騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

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  • 新潮社
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レビュー : 552
  • Amazon.co.jp ・本 (544ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103534334

感想・レビュー・書評

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  • 井戸のようなもの、通過儀礼のようなもの、試練、犠牲、女性、血縁、不思議な名前、色々な知識を持ちすぎている人々、イデア・メタファーといった得体の知れないもの。これまでに主に新潮社から出版されている作品群に出てきたモチーフに似た沢山のものが次から次へと現れてきて、概ね想像した通りに物語内の役割を果たしていきました。もちろん予想しえないことも沢山起こりましたが、いつも通りの、とても村上春樹さんらしい作品であった、ということです。

    村上春樹さんの作品を読むときはやや恣意的に眼鏡を外した裸眼で見るぼやけた世界をイメージするようにしています。そうでもしないと、意味不明なものに振り回され過ぎて話の筋らしきものがさっぱり分からない、ということは初期に読んだ作品から学びました。自分の常識のフィルターにかけることは彼の作品を前には何の意味もなさない、というか。あらゆる固定概念を取っ払ってしまってはじめて心地よいもの、というか。
    たとえば、主要な登場人物は皆一応日本社会に溶け込んでいるようだけれど少なくとも私は出会ったことのないタイプの人ばかりです。主人公と免色さんのお話しは文字で追う分には辛うじて耐えうるけれど、万が一突然間近で始まったら付いていけなさすぎて私の中の何かがドカンと爆発しそうです。私の教養が足りなさすぎるのか、それとも彼らが強烈なのか、そういうことは何とも判断しがたいですが、私の考える常識の範疇ではないことが共有されすぎているのは確かです。
    ほかにも、まりえちゃんの年齢設定には違和感をおぼえました。もっと幼いような雰囲気もあるし、不気味なほど大人にも感じられる、そういう微妙さという意味では適切な年頃なのかもしれないけれど、でもそういう問題ではありません。違和感は違和感です。
    ただ、掘り下げるべきはそういうところではないのでしょう。読者の世界との関係性、近さみたいなものはある意味でどうでもよいことで、物語の構造の中で起きていることをそのまま汲み取れたらそれでよいのではないか、と。あるいは、「面白い」と感じられるならば読書している間その構造の中に思い切って飛び込んでトリップしてしまえばよいのではないか、と。村上春樹さんの作品の正しい読み方、作法のようなものがあるのか、あったとしても知らないので、そんな調子できちんと味わえているのかもやはり知りませんが、とかく個人的には満足の行く時間の使い方を出来たのでそれで良いと思っています。

    主人公の身に起きたことが「本当」だとするなら、どういう現象だったのだと理解するのが妥当なのか、というどうでもよいことだけが消化不良で胃に残っています。でも、地底の冒険の描写自体はメタファーだとしても、「分かるような気がする」現象だからそれでいいのではないか、とも思っています。

    あと、本作を楽しめた一因は、「真実」との向き合い方について度々議論されていたからかもしれません。「真実はいつも一つ!」だと信じていた頃から随分遠くまで来たもんだ、と思ったり。「真実はいつも一つ!」もまた真だとは思いますが。

