- 本 ・本 (352ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103971054
感想・レビュー・書評
-
作中で、高校生三年生の主人公・融の友だち・忍が『ナルニア国ものがたり』をつい最近読んで『しまった、タイミングを外した。なんでこの本を小学生の時に読んでおかなかったんだろう』と後悔したと話します。
ホントにそうなんですよね!良い本はいつ読んでも良いに決まっているのだけど、やっぱり対象年齢の時に読むと大人になってからでは味わえない何かを掴めるはず。
だから雑音をシャットアウトして早く大人になって一人立ちしたいなんて思わずに雑音を聞け!雑音もお前をつくってるんだ、今しか聞けないノイズがあるんだ!と忍は融に言います。
融も忍のことを尊敬していて大好きで、高校生活最後のイベント、一晩中ただただ歩く『歩行祭』を忍と一緒にやりきりたいと思っています。
あぁ、青春だなぁ。
登場人物が皆、友だちのことを心から大好きで何かを伝えたくて、そして頼りにされたくて。だけど異性に対しては恋に恋する感じで。
このお話は高校生だから成り立つのだと思います。中学生でもなく大学生でもなく。
一晩中歩く『歩行祭』、疲れて辛くてまだ終わらない、ゴールが見えないと最初は思っていても、終わってみればあっという間。高校生活そのもの、みたいな感じ。
この本の対象年齢は、現役高校生よりも、ウン十年前に青春を終えた私くらいの人たちかな?
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ずっと読んでみたいと思いつつ、なかなか機会に恵まれず、図書館行ったら真正面に読め!とばかりに鎮座して主張していたので読んでみた。
さすが恩田陸さん。引き込むのが上手い。
今回も知らず知らずのうちに逃れられないようにしっかりと捉えられた。
これはねー、父親が悪いよねー。
しかも死んじゃったら何も言えないじゃん。
大人の勝手な事情に巻き込まれちゃって可哀想だったよね。
2人とも良いお友達に恵まれて良かったよ。うん。
しかし24時間歩き続ける行事。すごいな。
私の卒業した中学校にも似たような行事があったのを思い出した。
さすがに9-15時位で往復するものだったけど。
それでも足にはマメができたし、棒になったの考えると、相当よね。
若いって素晴らしい!とお門違いな事も思ったりしながら読みました。 -
再読?。高校の伝統ある歩行祭(一昼夜かけ80km)を舞台に、わだかまりを持った異母きょうだいを主人公とした青春小説。周りの友人達との友情や、小さな謎もあり、長丁場でも飽きない。初期の名作。
昔、読んだと記憶していました。しかし、概要は思い出すことはできるのですが、細かなあらすじとか、エンディングは思い出せませんでした。今回、再読?して、理由が判明しました。前回は途中で投げ出していました。 -
1日で80kmの距離を同じ学校の仲間で歩く「歩行祭」最初の印象は大変そうでした。しかし、それぞれがいろいろな思いを抱えて挑んだ歩行祭。ずっと続いてほしい!そんな風に思えた物語でした。面白かった!
-
年に1度のイベント、80キロの道のりを夜通し歩き続ける「歩行祭」…貴子と融は高校三年生で三度目の「歩行祭」、二人の微妙な関係…このままでいいのかを自問自答する2人の葛藤…また2人を思う親友の存在…。
なんか、すごくいいっ!そう思いながら読了しました。ただ歩くだけなんでしょ?って映画も観ず、この作品からも遠ざけていたのがもったいないくらい!!読んでる間中、楽しかったです。そして清々しい読後感を持ちました。この「歩行祭」を通して成長したそれぞれの登場人物が、この後どんな生き方をするのか、気になってしまいます。 -
恩田陸はガーッと読めなかった数少ない本です。
夜を徹してただひたすら歩く。
まさに青春が詰まってる
同じ気持ちで読んだ
この作者の本少なくとも、4〜5冊は読んでるが
まだ見えない作家である、また挑戦したいとは思ってる
-
ウィキペディアを見ると、『夜のピクニック(ハードカバー)』が出たのは2004年7月とある。
(最初に)読んだのは、夏の終わりくらいという記憶があって。
本を買ったのは、2004年くらいに会社近くに出来た本屋だったような?
そう考えると、読んだのは2004年の夏か?
