水平記 松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (719ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784104222032

作品紹介・あらすじ

生き抜け、その日のために-。近代国家と正面から闘い、多くの受難を乗り越えて、差別に苦しむ部落の人々に大いなる希望を与え続けた巨人・松本治一郎。己には酒、煙草、博奕、妻帯、ネクタイの「五禁」を課して、「部落解放の父」と呼ばれたその峻烈な人生を歴史の暗闇から浮かび上がらせた、後世に伝うべき圧倒的感動の評伝。

感想・レビュー・書評

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  • 700ページ近いこの本を読み終え、今まで気に留めていなかった「水平」という概念が新たな意味を帯びてくるのを感じた。著者が本書を「松本治一郎伝」とせずにあえて「水平記」とした意味が飲み込めたような気がした。

    この本の中では松本治一郎は徹底して「水平」という主義にこだわっている。松本治一郎というと現在の部落解放運動との関連を想起してしまうが、一般的な意味での部落解放運動と治一郎の行ってきた「水平」運動とは必ずしもイコールではないというのが読後の私の所感だ。私なりに簡単にまとめてみると…

    水平社が創生されようとする頃、「華族」があり「農民」があり、そして「エタ」(以下「被差別民」と書く)があった。
    これらを縦に配置すれば上下関係が形成され、上が下を搾取または差別するという構造になる。しかし縦の構造を考えること自体が誤りなのだと考えればどうだろうか?
    被差別民は元々皮革を扱うなどの職能集団が発端だ。その点では、「農民」や「華族」ですらも原理的には大同小異のはず。だから、そこに身分的に高い低いという考え方を付加するのは、いわば“後付け”のようなもの。

    本来、社会上において各職能の役割で認識すべきところ、コーティングされた飴のように、同じ飴なのに中身の具で判断されるようになってしまった。
    つまり、様々な職能集団が「華族」「農民」「商業者」「工業者」…「被差別民」としてカテゴライズされたのであれば、飴でいう「イチゴ味」「ぶどう味」…というように、味の違いはあるが飴という本質では横並びのはずである。さらに飴の例えを続ければ、華族の原材料は高価で被差別民は安価という違いをこじつけられるだろう。でも高価な飴ばかりでなく、そうでない様々な飴が並んだ商店こそが魅力的だというのは、誰もが経験則として理解できるのではないか?

    また、私は水平が解放と異なる大きな特質として、次のことをあげたい。
    被差別民への行政上の便宜や同和対策事業を“特権”とか“既得権益”だとする批判をよく目にする。しかし、華族だって既得権益にあぐらをかき、他のグループを犠牲にしても一度得たアドバンテージを簡単に手放そうとはしない。農民だって補助金とか税制とかで…と言い始めたらきりがない。
    つまり、被差別民に限らず、どのグループでも他を押しのけて自己の利益を守りたがるのは同じなのだ。各グループを横並びで見る「水平」という概念は、階級闘争とか大層なことをしなくても、同列性を立証してくれる。
    もちろん私は平等に受けるべき権益が一部の者に独占されることを是認せよと言っているのではない。縦のものを横にし、お互いに清濁併せ呑む覚悟をするだけで、一部の者だけに浴びせられてきた誹謗中傷が正鵠を射ていないことが明白になる、と言いたいだけだ。

    また、水平についての考え方は、実は水平社が戦前において必ずしも天皇制を否定していなかったのでは?という本書の記述とも矛盾しない。つまり天皇を特例として別に置き、その他の者はすべて水平に横並びにすればよいのである。

    まとめれば、解放とは、現状の社会的関係を動的に異動させようとすること。
    ただ注意しなければならないのは、被差別民が解放されても上下関係が奥底で残置すれば妬みや足の引っ張り合いの誘因となり、解放を永久に続けなければならないリスクがある。
    一方の水平とは、被差別民の解放を求めるというよりも、被差別民を含めたすべての民を平たい所に置こうとすること。当たり前だが横に置かれれば、余剰を削いだあとに、「我疑うゆえにわれあり」のように根源的な「人間」という共通項だけは残る。
    それにここが大事なのだが、自分がいつか下に追いやられるのではないかという無駄な恐れから「解放」される。


