セラピスト

著者 :
  • 新潮社
3.87
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本棚登録 : 918
レビュー : 107
  • Amazon.co.jp ・本 (345ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784104598038

作品紹介・あらすじ

心の病いは、どのように治るのか。『絶対音感』『星新一』の著者が問う、心の治療の在り方。うつ病患者100万人突破のいま、必読のノンフィクション。密室で行われ、守秘義務があり、外からうかがい知れない。「信頼できるセラピストに出会うまで五年かかる」とも言われる。そんなカウンセリングに対する不審をきっかけに著者は自ら学び始め、同時に治療の変遷を辿り、検証に挑んだ。二人の巨星、故河合隼雄の箱庭療法の意義を問い、精神科医の中井久夫と対話を重ね、セラピストとは何かを探る。膨大な取材と証言を通して、病との向き合い方を解く書き下ろし大作。

感想・レビュー・書評

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  • 著者の熱意は分かるんです。すごーく。
    だって自ら大学院で学んだりこれでもかと言うほどの人達への取材。
    一冊の本をまとめるためにこれだけの時間と労力をなかなか使えない。
    でも、ちょっと私には固すぎたかな。
    教科書的すぎて響いてこなかったというか。
    中心にあるのは河合隼雄、中井久夫、山中康裕といった大御所だがいかんせんその他にも登場人物が多すぎて散漫になっている。
    それとカウンセリングの歴史に固執し過ぎている点も気になった。
    きっと実際に現場に携わっている人にとってはこれぞ!という本なんだろう。

    フロイトやユングも学生時代にちょっとかじったけれどこじつけっぽい解釈に納得のいかないことも多かった。
    絵画療法や箱庭療法にいたっては眉唾ものだなと正直思っていた。
    いやいや、でも先人たちの熱い思いがあってこそなんですね。
    全く新しい心の病の治療を手さぐりで探ってきた苦労を思うと下手な事言えない。
    さらに河合隼雄の存在がいかに大きかったのかよーく分かった。

    それにしてもせっかく確立した絵画療法や箱庭療法も現代の診療ではほとんど使われていないとは驚き。なんとももったいない。
    患者数の増加による人手不足で3分診療が定着している現状ではいたしかたないのか。
    おまけに10年単位で精神疾患の患者数の傾向が変化するというから大変だ。
    以前は多かった統合失調症や対人恐怖症は激減し、現代では発達障害が圧倒的に多いと言う。
    時代とともにカウンセリング方法も変化し続けていかねばならない。
    現場はさぞかし大変だろう。
    頭が下がる思いである。

    それにしても自分に合ったセラピストに出会う事がこんなにも難しいとは。
    患者側も最初に受診したセラピストと合わなくても、単なる相性の問題と気楽に構えることが大事なのね。
    勉強になりました。

    • vilureefさん
      だいさんへ

      いえいえ、とんでもありません。
      だいさんも是非本書をお読みになってください。
      だいさんのレビューが読んでみたいです(*...
      だいさんへ

      いえいえ、とんでもありません。
      だいさんも是非本書をお読みになってください。
      だいさんのレビューが読んでみたいです(*^_^*)
      2014/06/09
    • だいさん
      読んだ!!!
      (図書館に予約して待つこと約半年でした)

      まじめな内容の本でしたね。
      良く調べて書いていると思いました(感心した点)...
      読んだ!!!
      (図書館に予約して待つこと約半年でした)

      まじめな内容の本でしたね。
      良く調べて書いていると思いました(感心した点)
      のめりこみすぎかなとも感じました(ロジャース再認識にはいいかもしれません)
      黒船にたとえられるDSM(悪い部分が再確認できた)
      日本の医療制度が出てこない(たぶんこれもいい点)
      2014/12/15
    • vilureefさん
      だいさん、こんにちは♪

      あれから半年とは驚きです。
      そうですよね、今年もあと残りわずか・・・。
      この本の人気衰えずなのかな。
      う...
      だいさん、こんにちは♪

      あれから半年とは驚きです。
      そうですよね、今年もあと残りわずか・・・。
      この本の人気衰えずなのかな。
      うちの方は田舎の図書館なので予約ゼロです(^_^;)

      内容もうろ覚えなのですが、いたって真面目なお堅い内容ですよね。
      あちこちで絶賛されていましたが、私には客観性に欠けるかなとも思ったような・・・。
      なんでここまで話題になったんでしょうか??
      2014/12/16
  • すぐに本書を買おう。
    私のバイブルとしよう。
    読み終えて、まずそう思った。図書館で借りた本だったが、即、購入した。
    医者でもいい、看護師、臨床心理士、介護士、カウンセラー、教師でも誰でも、人に接し援助する仕事に携わるなら、それを目指す人なら必読の書だろう。