    これ以上は、まだ反芻しきれていない感じがするので、何か思い浮かんだたらまた。

  • 母親を早くに亡くした中学生まりえ。

    まりえの父親である可能性がある免色。

    そして、妹を少年時代に亡くした画家の主人公。

    雨田具彦邸の屋根裏部屋で見つかった絵画「騎士団長殺し」を軸に、奇想天外な物語が静かに進んでいく。

    小田原の静かなはずの邸宅のそばで見つかった「穴」。

    摩訶不思議な展開に、抗うどころか心地よく魅せらせていく。


    子どもの頃に慣れ親しんだ童話の世界のように。

    仏典に説かれた時空を超えた説話のように。

    物語に寄り添い、共に時を過ごす中で、これまで気が付かなかったものに気が付くことが出来る。

    昨日の自分より今日の自分。
    今日の自分より明日の自分。

    先の見えない洞窟のなかにいるような苦難にあっても、それを乗り越える術は、自分自身の中にある。

    全ての出来事には意味がある。

    目の前に見えていても、見えていなくても、繋がっている。

    自身の中にあるレジリエンスを引き出す文化芸術の力。

    春樹ワールドから帰ってきたら、少しだけ、何かが前に進んでいた。

    #村上春樹
    #騎士団長殺し
    #レジリエンス

  • ねじまき鳥のクロニクルと同じ要素がいくつか。井戸と類似した存在の穴(入口出口がないのに通り抜けられる)はその最たる例だ。物語が推進力をもち、物語そのものが望む方へと筆を走らせると、その人の中では同じような場面へと帰着するのだろうか?計り知れない境地。この作品は、登場人物の会話が特に秀でている。会話の中から新たな価値観や物語を進める符丁のようなものが生まれる。それは常に、インフォメーションギャップのあるコミュニケーションだから、他愛もない会話でも目が離せない。東北大震災の出し方が、村上春樹の人間性を物語っている。というより、主人公の一人称からして、それ以外の出し方は考えられない。さり気なくて、慎ましい思慮に富んでいて、それでいて事実をズバッと指摘する端的さを含んでいる。一瞬一瞬を切り取りながら、その雰囲気を楽しむ作品だと感じた。

  • 私である彼が羨ましい。
    「自分はワンセットの遺伝子を引き継いで、それを次の世代に送る容れ物に過ぎない。そしてその職務を別にすれば、自分はただの土塊に過ぎない。」
    騎士団長にぼくも出会いたい。でもちっとやそっとなやつでは現れてくれないんだろうな。
    村上氏が言葉で描く日本語のニュアンスが読むたびにとても新鮮で心地よい。自分は日本語だからと、そのように理解し受け止めている。海外向けの場合、それは正しく伝えているんだろうかって心配してしまう。彼自身が校正したとしても。あの日本語で感じるニュアンスを。余計な心配ごとだけど。

    それとセックス描写が不快とかポルノ?などの意見を見聞きしてそう思う人もいても仕方ないかもしれないけど、それは生活の一部に過ぎないのかな? それを描写しないですむ表現もあるだろうけど村上氏はそれを含めてのことじゃないかと。ぼく個人としては自然なことだと感じてるんだけど。

    イデアもメタファーも調べたけど未だしっくりカラダにしみてこないっす。そのうち馴染む時がくるのだろうか?

    そうそう、もう少しで終わりかぁって分かるくらいのページ数なのにまだあと1部くらいかけんじゃね⁈って位、終わりが見えてなかったけどいきなり駆け足で終わりにした感がしたんだよなぁ〜。その辺がちょっと物足りなくて残念ではあったんだけど、久々に村上春樹って面白いって感じたわけで。感謝です。ごちそうさまでした!

  • どうとでも読める小説なので感想を言葉にしづらい。全てが何かの比喩にも思える。書かれていることを受け取るためには読んで体感するしかないという小説。
    今まで読んだいくつかの村上春樹の作品の中では、いちばん心に響いた。

    こころの中に、ここではないどこかの美しい風景やイメージをいくつか持っているということは、人が生きるのを励ますのだと思う。みみずくがいた屋根裏の風景もまた、私にとって大切なイメージのひとつとなった。