    ここまで水平という考え方の合理性を追ってみた。次に松本治一郎自身についても書いておきたい。
    私にとっての彼の一番の魅力は「ぶれなかったこと」だ。
    水平という概念を核に生涯それを貫きとおした姿勢は、国粋主義や共産主義など、○○主義と銘打つ新思想が次々と時代を席巻する流れにあっては、時として愚直とか頑固とかの批判も受けただろう。
    だが時代が下って俯瞰的に彼の生涯を眺めた時、一貫した彼の態度が、イデオロギーに固執した多くの活動家が現代の視点からは古臭く見えるなかで、逆に光って見える。

    それと、主張の要点がわかりやすかったとも思う。
    水平運動から部落解放運動への系譜は、ともすれば時代にあわせたスローガンに要点が引っ張られてきたのは事実。
    その中で治一郎の主張をぎゅっと凝縮すると「侮辱するな」「結婚で差別するな」というような、ヒューマニズムから出てきたような求め方であり、今の人が聞いてもシンパシーを感じやすい。
    有名な「天皇拝謁拒否」についても、天皇批判などのイデオロギー的視点ではなく、天皇すら人間として水平の視点で見ようとする姿勢。だから左右からの批判にも耐えうるのだ。

    他方で、疑問も呈しておきたい。
    彼が生涯をかけて水平運動に注力した経済的背景について、彼が興した会社の利益だけを真っ正直に考えていればよいのか?
    私にはこの本には彼のブラックな部分があまりにも書かれていないとも感じた。普通に考えても、戦中戦後の動乱も含めて正攻法だけで会社と水平社とを両立させられるわけがない。それらの黒い部分が浮き出てこない分、この本はともすれば英雄伝と捉えかねない。その分、眉に唾を塗って読むべき。
    彼の事績をある程度引き継いだとも言える松本龍・元復興担当大臣がどういういきさつで辞任したのか記憶しているだろうか?元大臣の中に立場の異なる者を圧して押さえつけるような“ヤカラ”の気配を感じた人は多いはずだ。人間は人間ゆえに万事綺麗ごとでは済まない。

    それらを差し引いても、宗教のよりどころを持たずに、人権運動をヒューマニズムの視点から体現した者は世界的にも希少なはずであり、その点で松本治一郎の一代記は稀有な内容として読まれるべきである。

  • ふむ

  • 「部落解放の父」松本治一郎
    なぜ、そのように呼ばれるようになったのか、本書を読んで深く納得させられた。

    「活動家というのはね、まず赤貧に耐えることが大事だ。どんな貧困な状況でも生きられるという、それを普段から訓練しとかないといけない。一定の生活水準を落とすということは、人間にとってはつらいことだよ。だから普段から質素にしておれば、どんな経済的苦難に遭っても耐えられる。それから、われわれ活動家は、つねに大衆から注目されている。言葉とか行動とか、日常生活の態度とか、部落大衆からだけじゃなく、一般大衆からも注目されている。身だしなみや言葉づかいに注意しなさい。不断の学習、研究、反省を怠らないのが大事だよ」(p570)

    「大衆に奉仕することが活動家の使命だから、けっして威張っちゃいけない。自分の学歴をひけらかさないことだ。(中略)そういうことを表に出さず、大衆にたいしては謙虚でありなさい」(p570-p571)

    「部落解放とは、民衆を差別から解放することだ。『穢多』とか『長吏』というのは、歴史上つくられた身分制度の呼称だよ。人がこの言葉をつかうとき、そこに侮辱の意思があれば、差別になる。差別撤廃の目的につかう場合は許される。部落の完全解放には、まだまだ時間がかかる。だから御身大切に。延命術の第一義は、早起き、早飯、早ぐそ、早逃げだ。そのために心身を鍛錬し、経済的貧困に耐える訓練を日常から積み重ねることだ」(p571)

    「こころある人には、かならず伝わるじゃろう。伝わらん人間のことをあれこれ気にするより、伝わる人がひとりでも多くおってくれるなら、これからそっちの人たちとどう手を取り合っていくか、考えたほうがよかろう」(p594)

    「天皇にたいする謂われなき尊敬こそ、部落民にたいする謂われなき差別の根源であります」(p602)

  • 高山文彦の『どん底 部落差別自作自演事件』を読んだ時に、高山が解放運動の詳しい歴史を書いた本があると知って図書館で借りてきた。これが700ページもあるごっつい本で、あのピケティ本(600ページある)よりも厚いのだった。

