNSで何かについて揉めている、これは世界が分断されていく「わかりあえなさ」の象徴の一つだ。そもそも100%わかりあうなんて不可能だけど、「わかりあおう」とすることはできる。それには互いの意見を主張する「対話」よりも、あいまいな言葉を連ねていくことで会話を構築していく「共話」が必要だ。相手の視点に立って、淀みながらでもいいから互いに言葉を交わしていくこと。その結び目が世界を広げ、時空を超えて私たちを繋いでくれるはずだから。