    図書館本にはなかったのでわからなかったが、購入した本書についていた帯には「心の病はどう治るのか」とあった。これは少し違うな、と思った。
    セラピーのメカニズムを解明する本ではない。
    今、人と向き合う立場にいる人、向き合わねばならないが、本当にこれでいいのかと不安に思っている人に、それでいいんだよ、と背中を押してくれるような本だ。
    そういう意味では、上記のような既にその道のプロとしてやっている人より、その道の入り口にいる人が読むべきなのかもしれない。

    カウンセリングも、傾聴も、いのちの電話も、犯罪者の精神鑑定のための聞き取り調査ですら、語り手の本心を引き出すには、ひたすら聴く(「聞く」ではなくて「聴く」)ことがまず基本中の基本であり、帰結するすべてなのだ。そこに、どんな専門性もいらない。ひたすら相手の言葉に、態度に、表情に、沈黙にさえ、耳を傾ける。待つ。
    人には自分自身で問題を解決する能力がある。自分の言葉で因果を紡ぎ、物語をつくることで、自身を統合させ一個の人間として心の安定を図る。他人の言葉ではなく、自分の中から湧き上がる言葉で初めて成し得る作業だ。
    それを自分一人で成せなくなったとき、その話を聴いてくれる相手、セラピストが必要になる。徹底的な受容をもって話を聴いてくれる相手、その存在そのもの、実はこれこそが幼児にとっては母親なのだろう。徹底的な受容を実感できたとき、人の心は一個の人格として安定し統合されていくのだろう。

    本書には幾人もの心理学者、精神科医が登場するが、やはり中心は河合隼雄と中井久夫だ。両名とも、クライエント自身が紡ぐ言葉(言葉がなければ箱庭、風景)を何よりも尊重し大切にした人物である。
    実はいくつかの臨床例が紹介されている中、中井久夫と統合失調症の患者との逐語録で、泣けてしまった。こんなところで何故と思いながら、泣けてしまったのだ。
    患者の心に寄り添った中井氏の言葉がそのまま、私自身の思いをも揺り動かしてしまった。

    気になる箇所に付箋を貼ったら、数十か所にもなってしまった。
    何か行き詰まったら、また本書を読み直そう。
    もう一度、原点に立ち返ろう。

    久しぶりに、河合先生の本をまた読みたくなったな。

  • 日本文化に根ざした心理療法、
    それを築いた心理療法家たちの歩みや苦労、
    劇的な出会いとその魂の歩みについて、
    我々専門家ではなく、
    作家という外部からの視点で描かれたことに、
    多大なる意味がある作品。

    そしてなにより重要なことは、
    心の深遠に踏み入れることの実感と意味
    ―それは、誰しもに適応できるのではなく、
    あくまで、有用であるという意味―
    について語るためには、
    作者の体験したような主観を通してでなければ、
    決して語れぬという事実。

    言葉にすれば、間主観ということなのだろうが、
    そこにはロジカルを超えて、
    人と人が出会い深く行なわれること、
    その先にある、
    ひとりの人間のためだけにある意味と、
    かけがえのない希望が存在するのだ。



    私は、言葉という面倒な道具を用いて、
    あくまで言語化にこだわるスタンスではあるが、
    言葉があるから故に面倒になることも理解している。
    そのような立場から読んでも、
    人間と真摯に向き合おうとするかぎり、
    本書は何度読んでも新鮮な出会いとなるだろう。

  • 2014年42冊目。

    心の治療やカウンセリングの在り方を、自らの実践、当事者へのインタビュー、文献の読み込みを通じて丁寧に解き明かしたノンフィクション。
    中盤の日本の心理療法の変遷の部分は、人物や専門用語が次々と出てきて読みづらかったが、
    随所に出てくる患者とセラピストの逐語録がリアルでよかった。
    結局心のケアで大事なのは、魔法の薬や言葉ではなく、
    患者と真摯に向き合う誰かとのあたたかい関係の中にあるのだと感じた。
    ということはつまり、医療の場でなくとも、患者の心をほぐすことは可能なのかもしれない。
    逆に、にわか知識でやってはいけないことの危険性も書かれている。
    そういう意味で、多くの人が手にする価値のある本だと感じる。

  • 職場である図書館にも統合失調症とみられる利用者が来館していることや、新型うつ病についての報道で精神医学に興味が増した。
    何から読もうかと探しているところに本作を知り。
    河合隼雄さんは作家との対談を何作か読んだこともあるが、中井久夫さんはお名前を知っている程度だったので、今後、著作に触れたい。
    まずは精神医学と心理学の入門書から始めなくては、と強く思った。この領域に興味が強いということは自分が患者にもなり得ると、どこかで感じているからなのかもとも思った。そのためにもまずは知りたい。

