騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

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  • 新潮社
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レビュー : 512
  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103534327

作品紹介・あらすじ

その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの、山の上に住んでいた。夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた……それは孤独で静謐な日々であるはずだった。騎士団長が顕(あらわ)れるまでは。

感想・レビュー・書評

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  • <第一部、第二部を併せての評です>
    主人公は三十六歳の画家。今は復縁しているが、五年前に突然妻から離婚を切り出されたことがある。あなたとはもう暮らせない、と言われたのだ。家を出るという妻に、自分の方が出ていくと告げ、愛車のプジョー205に当座の荷物だけを積みこむと、そのまま北に向けて走り出した。東北、北海道をさすらうようにして宮城に着いたところで車が壊れた。電車で東京に戻り、友人の雨田政彦に電話し、住むところを紹介してもらった。小田原の山中にある、政彦の父で画家の雨田具彦の家である。

    具彦は山の上にある一軒家にこもって絵を描いていたが、今は認知症が進み、施設で暮らしている。空き家のままでは物騒で、「私」は番人代わりに格安で宿を提供される。しかも、政彦の紹介で市内の絵画教室の教師の職も得、何とか暮らしの目途もついた。そんなある夜、屋根裏で物音がする。明るくなってから天井裏を調べると梁にミミズクがいた。それともう一つ見つかった物がある。丁寧に梱包された絵だ。紐に付された名札には「騎士団長殺し」と記されていた。

    雨田具彦は元は洋画家だが、留学先のウィーンから帰国後、突然日本画を描き出した。理由は不明だが、余白を生かした空間に飛鳥時代の人物を配置した絵は高い評価を得た。見つかった絵は、未発表のもので画家は誰にも見せる気がなく、秘匿していたもののようだ。画題は題名からモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』に想を得たものと分かる。騎士団長(コメンダントーレ)がドン・ジョヴァンニに刺された直後を描いたものらしく、騎士団長の白衣には血が滲み、ドン・ジョヴァンニの恋人であるドンナ・アンナの驚く姿も見える。ただ服装は日本の古代の装束に変えられている。画家の代表作と言っていい傑作である。

    その絵を見つけてからというもの、おかしなことが起きるようになる。深夜になると外で鈴の音が聞こえるのだ。それも敷地内にある祠のあたりから。祠の裏にはススキの茂みがあり、よく見ると塚のようなものがあった。一人で調べるのも気が引けたので、知りあったばかりの免色という男に話して協力を得る。IT関連で財をなした男で、早速手を回して業者と重機を手配し、蓋になっていた岩を持ち上げた。石の下には深さ三メートルほどの穴が隠されており、中には仏具の鈴が残されていたが、人のいた気配はなかった。

    持ち帰った鈴はスタジオに置いた。すると今度は家の中で鈴が鳴る。恐る恐るスタジオの扉を開ける、とそこに騎士団長がいた。身長六十センチほどで絵の中から抜け出てきたなりをして。「ない」というところを「あらない」と奇妙な日本語を使うその男は本人の言葉を借りると「イデア」だそうだ。今は「形式化」していて、格好は主人公の頭の中にある騎士団長の姿を借りたのだという。いわば「私」の「心の眼」だけに写っているわけだ。現実界では長くこの姿でいることはできず、一定時間がたつと消えてしまう。

    このイデアとの遭遇以来、主人公の絵は変化を遂げる。それまでも肖像画家としての技量は人に優れていたが、今ではモデルの外見ではなく本質を描き出すまでになった。免色に依頼された肖像画も傑作で、高額で買い取られて屋敷に飾られる。その上で免色はもう一枚絵を依頼する。「私」の絵画教室に通う十二歳の少女の絵だ。まりえという少女は、免色の愛した女の忘れ形見であるだけでなく、もしかしたら自分の血を引いているかもしれない、という。死んだ自分の妹に似たまりえは、日曜日になるとやってきた。教室では無口だったが、二人きりになるとよくしゃべった。