ただ、それは恩田陸の本だ。
今でこそファンな恩田陸だけど、実は、過去に二度ほど「恩田陸は二度と読まない!」と誓った記憶がある(^^ゞ
最初は、『六番目の小夜子』が出た時(1992年)。
本屋で見て、すごく好みの内容に思えて飛びつくように買ったものの。
途中までのワクワクする展開とは裏腹のぼやーっとした結末の落差に、ものすごくガッカリして。
「恩田陸は二度と読まない!」と心に誓った(爆)
とはいえ、そこは恩田陸。
『球形の季節』とか『三月は深き紅の淵を』等、なんとも気にかかる本を出してくる。
とはいえ、「二度と恩田陸は読まない!」と誓ったこともあって。
本屋でそれらを見かける度、「読まないの。読まないったら読まない!」と無視していた(^^ゞ
その誓いが破られることになったのは、『月の裏側』が出た時だ(2000年)。
本屋で見かけた藤田新策の表紙に目が止まってしまったのだ。
いや、そこに「二度と読まない!」と誓った恩田陸の名前があったのもすぐに気づいた。
が、「三件の失踪事件」、「記憶を喪失したまま戻ってきた」、「人間もどき」という、あまりといえばあまりすぎる好みな内容wに、つい、誓いを破ってしまったのだ(^^ゞ
ただ、それは『月の裏側』だ。
それこそ、月の裏側にでも行っちゃったかのような結末に、「恩田陸は二度と買わない!」と再び誓った(爆)
恩田陸というと、その後、会社の同僚の机に『三月は深き紅の淵』と『麦の海に沈む果実』があって、「恩田陸はツマンナイんだよぁー」と見ていた記憶がある。
ウィキペディアによれば、『三月は深き紅の淵』の文庫化は2001年、『麦の海に沈む果実』は2004年だ。
つまり、それは2004年以降の記憶ということだ。
一方、『夜のピクニック』のハードカバー版が出たのは2004年7月。
『麦の海に沈む果実』の文庫が出たのは2004年1月らしいから。『夜のピクニック』を買って読んだのが夏の終わり頃という記憶が正しければ、2004年の8月末〜9月頃に買ったことになる。
ただ、同僚の机にあった『麦の海に沈む果実』の文庫版を見る度、「恩田陸はツマラナイんだよなぁー」と思ていた記憶も踏まえると、はたして2004年の夏に、ツマラナイ恩田陸の本を買うものなのか?と思ってしまうのだ。
だって、ハードカバーだからそれなりの金額だし。
そもそも、『三月は深き紅の淵』と『麦の海に沈む果実』を同僚の机の上で見たのが2004年の記憶とは限らない。
ということは、自分が『夜のピクニック』を買って読んだのは2005年の夏の終わりなんじゃないだろうか?
……なぁ〜んて、心底どーでもいいことを考えてしまったのは、久しぶりに『夜のピクニック』を読んだからだ。
読んだのは文庫版で、であれば文庫版で本棚に入れればいいんだけど、ただ、自分は文庫版の表紙が、なぁ〜んか好きじゃないんだよね。
表紙の白のシルエットの二人って、イマイチ高校生っぽくないっていうかさ。
ていうか、意図して高校生っぽくなく描いているように感じちゃうって言ったらいいのかなぁー。
高校生の頃って、子供でありつつ、でも、もう子供ではないわけじゃん。
今の感覚はわからないけど、でも、著者である恩田陸の世代の感覚だったら、高校生の頃というのは、何にでも背伸びしたくてしょうがない頃だったように思うのだ。
にも関わらず、周りに数人いた背伸びしていることが板についているヤツに自分が全然届いていないことに引け目を感じてしまって鬱々としていた……。
高校生の頃って、そういう感じだったような記憶があるのだ。
(それは、背伸びしていることが板についているように見えたヤツだって同じだったと思う)
この『夜のピクニック」の登場人物たちは、県下一の進学校の生徒たちという、特有の頭の良さや賢さ、そしてプライドをそれぞれが自覚しているヤツらだ。
そういうヤツらっていうのは、自分のようなバカな高校に行っていた連中とは絶対違うし。
普通か、普通より上くらいの高校に行っていたヤツらとも違う。
だけど、そういうヤツらも青春の鬱々はやっぱり抱えているわけだ。
文庫版の表紙の二人には、そういう青春の鬱々を感じられないんだよね。
意図して、それを感じる以前の無垢なままで描いているって言ったらいいのかな?
