みなそこ

著者 :
  • 新潮社
2.86
  • (4)
  • (19)
  • (43)
  • (23)
  • (9)
本棚登録 : 228
感想 : 52
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (274ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103910022

作品紹介・あらすじ

どんなにたくさんの人がいても、あたしの眼はすぐに彼を見つけてしまう。あたしたちは繫がったまま、橋から飛び降りた。彼と触れあうことは、きっともう、二度とない──。水面のきらめき。くもの巣。お施餓鬼の念仏。台風の日のかくれんぼ。考えもしなかった相手に心を奪われ、あの腕にからめとられてあたしは──。沈下橋のかかる川のほとりで、その夏を永遠にした恋を描く、注目作家の新境地作。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 『橋、沈んでも大丈夫なの?』
    『大丈夫よ』
    『よく壊れないね』
    『沈ませるための橋やもん』

    川の向こう側へと渡る時に使うもの、それが『橋』です。ここで私が強調するまでもありません。そんな『橋』は、人々の生活を支えてくれる大切な存在でもあります。『橋』が一本かかっただけで、それまで繋がりのなかった人と人が新たに結びつき、新たな関係が築かれていきます。”友情の架け橋”、”世界を繋ぐ橋”、そして”明日に架ける橋”と、『橋』がつく表現はどこか前向きな印象を与えてくれるものばかりです。

    しかし、そんな『橋』を維持管理するのも大変です。和歌山市の紀の川にかかる水道橋が崩落して大きな問題になったニュースも2021年にありました。川の流れに抗していかなければ崩れてしまう『橋』。しかし、古来より人は、そんな自然の力に負けないように知恵を振り絞ってきました。その一つが『沈下橋』です。“洪水時には橋面が水面下になる”と、自然の力に逆らわないでその存在を維持しようとする人々の知恵の結晶。沈まないように作るのではなく『沈ませるための橋』というその考え方。

    そんな『沈下橋』のある風景を舞台にした作品がここにあります。『ひかげは中でも小さな部落だった。沈下橋がなかったら辿りつけない、いきどまりの部落』という人々が暮らす『橋』の向こうの土地。この作品はそんな『ひかげ』へと帰省した一人の女性の物語。そんな『ひかげ』で過ごした過去の記憶を呼び覚ましながら一夏をそこで過ごす女性の物語。そしてそれは、そんな女性が一人の中学生の男の子のことを想い『あたしは知った。もう、あたしたちが取り返しのつかないところまで来てしまった』と二人の危うい一夏を描く物語です。

    『窓の外に、くもが巣を張っていた』という音楽室でショパンを弾くのは主人公の佐和子。そこに『さわ、もう練習すんだ?』『すんだがやったら、一緒に帰る?』と男の子を連れてやったきた ひかる。『あのころのあたしは、ピアノと本から知ったことだけで生きていた』という十三歳のそんな夏を思い出す佐和子は、『あれからもう、二十年以上たった』と『明日から、夏休みが始まる』娘の みやびのことを思います。ちょうど学校から帰ってきた みやびに『ママ、ひかげ行くの?』と訊かれ頷いた佐和子。『パパも行くの?』と訊かれ『パパは、夏休みもプール指導があるからね、お休み取れないんだって』と二人だけの旅となることを説明します。そして、『空港を出ると、いつも日射しに目が眩む』と、佐和子の実家のある『ひかげ』へと向かう二人。『レンタカーを借り』て向かう『ひかげ』は『沈下橋がなかったら辿りつけない』場所にありました。『車一台がやっと通れるくらいに細い道』という『沈下橋』は、『欄干がないので、車で渡ると橋の両側は見えなくなる』『五〇mほどの長さの細い橋』でした。そんな時、『橋を渡っていく人がいた』ので『ゆっくりと追い越そうと』すると、振り返ったその人に『さわさん?』と声をかけられます。『あたしのことをこう呼ぶ人は、ひとりしかいない』と思い、『りょう?』と声をかけると『頰をあからめた』りょう。初めてそんな『りょうに出会ったのは、りょうが小学生になったばかりのころだった』と振り返る佐和子は、幼なじみのひかるの息子であるりょうとの出会いのことを思います。そして、実家へと着いた佐和子は部屋の中を見回し『えらいすっきりしたやんか』と母親に語りかけます。『ひかげ、出ることにしたけん』『町へ出ろうかと思うてね』と、『スーパーも病院もない』という『ひかげ』の不便さもあって町に出来た団地へと引っ越すと説明する母親。翌夕、みやびと共に水着に着替えた佐和子は『沈下橋のたもとから川原へ下り』、『川へ入』り『なんべんももぐ』ります。そして、『川から顔を出』すと、『橋の上にりょうがい』るのに気付きました。『みやび、泳ぐが上手うなったねや』と声をかけるりょうに『もう飛びこめるんだよ。ねえ、りょうくん、見てて!』とまた川にもぐる みやび。そんな みやびが浮かんでくるまで『りょうはあたしを見てい』ます。『橋の上と下で、あたしとりょうはみつめあった』というひと時。『首筋に、肩に、時々川面から出る腕に』りょうの視線を感じる佐和子。そんな二人が、”お互いの衝動をさぐる甘く危うい夏”の情景が描かれていきます。