    今世紀に入ってから、自分の抱えている問題を表現できない主体性のない相談者(大学生)が増えたというスクールカウンセラーの話が特に印象に残った。
    想像力の欠如は日頃、学生と接していて痛感してはいたので、やはりというか・・・。

  • 最相葉月さんが心理療法について書く。しかも河合隼雄、中井久夫両氏に焦点を当て、自ら中井氏の被験者となって。これが期待せずにいられましょうか。ところが…。

    うーん、なんとも中途半端な気持ちになってしまったんである。日本で心理療法がどのように始まり、どうひろがってきたか、その経緯が軸となっているのだが、この点が煩雑でわかりにくい。もっと整理してあれば読みやすいなあと何度も思った。

    また、実際に行われたセラピー(箱庭療法が中心)の例が多く挙がっていて、実に興味深いのだけれど、やむを得ないこととはいえ、「解釈」はされず、あくまで事例報告にとどまっている。ここがもどかしい。

    自分自身療法としてのカウンセリングなどを経験したことはないが、見聞きしてきたことから、それが臨床的に有効だとは思う。ただ、理屈がわからない。もちろん、この本は心理療法のガイドではないのだから、ない物ねだりだろうが、「どうしてそうなるの?そう言えるの?」というモヤモヤが晴れない。

    これは一つには、「心理」とか「カウンセリング」とかがとても一般的なものになって、中にはなんだかあやしげなものもあることへの、うっすらとした不信感も関係しているのだろう。深い見識を持つ人と、素人に毛の生えた人との見分けがつきにくいのだ。だから、そう合理的に説明したり割り切れるものではないとわかってなお、「理屈を教えて」と言いたくなる。

    自分の経験をつらつら考えてみると、カウンセリングについて興味を持ち、勉強もして、「この分野のことは知っている」と自認している人で、心から信用できると思った人は、あまりいない。人間関係のことなら私にまかせて!という態度がどうにも…。

    著者も書いているが、セラピーは「療法」であって、「自分を知る」とか言うたぐいのこととは別物なのだろう。その意味で、取材動機が明かされるあとがきは納得だ。

  • <印象に残った箇所>
    ・心理臨床の営みの目的は悩みを取り去ることではなく、悩みを悩むこと。

    ・ユングやフロイトは、自分の心の探求を徹底させて理論を作った。しかし、それはニュートンの力学の法則とは違う。力学の法則はどんなものにも適用できる。ユングが作った法則は万人に適用不能。けれど何も役立たないものでもない。あなたが自分の心を考え始めた時、ユングの理論はあなたにとって有用な時がある。

    ・カウンセラーがクライエントと一緒におりていく深い世界は、言葉にできない。言葉にしたら、深い世界ではなくなる。そうした世界を探るには、箱庭療法など言葉を使わない方法がある。

    ・回復に至る道はどんな道か。単に症状をなくせばいいというわけではない。ありのままでいいわけでもない。クライエントとカウンセラーが共に同じ時間を過ごしながら、手探りで光を探す。心の底に潜んでいた自分さえ気づかない苦悩にそっと手を差し伸べる。一人では恐ろしくて暗い洞窟でも、二人なら歩いて行ける。

    ・二十年前の学生と今の学生が抱える心の問題は違う。二十年前の学生は、アイデンティティ模索の悩みや、それに付随する様々な症状を訴え、学生自ら答えを見出し解決に向かっていた。今の学生は、問題解決のハウツーや正解を早急に求めるタイプと、漠然とした不調を抱え、何が問題か自覚できていないタイプに二極化している。後者は対人関係に問題を抱え、引きこもり、リストカットなどの行動に出る。なぜだかわからないけどイライラして、落ち込み、切ってしまう。

    ・現代の心理療法では箱庭療法や夢分析は人気なく、認知行動療法が主流。今この瞬間の気づきを大切にして、付随する思考や感情に囚われない「マインドフルネス」という認知行動療法も広まっている。

    ・心理障害は10年単位で流行が変わっている。1970年代から80年代には、境界例が流行した。境界例とは、神経症と精神病の境界領域にあるという意味。親子関係、恋人関係、治療者との関係など二者関係にこだわり、しがみつく。相手を賞賛し理想化し田と思うと、こき下ろす。すさまじい自己主張をして相手に配慮しないなどの特徴がある。情報消費社会化、バブル経済との関連性を指摘されている。

    ・90年代には境界例が減少し、かわりに解離性障害が増加。現実感を喪失したり、一時的な記憶を喪失したり、日常生活に様々な支障をきたす障害。自傷、万引き、摂食障害の症状が出た翌日には覚えていない。覚えていないのは、思い出したくないトラウマがあるからで、トラウマを介してしか現実と接点を保てなくなっている。