  • ようやく読み終えた。
    村上春樹作品が発表されるペースにはある程度おきまりのパターンというのがある。
    中編『国境の南、太陽の西』(1992年)を経てからの長編『ねじまき鳥クロニクル』(1994、5年)。
    中編『スプートニクの恋人』(1999年)を経て、長編『海辺のカフカ』(2002年)。
    中編『アフターダーク』(2004年)を経て、長編『1Q84』(2009、10年)。
    そして中編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)を経て、長編『騎士団長殺し』(2017年)。
    間に短編集が入るが、中編の後に長編が来るというパターンは昔からある。
    改めて言うまでもなく、これは割とよく知られている。中編がいわゆるリアリズム小説の系譜で、『ノルウェイの森』はこれに当たる。その後に続く長編を生み出す前にわき出る雲のような存在だと個人的には考えている。
    長編を書くのは体力が必要で、大変な作業なので、基本的に中編と長編を書いている間は、その作品に集中しているらしい。そして、書き上げて出版されたものはほとんど読み返さないという。
    今回の中編と長編を結ぶのは「色彩を持たない」名前である。『多崎』では、色の名前を持つ5人の旧友たちとの思い出を、色の名前がつかない(=色彩を持たない)多崎つくるが巡礼していく、という物語だった。
    これに対し、『騎士団長』では、「免色」という際立った人物が登場する。彼もまた、まさに「色彩を持たない」名前だ(「色」の字は入っているのだが)。
    また、多崎つくるが旧友たちの思い出を巡礼するのと同様に、「僕」も雨田具彦の家で不思議な経験を積む。この経験と自らの選択によって生きる推進力のようなものを得る、という意味ではこのふたつの物語はよく似ている。というか、それは村上春樹の小説で繰り返し登場するテーマでもある。
    『騎士団長』は、これまでの長編と同じようなテーマ(妻の喪失、父親と子、抑えがたい暴力性)が繰り返し登場するが、さらにメタファーの重複性が強調されている。主人公は、妻(ユズ)と幼くして失った妹(コミチ)、そして免色の娘であるかもしれない少女(まりえ)、「騎士団長殺し」の絵に登場するドンナ・アンナが、主人公にとって大切な守るべき存在として登場する。それらは幾度も重ねられて描写されるが、それでいてそれぞれに個別の存在として描かれている。そしてその存在は、最終的にはまた別の女の子の登場によって引き継がれる。
    第2部に入ってからの展開は、やや急ぎ足のような印象を受けた。第1部の冒頭に出てきた顔のない依頼人(そういえばそんな映画があった)と、その後の主人公の記述がいわゆる物語の目的地を明確にしていて、そこに向けて急いで駆け抜けたような感じだった。

  • 一巡目での感想。
    (村上春樹氏の作品は、何度も読み返す度にまた違うものが見えてきて、新たな気付きや、新たな解釈が生まれるので)
    ストーリー展開や結末が分かっていても、再びページを開いてしまうとそこから読み返してしまう。読み返すと止まらなくなる。これは村上作品全てに共通する普遍。
    気に入った音楽を飽きることなく何度も聴きかえすように。

    村上作品は、文章を追うだけでしっかり体感できる。自分の心の中で描かれた情景が揺るぐことない映像として記憶される。
    ピンクのスーツを着たふくよかな女性の後ろ姿だったり(世界の終わり)、イルカホテルに棲む羊男だったり(ダンスダンスダンス)。
    村上作品だけは、何十年も前に読んだ本でも記憶を映像として呼び起こすことができるのは、この「心の情景」が描けている稀有な作家だからだと思う。

    ●心の情景

    まるで女性器のような雑木林の祠の穴。
    屋根裏に棲みついたみみずく。
    「騎士団長殺し」「白いスバルフォレスターの男」「未完成のまりえの肖像画」が置かれたアトリエ。
    谷の向こう側のまるで要塞のような免色さんの白い豪邸。
    会話の合間に眺めた、窓にうちつけられた雨の雫。

    ●「性」「生」「死」

    「性」「生」「死」は、村上作品で一貫して重要になってくる要素。
    なかなか消化できないそれらの問題を、全てをまるごと享受して生きていく。

    今回は「井戸」ではなく「穴」。
    それは、茂みにひっそり隠れた「まるで女性器のよう」で更に「異次元に繋がっている」ことから、子宮を連想する。
    無から有に変わる場所(命が有形化され、魂が宿る場所)、無風だけど水がある(羊水)。
    別次元に迷い込んだ子宮(もしくは狭くて真っ暗な卵管なのか産道)を潜り抜けて再びこの世に生まれ落ちた時、私はもう一度生まれ変わり、ユズに会う決心をする。
    そして、実質的な我が子ではないけれど、ユズの身籠った子供は、自分にとってかけがえのない子だと揺るぎない確信を得る。

    ●「イデア=顕れる」

    ここで顕れたイデアは、内なる自分。
    「罪悪感」「怒り」「内なる悪」「邪悪なる父」の仮の姿、可視化。
    大切なものを奪われ、どこにぶつけたらいいのか分からない怒りのようなもの。
    表立って出ることなく、心の中だけに留められた怒りのような感情を、ただやり過ごして生きてしまった、未消化のままのもう一人の自分。
    昇華しきれてない感情があるものだけに見えるイデア。

