ゆうじょこう

著者 :
  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (317ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784104041046

作品紹介・あらすじ

たたみの 上では しにませぬ あたいは なみの上で しにまする 硫黄島から熊本の廓に売られてきた海女の娘イチ。廓の学校『女紅場』に通いながら、一人前の娼妓となっていくイチが眼の当たりにする女たちの悲哀。赤ん坊を産んだ紫花魁。廓から逃亡したナズナ。しかし明治の改革は廓にも及び、ついに娼妓たちがストライキを引き起こす。苦界に生きる女のさまざまな生を描く連作短編集。

感想・レビュー・書評

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  • うーん、読み思わってもすっきりしないし、もやもやが残る。
    結末はどちらかと言うと前向きで未来が開けているような気もするんだけど、実際その後のイチが遊女たちがどうなったんだろうと考えると切なくなってくる。

    いわゆる遊廓の悲恋ものではなかった。惚れた腫れたが全然出て来ない!
    鹿児島の硫黄島から身売りされてきた少女イチの成長物語と言ったところか。
    イチは読み書きも出来ない野猿の様な少女だった。そのイチが、徐々に文字を覚え自分の言葉を綴りはじめる。

    廓の外にも割と簡単に(?)出られるし、女紅場と呼ばれる学校で読み書きを習うこともできる。
    この辺りは時代背景が明治中期と言うこともあり、江戸時代の吉原などと比べると遊女たちの待遇も改善されているのだろう。
    それでもやはり抑圧の時代だったんだなと読むのが辛くなってくる。

    そう、福沢諭吉!
    学問のすすめってこんなこと言ってるの??
    この小説で一番の衝撃だった。
    日本の紙幣の顔として堂々と君臨しているこのお方が実はこんな男尊女卑と言うか、貧民卑下の様な考えの持ち主だったとは・・・。

    廓を抜け出した遊女たち。
    廓に残るのも地獄、出るのも地獄。
    それでもやはり出る地獄を選んだ女性達の強さに賞賛を送りたい。
    それにしても花魁はカッコよかったー。
    東雲花魁も紫花魁も。
    どなたかのレビューにもあったけど、私も東雲花魁=壇蜜で読みました(笑)

  • 深くこころに残るこの小説、☆五つです。

    南の島から遊郭へ売られてきた青井イチ、十五歳。
    見習いからはじまり、お客をとる娼妓になっていくイチ。
    連作短編の形式で話は進みます。

    大きな遊郭街には女紅場(じょこうば)と呼ばれる学校があったのだそうです。
    そこで作文や習字のほか料理や裁縫、活け花などを教えており、イチは熱心に通うようになります。
    お師匠さんの鐵子先生に言葉を少しずつ教わり日記を書くようにいわれ、イチが書いた日記(作文)がたくさん挿し挟まれているのが秀逸。
    イチが書いた作文が回数を重ねるにつれ、どんどん魅力的になってくる。
    拙い文章ながら、書きたくて書いたものは面白い。
    イチの曇りのない目が素晴らしいと思った。
    人が言葉で表す面白さ。考えていることが伝わってくる。
    考えることを通してイチが成長していくのがうれしい。
    素朴な方言もいい味を出し、自分も鐵子先生のように楽しみにするようになりました。

    辛い境遇の遊女たちの話ですが、作者の文章は暗くならずに読めるので救われます。
    明治になっても、貧しい家が娘を売るということがあったという事実はずっしり重い。
    遊女の哀しみが丁寧に書かれていて、村田喜代子さんに大変好感を持ちました。

    女紅場で鐵子先生が生徒たちに太陽が一番偉いという話をする場面がある。
    生徒たちはピンと来ない。
    天子さま。おっ父さん。師匠。弘法大師。と他に偉いものを挙げた生徒たちに語った鐵子先生の言葉がいい。