    その絵もほぼ完成しかけたころ、ことは起きた。まりえの行方が分からなくなったのだ。騎士団長は、明日電話がかかり、何かを頼まれるが、それを断ってはいけないという。それがまりえの行方を知る手がかりだからだ。電話の主は政彦で、父の具合が悪いので見舞いに行くが一緒に行くか?というものだ。前々から具彦に会いたかった「私」はもちろん承知する。翌日、ベッドに横たわったままの具彦と「私」が二人きりになると、姿を現した騎士団長がここで自分を刺せ、と命じる。それがまりえを探す切り札だった。躊躇した「私」だったが、まりえのためと思い定め、言われたとおりにすると、不思議なことが起きる。

    「私」は、具彦の部屋ではない薄暗いところにいた。そこは「メタファー」の世界だった。ところで、突然出てきたこの「メタファー」、修辞学で言えば隠喩である。それにとどまらず視覚表現などにも適用され、近頃では「空間の中に身体を持って生きている人間が世界を把握しようとする時に避けることのできないカテゴリー把握の作用・原理なのだと考えられるようになってきている」らしい。村上春樹をあまり読んだことがないので、よく知らないのだが、こんな小難しい理論を小説の中に持ち込むような作家だったか?

    ここからはまったく「冥界下り」。ル=グウィンの『ゲド戦記』に描かれているような灰色の世界が延々続く。それまで読んできた現実的な世界から突然放り出され、霧に包まれた茫漠たる世界や三途の川を思わせる川、富士の風穴にあるような横穴などの中を「私」は一人で歩いていかなければならない。しかも、そこには「二重のメタファー」と呼ばれる恐ろしい存在がいて、「私」が動けなくなるのを待っている。必死で頼りとなる記憶をたどろうとする「私」だが、しだいにそれもままならなくなる。すると穴は狭まり、「私」は身動きが取れなくなる。まるで母親の子宮の中にいる胎児のようだ。

    冒頭にあるように、結果として「私」は生還し、離婚していた妻と元の鞘に収まる。まりえがどこにいたのかもその口から説明される。めでたし、めでたしとなるわけだが、いったいこれはどういう小説なのだろう。ミステリめいた謎も多く解決されずにそのまま放置されている。妻にそのことを言うと(実はこれは妻が貸してくれたのだ。妻は村上春樹をよく読んでいる)「続編があるんじゃないの?」とあっさり言った。えっ、そうなの。これで終わりというのではないのか?そういえば、上・下じゃなかったなあ、と思い出した。第一部、第二部になっている。ひょっとしたら第三部が書かれたりすることもあるわけか?あるかもしれない。前にもそんなことがあった。

    というわけで、ここまでで分かったことをちょっとだけまとめておく。これはユング心理学でいう「死と再生」を主題とした小説だ。村上春樹は河合隼雄と親しく、ユング心理学について対談もしている。「私」は実は一度死んだのだ。といっても、肉体的にはそのまま存在していた。ご丁寧なことに村上春樹らしく律儀にセックスまでしている。しかし、ユズという伴侶を失ったことは「私」が考える以上に彼を深く傷つけ、回復不可能なところまで追いつめていたのだ。彼はもう、一度死ぬしかなかった。

    雨田具彦も一度死んだのだろう。愛する女性をオーストリアに残し、自分ひとり強制帰国させられた時点で。しかし、そのままでは死ねなかった。自分の身代わりのように南京に出征した弟が、ピアノを弾く繊細な手に剣を握らされ、中国人を虐殺するよう命じられ、帰国後自殺したからだ。その具彦が描いたのが「騎士団長殺し」の絵だ。考えてみると、この小説の登場人物のほとんどが、愛する人をなくして深い喪失感に耐えている。

    免色はまりえを見るためだけに、大金を払って向かい合う山の上に建つ家を購入し、今でもまりえの母の衣服を鍵のかかった部屋にしまいこんでいる。まりえも幼い頃に母を失ったままだ。父は喪失に耐え兼ねて宗教に走り、娘を顧みることはない。肉体だけを残して魂が死にかけていた「私」は、何故かこれらの人に引きつけられるように小田原に来て、九か月間暮らした。これらの人々は「地下の通路」で結ばれているのだ。