    雨田具彦にとって、愛する女性を殺された怒りと、自分だけ助かった裏切りと罪悪感(騎士団長殺し)。
    私にとって、幼いコミを奪われた病魔と何もできなかった罪悪感、ユズが浮気して突然去っていった怒りとそれに向き合えない罪悪感(白いスバルフォレスターの男)。
    秋川まりえにとっては、母の命を奪ったスズメバチへの怒り、心を通わせられない父親への憤り。笙子への罪悪感。(免色家の謎の男)

    私が騎士団長を殺したことで、雨田具彦のイデアは救われる。
    そして、穴の中に入り、コミを失った現実としっかりと向き合う。
    まりえは免色家で、スズメバチや謎の男と対峙する。
    喪われたはずの愛する存在は、完全に失われたわけではなく、今も尚、自分を救ってくれている。

    ●「あらない」(「在る」と「無い」)

    騎士団長の口癖「あらない」には、「在る」と「無い」を両方含んだ「ない」である。
    「在る世界」と「無い世界」で判断しがちだけれど、実は「無くなった」ものは、完全に「無」になったのではなく、「在りながらして無い」のだ。

    ●「顔なが=メタファー=遷る」

    顔ながは、時空や次元を超えた目撃者(冷静に判断できるもの)で、二つの世界の蓋を開ける者。
    屋根裏を覗いた私そのものが、雨田具彦にとっての顔なが。

    ●「顔なし=二つの世界の橋渡し」

    現実の世界(生・肉体)と非現実の世界(死・魂)の橋渡し的存在。
    橋渡しが可能になるアイテムが顔なし次第で都度変わる。(鈴、ペンギンのお守り、完成した肖像画)

    免色渉=顔なし。
    免色渉の肖像画を完成させたから、ふたつの世界を行き来することができた。

    私は冒頭のプロローグで、顔なしの肖像画を描こうとしていることから、何らかの理由で再び向こうの世界に行こうとしているのかもしれない。

    ●穴の中の世界

    穴の中の世界は、子宮の中で命が芽生えることと似通っているように感じた。
    有形が無形になり、無形が有形になる、「在る」と「無い」が通り道となる場所。

    逆らえない運命のようなもの。
    水があれば飲まずにいられないような(羊水)
    川を渡るしか選択肢がないような(三途の川)
    細い穴を潜り抜けるしか道がないような(産道)

    ●二重メタファー=免色渉?

    「1つの精神が同時に相反する2つの信条を持ち、その両方を受け入れることができる能力のこと。あなたの中にありながら、あなたにとっての正しい思いをつかまえて、次々に貪り食べてしまうもの。そのように肥え太っていくもの。それが二重メタファー。それはあなたの内側にある深い暗闇に、昔からずっと住まっているものなの」

    物事には相反する表と裏があり、それがセットでひとつである。日が当たれば必ず影ができる。どちらか一方だけを無くすことはできないけれど、場合によっては影に覆い尽くされてしまうことはある。

    目に見える現実世界の出来事だけでなく、別の世界(想像の世界)も信じてもいい。しかし、免色のように想像の世界に現実まで貪られてしまっては元も子もない。

    現実世界と想像世界を上手に行き来できる柔軟さ、不確かなものを信じる力も大事、でもその信念は時に行きすぎると盲目的になり現実を脅かすものにもなりかねない。

    真実の顕れであるイデア(揺らぎのない真実)観念よりも、メタファー(揺らぎの余地のある可能性)不確かな現実を信じる免色渉は、「まりえが自分の子どもかもしれない」という不確かな可能性を拠り所にするために、半ば強引に豪邸を買い取ったり、笙子を手中に納めたりする。
    人間誰しもが、自分の正しさ(信仰)を追求するあまり、結果的に悪をもたらしてしまうことがある。