    「みなそこ」という何を意味しているのか今一つピンとこない不思議な書名のこの作品。そんな書名同様に、その内容も一体何が描かれた作品なのか、極めて独特な作品世界がそこには存在します。そして、その一方で読者の賛否両論が巻き起こりそうな作品世界も同時に存在します。この両面を順に見ていきたいと思います。

    まずは、この作品の魅力とも言える点を二つ挙げたいと思います。まずは、この作品を読む読者が間違いなく魅かれる『沈下橋』です。”洪水時には橋面が水面下になる”という『沈下橋』は、四国の四万十川がロケ地に選ばれる旅番組では必ずといっていいほど紹介されてもいます。『雨がたくさん降ったら、沈下橋は川に沈む。橋が沈んだら、渡ることも戻ることもできなくなる』というその橋の存在は、そんな橋を必ず渡らないと辿り着けない主人公・佐和子の実家へと続く道に存在します。この作品ではそんな橋の存在が極めて象徴的に物語の舞台として登場します。『沈下橋を渡るのも一年ぶりだった』と久しぶりの帰郷で橋を渡る佐和子。そんな時『綱渡りみたいだね』と夫のともくんが初めて渡った時に言った言葉を思い出す佐和子。そんな久しぶりの帰郷で象徴的に登場する橋を渡る佐和子の目に飛び込んできたのが『うすやみに夏服の白いシャツが浮かびあがる。男の子』という りょうの姿でした。そして、物語は りょうと佐和子の関係を描く危うい場面が何度も登場しますが、そんな場面にも『沈下橋』が舞台に登場します。この作品で間違いなく読者の心を捉えるこの『沈下橋』という存在。そんな橋の存在を りょうへの思いに絡めて描かれるその作品世界はとても印象的なものでした。

    一方で、ピアノを弾く佐和子と共にこれも幾シーンにもわたって登場するのがクラシック音楽に関する描写です。中でもかつて佐和子が幼き日々に師事したピアノの先生との会話は印象的です。『久しぶりに、さわちゃんのピアノが聞きたい』という先生の希望で佐和子が弾いたのはラヴェルの『水の戯れ』でした。『久しぶりやろうに、よう弾いたね』と言う先生に『パヴァーヌとはやっぱり全然ちがいますね』と答える佐和子。そんな佐和子に先生は『ラヴェルはあきらめたがよね』とその理由を答えます。それが『パヴァーヌまでは、自分でピアノを弾きもって書きよる。水の戯れからは、ピアノを弾かんなった』という通り自分が弾ける前提で作曲した前者と、『自分の実力にむきあえるようにな』り、『自分のピアノの実力から離れて自由になっ』て作曲した後者という違いがあると説明する先生。ラヴェルのピアノ曲は私も大好きなので、こんなクラッシック音楽の解説のようなお話が登場するのは非常に興味深いものを感じます。その一方で、いきなりこんなクラシックの雑学的内容が展開する違和感も感じました。

    そんな作品世界の魅力の一方で、難ありと思える部分が目立つのもこの作品の特徴です。その一つが『登場人物たちは私の故郷、高知県西部の幡多弁を使っています』と中脇さんが説明される、全編にわたってこれでもかと登場する『幡多弁』による表現の数々です。あなたは次のような会話文を読んでその意味が理解できるでしょうか?

