- Amazon.co.jp ・本 (228ページ)
- / ISBN・EAN: 9784104161041
作品紹介・あらすじ
思い出すことのなんという切実さよ!残夢のように、事あるごとに記憶に蘇る死者たち。私は彼らを追いかけ、同じ空気を吸い、語り合った。-脳梗塞と癌と闘い、逝った著者の青春の記録、鎮魂の書。
感想・レビュー・書評
-
1934年生まれ、2010年没。
青年期に戦後を過ごして来たそうした人のエッセイである。
右派ではないが、日本は確かに
敗戦を経て接ぎ木をされたというのはある。
どのように切断されて、なにが残ったのか
今からでは見えないものも多い。
それにしても、感傷的な憂いを帯びてはいるものの
根本的なところで明るい感じがするのは
この著者自身が悔いはあれど、
生き続けて来たことに充足感を感じているのだと思える。
それだけ、死の匂いは濃厚で
しかし、それは特別な悲劇ではなかった。
そういう時代を経て接ぎ木された上に、
曲芸師よろしく私たちは座っている。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2010年4月亡くなった多田富雄氏の遺作。氏が出会った故人6名との思い出が簡潔でありながら教養と愛情に溢れた文章で綴られ、涙なしでは読めなかった。
-
次第に動かなくなっていく己が身体に死が迫りくるを知り そして夢には先立った友人恩師知人が次々と姿を現す
時代に翻弄されながらも 熱き衝動に導かれるように昭和の始めを駆け抜けた6人の若きエネルギー 彼らの描写は眩い輝きを放ちながらも時に痛みを伴い 未体験の昭和という時代の空気を私に夢想させる
ある者は肉体的精神的な欠落を補うために
ある者は戦中のプロパガンダに流されつつも冷静な個を維持するために
ある者は決定づけられた人生から脱するために
みな「詞」を吟じる
故人の生前はそれぞれの死に様から炙り出されるようにして鮮明な記憶のもとに描き出される
有り余る情熱の炎が魂を食らいつくように燃焼させるその様のなんと壮絶なことか
彼らの「詞」は加速度的に燃えたぎる魂の火の粉のようにほとばしり それは作者にとっての彼らとの魂レベルでのコミュニケーションツールとなって機能する
それらの描写が時に痛みを伴って私の胸を締め付けるのは 私にもやがて今という時代を客観する日が来る時感じるであろう死の痛みをイメージすることができるからだろうか
著者の描写する「詞」は私たちに熱情の源泉を問い 精一杯の生を輝々とさせよと発している -
自分の心に残る人々の思い出を綴って美しい。友人、恩師や従兄に多田さんなりの別れを告げたかったのかもしれない。そして、その人との係わり方にその人の人間性が表れていて、多田さん自身を語っている。
-
(2010.09.09読了)(2010.09.01借入)
多田さんは、2010年4月21日に亡くなりました。76歳でした。
2001年に脳梗塞で倒れ、リハビリをしながら不自由な体で、執筆活動を続けておりました。この本は、「新潮」に2009年新年号~2010年3月号の間連載したものを一冊にまとめたものです。後書きに、「この短篇を書いている最後の段階で、私は癌の転移による病的鎖骨骨折で、唯一動かすことが出来た左手がついに使えなくなった。書くことはもうできない。」と書いています。死を待ちながら綴られた文章です。
多田さんと交友のあった何名かの方の果たせなかった夢に思いをはせながら綴られたものです。
●珍紛漢
中学時代からの友人、永井俊作の残夢整理です。画家になったけれど、癌のため、40代で亡くなった。芸大の同級生には、中西夏之がおった。
中学時代、十円紙幣を模写し、駄菓子屋で使ってみたが店番のおばさんは全く気付かなかった。家の人に自慢したので、大騒ぎになり、警察に灸をすえられた。
発明も得意で、幾つか特許を得ているが、実用になった物はない。