    ●最後のユズのくだり

    「私が生きているのはもちろん私の人生であるわけだけど、でもそこで起こることのほとんどすべては、私とは関係のない場所で勝手に決められて、勝手に進められているのかもしれないって。
    つまり、私はこうして自由意志みたいなものを持って生きているようだけれど、結局のところ私自身は大事なことは何ひとつ選んでいないのかもしれない。
    そして私が妊娠してしまったのも、そういうひとつの顕れじゃないかって考えたの。
    こういうのって、よくある運命論みたいに聞こえるかもしれないけど、でも本当にそう感じたの。
    とても率直に、とてもひしひしと。そして思ったの。
    こうなったのなら、何があっても私一人で子供を産んで育ててみようって。
    そして私にこれから何が起こるのかを見届けてみようって。
    それがすごく大事なことであるように思えた」

    これは、私が18歳の時に日記に綴った言葉とほぼ一緒。
    私は免色渉やユズのように、完璧主義で徹底している。
    避妊だってぬかりなく、計画外の妊娠なんて絶対に在りえないはずの条件で、妊娠してしまった。
    そして、私はユズと同じように「産もう」って決心した。
    結局産めなかったし、その後も流産を繰り返し、結果的に子宝に恵まれたなかったけれど。
    それでも、あの時思ったこの感情や出来事は、私にとって「あらない」なのかもしれない。
    現実には「無い」けれど、今でもしっかりと「在る」。
    私の人生の核となっている。

  • 著明な画家雨田具彦が屋根裏に隠し封印していた名画<騎士団長殺し>を見つけ、裏庭の古い祠を掘り起こすことで開かれた環。<私>のイデアは自身の闇のメタファー<白いスバルフォレスターの男>を持ちながらもメタファーの世界をくぐり抜け、祠の中に戻ってくる。
    やがて環は閉じられる。

    「試練はいつか必ず訪れます。試練は人生の仕切り直しの好機なんです。きつければきついほど、それはあとになって役に立ちます」
    「もしこの穴の底から出ることができたなら、思い切ってユズに会いに行こう」

    <私>が多くの地域を旅して回った時、決して幸福な時間ではなかったし喪失の時間であったが、たくさんの人々の間に身を置き彼らの生活を通り抜け、いくつかの物事を棄て、そして拾い上げることになった。それらの場所を通り過ぎた後では、私はその前と少しだけ違う人間になっていた。

    相変わらず明らかにされないことも多いが、村上作品にしては、後半かなり説明してくれた気がする。
    読み終わって、再びプロローグを読みたくなりそのまま再読したくなった。<環>だと思った。