    分厚くて重いので、ウチで机に広げて1週間ほどかかって読み終える。えらいごっつい本なのだが、もういっぺん読みなおそうかと思うくらい、あれこれと興味をひかれた。サブタイトルにあるように、これは松本治一郎の伝記であり、解放運動の歴史でもある。

    時代として仕方のないことだろうが、解放運動やってたのは男ばっかりかーと思うくらい、男性陣の話ばかりである。松本治一郎は、明治20年(1887年)にうまれ、昭和41年(1966年)に亡くなっている。解放運動のなかで女性が記録されはじめるのは、治一郎時代の後なのかもしれない。

    治一郎が「部落解放の父」と呼ばれていることは私も知っていた。参議院副議長になったときに天皇拝謁の儀礼を拒否した"カニの横ばい拒否事件"のことも何かで読んだことがある。この伝記を読むと、実際にでっかい身体の人だったというが、心の上でもスケールの大きい人だったことが感じられる。自分は粗末な家に住み、ぜいたくをせず、"松本組"で稼いだ金を、解放運動につぎこんだだけでなく、炊き出しや奨学資金のかたちで社会に注ぎ続けた。

    その治一郎(幼名は次一郎)が、父の次吉から教えられたことが冒頭に記されている。宮本常一がその父から教えられた言葉を思い出させるものがある。※

    ▼次吉は教えた。
     「渇しても盗泉の水を飲まず、という言葉がある。中国の言葉や。どげん喉が渇いても、他所の泉の水を飲むな、ということじゃ。自分で働いて、自分の力で生きてゆく。腹が減って死にそうになっても、他所の家のものに手を出したり、勝手に飲んだりするな。いまのような馬鹿げた時代は、長うつづきはせん。社会の進む方向を見極める力を持てよ。世の中を生き抜くには、まず学問を身につけろ」
     治一郎は、まなこに暗い光を集めて、じっと聞いていた。(p.15)

    水平社ができて以来の、解放運動がたどった紆余曲折の一部を、あとの時代の運動団体は伏せようとしたらしい。水平社はこんな団体であったと言いたいがために、過去の文書を都合のよいところだけ引用したりということもあったらしい。著者はそのあたりを、こんな風に書く。

    ▼歴史というものは、時代や政治状況の変化に応じて解釈が変化する。戦後民主主義や学生運動が盛りあがりをみせるなかで、水平社というものは創立当初から左翼思想に基づいた反体制団体であり、社会主義や共産主義につらぬかれた強固な戦闘集団であって、官憲こそ最大の敵であったとする雰囲気がこんにちまで流れていた。実際はそうではなかったのだ。…(略)…
     天皇の発した「解放令」があるかぎり、差別撤廃を目的として水平社が徹底糾弾をおこなうのは間違いではない。部落民への差別発言、差別行為は、明らかに詔勅の趣旨に反するのだった。そこで水平社の活動家たちは、警察を巧妙に利用することを考えた。自分たちは天皇の御意志を純粋に実現しようとしているのだから、差別をした相手がどうしても謝罪をしないというなら、そのときは助けてくれと、警察に理解を求めていったのである。(pp.118-119)

    こうした傾向の、おそらく最たるものが、水平社ができて間もない頃に企てられた「錦旗革命」の扱いだろう。関東大震災の折、「大震災の混乱に乗じて天皇を京都に迎え、全国の部落民が立上って革命を起」(p.157)そうとしたのである。天皇を担ぎ、その錦の御旗をわが方に立てようとしたことから、錦旗[きんき]革命という。

    だが、この錦旗革命については、研究者のあいだでも長らく論じられることがなかった。当事者が口をつぐんでいたことも一因だというが、著者の高山はこう指摘している。

    ▼多くの研究者が追究しなかったのは、ひとつには証言者の不在という事情もあろう。しかし、それより大きかったのは、マルクス主義史観(階級史観)の呪縛から、なかなか逃れきれなかったからではないか。さらに踏み込んで言えば、水平運動は創立当初から一貫して反体制運動であり、反天皇制の立場をつらぬいてきたという、それこそ組織ぐるみでつくりあげてきた神話に縛られてきたからではないか。
     ここまで私は、たびたび天皇と部落の関係について書いてきた。天皇を担ごうとしたからといって、水平運動の歴史に汚点をなすものとは、少しも考えない。社会主義や共産主義の洗礼を受けた水平社の人びとは、それを汚点として見たのであろう。(p.156)