    ・今世紀に入ってから目立つようになったのが、発達性障害。多動性、不注意、相手の発言を言葉通りに受け止めてしまう等が特徴。外面だけの表層的世界で対人関係を結んでいる。自分の内面世界を見つめて言葉にする主体性が形成されていない。心理療法は、主体性があって自分の内面と向き合える人を前提としているから、内と外の区別のない場合は、相談に来ても難しい。

    ・これまでモノを相手に仕事をしてきた人が、人を相手に仕事をする状況になったせいで、発達障害が広がったのではないかというのが、河合隼雄の見立て。

    ・言葉で表現できない時は、イメージや遊びの中で回復をはかる。

  • 河合隼雄と中井久夫、言わずと知れたこの世界の巨星がどのようにしてそれぞれの道を切り開き、どのように関わり合いながら歩んだか、他の先生方との関係も含めて体系的に流れを捉えることができる。
    そして患者として関わり始めたわけではなかった作者自身が、中井久夫氏の風景構成法を体験することで自身の抱える問題に向き合い、物語を紡ぎ出していくさまはとても興味深いし、読者自身の心をも照らし出すことになる。歴史や記録だけにとどまらず現在進行形で実感を得られる稀有な作品。

  • 回復するというのは本当に良いことなのか。回復=良いこと、と信じていた偏見に一石を投じられた。
    寡聞にして知らなかったけれど、精神の病は時代によって、わりと短いスパンで変化するものらしい。例えば境界例とか対人恐怖といった症例は少なくなっているらしい。
    現在の傾向としては、「悩むことすらできない」という、局在化できない悩みでセラピストを訪れる人が増えているという。悩みが他者との間に生じるものであるなら、他者を避けることがいくらでもできる現在、存在のかなしみそのものに追い詰められる時代がやってきたのか。

  • ☆5(付箋43枚/P345→割合12.46%)

    一体カウンセラーとは何をしているのかという著者の疑問から始まった本。そもそも著者にもメンタルでの悩みがあり、かの中井久夫先生に直接カウンセリングを実演してもらいながら(羨ましい!)、カウンセラーの日本の系譜をたどる。
    そもそも僕がカウンセラーの本に接したのは河合隼雄からで、日本でカウンセラーが有名になったのも、河合隼雄からだと思う。スイスのユング研究所で直接カウンセリングを学び、箱庭療法を確立して文化庁長官まで務めた人だ。河合隼雄は少し前に亡くなったので、その河合から始まったカウンセリングの技法の実際を周囲の人たちの証言から浮かび上がらせる。
    僕は、箱庭も河合も中井久夫も山中康裕も神田橋も読んでいて、この著の中でも生き生きと出てくる。だけど、この最相さんというライターは本当に凄い。河合や中井久夫、山中康裕に神田橋、カウンセラー(精神科医でもあります)本人が書いた人と接する技法の豊饒さはとても深くて味わい深いのだけれど、さらに明快に、カウンセリングとは何かという主題の軸にそってまとめている。というか、そのために集めた資料の膨大さを想像して気が遠くなる。
    そこから最相さんが選んだ素材もまたユニークで、著者が直接中井先生に技法を教わっているシーンと、30代で視力を失ったクライアントに箱庭療法を行ったというセッションが圧巻(そのクライアントさんから直接証言を取っている)です。視力を失うと、自己イメージが人の形では無くて膜に包まれた球体のようになるとか。

    では、セラピストとは一体何なのか。
    僕が思うにそれは、精神的な悩みという考え方のわだかまりを抱えてしまった人がその悩みをもたらす考え方に向き合うことを手助けする人なのです。だから、アドバイスするのではなくて、本気で聞くことが必要なのです。
    それはしかし、徐々に分かってきたことでした。特に箱庭療法が奏功することは、当初精神科医達の間で受け入れがたいものだったようです。

    “「箱庭療法」は、治療者が見守る中で、クライエントがただ黙々と置いていくだけで、ただそれだけで、他の幾多の方法などより、はるかに立派な成果を上げる。
    この治療法が教えたことは、実に大きい。すなわち、「治療者の臨在」の意味の大きさや、「敢えて言語化せずとも、癒されうる」こと、つまり、必ずしも「意識」を通過せずとも、心理療法は成立しうること、言語や意識の代わりに、「イメージ」が治癒にあずかっていることなどを知らしめたのである。”

    そのセラピストの技法は本書から触れてほしい。
    最後に、セラピスト達の対人の接し方についての言葉を引いておきます。

    “僕はね、自分の意見を言うということはめったにないです。大体その人の言いたいことをなんとか僕がよい言葉にしようとしています。その気持ちは強くありますね。
    ―河合隼雄”

