汽車旅放浪記

著者 :
  • 新潮社
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感想 : 8
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103876038

感想・レビュー・書評

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  • 20160619読了
    #鉄道

  • 関川さんがてっちゃんだったとは知りませんでした。いつものように端正な文体で、読んでいて眼の奥の奥のほうがこころよかったです。

  • 昭和30年代回顧が流行のようだが、半世紀ほど前、自家用車などなかった頃、人や荷物を大量輸送できたのは汽車だけだった。昧爽のピ-ンと張った空気を切り裂く汽笛、なだらかに広がる稲穂の波を縫って走る列車、闇の中に橙色の小さな窓灯りが連なる夜汽車。少年はいつかはあの汽車に乗って旅立つことを夢みていた。

    関川は書いている。「私は幼い頃から汽車を見に行くのが好きだった。流れの速い用水沿いの小道で、汽車に手を振るのが好きな子だった。暮れなずむ山脈の向こう、東京の方へ、車窓に黄色い光を並べて走り去る列車は、希望の色調でえがかれた私の原風景である。」

    著者はこの本を書くために、汽車に乗りはじめてから、「団塊の世代」に鉄道ファンが多いことに気づいた。誰が言いはじめたのかは知らないが鉄道マニアのことを今では「鉄ちゃん」と呼ぶそうだ。関川は、自分がそう思われるのを恥じている。しかし、あとがきではなかば開き直ってこう書く。「さびしい終着駅と線路のぺんぺん草と赤錆た車止めが好きなんだといいはりたくなる」と。

    こういう風景を写真に撮るためにローカル線に乗る友人が私にもいる。「人は誰でも二十五歳までに過ごした文化から自由になれない。それは檻のごときものだ」と言う著者が考える「団塊の世代」がノスタルジックな風景に惹かれる理由は、1960年以降の時代潮流の激しさがそれ以前の牧歌的風景を圧倒し去ったからだ、というものだ。

    今でも自衛隊といえば「税金ドロボー」という言葉を連想し、社会党の凋落に溜息して、日本の民族主義的傾向には「強い懸念」を感じるがコリアや中国のそれに意味なく寛大であるのは「団塊」の特徴である(私ではない)。五〇年代の戦艦大和や零戦のプラモデルへの愛着を「義によって」断ち切り、六〇年代には、「非武装中立論」にひかれたりもした(私である)。近年ようやく汽車への愛は回復したが、六〇年代の傷は乾かない。(「あとがきにかえて」)

    「智に働いた末に無用の人。時代に棹さして流された。通す意地などもとよりない。なのに本人はそう思っていない。無用とも流されたとも思わず、通すべき意地を通しているのだと信じている。」漱石の『草枕』を借りながら、著者は「団塊の世代」をこうくくる。シニカルだが、自分も含めての感想だから傷ましさもまじる。こう感じる同世代は少なくないだろう。

    その「団塊鉄ちゃん」を自認する著者が上越線を皮切りに、房総半島、九州、津軽、果ては樺太サハリンまで、詩人や作家の作品を片手に、作品に描かれた汽車の旅を追体験する文学紀行である。上越線なら朔太郎の『新前橋駅』、光太郎の『上州湯桧曽風景』、そして川端の『雪国』。九州では清張の『点と線』、林芙美子『放浪記』、太宰治で『津軽』、サハリンでは宮沢賢治の『オホーツク挽歌』を取り上げている。

    宮脇俊三の『時刻表2万キロ』のいわゆる「乗りつぶし(全線完乗)」への共感が伝わってくるのが、「宮脇俊三の時間旅行」である。自己に課した一筆書きという決まりのために、どうしても乗れない部分が出てくる。乗り残した「盲腸線(そこから先どこにも繋がらない行き止まりの線)」に乗るというただそれだけの理由で、遠くまで出かけてゆく「児戯に等しい」所業への熱情は、分かる者にしか分からない。

