- Amazon.co.jp ・本 (215ページ)
- / ISBN・EAN: 9784104066100
作品紹介・あらすじ
時を重ねて変わらぬ本への想い……《私》は作家の創作の謎を探り行く――。芥川の「舞踏会」の花火、太宰の「女生徒」の〝ロココ料理〞、朔太郎の詩のおだまきの花……その世界に胸震わす喜び。自分を賭けて読み解いていく醍醐味。作家は何を伝えているのか――。編集者として時を重ねた《私》は、太宰の創作の謎に出会う。《円紫さん》の言葉に導かれ、本を巡る旅は、作家の秘密の探索に――。《私》シリーズ、最新作!
感想・レビュー・書評
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思ってた感じと違っていたので残念でした。北村薫の作品はこれで2冊目なんですが、同じ女性編集者の「私」でも『8月の6日間』と違ってマニアックな本の探求がメインでした。大正時代に活躍した芥川龍之介にはじまり、三島由紀夫から太宰治、教科書レベルの知識しかないので心境とか深く知りませんでしたが共に自決した人達。
太宰治に至っては愛人と心中とかかなり世間を騒がせたようです。『女生徒』について書かれていたので太宰Web文庫で読んでみました。いやこれを30代の男が書いたと思うと気持ち悪い。無邪気で小悪魔のような少女の感性がキレキレのナイフのようで、ロココ料理作っていたと思うと刻まれそうで、むやみに話しかけないほうがいいと思いました。このロココ料理とゆうとこが太宰治のアレンジだとか書いてましたけど。2匹の犬がじゃれあう様子をみて愛犬のシャピイに見せる愛情と真逆に雑種のカアには可愛くないから早く死ねばいいと言い放つ女王様ぶりに退きました。本書では、有明淑の日記と対比させ太宰治のアレンジが如何に凄いかを絶賛しているのですが、私には日記のパクリとしか見えませんでした。
興味を持って調べれば太宰治のダメ人間ぶりが際立ちました。
作品を越えて作家のプライベートまで覗き込んで使ってた辞書まで探るとか、そこまでのファンじゃないし、特に自殺した人のは死にいたる思考に取り憑かれそうで退いてしまう。山で遭難死した人の本とかも同様に読まないようにしてるのですが、ある線を越えて深淵を覗くと死にいたる病にかかってしまうかもと思えるからなんです。
多感な時期は過ぎてますので図太くなれば好奇心がでてくるかもですがそこまでの熱量はないなあ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
久々にこのシリーズを読んだ。切れのある謎解きは無いが、話が転がっていく様がいい。早速『女生徒』読んでみた。皆にすすめたくなる気持ちよくわかった。今まで敬遠してた太宰を読もう。
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2015年に出版されたときにすぐに購入し、「花火」を読み終えたところで、本を閉じ、そのままずっと本棚に立てたままにしていました。
芥川龍之介が最も好きな作家です。読書感想文とかレポート、卒論、修論と芥川を対象にしてきました。作品の中では「蜜柑」「舞踏会」がお気に入り。そんな私には「花火」の面白さ、この上ないものでした。そして、おそらく、この後の《私》シリーズはないだろう、最終巻だろうという雰囲気に残り2編、読み終えてしまうのがもったいなくて、ずっと置いたままになりました。
その本を読み終えました。ずっと温めていた思いが、やはり間違いでなかったと実感しました。
作品論、評伝、それを小説の形で発表してくれたようです。端正なお話、というイメージを持ちました。
品の良い語り口がとても安心できましたし、懐かしい人々との再会がとても嬉しい。
登場人物だけではなく、かつてお世話になった太宰研究の先生のお名前にも触れることができ、生前の姿がよみがえるようでした。
小説が出来上がっていく過程、そして読者によって育っていく過程を共に歩むことができたように思います。
円紫師匠の落語を聞きたく思います。
読み終わってしまったのが、楽しい思い出とともに大きな寂しさを連れてくる稀有な小説です。 -
出版社の編集者になって約20年、かの「私」は結婚して中学生の男子の母親になっていた。
けれどもやはり「私」は「私」。好きな本の謎を巡って、図書館、資料室、記念館巡りをしてしまう。
親友の正ちゃんにもらった太宰治の「女生徒」の謎から発展して、真打ちになった円紫さんからもらった太宰治の辞書の謎。
太宰治文庫に愛用の「掌中新辞典」があるか、問い合わせる。
すぐに調べてくださり、折り返し、電話をいただいた。
「辞書は一冊もありません」
とのことだった。
やはり、台所の包丁は残らない。(183p)
寂しかったのは、「私」が結婚していたことでも、日常の謎よりは書誌の謎解き作品になっていることでもない。もう彼女は円紫さんに答を求めない。たどり着いた答を円紫さんに報告さえしない。
やはり、アラフォーに名探偵は必要ない。
しかし、「謎」は残った。あの凛として可愛かった「私」はいかにして、この気配りの出来る優しい夫に出会ったのか。
2015年6月9日読了 -
久々の「円紫さんと私」シリーズ。女子大生だった私が編集者、そして夫・息子と暮らす家庭人に。そうだよね、前作から15年以上も!!経っているんだもの、と思いつつ、あらまぁ~~と驚きましたぁ!(#^.^#)
デビュー当時は“覆面作家”だった北村さん。
私、北村さんとの出会いがこのシリーズだったもので、主人公の女子大生・「私」がそのまま北村さんに思えて(だって、ご本人に色濃く反映しているに違いない、と思えるような、とてもしっくりくる語り口だったんだもの)、だから、北村薫=女性とばかり思っていたんでした。。。。
で、久々の新作はこれまでのシリーズの中で一番好き!!