    「太陽がないと私たちは生きていくことができません」
    「もったいないことですが、天子さまがお隠れになったからといっても、人や獣や木や草が死んでしまうことはない。そして父母がなくても、師がいなくても、私たちは生きていくことだけはできます」
    「あの世でお大師さまがいなくなったら大変かもしれません。しかしこの世では、とりあえず生きていけるのです」
    父母のため。親孝行のためという名目で、ここにいる娘たちは売られてきたが、太陽、お天道のために売られることはないのである。しかし天子さま、父母、神仏のためには、売られたり、命を落とすことがある。
     だが太陽は人間に何も押しつけたりしない。ただ恵みの光を注ぐだけである。
     太陽が一番、ということを知っていれば大丈夫。

    このあと、話は遊女の日常だけに留まらず、ある出来事が起こっていく展開。
    立場、時代を超えて、訴えかけてくるような感動がありました。
    イチの瑞々しい文章もあり読後感が良かったです。

    *覚え書き*
    武家の娘から身を売るしかなく、遊郭で働いていた鐵子先生。
    年季を終えて師匠となる。その鐵子先生が読んでいた福沢諭吉の論評を記しておく。

    時事新報に福沢諭吉が連載していたという「新女大学」
    連載が進むにつれて、諭吉の女子への公平な愛というものは、身分ある家の婦女子だけにそそがれていることがわかった。女子はいかに教育されて書を読み博学多才であっても、気品が高くなければ淑女といえないと諭吉はいう。
     郭の女を賤しい女輩と断定し、芸妓を人外と貶めている諭吉の文章に深い悲しみを覚えた鐵子さん。
     良家の婦人はなぜ<清く>、遊女揚がりの女はなぜ<濁る>者か、なぜ婦人が<高く>、遊女揚がりが<卑し>なのか、鐵子さんは文字を追いながら<天は人の上に人を造らず>と言った人物の内実の姿に怖気を覚えた。
     身は貧しくても頭脳ある者を重んじなさい。と言った後に貧ゆえに他人の軽蔑を受け、媚も売らねばならぬときもあり、その苦悩は<檻内の虎の如し><最も恐るべきは貧にして智ある者なり>という。極めつけは<貧人に教育を与ふるの利害、思はざる可らざるなり> 一定の人は切り捨てた上での「天は人の上に人を造らず」か…。

    ふつふつとわき上がってきた怒りを忘れない。

  • -たたみの上ではしにませぬ あたいはなみの上でしにまする-

    硫黄島から熊本の廓に売られて来た15歳のイチ。
    廓の学校「女紅場」に通いながら、一人前の娼妓となっていく
    イチが眼の当たりにする女たちの悲哀ーー。


    15歳で硫黄島から、遊郭に売られた青井イチ。
    島では、裸足で殆ど半裸で暮らしてた。島の世界が全てだった。
    そんなイチが廓の学校「女紅場」に通い、文字を読む事、書く事
    計算のしかた…様々な事を学んでいく。
    悲惨な世界のお話なのに、暗さを全く感じさせられなかった。
    イチの純粋さ、芯の強さ、天真爛漫な姿かなぁ。
    イチの拙い日記が良い。
    方言だらけの日記に純粋な島娘の感性が迸ってた。
    イチが学ぶ事で、考える様になっていく姿が表れてた。
    「女紅場」の教師・鐵子さんが、イチを温かいまなざしで
    見守っているのも良かった。
    また、鐵子さんが文字すら知らない少女達の事を心の底から慮って、
    生きる為に必要な事を真摯に教えてる姿も良かったなぁ。
    イチがついてた東雲花魁が素敵でした。
    鐵子と東雲が心を通わせて二人で飛び立つ姿は、カッコイイ。

    これまで、江戸時代の遊郭のお話は何冊か読みました。
    このお話は明治時代の、それも30年代…。
    明治の中期になっても、貧しさ故に娘を売っていたのですね。
    売られた娘たちの貧しい暮らしの様子は胸が詰まりました。
    文字が読めないって当たり前…。
    女性の人格や扱いも江戸時代とさほど変わらず、
    遊郭があったことにも、驚きました。