    この錦旗革命をめぐる新資料を発見したのは、 平野小剣の生涯を描いた『差別と反逆』の著書などのある朝治武さんだという。

    錦旗革命の計画を、治一郎は「それはおもしろい、それはよか」と大いに膝を打ったという。その治一郎は、徳川辞爵勧告をおこなっていた。徳川家16代目の当主で正二位、大勲位、公爵という身分と名誉をもち、貴族院議長の地位にあった徳川家達[いえさと]に対し、爵位を返上しろと迫ったのである。

    この爵位返上の勧告と錦旗革命について、そこにある天皇中心主義のことを高山はこう分析する。

    ▼封建制度の頂点に天皇があるからこそ、差別が生まれるという構造は、厳として存在している。天皇を階級社会、封建社会の頂点として位置づけるならば、最下層民としての部落民が、どうしようもなく存在することになる。なのに、なぜ天皇中心主義なのか。
     天皇と部落民を、上と下に分ける者たちがいる。幕末の薩摩や長州がそうだったように、彼らは自分たちの地位や利益を守るために天皇を政治利用する。天皇をかつぎ上げ、権力をわがものにしたら、その特権の見返りとして、立場の弱い者の上に君臨し、搾取する。その最下層に位置するのが部落の者たちなら、全国水平社が計画した錦旗革命とは、そのような特権を持っていつまでも変わらぬ夢を見つづけようとする者たちから、天皇をわが手に奪おうとする試みであったといえる。(p.166)

    この当時の、天皇中心主義で、まるで国粋主義の団体であるかのような主張は、戦後、全国水平社を母胎にして結成された部落解放全国委員会によって隠された、と高山は書く。戦後まもなく出版された『部落解放への三十年』という本のなかでは、「国粋主義ととられかねない部分がまるごと削除されるか、改竄という行為によって書き変えられている」(p.168)という。「こうした行為は、戦後再出発した解放運動の希望に燃えた姿を、偽りの色で黒く塗りつぶしてしまいかねなかった」(p.168)と指摘する高山は、錦旗革命の当時がどのような時代だったかを記して、こう述べる。

    ▼全国水平社の第三回大会がひらかれたのは、天皇制打倒をはじめてうたった日本共産党が非合法のうちに創立し、そのとたんつぎつぎに党員が検挙され解党に追い込まれたのと同時期であった。それを考えたとき、「勧告書」にあふれる天皇中心主義は、善意にとれば、官憲の弾圧を逃れるための仕掛けだったのではないかと思われるが、当時の首脳陣が錦旗革命に傾けた情熱を目の当たりにしたら、やはりそれが真意だったのである。
     もとより政治運動ではなく、大衆行動のよりどころとして水平社が生まれたかぎりは、広く水平社外の人びとにも受け容れられるよう、その当時もっとも権威を持ち、国民崇拝の対象であった天皇との距離を見誤ってはならないという考えはあったのだろう。(p.168)

    天皇の問題と同じように、戦後の批判にさらされたのが、水平社の戦争協力問題だった。

    ▼戦後になってながらくのあいだ、水平社の戦争協力問題は部落解放同盟のなかでタブー視されてきたし、それ以上に戦争反対をつらぬいてきたのが水平社であるとさかんに喧伝されてきたから、ことにトップの地位にあった治一郎の戦争協力問題については、意識的に遠ざけられてきた感がある。
     戦争に協力しなかったかと問われれば、「協力した」と言わざるをえない。が、翼賛候補となって議席を守らなければ、部落大衆の光源が消えてしまう。治一郎が議席を持ちつづけていることが、部落大衆の誇りであったとすれば、翼賛会の顧問になるという選択は、部落大衆の存在に重きをおいた選択であっただろうとも思われる。(pp.519-520)

    そんな治一郎が、無条件降伏を告げられた敗戦の日、その日のうちにしたことは「家の者に言って、にぎり飯をつくらせることだった」(p.535)という。「たくあん三きれを添えて竹の皮に包んだそれを、一トン積みの三輪トラックの荷台に積み込んで、博多駅まで持って行かせ」(p.535)たのだ。

    ▼知り合いに、焚[ママ]き出しについて訊かれた治一郎は、
     「わたしがこれをせんじゃった場合、あの人たちは、どげんなるか知ってござるか。結局、罪を犯すようになる。それを放っておけるか」
     それでも食うに困ったあげく、盗みをしでかして逮捕される者があとを絶たなかった。治一郎は留置場にも、にぎり飯を差し入れた。拘置期間が不必要に長びいている者には、警察とかけあって自分が身元引受人となって外に出してやる。希望する者には、松本組で働かせた。(p.536)