恩田陸が、物語をつくる才能に長けた作家であるのは確かだと思う。
ウィキペディアに、“実在の特定の風景から物語を紡ぎだすことが多く、電車やバスに乗り旅行して車窓からずっと何時間も小説の種となる特異な風景を探す”とあるように。
恩田陸の小説の作り方というのは、他の作家のようになんかしらの素材を膨らませて物語にしていくというよりは、風景や光景みたいな漠然としたものに自らの中にある記憶がつながることで閃くことで書き始めるような気がするのだ。
そういう書き方をする作家は他にもいるように思うが、恩田陸という作家はそれが顕著というか、独特な気がするんだよね。
つまり、恩田陸の小説の面白さと魅力はそこにあって。
だからこそ、ずっと特定のファンがついているんだと思うんだけど。
ただ、その一方で、おそらくは2000年代の初めのどこかで、時代が恩田陸が書く小説の世界観とシンクロした部分があって。
今の恩田陸の人気というのは、そこにこそあるような気がするのだ。
いや、シンクロしたって言っちゃたら、いくらなんでもオーバーなんだけどさw
ていうか、恩田陸が書く小説の世界観というよりは、県下一の進学校の生徒だった恩田陸の中にある、子どもの頃から中学、高校、大学、さらに社会人としての周りにいた人たちとの記憶によって描かれる物語が、今という時代の感覚にマッチするようになったのが、2000年代初めののどこか、と言ったらいいのかもしれない。
もちろん、その感覚は出版社の人たち(もしかしたら恩田陸自身も)意識していて。
だからこそ、より多くの人たち読まれるであろう文庫の『夜のピクニック』の表紙は、鬱屈を抱える高校生ではなく、まだ、それを意識する前、あるいは漠然としかそれを意識していない頃の無垢さを敢えて描いたような気がするんだよなぁー。
そんなことをズラズラ書いたのは、久しぶりに読んだこの本が、以前と比べて今ひとつピンとこなかったからだ。
最初にハードカバー版を読んだ時も、文庫版が出て読んだ時も、この本には良い感想を持ったのを憶えている。
青春期という、人生の楽しい一瞬の、さらに楽しかった一瞬を、あえて盛り上げまくらずに、淡ぁーく描いたところがいいっていいのかな?
登場人物たちに自分のその頃を重ね合わせつつも、そこに2000年代の初め頃ならではの空気を感じて。
舞台こそ著者が体験したあの頃なんだけど、ここにいる登場人物たちは現在のあの頃の人たちなんだなぁー気がしたんだと思う。
ハードカバー版を読んだのが2005年としたら、最初に読んだのは19年前ということになる。
文庫版を読んだのは、おそらく2009年か2010年だと思うから、大体15年前だ。
まぁー、それだけの時間が経てば、感想が違ってくるのは当たり前なのだが。
それにしても、読んでいて感じる触感がこんなに違うものかな?と。
今回読んで、それはちょっと驚いた(^^ゞ
ちなみに、★の数は、最初に読んだ時に★をつけたら、たぶん5つだったんじゃないかな?ということで。 -
夜を徹して80kmを歩き通すという高校生活最大のイベント「歩行祭」
8時から翌朝8時まで、ただひたすら歩いた24時間の物語
体力の限界と闘いながら、高校生たちは何を思い、何を語り合ったのだろうか
『みんなで、夜歩く、ただそれだけのことがどうしてこんなに特別なんだろう』
それは人生で一番純粋で、多感な高校時代だからだろう
高校時代なんて、はるか遠い昔のことだけど、なぜか懐かしくもあり羨ましくもあり、側から見ていて気恥ずかしくもあるけれど、やっぱり若いって素晴らしいなと思った -
北高で年に一度開催される歩行祭。みんなで朝の8時から翌朝8時頃まで80キロ歩くというこの行事のスタートからゴールまでという物語。ひたすら歩く中での、心の声と友人同士の会話。そこに高校生の心情がとても丁寧に描かれている。
高校時代は人生の中でほんの一瞬だけど二度とない大切な一瞬。この物語を読んでいたら、もっと青春を大切に過ごせたかもしれないと思ってしまった。まぁ、高校時代は出版されるずっと前だけど。そういえば、“この本をなぜ早く読まなかったんだ…”みたいなフレーズが本書の中にもあったな。
でも、高校時代に読んだとして、ぼんやり流されるように過ごしていた私が気付けたかな?気づいてほしいなぁ。 -
中学の時に学校行事で耐寒登山した事を思い出した。めっちゃ辛かったけど、
その時だけは、人の好き嫌いなしに全員で頂上目指そう!
みたい一体感あったな。(大阪の金剛山)
運動不足⁈の数学の担任もふうーふぅー言いなながら一緒に登った。
その当時の登山思い出し一緒に歩いてる様な気分になった。(気持ちだけ・・)
ネットで調べてたら
全国じゃないのか‥
そう言えば私の子供はスキーに行った。
昔の貴重な体験を思い出させてもらった。・・
著者プロフィール
恩田陸の作品