    家族に売られた娘達が、恨むでもなく人生を切り開いていく。
    女性達の逞しさが、素晴らしかった。
    新しい時代の波を感じさせられ、とっても良かったです。

    福沢諭吉さんについても触れられていた。
    「学問のすすめ」
    「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」
    この言葉のイメージが強烈で、素晴らしい人だったんだろうなって思ってた。
    しかし、人を差別する…ひどい人でした…。

  • 明治30年代。
    少女たちは貧しい農村や漁村から売られてくる。
    何も知らないままつれてこられた遊郭では
    『女紅場』という教場で
    少女たちは教育を受けます。

    話し方を知り、文字を知り、
    自分の気持ちを日記に書く主人公。
    そのきらきら輝く感性に驚きます。
    素朴な疑問持つことも、季節を感じる心も、
    「学び」があってこそ獲得できる。
    人を人たらしめる人間らしい何か。

    自然の営みや社会を知る喜びや
    一度ならずも二度、三度と親の犠牲となる
    少女たちの成長を心から応援しながら
    何故こんなに読後感がいいのか。。。

    舞台が遊郭なのに、
    妙ないやらしさや陰湿さがなく
    悲しみを押し殺し
    前向きに捉える少女たちの心に
    勇気付けらたのかな、と思います。

    「ゆうじょこう」は、
    学校の『校』でもあり
    遊女の技を作る『工』でもあり、
    『考』でもあるし、また、
    『香』だったりするのかもしれません。

    明治33年、実際にあった
    「東雲楼」でのストライキを題材に、
    当時の上流文人の考え(福沢諭吉)が
    織り込まれているのですが
    『天は人の上に人を作らず…』と
    語った福沢の本音はその後に続く言葉に
    あると知り愕然。

    ちょっと横道にそれるけど、
    ユニセフなどの
    途上国へ教育を普及させる仕事も
    とても大切なんだと思いを致しました。

    そんな感じで、
    この小説の魅力は
    単なる廓ものでおさまらないところに
    あるのだと思います。

  • (2013.12.25読了)(2013.12.21購入)
    明治36年ごろの熊本の東雲楼という遊郭を舞台にした物語です。遊女の世界が描かれています。主人公は、鹿児島の南の硫黄島から売られてきた青山イチです。
    見習いから花魁になるまでの話かなと思いながら読み進んだのですが、・・・。
    「八重の桜」で登場した女紅場というのが出てきます。女の人のための教育機関なのですが、この物語では、生徒は、遊女たちです。
    各章のまとめは、青山イチの方言による日記になっていて、これが実にユニークです。
    奴隷というとアメリカの黒人奴隷を思い浮かべますが、日本における人身売買も奴隷と同様のものということですので、日本でも歴史上、近代まで人身売買があったということでしょう。
    若い男性には、ちょっと刺激が強い内容かもしれません。男性にはちょっと想像しようがない話もあるし。

    【目次】
    なみの上
    へがふっと おもいだす
    いやいが ないておりもした
    じのそこがほげもした
    しろい ちば すいもした
    あたいたっちゃ 一つこと ないもした
    あたいは たちいおに なりもした
    あかの たんじょっの ゆえごっに
    にんがい
    ぶにせの しょっきち
    しょうぎに おやは いりませぬ
    しょっがつみてな日
    なみの上で しにまする
    初出・参考文献