    思うに、「私」はまだ一人で死ぬだけの確かな自我を持っていなかったのだろう。謎の多い免色という人物や、妹を思い出させるまりえという導き手によって、象徴的な死を経験することができた。なにより、雨田具彦という先達が描いた「騎士団長殺し」という絵の存在が大きい。騎士団長のなりをした「イデア」がいなかったら、「私」はどうなっていたのだろう。一度死をくぐり抜けたことで、「私」はひとつ成長を遂げた。画家として対象の本質をつかむところまで行きながら、元の肖像画家として生きてゆくことを選んだ「私」。いつか、あの「白いスバル・フォレスターの男」の絵を完成させることはあるのだろうか?妻ではないが、続編を期待したい。

  • 感触は『羊をめぐる冒険』。変なしゃべり方のキャラもかわいくてマイペースな美少女もスマートで得体の知れない男も、春樹キャラそろい踏みで、原点回帰なのかも。

    それはそれとして。主人公が極度のボンクラ設定なのか村上春樹が渡辺淳一化したのか、妻と別居したらさっさとセフレを作るわ、去った妻の思い出を言語化すれば肉体的なことばかりだわ、おっさんの欲望に正直なのかもしれないがじつに幻滅である。80年代からさんざんおしゃれにやってきたのに、けっきょくそれかよ、今までのもポーズだったのかよ、というね。

    そして。とにかく口を開けて待っていれば事態が動くのは大変おめでたいことで、仕事をうっちゃっても関係者はやさしく放っておいてくれるし、人妻や美少女が<私>だけに心を開いてつまんない冗談にクスクス笑ってくれるし、誰かがやる気を引き出してくれるし、実に都合がいい。

    さらに。言い回しが一本調子であること(主人公の麻痺の表現なのかもしれないが)、会話に人間の息遣いが感じられないことがかなり気になる。もう細かいところに配慮する体力がないのか春樹。

    と、不満は多いけれど300ページを過ぎたあたりからストーリーに動きが出てきたので、第二部は集中して読めそう。気になることを気にしなければ楽しく読める。どういう読書をしているのかと思ってはいる。

  • 久しぶりに村上春樹作品を手に取ったがとても面白かった。やはり現代最高峰の作家の作品であることは疑う余地が無い。なぜこの人が書くとこんなにも日本語が独特の文章になり得るのか不思議で仕方がない。その独特な言い回し、決して理解しやすいストーリーだとは言えない難解な内容だがスルスル読めていつのまにか500ページ超読み終わっていた。章立ての没頭しやすい適度な長さがちょうどよく心地よい(まるで全て分かった上で計算されている科学的なスポーツトレーニングのメニューのようだ)ととても影響を受けるし真似するのが楽しくなる。おそらく読後誰もがみんなこの感覚に陥るのではないか(ちょうどアクション映画を観たあとの客が映画館から出て来る動きが足早で機敏になるように)この不思議な冒険世界の物語に作者の作風に自分も今さらながらハマった。これから時代を遡って過去の作品もぜひ読んでみたい(それはいくら時間が掛かっても必ず実行に移される)とりあえずに第2部をさっそく読もう。

  • 2011年の秋頃。突然、本が読めなくなった。

    その2~3年前から、体調は良くなかった。

    だましだまし仕事を続け、上手く休みながら切り抜けているつもりだった。

    外回りにいくといっては、図書館で借りた本を片手に一人旅をしていたこともあった。

    だが、その本が読めなくなった。年間で50~100冊の本を読んでいたのに。

    あんなに大好きな小説が読めない。

    心の病は、脳の病気だという。

    ならば、自力でなおすのは無理だ。きちんと治療を受けよう。

    心療内科の門を叩くハラが決まった。


    例外的に、ベイスターズやプロレスについての本は読めた。

    趣味の本は読むのが楽だったからだ。


    そんなとき、「1Q84」が文庫化されるニュースを目にした。

    小説を読みたい!