    “カウンセリングでの話の内容や筋は、実際は、治療や治癒にはあまり関係がないんです。それよりも、無関係な言葉と言葉の“間”とか、沈黙にどう答えるかとか、イントネーションやスピードが大事なんです。
    ―山中康裕”


    ***以下抜粋***
    ・一番困るのは、ある程度の成功例を背景に恣意的な“解釈”をまき散らす人である。

    ・クライエントが「やる気が出ません」と訴えた場合、頭部外傷やその後遺症である可能性もあれば、統合失調症やうつ病の可能性もある。食生活の偏りが原因かもしれないし、職場や学校の対人関係がうまくいかないことが影響している可能性もある。手術や薬で改善するはずの人をずるずるとカウンセリングし続けて症状が悪化した場合、責任はカウンセラーにあることはいうまでもない。

    ・「カウンセリングでの話の内容や筋は、実際は、治療や治癒にはあまり関係がないんです。それよりも、無関係な言葉と言葉の“間”とか、沈黙にどう答えるかとか、イントネーションやスピードが大事なんです。」―山中康裕

    ・村瀬がスーパーバイザーを務める事例研究会に出席したことがある。発表者は、地域の福祉センターで相談員をしている人で、クライエントはうつ症状に苦しむ40代の女性だった。クライエントに対し、発表者は聞き役に徹している。話し相手ができてほっとしたといってクライエントは笑顔を見せるが、家事や育児の苦労も重なって至高の悪循環が続き、面接を重ねてもなかなか好転しない。私が聞いていても、身の上話に時間を費やすばかりでなかなか進展の見られない単調な面接にくたびれてしまい、この発表者はいったいどこを目指してクライエントに会っているのだろうと疑問に思わざるをえなかった。
    このとき、村瀬が指摘したのは、愚痴をただ聞くのではなく、クライエントの言葉を手がかりに、クライエントが現在置かれている立場や望んでいることを理解し、クライエントの現実の生活の中で何ができるのか可能性を探りなさい、ということだった。
    たとえば、「自分のことを責めてらっしゃるけど、案外よくやってらっしゃるのではありませんか」といったポジティブな言葉を伝え、クライエントの自尊心を支えていく。人の心にレッテルを張るのではなく、言葉にできない思いを汲み取って相手の心の深層に近づいていく。

    ・とはいえ、ひたすら共感し、受容するだけではどうにもうまくいかないケースが存在するのもまた事実である。もし、クライエントが親を殺したいという願望を述べたとき、それをそのまま受容できるだろうか。妄想に苦しんでいたら、妄想をそのまま受け入れるのか。あるいは、人生に絶望し、自殺したいといわれたらどうか。沈黙したまま言葉を発しなかった場合はどうすればいいのか。

    ・(盲目の人のための白杖で歩く)訓練を終えてから、四日市の教会に出かけてみたんです。礼拝を終えた帰り際、玄関で神父が一人ひとり見送っておられました。私も靴を履いて玄関を出ようとしました。すると、神父さんが、お気をつけて、と声をかけてくださった。普通ならば、大丈夫ですか、といわれるところです。大丈夫、の主語はあなた、YOUですね。エスカレーターや会談でも、大丈夫ですか、Are you OK?といいますね。主語がYOUの言葉にいちいち傷ついていたものですから、お気をつけて、Please take care,というYOUのつかない言葉をかけられたことがとても嬉しかったんです。
    ※32歳で網膜色素変性症を発症。結婚とほぼ同時期だったが離縁される。その後しばらくして失明。

    ・失明してから、私は自分の体が眉間を中心とする透明な卵の殻の中にいるような気がしていたんです。卵の大きさや形は、その時々で異なります。元気なときはパンと張りがある感じ、疲れているときは少しへこんでクニャッとした感じでしょうか。卵の大きさも周辺の様子や私の体調で大きくなったり小さくなったりします。人と人は一定の距離をあけています。パーソナル・エリアというのでしょうか、その枠を越えて人が入ってくると自然によけます。私の場合も、突然誰かに触れられると怖い。見えない距離があるのです。
    (意識して思い出さないと色彩も忘れそうになるそう)