    ●女紅場(16頁)
    イチたちの通う学校の名前は『女紅場』といった。
    娼妓の学校である。(中略)
    明治三十四年、廓で働く女性たちの教養の場として楼主組合の出資で創立した。(中略)
    修身、読書、習字、作文、活け花、裁縫の六教科を習う。
    ●世間の女房(32頁)
    「世間の女房というものは、四六時中、亭主の相手をしなければならない。自分の気の向いたときに女房を押し倒して、そのくせ金も払うてくれぬ。子をぼろぼろと生ませられて、働いて、牛馬と同じじゃ。」
    ●百人一首(64頁)
    例えば世の中に普通なる彼の百人一首の如き、夢中に読んで夢中に聞けばこそ年少女子の為に無害なれども、若しも一々これを解釈して詳らかに今日の通俗文に翻訳したらば、淫猥不潔、聞くに堪えざること俗間の都々一に等しきものある可し。
    ●性交(90頁)
    そもそも性交というものは苦痛と快感の振幅の間に、男女の心の営みが息づいていると鐵子さんは思うのだった。その心の営み、豊かな感情の世界が織り込まれることがなかったら、女にとって性交は苦痛のほかない。
    ●娼妓の人権(206頁)
    明治三十三年、娼妓は本人の意志で自由廃業ができることが認められたのである。背景には救世軍や日本キリスト教会、女性の人権運動などがあった。
    ●一番(231頁)
    天然の理、科学の世界の一番と、権力の世界の一番と、人倫の世界の一番と、仏の世界の一番を、一緒にして較べることはできまい。
    (太陽、天子、父、師、弘法大師、等)
    ●将軍(232頁)
    鐵子さんの若いときは、天子さまでなく将軍さまが一番だった。その将軍さまは家来を見捨てて天子さまに降伏した。そして見捨てられた大勢の家来たちは自ら戦って死んでいったのだ。
    ●金額の漢字(250頁)
    一、二、三という字はお金の額を記すとき、後で他人が書き直したり出来ぬように、わざと難しい漢字を用いるのです。
    (壱、弐、参、ついでに十も、拾)

    ☆関連図書(既読)
    「人が見たら蛙に化れ」村田喜代子著・堀越千秋絵、朝日新聞・朝刊、2001.06.10
    (2013年12月26日・記)
    (「BOOK」データベースより)amazon
    幼くして熊本の廓に売られてきたイチ。廓の学校『女紅場』に通いながら、一人前の娼妓となっていくイチが眼の当たりにする女たちの悲哀。赤ん坊を産んだ紫太夫。廓から逃亡したナズナ。しかし明治の改革は廓にも及び、ついに娼妓たちがストライキを引き起こす…硫黄島から熊本の廓に売られてきた海女の娘イチが見た女たちのさまざまな生を描く連作短編集。

  • 明治時代、硫黄島から熊本の妓楼に売られてきた青井イチ。
    訛りがひどく、強情で、鉄砲玉のような少女が過ごす日々を描いている。
    女郎としての苦しみ、娼妓を「牛馬のようなもの」と言い捨てる世の中、といったものがあっけらかんとしたイチの生活を通して描かれていて、それがあまりにも現代の世からは遠く、江戸時代の廓の話を読むよりもずっと遠い国の物語を読んでいるような気持ちになった。
    イチをはじめとする「学のない」女たちがそれでも生きようとする姿はまっとうで力強い。何も与えられることなく育ち、女であるというだけで奪われ、頭を空にして何も考えず生きていくことを強いられ、それでも貪欲に自分の身になるものを得て生きていく。
    今の私たちが当たり前に手にしているものが「まったくない」ばかりか、「そんなものがあることすら知らない」ひどく狭められた世界からあがくようにして生きていく。
    東雲さんが最後に楼主に向けて放つ言葉が凛として美しいと思った。

