- Amazon.co.jp ・本 (171ページ)
- / ISBN・EAN: 9784104361021
作品紹介・あらすじ
鋭くも愚かしくも聞こえる問いをつねに発している高校生サヤは、ある日の放課後、喫茶店で謎のイギリス女性と出会ってひきつけられる。クラスメートのカツオは、フィリピン人の混血少年と性関係をもちつつも、太陽を崇拝する青年への興味を抑えられない。あっちへこっちへと転がりながら、はからずも核心へと向かってゆく少女と少年の日常を描く、愉快かつ挑戦的な最新長篇。
感想・レビュー・書評
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タイトルからは難解な小説を予想して読み始めたが、ここで描かれる世界も文体も多和田葉子のそれとは随分違っていて、一見したところは普通の高校生の日常が描かれるかのようだ。作中の視点人物は3人。サヤとカツオ、これに担任教師のソノダヤスオのそれが加わる。もっとも、最初から随所に不穏な感じがないではない。ことにコンドウとナミコの存在と行動が、この世界に異和を混入させる。それでも、小説の中を流れる時間は、ともかくも日常だ。「序・破・急」の急は、まさに唐突に訪れる。最後に至って一気にシュールな世界に呑みこまれるのだ。
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多和田作品では珍しく(?)高校生が主人公。とはいえ視点は複数。見た目ギャルでも頭の良いサヤと、そのクラスメートのカツオ、そして教師のソノダヤスオ。タイトルの球形は休憩とかけてあるのかしら。
それにしても男子の名前がなぜ「カツオ」。日本人なら老若男女どうしても日曜夕方の某国民的アニメの坊主頭のヤンチャな男の子を思い浮かべてしまうと思うのだけど。この小説のカツオくんはまあ多少お調子者なところはあるけれど、まあまあ要領も頭も良く、しかしフィリピン人とのハーフの美少年マックンと同性愛中、それをカムフラージュするためにサヤにちょっかいをかけたり、なぜか偶然知り合った太陽と火にこだわる危なそうな大学生コンドウと親しくしたりもしている。
サヤのほうは地元の喫茶店で偶然出会って親しくなった老女イザベラさん(時をかけるイザベラ・バード )とのくだりはとてもファンタスティックなのに、一見大人しそうだけどサイコパスとしか思えないクラスメートのナミコが怖すぎて、ラストは結局ナミコのホラーっぷりにもってかれてしまう。終盤で一気にカオスに突き落とすところがいかにも多和田葉子でした。 -
少女の青年期の小説である。同性愛異性愛等様々な問題と精神に異常を来たした人と学校が舞台である。
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川上未映子の「ヘヴン」を思い出したのは、この本と近い類似があったからではなくて「頭の中と世界の結婚」の4曲目のある歌詞と本書のある箇所との類似があって(といってもわたしが個人的にこの歌詞のその箇所にぐっとして、とても強い印象を残していたため本文中に同じような文章を見つけてはっとした)、そこから川上未映子が浮かんで、球形時間の十代を主人公としていてスクールな感じが「ヘヴン」となんか似てるなって感じた・・・個人的な見解。
そしていま自分に関心がある事柄について書かれていた。偶然手に取っただけなのに・・・。
多和田氏の著作からこれを選んだ自分の選定眼てなんだろうとびっくりしました。 -
電車を待ちながら化粧をする女子高生『サヤ』は、角髪(みずら)は好きだけどちょんまげは嫌い。クラスメートの『カツオ』は男の子と体育倉庫で密会を重ねている。この二人を主軸に潔癖症の女子、ノイローゼ気味の担任、太陽崇拝者の大学生など、壊れかかった面々の心象風景が描かれている。
どこまでが現実でどこからが妄想なのかも曖昧で唐突に終わってしまうし、最後まで主題がさっぱり掴めなかった。色々なテーマを内包しているようでもあり、つかみどころのない現代を表しているようでもあるけれど、結局のところそんなことはどうでもいいのかもしれない。
ただ、なにより『カツオ』だ。黒板に落書きをして皆を笑わせるお調子者として登場。しかもカタカナで(これは全員そうだけど)『カツオ』とくれば、当然『さざえさん』が頭に浮かんでも仕方がないよね。どうやら彼は少し不良っぽい今風の男の子らしいんだけど、もうどうしてもいがぐり頭しかイメージできない・・・。ネーミングって大事だなぁ。 -
女子高校生サヤを中心に、同級生のカツオ、担任のソノダヤスオたちの視点から、道徳や規則に対する疑問、自分の思い込みや偏見、現実逃避的な憧れなどが微妙にからみあう作品。
終盤で、ばらばらに進んでいた主人公たちの話が重なるような感じになっていて、独特の表現描写も感じられるものの、筋がわかりにくく、まとまりなく中途半端に終わってしまっている印象です。 -
この作品については、荒川洋治さんという私の好きな詩人が評した文章を引用します。
文学とは、その作品を読んだ人が、もっと楽しいことや、新しいことを自分でもして みたい。ためしたい。そう思えるようになることだ。
多和田葉子さんの「球形時間」は、現代の教室と、日本が舞台。女子高校生サヤと、 その友だちのカツオ、その他の人たちでつくる物語である。
<中略>
と、これはほんのわずかなシーンを取り出しただけだけれど、ぼくもこんなふうになりたい、この小説のなかにあるものが、全部ほしいと思った。ほのかな真剣味をおびて、心とからだに、はたらきかけるのだ。何かをはじめたくなるのだ。
これはそういう「はたらきかけ」をもつフィクションなのだと思う。「私小説」の手法によらない小説が、ここまで怒りと、笑いと、あつみのある現代小説を「創造」できること。そこにぼくは新鮮なおどろきを感じる。しかも流れているのは、とても明るいひかりだった。作者の文学の、ちからであろう。
(引用元:http://p.tl/eZOp)
ぜひ、読んでみてください。 -
サヤはプラットホームの端で、手鏡と口紅を出して、あわただしく、鏡の中を覗き込んだ。