    ①『水子が口を開けて待ちよるけん、ご先祖さんにあげたお水は雨だれ落ちにあまさんといかん』

    ②『やって、これが一番大きいがやもん。大きいがにしちょいたら、いつまでやち使えるろ』

    ③『蚊がすごいけん来んちかまん』

    ④『あれはねえ、しんもうばたいうがよ』

    ⑤『言うちょらんかったかねえ。金田のおばあちゃんがみてたがよ』

    さて、どうでしょう?例えば”③”であれば、文字通り蚊がたくさんやってくるというような意味なのかなと、まだ推測できます。しかし、”⑤”の『みてたがよ』は難解です。何かを”見ていた”と言っているのかな?と考えるのが普通だと思います。しかし、その後の会話でこの言葉がなんと『死んだ』ことを意味することがわかります。『幡多弁』を知らない人にとってはこれはもう全くもって意味不明です。また、上記で挙げた会話文をあなたはどのくらいの時間で読めたでしょうか?スラスラとは読めませんよね。日本語なんだけど日本語でないようなこの方言を読むには実際物凄く時間がかかります。その数が少なければ流し読みをするという手もあるでしょうが、会話文は全編に渡って全てこの調子で続くため、流し読みは作品全体の流し読みになってしまうというなんとも悩ましい状況があります。これは、他の方のレビューを見ても同じ印象なようで、とにかくこんなにも読書にストレスを感じた作品はない!と言い切れるほどに、方言に手こずった、もしくは正直なところ辟易させられました。恐らく時が経ってこの作品の内容を忘れる時が来ても「みなそこ」=”方言に辟易した”という印象だけは強く残り続けるだろうなと思いました。

    そして、この作品の一番の問題点。それが、皆さんのレビューの中に嫌悪感さえもよおすと書かれる、三十代の女性であり、小学四年生の娘の母親である主人公の佐和子が、幼なじみの ひかるの長男、中学生の りょうに想いを深めていくという非常に危うい世界を描く物語です。『あたしはいっぺんに二人も三人も愛せない。ひとりしか愛せない』という佐和子。そんな佐和子が運転する車の『空いた助手席に、ジャージに着替えたりょうが乗りこんできた。長い腕があたしの肘にあたりそうなほど近い』というその場面。『りょうがあたしをじっと見ているのがわかる』と彼のことを意識する佐和子。『どうしても胸をひろげて見せるかたちになる。もうおわんをふせたようではなくなった乳房』と唐突に男と女の世界を意識させるこのシーン。また別のシーンでは『あたしの口のそばに、もちを差しだしてきた』りょう。『もち粉で真っ白くなった指が、あたしの唇に触れる』ことを意識する佐和子は『まちがいなくあたしの唇に触れた、りょうの指を食べたように思う』と感じます。そして、そんな佐和子は、『あたしの唇に触れた指をねぶった』というりょうの仕草の一つひとつをも意識します。読めば読むほどに少し怖くもなってくる佐和子の りょうに対する眼差し。そんな場面が、物語に点々と、かつ唐突に登場し、佐和子の想いが一過性のものでないものであることがわかります。『りょうは天井を見上げていたあたしに手をのばした。あたしたちは二人で床に倒れこんだ』と描かれていく極めて危うい二人の関係。年の離れた男の子と大人の女性の危うい関係が描かれた作品というと、山本文緒さん「眠れるラプンツェル」が強く印象に残っています。しかし、その関係の危うさがある意味自然に現れた同作と異なり、この作品は上記したような『沈下橋』の絵になる情景やクラシック音楽に対する描写など落ち着いた世界が描かれる作品です。その中にこの佐和子の感情が唐突な違和感の中に描写されます。しかもその関係性を読者に納得させる説得力のある描写はなく、そこにあるのはただただ違和感のみ。これでは背徳感だけが刺激される展開としか言えないようにも思います。『いけないことだと分かっていても読んでいるうちにドキドキして、自分にもそういう気持ちがあるんだと気づいて、後ろめたくなった』という感想を読者からいただいて『すごく嬉しい』とおっしゃる中脇さん。そんな中脇さんは、この作品のことを『書いていてすごく楽しかった』ともおっしゃいます。作者の中脇さんがそう思っていらっしゃる以上、一読者がどうこう言える立場にはないのかも知れませんが、間違いなく好き嫌い、そして嫌いという方には嫌悪感さえ生まれる作品であることには違いないと思いました。

    『りょうの細くて長い手足にからめとられることを、あたしは選んだ』という三十代の女性である佐和子が、幼なじみの長男・りょうへの危うい想いに囚われる感情が綴られたこの作品。『沈下橋』という日本の原風景が描かれたような素晴らしい情景描写の数々の一方で『高知県西部の幡多弁』の魅力というよりは極めて難解な方言を読み解いていくことに強いストレスも感じるこの作品。

    ・この作品世界で中脇さんは何を伝えられたかったのだろうか?