    ・面接室に入ると、木村はまず、箱庭療法についてどの程度知っているかと伊藤に訊ねた。まったく知らないという返事だったため、目の見えない伊藤が箱庭を作ることについて考えたこと、特に、自分が作った世界を自分の目で見ることができないために悲しい思いをすることにならないか心配していると伝えた。
    (他にも治療室に入り、おもちゃを眺めて自然にそれを手に取るような玩具との偶然の出会いが存在しない)
    「それでもお引き受けしようと思ったのは、一つには、箱庭は視覚と同時に触角の要素を併せ持つといわれているからです。触角はあなたの分野。砂は箱庭の大事な要素です。砂が表現の主役になることも考えられるし、そこに可能性を見つけることができるかもしれない。お引き受けしたもう一つの理由は、全盲者がどれほど可能性を延ばせるかの実験だといわれたあなたの言葉です。箱庭という素材がその一つの試みになればと思いました。」
    木村がそう話すと、伊藤は嬉しそうにうなずいた。

    ・第四回目の面接で、伊藤は切り立った高い崖に一人の女の子の人形を置いた。眼下には花が咲き乱れ、果実が収穫されている。家から家をつなぐ道がある。緑が豊かで衣食住の足りた世界は、伊藤の憧れである。だが、少女はそこにはいない。崖を下りたいが、行くことができないでいる。バケツを持った農婦が家の前に立ち、こちらを眺めている。
    「崖を下りる勇気がないのではなく、盲目の私は永遠に崖の上に一人でいるべきだと思っているんです」
    伊藤がそういうと、木村は「行けるよう、道はついているのにねえ」と応じた。

    ・この間、伊藤は現実の生活での悩みや苦しみを木村に打ち明け、相談していたわけではない。早急な問題解決を目指すのであれば、年単位の時間を必要とする箱庭療法はじれったい。だが、伊藤のように、一度は死を考えるほどの絶壁や人生の大きな転換点に立たされた場合、クライエントが望むのは目の前の悩みや苦しみを取り除くことだけではない。ただ話を聞いてもらうことでもない。伊藤が必要だったのは、自分の人生を自分の力でゼロから紡ぎ直すことだった。
    (普通の人はここまで必要としない。本当に。)

    ・後日、木村の論文に掲載されている伊藤の箱庭の写真をこの本のために提供してもらえるかどうか相談したところ、二人とも快諾してくれた。だがしばらく考えて、写真は使わないことに決めた。伊藤自身が見えない伊藤の箱庭を、どうして第三者が見ていいだろう。写真でわかる玩具の色やデザイン、配置されている場所が、伊藤の心が見ている箱庭と同じである保証はどこにもない。晴眼者が知り得ない色、見えない構図を伊藤は見ているかもしれない。

    ・ある日、山中は統合失調症の成人患者に「隣にいてもいいだろうか」と声をかけてみた。その患者は「ま、何もしなければいいですが」と答え、「何しに来たんですか」と質問してきた。
    「教えてほしいんやけど、病院に入院してて毎日つらいと思うんやけど、本当はこういうことがしたいと思うことがあると思うんだ。それがなになのか、聞いて回ってるんです」
    「本当にしたいことをいったら、本当にさせてくれますか」
    「それは私個人では簡単に答えられへんけど、ぼくにできることだったら一緒にしたいね」
    すると、患者はいった。
    「これが自分でやったことだ、といえることがしたいです」

    ・この研究を通して山中が認識したのは、絵は防衛手段である、ということだった。絵によって、真実が自分に迫るのを防御する。絵があれば、本当の自分を見せずに済むという意味だ。自ら絵を描きたいと願い出た患者たちには、うまいと褒められることへの期待があった。それは、表面的な自己満足である。本当の自分に肉薄し、さらけ出し、そこからもう一度、自分を再構築するという考えをもちにくい。そのため、いつまで経っても治らず、むしろ社会復帰療法で体を動かしことでようやく退院することができたのだった。彼らに対しては、描画は有効ではなかったというのが山中の実感であった。
    看護師を困らせてばかりいた第二のターゲット患者たちの退院が早かったのは、山中との個人面接を通して、ネガティブな自分は仮の姿であることを発見したからだった。これからは本当の自分を生きてもいいのだと気づくと目に見えて回復していった。

    ・三回目の診察のとき、太郎は前回の箱庭にエネルギーを吸い取られてしまったようにしばらくぼうっと突っ立っていた。十分以上してようやく棚に手を伸ばしたかと思うと、ぱらぱらっと家の玩具を四軒だけ置き、あとはもう何もせずに放心したように立っていた。前回の箱庭に衝撃を受けていた山中は、期待のあまり、「箱庭を知りたいんじゃないかなあ」と太郎にいった。すると、そこまで山中の発表を黙って聞いていたカルフが、突然、「何いってるの、山中さん」と口を開いた。
    「屋根が、赤い屋根が、一つ出ているじゃない。これ、ものすごく大事よ」
    カルフは四件の中の一つの家を指さした。
    「この屋根が赤いでしょ。どう思う?」
    屋根の色は、灰色、黒、茶色、赤だった。
    「感情が出てきたと思わない?彼は三年間ほとんど感情が表出できなかった。じーっと沈黙していて感情の出し方もわからなくなって口無しになっちゃった。それなのに、色が出た。これはすごいサインよ。色に注目してみたらどう?」