  • 騎士団長殺しの絵を解放したことによって、全てのモノゴトが動き出した。そこから出てきたイデアとしての騎士団長。免色氏が訪れて、自分の子供かもしれない女の子、まりえと会いたい、そしてその子を連れてきた叔母に恋をする免色氏。何かがおかしい、はめられている、そんな感覚を持ちつつ、抗えない別の世界の動きを感じ始める主人公の葛藤。
    そして、ついにまりえが行方不明になってしまう。同時に、騎士団長殺しの作者雨田具彦の容体が悪化、家を主人公に貸してくれた息子からの連絡が入って一緒に伊豆の病院に向かう。そこで、騎士団長と再会することに。自分を刺し殺せば、まりえの発見に近づくと示唆され、絵画の情景のように騎士団長を刺した主人公は、不思議な場所で、試練を与えられる。それを乗り越えた先には、真っ暗な穴のなか、鈴を鳴らすと、免色氏が蓋を開けて助け出そうとしてくれている。やっとの事で出てみたら、まりえは見つかったという。
    騎士団長殺しの絵と、雨田具彦の体験した過去。雨田具彦の息子の友人として、絵を発見した主人公と、その周りの出来事、妊娠した離婚直前の妻は、妊娠の相手との結婚を拒否。そして、騎士団長殺しを書いた雨田具彦のように、主人公は渾身の絵を描くことができたのか、それは現実を超えたイデアの絵であり、イデアは世の中を動かしてしまうものでもある。そのキーとなるのが、穴だ。それがイデアとメタファー、現実ともう一つの世界をつなぐ扉である。この部分は、ハッと思えば、1Q84などもそうだったなと。パラレルワールドを可視化する手段は今のところない、よって扉を使って教えてくれているような気がする。
    読み終えた後に、おそらく多くの人が、第一部の冒頭プロローグを読み返したのではないかと思う。導入で起きた事象が一体何を表していたのか、その答えは最後まで読み進めて初めて理解可能なものだから。外国ではそのエロさ部分への酷評も見受けられた本作は、実はテーマは全く違うところにある。不倫で身体を重ね合う行為、ナチスや南京事件など大量殺戮、しかも正義が見出せない、イデアとしてもタブー視されたモノゴトに、一石を投じる作品になっている。事実がどうであれ、それがもたらす災こそがリアルであり、その殺戮や行為自体はイデアである、観念として行為者となりうるのだから、それが現実ではなく、でも現実以上の行為になっているのだと。二重のメタファーに襲い掛かられるシーンは、目の前の事象に対して、その行為に至るイデア部分をイデアが否定する状況、つまりはイデアを暗い穴にひきづり込んで失わせてしまうイメージを持った(専門家が読めば違うのかもしれないが)。登場人物の描写も敢えて、相当細かい。ジャケットの色から、靴まで、そして少女の胸の大きさまで繰り返し述べられる。これに、気持ち悪い感覚を持たせることがおそらく村上春樹氏の考えるストーリーそのものだろう。可視化できる、いわゆる見えている現実とその後ろにあるメタファー的なものがあり、メタファーこそが恐ろしいのだと。その最たる存在が、白いスバル・フォレスターの男である。悪い方のイデアの象徴、つまりは自身が悪であることと、その象徴として対峙する存在として描かられている点が、本作で唯一と言っていい大きな変革だと思った。最後は一人で生きていくということではなく、悪であるイデアも認め、そこと対峙して生きていく。おそらく、というか確実にフォレスターの男は自分自身だ。自分自身の中にある大っ嫌いな存在。いつかまた向き合うときがくる、その戦いに向けて準備するには時間がまだかかるんだ。それは、カオナシ人間の絵を肖像画を描く、つまりは本質を見る力がついたとき、本質を描けるようになったとき、守り神であるペンギンのキーホルダーを返してもらったときなんだとつながっていく。
    感想としては、やっぱり筆者は言わずと知れたではあるけれど天才だ、他の小説がおままごとのように見えてしまうくらい、すごい。

  • 図書館にて。

    ストーリーも面白かったけど、各所でぐっとくる言葉がある。それが村上春樹の小説の良さなのかなと思う。
    あーん、おわっちゃうよーと思いながら、ファンタジーな冬の夜を過ごせた。

著者プロフィール

村上春樹(むらかみ はるき)
1949年、京都府京都市伏見区生まれ、兵庫県西宮市芦屋市育ち。早稲田大学第一文学部映画演劇科卒。大学在学中にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を国分寺・千駄ヶ谷に開店していた(1981年、店を人に譲渡)。1979年にデビュー作の「風の歌を聴け」で群像新人文学賞を受賞。谷崎潤一郎賞、読売文学賞、朝日賞など数々の受賞歴がある。2006年にフランツ・カフカ賞、2009年にイスラエルのエルサレム賞受賞。ノーベル文学賞に最も近い作家の一人と言われており、毎年発表時期に日本国内でニュースになる。事実、村上春樹作品は全世界で翻訳されており、アメリカ・アジアでの評価がとりわけ高い。フィッツジェラルドやレイモンド・カーヴァーなどの作品の翻訳も手がけ、翻訳家としての仕事も高い評価を受ける。翻訳と創作活動を交互に行うことで、作風を変化させ、作家としての成長を続けている。新作が発表されるたび大きな話題となるが、近年は特別番組「村上RADIO」にてラジオDJも務め(不定期放映)、数々の名言も注目を集める。代表作に『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』。2019年7月31日に『神の子どもたちはみな踊る』が舞台化。アメリカのサックス奏者スタン・ゲッツの伝記翻訳を2019年8月刊行。2019年9月10日発売の『文藝春秋』10月号で「至るところにある妄想 バイロイト日記」を寄稿。

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