    図書館では2000人待ちだとか。

    ならば、買うしかない。

    数年ぶりに書店に足を運び、「BOOK1前編」を手に入れた。


    読めた。小説が読めた。実に得難い喜びだった。

    青豆と天吾の物語に、魅了された。

    その後紆余曲折があり、良き病院、医師、カウンセラー、多くの仲間、そして家族の支えがあり、心の病は寛解した。


    本書は、その「1Q84」以来の長編書き下ろし作。


    表紙を開き、目次のあの書体を目にしたとき、心の病で苦しむ中、遠くにかすかに見えたあの灯台の光にまた出会えたような感動を覚えた。


    物語は、主人公の肖像画家の語りで淡々と進んでいく。

    学友の雨田政彦の好意で、ひとり住むことになった狭い谷間の入口近くの山の上の家。

    そこで物語は繰り広げられていく。


    深くて幅広い知識と教養。

    人間の内面を掘り下げようとする探求心。

    人と人の出会いがもたらす奇跡のような出来事。


    日本が誇る村上春樹の世界、ここに。

    この本を読めることこそが、幸せの一つだ。

  • 別に好きでもなんでもないのだが何故これだけ世間が騒ぐのか?との謎を解き明かすためにいわば研究材料として読む。
    そんな奴におらんやろ!のハイソぶりとすぐに服を脱いでくれる素敵な女性たちとのエロ三昧にさすがの巧さも加えて村上小説を読んでいる感は半端無い。
    そして今回の目玉はドラえもんならぬイデアもんの登場、マスコットさながらちょこまかと動き回る様はコミカルでとにかく楽しめる。
    しかしながらハルキストがスタバで熱心に読み過ぎるのか増刷に次ぐ増刷で製本が雑なのかブコフ本も図書館本もボロボロなのは何故だろう…答えを求めいざ下巻

  • ん~~まだ謎だ。どういう風になっていくんだ。

    とても読みやすい文章なんだけど、普通じゃない状況にいつの間にか陥ってる。
    淡々と毎日を過ごしているようで、普通じゃ起きないような事が多々ある。それが村上さんの小説だ。

    人妻との関係も必ずだね。

  • 1Q84の穏やか版。
    免色さんが出てくるたびに、
    スプートニクの恋人を思い出す。

    美術館に行くのが楽しくなった。
    ミュシャ展に行った時、ものすごくこの話がちらついた。

  • 前半の方が面白かった。好奇心にはリスクが伴うというのが胸に刺さった。
    音楽、食べ物、仕事、洋服、性的なこと、南京事件、セリフの言い回し、などなどが、いかにも村上春樹だった。
    読んでいると夢中になる。でも、何が後に残ったのかがわからない。それが村上春樹…なのかな。

  • 『青年時代の私は、フォルムの形式美やバランスみたいなものに強く惹きつけられていた。それはそれでもちろん悪くない。しかし私の場合、その先にあるべき魂の深みにまでは手が届いていなかった』―『4 遠くから見ればおおかたのものごとは美しく見える』

    遠くからきれいなものだけを眺めていたいのなら小説など読まないほうがいいのかもしれない。近寄ってみれば大概のものは凸凹でグロテスクあったり色々なものが一緒くたになって汚らしかったり。人も仮面の下でベロを出してこちらを見ているか、顔だけはこちらに向けながら全く別のことを考えているか。小説はそういうものを全て白日の下に晒してしまう。

    村上春樹に関して言えば、やたらと投げ込まれる性的な描写と、もはやお馴染みになったアンダーグラウンドのドロドロ。それをどう受け止めるかということになるのだろう。それは誰の心にもあるんだよ、という語りかけが、この随分と非現実的な例え話を通して続く。そんなものかな、とも思うし、そんなことはない、とも思う。積極的に見たくはないのに目を逸らすことも出来ない。思考停止ではなく思考過多による機能不全。思考することを可能にした脳の発達によって人間は飛躍的に進化したというけれど、その思考によって人間は不自由でもある。そんなことをぽつりぽつり考える。