    ・山中が夢を語り終えると、河合はいった。
    「壮絶ですな」
    「…この人たちは、実に何年も私が関わった方々です。自殺は同時に起こったのではなく、この数年の中でちらほらと…。1人は、何とご自身で作ったピストルで、たった1発の弾丸で頭を打ち抜かれて。1人は、自宅の松の木で首吊り。1人は高いビルから飛び降りて亡くなられました。私の配慮がどこかで足りなかったのだと…」
    「何とも言えませんな。あなた方精神科医は、こういう場面に出会わねばならんことが我々よりは多いね」
    (こんなに苦しんでいたとは。この山中康裕の著「こころと精神のはざまで」では、完全に消化しているように感じた。
    ―引用― 読者は、筆者を感傷的でありすぎる、と非難されるであろうか。治療関係とは、ほとんど、恋愛や殺し合いにも似たこころの深さの次元にまで、踏み込むことのある、だから、極めて危険な営みでもあることを、これらの記載から、深く知ってほしい。だからこそ、彼らとの「関係性」を結ぶとき、私は、かたくななまでに、料金や時間や場所を限定するのである。
    それ以外の、クライエントとの、現実上での、コミュニケーションは、ただ治療室での、もっぱら絶対聞法のみであり、それ以外はこころのなかでのみ、ファンタジーの中でのみ行われ、かつ、同時に、そこで何がおこっているのか、何が行われているかに、可能な限りしっかりと、気づいていなければならないのである。)

    ・中沢: たとえば先生が言ったことに対して、クライアントが「違うんです」と反対したときは、どうされるんですか。別のほうから攻めるんですか。
    河合: 僕はね、自分の意見を言うということはめったにないです。
    中沢: それは、特殊なケースですか。
    河合: そうでしょうね。大体その人の言いたいことをなんとか僕がよい言葉にしようとしています。その気持ちは強くありますね。

    ・河合の分析を通じて山中が得心したのは、ユングやフロイトがいったように、夢は人間の無意識に至る王道であること、自分の無意識から生まれる内容を慎重かつ丁寧に観察し、それによって自分の生き方を決めること、そして、心理臨床の営みの目的は悩みを取り去ることではなく、悩みを悩むことであるということだった。

    ・「箱庭療法」は、治療者が見守る中で、クライエントがただ黙々と置いていくだけで、ただそれだけで、他の幾多の方法などより、はるかに立派な成果を上げる。この治療法が教えたことは、実に大きい。すなわち、「治療者の臨在」の意味の大きさや、「敢えて言語化せずとも、癒されうる」こと、つまり、必ずしも「意識」を通過せずとも、心理療法は成立しうること、言語や意識の代わりに、「イメージ」が治癒にあずかっていることなどを知らしめたのである。

    ・絵や箱庭に表現するだけで、なぜ言葉が引き出されるのか。
    「言葉は引き出されるんじゃないんですよ。言葉というものは、自ずからその段階に達すれば出てくるものなんです。引き出されるのではなくてね。5歳ぐらいまで一言も話さない子どもたちはよくいます。それは、言葉以前のものが満たされていないのに、言葉だけしゃべらせてもダメという意味です。言葉は無理矢理引き出したり、訓練したりする必要はなくて、それ以前のものが満たされたら自然にほとばしり出てきます。事実、私のケースはみなそうでした」

    ・入門書を作らないもう一つの重要な理由は、絵画療法のわかりやすさにある。紙を渡し、指示にしたがって絵を描いてもらうのは一見、容易な作業である。ぐるぐるなぐり描きするのも、分割するのも、川、山、田、道…と順に描いていくのも、とてもやさしくて簡単だ。医師や臨床心理士、作業療法士など資格をもたなくても、方法さえ身につければ誰でもすぐに実施できるだろう。国家資格はなく、短期間の講習を受けただけでアートセラピストを自称する人もいる。だからこそ危険であると中井は考えた。とくに、学校の先生にふんだんに利用されることを危惧するという。どういう意味かと訊ねたとき、中井の返事はこうだった。
    「先生って、子どもの秘密、知りたがるでしょう?秘密を尊重するところから、始めるのです」