「大体君は役に立つことを発明と思っているらしいが、間違っている。新しい原理を見つけて応用することが、本当の発明なんだよ」(33頁)
絵では、イギリスの画家フランシス・ベーコンに引かれて、具象画に新風を吹き込もうとしていたらしい。
多田さんは、自宅を新築する際、俊作さんに設計してもらった。なかなか独創的だった。
癌で亡くなった時、20点余りの絵画が残された。遺作展を開いてあげると約束したが、果たせなかった。
●人それぞれの鵺を飼う
千葉大文理学部医学進学過程の学生であった頃であった三人の学生の話です。
関くん、秦くん、土井くんです。
多田さんはそのころ、「私は能の毒に中り、しばしば能楽堂に通い詰めていた。それが昂じて、自分でも謡曲を習おうと、先生を探していた。」(69頁)
大学を卒業して間もなく土井くんは自殺し、秦くんは、脳出血で亡くなった。関くんは、莫大な父の遺産を食い潰して、一人で暮らしときどき、東京にやってきて、多田さんと話して、富山に帰って行った。2008年に亡くなった。
伝説上の鵺は、「頭は猿、胴は狸、尾は蛇、足手は虎の如くして、鳴く声虎鶫に似たりけり」とある。思えばあのころ、夢の中で、一匹ずつの鵺のような動物を飼っていた。私たちの青春の情熱は、この正体不明の動物によってかき立てられていた。鵺が死ねば私たちは生きて行けない。
●宙に浮いた遺書
多田さんの従兄弟の篠崎裕彦さんの話です。
太平洋戦争の際に、特攻で死ぬつもりであったが、出撃前に終戦となり果たせなかった。
結核のため、20歳で亡くなった。未完の戯曲が残された。
●ニコデモの新生
多田さんの恩師、岡林篤先生の話です。
講義は難解を極め、病気の原因や病態をことさら持って回って、理論的というより哲学的に説明するので、学生には一向に人気がなかった。教科書に書いてあることまで懐疑的に話す。学生は何だかわからなくなってしまうのである。(153頁)
多田さんは、先生の哲学的な言葉をちりばめた難解な講義に、一種の魅力を感じた、というのですから、多田さんも結構変わり者です。
多田さんは、医学部を卒業したら、内科の教室でしばらく修練して、郷里に帰って、町医者になる予定だった。それが、岡林先生の書いた「免疫とアレルギー」というわけのわからない本を読んだばっかりに免疫学の研究者になってしまった。
岡林先生は、病理解剖の際には「病変局所に目を奪われるな。背後にある全身の変化の方が大切だ」というのが口癖だった。
免疫の実験の際に、勉強したいから文献を教えてほしいと頼むと、先生は、「新しいことは文献には書いていない。文献なんか読むのは、百害あって一利なしだ。」「何かを発見しようとするなら、文献なんか読むな。自分の目で見たことだけ信じろ。」とおかんむりだった。 (164頁)
「アレルギー性の病変は、元をたどれば免疫反応が正常に起こって生じたものと、過剰な反応のため異常な臓器の反応の様相を示すもの、反応力が疲廃した結果、逸脱した病変として現れるものの三つの型に分類される」(175頁)
●朗らかなディオニソス
能役者、橋岡久馬の話です。
橋岡さんはあらゆるものを呼ぶにも、古い言い方にこだわった。特に外来語のカタカナ表記は嫌いだった。バスは乗合自動車、スキーは「雪滑り」、スケートは「氷滑り」、エレベーターは「昇降機」、ステレオは「蓄音器」、マイクは「集音機」、ワープロは「打字機」、ランドセルは「背嚢」などと言った。
多田さんは、死ぬ前にしばしの思い出に浸ったのでしょう。
◆多田富雄の本(既読)
「免疫の意味論」多田富雄著、青土社、1993.04.30
「生命の意味論」多田富雄著、新潮社、1997.02.25
「免疫学個人授業」多田富雄・南伸坊著、新潮社、1997.11.25
「免疫・自己と非自己の科学」多田富雄著、日本放送出版協会、1998.01.01
「寡黙なる巨人」多田富雄著、集英社、2007.07.31
「露の身ながら」多田富雄・柳澤桂子著、集英社文庫、2008.08.25
(2010年9月13日・記)