骸骨考:イタリア・ポルトガル・フランスを歩く

著者 :
  • 新潮社
3.25
  • (1)
  • (5)
  • (3)
  • (2)
  • (1)
本棚登録 : 110
感想 : 13
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784104160082

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 【紙の本】金城学院大学図書館の検索はこちら↓
    https://opc.kinjo-u.ac.jp/

  • 摂南大学図書館OPACへ⇒
    https://opac2.lib.setsunan.ac.jp/webopac/BB50078387

  • 同じくヨーロッパで納骨堂をいくつか見て回った経験があったので興味をもって読んでみたのだけど、小口にカラー写真がたくさん出ているわりには全然納骨堂に行かないし、行ってもそのことについて大して語らない。

    ヨーロッパの歴史とかニーチェやデカルトやら持ち出していろいろと思い浮かんだことをつらつら語っているような本だったので、要は(納骨堂はあんまり関係ない)哲学エッセイなのかなと…。

    それはそれとして面白くないわけではなかったんだけど、納骨堂の話が聞きたかったので星2つ。

  • 最初は骸骨と結びついたことを言っているのかと思い読んでいたがさっぱりわからず。ただのエッセイだと気づいたらサクサク読めました。

  • 養老孟司先生の著書。
    前巻にあたるものを読んでないが、それでもヨーロッパの骸骨納骨堂の旅行記として面白かった。
    昆虫学者として標本のために「物質に過ぎない死体」を多く触れているからこそ得られる考察と、それに対する恐怖、理性、生死などの考察が語られている。
    論述じたいはあっさりとしていて読みやすく、小難しく感じない。実際に訪れた感想をそろりと隣で語られるような浮遊感というか、朗らかさが心地良い。
    何度も読み返していないので結論は理解しきれてはいないがエッセイとして読みやすい。
    海外のあの異様なまでに骸骨が並べ立てられたら納骨堂に興味がある人であれば十二分に楽しめる。これで実際に行ってみたら更に面白いだろうになあ、と悔やむ。

  •  何千体分もある人骨と対峙して人が感じ取るものの重さ。物が人に語りかける力。理想や思想は受け取るのに素養が必要だけど人骨の山はそれ自体が語りかけてくるだろうな。
     俺が演劇やダンスを愛好することにも通じているかもしれない。言葉はペラペラだがそこにある物や生身の身体が語るものには重みや厚みが…いやもうそれは物理的にある。ネットや本からだけ情報を得ているとそういう大事なことが見失われるんじゃないかと思った。

  • 前著とのつながりがあるため、未読の自分には面白さがその分マイナス。もったいない。(あと論述も、私の頭じゃ半分も理解できてないーTT)。だとしても、写真やエッセイ的文章が十二分に面白いので、楽しく読了した1冊。西洋の納骨堂って…。日本だったら罰当たりとかホラーとか、心霊スポットとか思っちゃう。怖いの嫌いだけど、実際見てみたくなる美の不思議。前著読んできますー。

  • 掴み所のない本。
    いろんな教会、納骨堂などが紹介されているのが興味深い。

  • 養老先生49。

  •  わかりやすいのはヒットラーであろう。あいつが悪い。それで直接の責任は終わり。日本ではそれができない。状況が悪かった。そういうしかないからである。だから「戦後は終わったか」であり、歴史問題である。主体を置くことは、状況を物語化することを容易にする。私は根っからの日本人だと思うのは、主体が出てくる説明を聞くと、逆に説明に楽をしやがって、と思うからである。(p.36)

     現代の日本では、死に関する態度が混迷しているように見える。70年前までは、そこには少なくとも暗黙の了解があった。人生は自分のためではなかったのである。だから神風特攻隊だった。戦後はむしろそれが逆転した。自己実現、本当の自分、個性を追求するようになった。(p.111)

    「仮の自分」を設定すると、人生そのものも仮になってしまう。現在の人生が「仮の人生」になる。それを続けていると、死ぬ頃になって、まだ死にたくないとわめくことになる。それまで「仮の自分が仮にしか生きていなかった」のだから、それで当然であろう。ヴァロワ朝の三大の王墓を見ていると、時代の移行期というのは、それはそれで幸福なのだなあと思う。ジザンに示された「あまりにもリアルな王の死体」は、未完の人生の最期の記憶を残す、王の「あまりにも明確な姿」なのである。その時代は、宗教的な幻想に満たされた中世でもなく、「理性的かつ客観的な」現代でもない。それを現代日本に生きていて「内在的に」理解することはむずかしい。同じ気持ちになれといっても、それは無理である。ただ察しはつく。歴史とはその程度で満足するしかないのであろう。(p.113)

     結局、話は自分に戻った。理性的に、つまり言葉で解釈できないからこそ、納骨堂なのだな。問題はこちらに投げられている。これは一種の挑戦とも見えるから、こちらも「見てやろうじゃないか」となる。それに答えがあるかというと、べつにない。無意識上のやり取りとは、そういうものであろう。(p.140)

     動物とは違って、ヒトの意識の特徴は同一化にある。感覚はあくまでも違うと言い張るのだが、ヒトの意識はそれを「同じにする」のである。これを私は何度でも主張する。なぜなら、そういう意見を聞いたことがないからである。でもどう考えても、そうとしか言いようがない。
     そもそも概念とは「同じにすること」である。リンゴという概念は、あらゆるリンゴを一つにしてしまう。甘いのも、酸っぱいのも、赤いのも、青いのも、大きいのも、小さいのも、すべてリンゴである。だからわれわれは、言語的な概念を使用することによって、感覚を「無視する」癖をつけることになる。それによって、「動物から離陸した」のである。(p.147)

全13件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

養老 孟司(ようろう・たけし):1937年神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士(解剖学)。『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。『バカの壁』(新潮社)で毎日出版文化賞特別賞受賞。同書は450万部を超えるベストセラー。対談、共著、講演録を含め、著書は200冊近い。近著に『養老先生、病院へ行く』『養老先生、再び病院へ行く』(中川恵一共著、エクスナレッジ)『〈自分〉を知りたい君たちへ 読書の壁』(毎日新聞出版)、『ものがわかるということ』(祥伝社)など。

「2023年 『ヒトの幸福とはなにか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

養老孟司の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×