  •  本当に素敵で素晴らしい

    風俗文学作品でした。

    読み終えた今でも

    登場人物の哀らしい娘達が

    その後も達者で暮らしているのかなと、

    小説物語であることを忘れて

    思い募い続けています。

  • 村田喜代子さんが描く
    弱き立場の人は
    いつも哀しく
    そして
    ときには頼もしい

    実在した熊本の「東雲楼」を舞台に
    その時代に生きる人々を鮮やかに描き出す筆力に
    相変わらず ほれぼれしてしまう

    主人公の
    青山イチ の 
    健気さ
    可愛らしさ
    突き抜ける明るさ

    とても 心地よい

  •  「読むのがつらい」と思った。
     本書は、明治30年代の熊本の遊郭の遊女を扱っている。遊女として売られてくるのは、貧しい庶民の15歳前後の娘たちである。
     売春が正式に禁止されたのは昭和31年(1956年)のことだし、当時は公娼制度があったことは知ってはいたが、本書の描く貧民の娘たちの姿はあまりにも哀しく、せつなく、そして可哀想である。
     一時は息苦しい思いを持ち、読書を断念したが、本書は小説・フィクションであると思うことでなんとか読み通した。
     一般に歴史に残るのは、教育を受けることができたその時代の特権階級や身分上昇ができたごく一部の例外の人々であり、教育どころか食べることも満足にできない庶民は、記録に残らない。
     極貧の庶民の親から遊郭に売られた少女達ほど、哀れなものはない。 
     本書の描く少女達の姿は、小説であるだけに現実よりはまだましに描かれているのではないのか。
     あまりにも悲惨で救いようがないのは、この現在であれば中学生ぐらいの少女達に人生の「選択肢」がまったくないことである。
     廓で身体を売ることを拒否することはできないし、親が受け取った前渡し金を考えると、脱走すらできない。たとえ脱出が可能であったとしても、外の社会に生きる術も場所もない。
     慰安婦問題で「かつて公娼制度があった」と主張するやからは現在でも多いし、「当時は慰安婦制度は必要だった」と発言した政治家もいたが「このような想像力が欠落した人間は本書を読めばよい」と思った。
     本書は、「遊女」などというものは「かつてであろうが現在であろうが、あってはならないし、決して許されるものではない」ということがよくわかる本であると高く評価したい。

  • 明治三十年代後半、熊本の遊廓に十五で身売りされてきたイチの物語。「苦海に身を沈める」と表されるような、女の哀切と悲惨が澱のように積もった場所を舞台にしてはいるけれど、それを書くのが主眼ではなく、イチの目を通して新たに借金を負って別の店に売られていく同輩の遊女、娘には何一つ教えず借金を重ねて立ち去る肉親の酷さ、痴情の縺れで情夫に殺害される遊女等、痛ましさが端々に滲んで現れはするものの、天真爛漫で利かん気なイチが文字を習い、文章の練習に日記を書くことを覚え、自分の思ったことを綴り、身辺の出来事に対する感慨を素朴に言い表すのを、一寸とぼけたような軽妙な文章で描いている。遊女仲間と遊廓を抜け出したイチの行く末は、決して明るいばかりとは思われないけれど、「あたいは なみの上で しにまする」との誓い、或いは願いが叶うことを祈りたくなった。

    イチの負けず嫌いで素朴で明るい性格が魅力に溢れている。
    遊廓を出る前、布団や畳や戸、障子、便所、井戸、台所、庭、池に「ごやっけ なりもした」「あいがと もしゃげます」と感謝を伝え、庭先で見付けた蟻や池の蛙やゲンゴロウや鮒に「おじょびで きばい たもんせ(元気で頑張って下さい)」と友達としての別れを告げる、万物に素朴な親愛の情を寄せるイチがとても素敵だ。

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著者プロフィール

1945(昭和20)年、福岡県北九州市八幡生まれ。1987年「鍋の中」で芥川賞を受賞。1990年『白い山』で女流文学賞、1992年『真夜中の自転車』で平林たい子文学賞、1997年『蟹女』で紫式部文学賞、1998年「望潮」で川端康成文学賞、1999年『龍秘御天歌』で芸術選奨文部大臣賞、2010年『故郷のわが家』で野間文芸賞、2014年『ゆうじょこう』で読売文学賞、2019年『飛族』で谷崎潤一郎賞、2021年『姉の島』で泉鏡花文学賞をそれぞれ受賞。ほかに『蕨野行』『光線』『八幡炎炎記』『屋根屋』『火環』『エリザベスの友達』『偏愛ムラタ美術館 発掘篇』など著書多数。

「2022年 『耳の叔母』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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