    「1Q84」がそうであったように、この物語も閉じているようで何も閉じていない。村上春樹の書く物語に大団円など期待している訳ではないけれど、このあちらこちらに開きっ放しになつている物語を一つ一つ閉じなければ現実の世界には戻れないよと、ミヒャエル・エンデの物語のように問われたら、村上春樹は暗いアンダーグラウンドから戻ってくることは出来ないだろう。もちろん村上春樹の主人公はいつも現実の世界に戻って来る。戻ってきた所が、元の現実の世界かどうかの保証は無いけれど。そして底無しの暗くドロドロとした穴の中に何があるのかも解ったようで判らない。ただ、いつもカエルくんのような存在がいて穴の底に落ち込んでしまわないよう助けてくれる。そんな風にまとめてしまうと村上春樹はいつも同じ話を書いているのだとも言える。

    土地の名前、車の種類、ウィスキーのメーカー、そして、音楽に関わる固有名詞たち。そういうものはどれもこれも実際の名前であるのに、そこから何かが連想されて物語に影響を与える訳でもないところも村上春樹的だな思うところ。それは舞台の小道具のようにさり気なく置かれたという文脈の中に在りながら、かなりわざとらしく存在が主張される。そのイコンの意味するものは何か。これもいつものことだが、その意味を上手く掴み取ることが出来ない。それは、あたかも現実の世界を見分ける符丁であるかのように書き込まれるのだが、シンボリックなものであればある程嘘臭く実在が不確実に見える。例えばハメットの小説に登場する小道具も決まりきっているけれど、存在が否定されるかのように扱われる。そのシンボリックな意味合いは、例えば路地裏に転がるウイスキーの空瓶のように、大概の場合明らかだ。それに比べて村上春樹の小道具は存在を強烈に主張するが故に名詞に張り付いた意味が文脈から逸脱する。例えば白いスバル・フォレスターが持つ意味のように。この固有名詞の意味するものの表層的な印象とその仮面の下にある暗澹たる本質のコントラストと言うものが何よりも村上春樹的であるように思う。

    それにしても、本書も「1Q84」と同じように、次の巻に続くのだろうな。何しろカオナシとペンギンのチャームの物語はまだ開始されてもいないのだから。

  • 上巻の途中までは、著者がよく語っていた「物語の力」を信じていた。登場人物達も魅力があるように思えた。でも、下巻に入る前にはもう、期待したものはないな、と予想がついた。

    井戸や壁抜け、へんてこキャラなど、おなじみのモチーフが使いまわされても、セクシャルな描写が多めでも、そこまで胸の大きさに拘るか?!…という女子中学生が出てきても受け入れられる…なんとか。でも、どれもこれも功を奏してない。読み通すのが苦痛といった批判ではない。ただ、「1Q84」や「ねじまき鳥」や、それ以前のすべての作品からいつも受け取ることができた、「読み終えたときちょっとだけ世界がずれたような感覚」はもうなかった。

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著者プロフィール

村上春樹(むらかみ はるき)
1949年、京都府京都市伏見区生まれ、兵庫県西宮市芦屋市育ち。早稲田大学第一文学部映画演劇科卒。大学在学中にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を国分寺・千駄ヶ谷に開店していた(1981年、店を人に譲渡)。1979年にデビュー作の「風の歌を聴け」で群像新人文学賞を受賞。谷崎潤一郎賞、読売文学賞、朝日賞など数々の受賞歴がある。2006年にフランツ・カフカ賞、2009年にイスラエルのエルサレム賞受賞。ノーベル文学賞に最も近い作家の一人と言われており、毎年発表時期に日本国内でニュースになる。事実、村上春樹作品は全世界で翻訳されており、アメリカ・アジアでの評価がとりわけ高い。フィッツジェラルドやレイモンド・カーヴァーなどの作品の翻訳も手がけ、翻訳家としての仕事も高い評価を受ける。翻訳と創作活動を交互に行うことで、作風を変化させ、作家としての成長を続けている。新作が発表されるたび大きな話題となるが、近年は特別番組「村上RADIO」にてラジオDJも務め(不定期放映)、数々の名言も注目を集める。代表作に『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』。2019年7月31日に『神の子どもたちはみな踊る』が舞台化。2019年8月7日発売の『文学界』でロングインタビュー「暗闇の中のランタンのように」掲載。アメリカのサックス奏者スタン・ゲッツの伝記翻訳を2019年8月末に刊行予定。

村上春樹の作品

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