((#^.^#)(#^.^#) 偶然なんだろうけど、ここのところ、この作家さんの中で一番好き、シリーズの中で一番!ということが続いていて、なんと嬉しい春でしょうか。)
取り上げられているのは、
芥川龍之介「舞踏会」と、
太宰治「女生徒」。
小説の形は取っているけど、国文学を愛する北村さんの丁寧で優しい文学談義&論証ですね。
それぞれ、数多くの文献に当たり、“元”となる話や日記を芥川や太宰がどうわが物としたか。
「舞踏会」も、楽しく読んだけど、往年の太宰信者(大汗)ーもう過去のことですよ、とここで言い訳するのも太宰ファン共通??-としては、二章「女生徒」と三章「太宰治の辞書」は、なんだろ、熱いお風呂に入って、う゛~~~っと唸らずにはいられないような痛気持ちよさ。
(「女生徒」は、私、断トツ一位の「人間失格」に次いで愛好していた本だったんです。あはは・・ここでも過去形。)
「女生徒」は、太宰に送られてきた太宰読者の日記が元だということは知ってはいたけれど、それをどうアレンジして太宰味を出したのか、また、どこをそのまま使ったのか、をゆっくりと語るページがとても愛おしくて・・・。
また、その他、「津軽」のタケとの再会シーンの裏話(というか真相?)や、あの「生れて、すみません」が実はある詩人の一行詩だった、また、太宰が当時使っていた辞書はなんだったのか、それを知ることがなぜ大事なのか、などなど、ホントに興味深い話ばかり。
北村さんは元々高校の国語の先生だったから、こんなお話も授業の合間にされていのでしょうか。
もしそうなら、なんて幸せな生徒たちだったんだろう、と思います。 -
文中、「小説は書かれることによっては完成しない。読まれることによって完成するのだ」という文言があるけれど、まさに「書かれた小説を読むことで完成させる」のを小説で実践、小説を小説という「はこ」にいれて、読者に完成させるべく、バトンを渡している一冊。
読むうちに紹介されている本を読んでみたくなるし、「私」と同じように、本を辿って旅をしたくなる。花巻周辺を歩く宮沢賢治の旅しかり、文中名前の出てくる鶴舞図書館や、岩瀬文庫、西尾文庫等、かつて本を訪ねて各地を訪れたことがあるなとなつかしく思い出しました。
そして大学生のころの記憶も。「私」と同じ大学に通っていた私は、北村先生の描くこの世界にあこがれ、文中で描かれるキャンパスを目で追いながら、「私」の読んでいく本を真似するように読んでいたのでした。「フローベールの鸚鵡」等、円紫さんと私シリーズを読んでいなければ読んでいなかった。読めて幸せでした。
現実が、本の世界に引っ張られる。そんな力をもったシリーズだったなと、あらためて好きだと思いました。
『波』2015年4月号でジュンク堂書店の方が言っていた「本が次の本を誘う」も然りで、鞄のなかに久々に太宰をいれている私がいます。
「大切な友人に十七年ぶりに会えました」という、やはり『波』掲載コメントの、芳林堂書店の方と同じ気持ちです。 -
魅力的な物語に出会うと、本を閉じたあとも、その世界が続いていて、どこかで登場人物に出会えるような気がすることがあります。
このシリーズは、まさにそんな幸せな体験ができた作品のひとつです。
前作「朝霧」が、1998年刊行、私が読んだのは、2002年くらい。それから十数年、同窓会で卒業以来の再会をはたした気分になります。
登場人物の年齢の重ね方が自然で、本当に懐かしい気分に浸れました。
主人公「私」や円紫師匠、正ちゃん以外の登場人物とも再会したい。ぜひ、今度はもっと近いうちに。 -
小さな出版社に勤める主人公が太宰治の作品の謎を解く。
交遊のある落語家、円紫の言葉に導かれ太宰が使った辞書を探し実物を確認しに行く。
なんとも素晴らしい読書ミステリーだ(そんな言葉あるのか?) -
「円紫さんと私」シリーズ第…6弾?
はじめは本好きの女子大生がヒロインの、割と普通なミステリー小説だった。
ヒロインが謎を噺家の円紫さんに相談する…というか語ると、円紫さんはその豊富な知識で持って、するすると、謎の結び目を解いてくれるのである。
それが、“私”が出版社に就職した頃から、文学論、作家論…のような本になってきた気がする。
この本では、“私”はもはや人妻(!)だが、頑張ってみさき書房で仕事を続けている。
そういったプライベートも少しは描かれてあり、主人公が「文学の」謎解きをする…ということで小説の体裁を保ってはいるが、もうほとんど、芥川や、太宰研究の本と言ってもいいくらいだ。
そして、本とは、こういうふうに読む物なのか、こんなにも深く読めるものなのかと、ストーリーやエピソードを追うだけの自分の読書とのあまりの違いに「う~ん…」と唸ってしまうのだった。
『花火』
芥川龍之介の「舞踏会」
結びの部分の書き換えは、ほんの数行ながら、作品全体の意味をも大きく変えたようだ。
『女生徒』
太宰治の「女生徒」の素になった女性の日記と、太宰がそれをどう“作品”として料理したかを追う。
『太宰治の辞書』
「女生徒」から続いて。
太宰はどんな辞書を引いたのか、あるいは引かなかったのか…を追求し、辿り着いた先は、萩原朔太郎ゆかりの前橋…