    治一郎のこうした行動は若い頃と全く変わっていない。そこにうたれる。

    晩年、1965年の同和対策審議会答申には同和対策事業を行うこと、その予算措置をすること、特別措置法を制定することが記されていたが、治一郎は部落の完全解放の理念をうたった「基本法」だけで充分という立場だった。これに対し、中央執行委員たちは「事業法」の制定を主張した。

    治一郎は、「事業法は解放運動を堕落させる。金に眼がくらむ連中が出てきて、解放運動が駄目になる」(p.695)と言い、「事業法というのは諸刃の剣やぜ。衛生面や環境面では良うなるかもしれんばってん、部落の者から独立心を奪うようになる」(p.695)と語った。

    当時、中央執行委員の一人であった上杉佐一郎は「委員長、事業法ができても、私たちの努力で同盟内の活動家の腐敗や堕落を防ぎ、絶対に正しい解放運動を守りつづけます」(p.696)と訴え、治一郎も最終的にはしぶしぶ認めたが、それでもくどいほどに釘を刺した。

    上杉に「サーちゃん、事業事業と言うとったら駄目やぞ。事業は部落問題を完全に解決するひとつの手段や。目的は部落の完全解放。肝心なのは、ここんところやぞ」(p.696)と言い、「サーちゃん、同和対策の事業をやると必然的に大きな金が動く。部落のなかには貧乏しとる者が多いけん、指導者のなかにはやっぱり金に眼のくらむ者が出てくる。…(略)… 利権、これは気をつけんと大変なことになるぞ。目的は事業じゃない。部落の完全解放やけんな」(pp.696-697)と言った。

    はたして、事業法は、部落の環境改善には大きく貢献するも、治一郎が危惧したように金に眼がくらむ者もうんでしまった。そのことは残念としか言いようがない。だが一方で、差別をなくそうとし、同胞の痛みをわがことのように感じるあたたかい心をもったムラの人たちがいることを書きとどめたいからこそ高山は『どん底』を書いたのだし、この『水平記』も治一郎の生きてきた姿に大きな魅力を感じたからこそ書かれたのだと思う。

    この本では、とくに戦中の水平社の動向や治一郎ら関係者の発言の多くが「特高月報」から引かれている。まさか水平社の会議に特高が同席したわけはあるまいし、スパイがいたのだろう。それにしても、誰がどんな発言をしたということまで、ずいぶん克明に記録されているものである。

    読み終えて、過去の運動を"読みたいように"読もうとするところなんかは、『社会運動の戸惑い』で読んだものにちょっと似てるなーと思った。

    それと、後には離れた人もあるが、水平社にいた人たちのことを、もう少し知りたいと思った。むかし、清水書院の『西光万吉』は読んだはずだが、結局「水平社宣言」のことくらいしかおぼえていないのであった。『被差別部落一千年史』(原著は「特殊部落一千年史」)を書いた高橋貞樹の若さにもびっくりした。

    (1/24了)

    ※宮本常一がふるさとを離れ、世の中へ出ていくときに、その父が「書いておいて忘れぬようにせよ」と書き取らせた十カ条(『民俗学の旅』、pp36-38)。

    (1) 汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置き場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。
    (2) 村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上って見よ。そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいってみることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。
    (3) 金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
    (4) 時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。
    (5) 金というものはもうけるのはそんなに難しくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。
    (6) 私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十過ぎたら親のあることを思い出せ。
    (7) ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。
    (8) これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。
    (9) 自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。
    (10) 人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。

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著者プロフィール

1958年、宮崎県高千穂町生まれ。法政大学文学部中退。2000年、『火花―北条民雄の生涯』(飛鳥新社、2000年)で、第22回講談社ノンフィクション賞、第31回大宅壮一ノンフィクション賞を同時受賞。著書に『水平記―松本治一郎と部落解放運動の100年』(新潮社、2005年)、『父を葬(おく)る』(幻戯書房、2009年)、『どん底―部落差別自作自演事件』(小学館、2012年)、『宿命の子―笹川一族の神話』(小学館、2014年)、『ふたり―皇后美智子と石牟礼道子』(講談社、2015年)など。

「2016年 『生き抜け、その日のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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