紛れもなく「日本現代美術」評論であるが、一方で日本の「場所性」に深く疑念を呈する「社会」評論でもある。
本書に触れたきっかけは、受験生時代にこの中の一部を現代文の問題として取り組んだこと(しかも2回、しかも違う模試なのに同じ抜粋箇所)と、佐々木敦「ニッポンの思想」で重要評論として取り上げられていたことによる。
現代文の評論問題としての出題は、日本の批評言語ひいては日本の歴史・社会が「滅茶苦茶・ばらばら・アンバランス」な起源にあり、「何かを想定しなければ」出発しえなかったこと、そしてそれを忘却し内面化したところに現在の「(美しい)日本」が立ち現われていること――を指摘した部分であった。
これが当時のわたしとしては衝撃的であり、非常に強く印象に残っていた(以上の要約が「そら」で書けてしまうほどに)。大学生となり全体を通して読んだ今でも、同じ要因で、あるいは全く新しい要因で強く惹かれる要素にあふれている。
たぶん、今までのレビューの中で最も長いものとなると思うが、この本にすごい魅力を感じる/感じた理由を、一握りでも伝えられたら、と考えている。
全体を通しての主張を、ほんの少しだけ紹介しておく。
日本の近代化は戦後なお未完であり、そのもとで行われるいかなる「後/超近代的な試み」も必ずや「前近代」に収斂してしまう。言い換えれば、というよりもむしろ、日本の「後/超近代的な試み」はすべて「前近代的」なのだという。
この視点に即し、日本美術の「前衛」「ポップ」「ハプニング」「アンフォルメル」などが、いかにその起源において「成立していないか」を論じているのである。
わたしにとってのこの本の魅力とは、「わかる」ことと「わからない」ことの混在にある。
「わかる」ところから紐解こう。
筆者が「悪い場所」と称する「日本」の支離滅裂さ・あいまいさが痛いほどに「わかる」のだ。
日本は地理・風土ともに何もかもばらばらな群島から成る。文化にいたっていえば、中国のものなのか朝鮮のものなのかあるいは欧米のものなのか、わからないほどにごちゃまぜである。近代化だって欧米の制度を“移植”したのみで、完全に飲み込めているわけではない。それなのに、わたしは「日本」という確固たる国が、しかも「美しい」国があると思っている。これはどこかおかしな話だと、高校生のわたしは気づき衝撃を受けたのだと思う。
それから2年ほど経った今、再び当該部分を全体を通して読み、まさにこれは今「3.11」を経て繰り返されていることのような気がした。
「3.11」が明らかにしたのは、このことではないのだろうか?
日本の政治の「滅茶苦茶」さ。イデオロギー的な対立点がほとんどないのに欧米の「2大政党制」をいわば演じていたこと、原爆の記憶を引きずりながらも原子力を推進してきたことである。
あるいは日本人の「ばらばら」さ。自戒の念も込めて言えば、被災地が被災者がと散々叫ばれているときにはおおいなる関心を注ぐのに、あれから半年経とうとする今では1日に何度そのことを思うのだろうか。被災地からの地理的・心理的距離に関心が比例するという残酷な現実を生むくらい、日本とは地理も風土も違う“群島国家”だったのではないだろうか。(まさに「想像の共同体」)
そしてあるいは、日本社会の「アンバランス」さ。危険な原発を「地方」に置き、そこから生み出されるおいしい電力は「都市」が消費する。広井良典さんの言葉を借りて言えば、「空間格差」の明らかな存在である。
そう考えたとき、この本は今こそ読み直されるべきものかもしれない、と身勝手ながらも思う。
「3.11」がこのような「内面化」を解き放ったことを確認し、それでもなお日本という国家は「がんばろう日本」「つながろう日本」というむなしいナショナリスティックなキャッチフレーズを利用して「内面化」に再び手を出すのか、それとも「内面化」を解いたその先に新しい「現代」を見つけ出すのか、このことを注視するために。
一方、徹底的に「わからない」ところもある。
この本は「ポストモダン」論的な体裁を(意図的に)繕っている部分がある。しかし、どうしても「ポストモダン」という時代観念に疑念をもつわたしがいる。
それは、「学生運動」的なものであったり、「ポストモダン」的なものであったり、そういうものに対応する感覚が、“わたしたちの世代”(90年代生まれ?)にはまったく見受けられないような気がする――このことに起因するのではないだろうか。
その善悪の判断はいったん棚上げするにしても、「学生運動」といったものを起こすほどに、わたしたちには元気がない。
この遠因には、「社会」が自明であるとしか思えない、という意識があるのではないか。
わたしたちが今生きてきた、この(ものごころついて)10年の間で「社会」の何が変わったかと問われても、まったくもって答えに窮する。いくら大人が動いたってそれは今の「社会」の維持・再生産に寄与するものでしかなく、かといってわたしたち学生が動いたからと言って、それは今の「社会」に多かれ少なかれ吸収されてしまう。こんなある種の“「社会は変えられない」ニヒリズム”が常につきまとう。
同様に「ポストモダン」的なものも自明であるようにしか思えない。
2000年代には、ネットの普及率も相当程度まで上昇し、最新の音楽や映画やこういった文章といった「小さな物語」が家にいながら簡単に・大量に手に入り、しかもその方法と内容の手軽さゆえにわたしたちはとことん消費しつくす「しかない」(入手が困難でかつ内容が重厚であればどうか?)。
これはもういまさら「ポストモダンの究極形態」だの名づけて批評されるほどに、わたしたちにとって珍しいことではない。極めて「ふつう」のことなのである。
ここでひとつ提起したい。わたしたちの「世代」はいったい何に象徴されるのだろう?
政治や経済に見込みもない、大きなムーブメントの足音もしない。20年経ったとき、わたしたちはいったいこの「滅茶苦茶・ばらばら・アンバランス」な世界について、何を語り合えるのだろう。
うすうす感じているのだが、大人世代と歴史感覚が「合わない」のではないか、それも徹底的に。
1945年から新しい歴史ははじまり、その契機をどこか胸にしまい高度経済成長を生き抜き、バブルの崩壊と世界史の歴史的変動を経験した。これが今の大人世代の紐帯だとすれば、わたしたちにそのようなものはひとつとしてない。未だその影を引きずっている「9.11」すら、「生々しい出来事」というよりは「(教科書に載っている)単なる歴史」となるのではないか。「3.11」しかり、あれだけ衝撃を受けたはずなのに、わたしのような愚か者にはだんだん過去のものとなりつつある。
この違和感はわたしだけのものであろう。そう願いたい。だから、このように記してみたのである。
この本はおそらく、5年経って読み直すとまた新たな感慨を覚えるのだろう。それくらい、「わかる」し「わからない」魅力的な書である。
最後に並みの断片的な感想を。
文章が端正で美しい。ときに鋭い批評をはさみながら、ぐいぐい引き込んでくる。300ページ超にも及ぶ硬派な書としては、非常に読みやすいと思う。
わたしは以上から分かるように、この本をほぼ「社会批評」として読んでしまったが、もちろんこれは「美術評論」に属すものであろう。ゆえに、現代美術を学ぶ人・現代美術に興味がある人には、多少求めるものと違う点があるかもしれないが、良書である。
なお、わたしが「美術評論」として最も感動した点をあげれば、宇宙を梱包してしまった作品の話。このアイデアには脱帽せざるを得ず、読んだ日一日中このことを考えていた。とてもとても面白い作品だと思うので、ぜひ一読を。