    集中、最も興味深かったのは、「『坊ちゃん』たちが乗った列車」である。当時の時刻表をもとに坊ちゃんや三四郎が乗った列車を特定するという試みも面白いが、汽車嫌いの漱石が作品には意外に汽車を登場させている理由を探る「二十世紀を代表するもの」は、単なる文学紀行を超え、優れた評論になっている。「日露戦争はロシアの鉄道による示威と日本側の強烈な危機意識からはじまった。同時にそれはロシア軌間と日本軌間の戦争でもあった」という指摘には、はたと膝を打った。日本の鉄道はなぜ狭軌なのかという長年の疑問がこの文章で氷解した。

    世代論は嫌いだ。同世代というだけで括られてたまるかという考えをお持ちの「団塊の世代」にこそお薦めしたい。

  • 渋み、落ち着きのある文章だ。
    普通、エッセイというと、薀蓄であったり、自慢であったり、一種の高揚感が漂うものだが、そういったものがない。明鏡止水というのか、歴史、文学、鉄道史、そして私史を淀みなく渾然一体、パーフェクトハーモニー的な味わいをかもしだしている。

  • 001、06.8/30.3刷、並、カバスレ、帯付。
    2011.4/7.名古屋みなとBF

  • 日本の鉄道システムは最終的には首都東京に帰着するよう構成されているため、各地で生まれ育った人々は、地元の鉄道に特別の情を抱くようだ。鉄道の他にもありとあらゆるシステムが東京中心に作られているので、昭和の時代に地方に住む人々の人生の節目には必ず鉄道が登場することになる。例えば急行津軽が出世列車と呼ばれたりする。連絡船をテーマとする流行歌も人々の心を掴んだ。この本には著者の生まれ育った新潟を中心とする昭和或いはその前の時代の鉄道の情景が詳しく描かれている。

  • 一応最後まで読んでみたけど当初の感じと余り変わらなかった。堅い文章という感想は最後まで、拭い去る事が出来なかった。鉄道紀行モノは、やっぱり宮脇俊三さんと種村直樹さんのモノが読み易く心に泌みるな。

  • 関川夏央は、以前は韓国や北朝鮮にまつわる話、最近は明治・大正・昭和の文学者にまつわる話を、よく書いている人で、私自身は非常に好きな作家である。抑制がきいていて、かつ、明快な文章を書くという印象を持っている。本書は、作者自身の鉄道旅行にまつわる雑記・雑感、夏目漱石や太宰治、松本清張などが書いた鉄道路線にまつわる薀蓄などを集めた、「鉄道エッセー」(?)とでもいうもの。「電車」とはせず、わざわざ「汽車」としている理由は、はっきりとは書いていないが、出てくる話が、作者自身のものを含めて比較的古い話が多く、すなわち、汽車にまつわる話が多いからだと思う。私は、鉄道ファン、軽度の鉄っちゃんであり、かつ、関川夏央が好きなので、非常に面白く読めた。別に劇的なことが作中で起こるわけではなく、また実用的とは正反対(別に知っていても知らなくても構わないこと)のみで構成されている読み物なので、鉄道にも関川夏央にも興味のない人には、少し退屈かもしれない。

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著者プロフィール

1949年、新潟県生まれ。上智大学外国語学部中退。
1985年『海峡を越えたホームラン』で講談社ノンフィクション賞、1998年『「坊ちゃん」の時代』(共著)で手塚治虫文化賞、2001年『二葉亭四迷の明治四十一年』など明治以来の日本人の思想と行動原理を掘り下げた業績により司馬遼太郎賞、2003年『昭和が明るかった頃』で講談社エッセイ賞受賞。『ソウルの練習問題』『「ただの人」の人生』『中年シングル生活』『白樺たちの大正』『おじさんはなぜ時代小説が好きか』『汽車旅放浪記』『家族の昭和』『「解説」する文学』など著書多数。

「2015年 『子規、最後の八年』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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