    クラシック音楽への想いの変化、夫への愛情の変化、そして変わっていく故郷を静かに見据える想いの一方で、その主題を読み解くのを邪魔するかのように描かれる主人公・佐和子の中学生との危うい関係と、物語への理解を拒むかのように立ちはだかる難解な方言の数々がせめぎ合いを見せるこの作品。ただただ困惑だけが残ってしまった、そんな作品でした。

  • 正直評価するのが難しい。
    傑作のような気もするし駄作のような気もするし。

    四万十川沿いにある小さな集落が舞台。
    大雨が降ると沈下橋が沈み孤立してしまうほどの田舎。
    そこへピアノ教師のさわが娘を連れて帰省した短い期間のお話。

    高知のじりじりと照りつけるような日差しと四万十の清流が目に浮かぶようだ。
    ショパン、リスト、ラヴェルなどのクラシック音楽、四万十の耳慣れない方言、お施餓鬼の念仏、様々な音が洪水のように現れては消えるが不思議な静寂感が広がる文章は秀逸で作者の新境地であることは間違いないだろう。

    特に死者と交差するような日常を描きだした死生観はすばらしい。
    かつての日本では各地で民話として受け継がれ、人々に自然の恐ろしさを説いてきたのかもしれない。

    素晴らしい文章であるからこそこの小説の核である少年との恋のやりとりが残念に思えて仕方がない。
    こどもっぽいさわと少年りょうの恋に興ざめ。
    他にも少年との恋を描いた小説を読んだこともあり否定するつもりもないが、この小説に関しては私には理解不能だった。

  • 盛り上がりに欠けたまま読み終わってしまったな。
    ピアニストになれなかった佐和子は、ラストで、りょうとの数日間の恋や自分の学生時代の孤独などを曲にすること(作曲)を決意している。
    中学生の男の子の青春や恋心を踏み台にして作曲という芸術の足がかりにしようとする佐和子の強かさは、女郎蜘蛛が共食いや他の虫を捕食して肥えていく様を想像させた。

    私が中学生のときを思い起こせば、友達の親、まして結婚してる大人を恋愛対象に見て惹かれることは全くなかった。
    佐和子もそういう子どもだっただろう。
    だから、「誰々のおんちゃん」「誰々のおばちゃん」としか、地域の年長者を捉えていない。
    それと比べると、母の同級生である佐和子を好きになるりょう(中学生)の気持ちがよくわからなかった。
    佐和子は、りょうはお腹の中にいた時からわたしのことを…みたいに妄想してたけど、うーん、それはないかな。
    私のなかの結論は、りょうはとても魔性な存在であるということ。それは悪い意味ではなくて、理性や理屈を超えて抗えない魅力を備えた少年…。
    ちょうど、萩尾望都のポーの一族を同時進行で読んでたので、そんなふうに思ったのかもしれないけど(笑)。

    盛り上がりに欠けたまま終わってしまったお話でしたが、佐和子がピアノの先生に会いに行くところは良かった。
    ピアノの先生が佐和子に謝るところ。
    私も、大人になってから再会した先生に謝られたことがあります。あなたの受験が失敗したことに責任を感じてるって…。
    当の私(生徒)は、そんなこと考えてもいないのに。先生っていうのはそんなことまで考えるのか…とびっくりして、人生の中の印象深い出来事のひとつ。
    私は、今となっては受験失敗して良かったと思ってる、あの時失敗してなければ、私はその後努力することはきっとなかったと思うから。と、本心で思っていて、そう先生に伝えたけど…。
    ピアニストになれなかった心の傷を引きずり続ける佐和子の心に、先生の言葉はどう聞こえたのだろう?

  • 端的に言うと、高知の実家に娘を連れて帰省した30代の女が、旧友の息子である中学生男子と一夏の恋をする物語である。

    村と町の間のような、ご近所皆顔見知りという田舎で生まれ育った主人公は、ピアニストになれなかったという傷を持って、今は平凡な主婦をしている。
    優しい夫と可愛い娘を持つ安定した生活を送っているのに、漠然と不満がある。

    実家に帰り、懐かしい風景や旧友と触れ合う中で様々な過去が蘇る。
    物語の本筋は主人公が実家に滞在するひと夏の日々で、過去の出来事が回想として入る構成。

    方言が読みにくいとか、展開が遅いとか、色々気になる部分はあるのだが、イマイチだなあと思ってしまった最もおおきい理由は、結局主人公は何も成長・変化していないところだろう。
    ハッピーエンドでもバッドエンドでも、共感できてもできなくてもいいのだが、何らかの変化が見られなければ読み応えというものを感じない。
    起承転結とはよく言ったもので、何らかの異分子により日常がかき回され、状況が変わりまた新しい日々になっていくのが物語の骨格だと思う。
    その中には「結局変われなかった」、という展開ももちろんあるのだが、物語中の変化量が大きいほどにやはり面白い。
    (ごくまれに淡々と進みつつ満足度の高い物語もあるのだが、それは希少な存在である)

  • 表紙絵のように四万十の青い空、川、緑の濃い山という風景が浮かんでくる。
    田舎によくある、近所の人はみな知り合い的な閉鎖的な空気感もある。
    でも、実家の隣に住む同級生の息子に恋するってあるのか?
    息子の母親に学生時代憧れがあったから、その思いが息子にまで伝播していっているような気がする。

  • 不思議な話やった。
    しかし、さわさん…人としてどーよ。。
    全くわからん人物やった。
    ともくんも嫌な人だな。
    登場人物で好きな人が居なかったから余計に不思議な話感が強くなった。
    しかし、高知の方言は好き。

  • 手放すこと、受け入れて再び手に入ること。
    境目の向こうとこっちと。

  • 心理描写が細やかというか文学的というか官能的というか。悪くなかったです。土佐弁も憶えがあるので辟易することもなかったし。ただ、主人公はいただけなかった。大人になりきれなくて自分勝手でずるい。そして幼馴染みの中学生の息子に惹かれ、残酷にも戯れてみたり。なんだろう。田舎の夏に潜む魔力のような。
    無邪気なみやびの夏の描写などいいなと思うところと背徳的で目を伏せたくなるところとすごいバランスだったと思う。

  • 少しずつ水底にある秘密が見えてきて、女性の恐ろしさがじっとり書かれている秀作。

  • 新感触の中脇初枝 笑
    澄んだ川の中から見上げるまぶしい光のような小説。
    風景描写や人物描写、触れるか触れないかぎりぎりの惹かれ合うような心理描写はすごく刹那的で抽象画のように浮かんでとらえどころのない。
    とらえどころがなさすぎてなんだかやっぱりぼんやりしてしまう印象。
    言葉が難しくて(方言)読み進めるのに少し苦労した。
    過疎化した町や田舎の描き方って本当に大きく差があるなあとつくづく思う。どの書き方もきっと真実なんだろうなと。良い側面と抜け出せない深い水の底のような側面と。
    んー随所に死者の匂いのようなものを色濃く感じる。それは恐いものではなく、ただそこにあるような。そんな感じの匂い。
    良し悪しでなんだか割り切れない1冊。

    2014年10月30日 新潮社
    装画:フジモトヒデト
    装幀:新潮社装幀室

全52件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

徳島県に生まれ高知県で育つ。高校在学中に坊っちゃん文学賞を受賞。筑波大学で民俗学を学ぶ。創作、昔話を再話し語る。昔話集に『女の子の昔話 日本につたわるとっておきのおはなし』『ちゃあちゃんのむかしばなし』(産経児童出版文化賞JR賞)、絵本に「女の子の昔話えほん」シリーズ、『つるかめつるかめ』など。小説に『きみはいい子』(坪田譲治文学賞)『わたしをみつけて』『世界の果てのこどもたち』『神の島のこどもたち』などがある。

「2023年 『世界の女の子の昔話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

中脇初枝の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×