    ・こういうふうに二つに仕切って半分だけに色を塗ったのは、私の長い生活を通してカトリックの修道女でかなり高齢のえらい人だけです。

    ・私の考えでは、妄想というのは統合失調症の人の専売特許ではなくて、自分との折り合いの悪い人に起こりやすいかなあ。ほかのことを考えるゆとりがないとか、結論をすぐ出さなきゃいけないというときです。でも恐怖がなくなると、妄想はかさぶたのようにはがれていきます。語られなくなる。たとえば今、この部屋にはヒーターの音がしていますけれど、あれが周期的に人の声に聞こえても不思議ではない。でも恐怖がなければなんということはないのです。

    ・「山も田も家も木も、右にばかり寄っていますね。なにか意味はあるのでしょうか」
    「右が空いていると絵は明るく見えるんです。どうですか?」

    ・そんな疑問を抱いた中井が、患者と面接を重ね、看護日誌を読むうちに気づいたのは、回復していく過程では、患者があまりものを話さなくなるということだった。幻覚を見たり、妄想に苦しんだりしている非常時には、自分の状況をなんとか言葉にして伝えようとする。医師や看護師も注意深く対応する。ところが症状がだんだん落ち着いて消えていく回復過程では、病との闘いでエネルギーを消耗しきっているため、めったに語らなくなる。

    ・破瓜型統合失調症(思春期から青年期にかけて発症し、感情表現の欠落が主な症状)の青年は、社会復帰を間近に控え、いつもコンクリートのビルと高速道路から成る風景ばかり描いていた。
    ところが、枠のある画用紙に描かれた絵はまったく違った。大きな川が左上から右下に静かに流れ、川には中流に三つの中洲がある。中洲に生命の兆しはないが、両岸には草がそこそこ生えている。この青年がこれまで描いてきた生硬で幾何学的な線と違って、ひそやかで寂しみを感じさせる構図で、色合はやわらかく淡かった。川に橋は架かっていないが、青年は「橋はずっと上流にあります」といった。
    青年は続いて枠のない画用紙にも絵を描いた。それは、これまでと同じ市街風景で、左側に民家、右側にビルがあった。真ん中の道路には車が走り、左側の家の軒下に一人の人間が押し寄せられている。「道路をむこう側に渡りたいが渡れません」と青年はつぶやいた。

    ・粗雑を覚悟で表現すれば、たとえば枠のあるほうに患者の内向的な面が、枠のないほうに外交的な面が表されている。たとえば「枠なし」には鳥を「枠あり」には魚を何週間か描きつづけている場合、「この鳥は今飛び立とうとしているのだろうか、もう少し羽をあたためてからにしようか迷っているのだろうか」と訊ねると、答えはいつも後者であった。

    ・山中はこのときの会話を鮮明に記憶している。中井は、自分がなぜ風景構成法を着想したのか、芸術療法研究会での河合との出会いにさかのぼり、青木病院の患者に箱庭療法をやってもらったときの話をした。
    「それで山中君、どうなったと思いますか」
    「先生、悪くなったでしょう」
    「そうなんです。全員悪くなった。だいぶよくなって社会復帰が射程に入ってきたなと思う患者にやってもらったのですが、それが全部悪くなった。どうして悪くなったと思いますか」
    「砂が問題じゃないでしょうか。砂が崩れる。崩落するイメージがある。」

    ・臨床を積み重ねる中で山中がとりわけ感銘を受けたのは、ある破瓜型統合失調症患者が描いた風景だった。22歳のその男性は、指示するアイテムをことごとく、画用紙の左下隅に、しかも、山中が描いた枠の外側に描いた。枠と紙の端までのごく狭い空間にである。山も、川も、木も、人も、とても小さく、しかし、形態はそのままに丹念に描き込まれていた。そして、最後、「あとほかに描きたいものがあればどうぞ」といったときである。男性は、その左下隅の小さな絵から枠の内側に向けて小さな橋を架け、こういった。
    「先生、ボクもみんなと同じ世界にいたいのです」

    ・ところが、問題をとりあえず局地化して捉えることが苦手な統合失調症の患者は、不意打ちの出来事に遭遇したり、長期的な予測を強いられる状況に置かれたりするとき、もっとも破綻を起こしやすい。いわば、世界の全体像の修正を迫られる事態に陥る。
    そんな彼らの認知世界を考慮すれば、診療においても日常生活においても、「(心理的に)空間的距離をとることによって、出来事を相対的に矮小化すること、(心理的に)時間的距離をとることによって、悪夢化しやすい長期的予測をさけること」といった配慮が必要ではないか。

    ・まず、中井が患者を診察室に呼ぶところから目を瞠った。通常、意思は次の患者の名前を看護師に伝え、患者は看護師の案内で診察室に入っていく。だが、中井は違った。診察室の扉を自分で開けて顔を出し、待合室をざっと見渡しながら、「〇〇さ~ん、お待たせしました」と患者を招く。患者を呼ぶのではなく、自ら招き入れるのである。
    患者が着席すると、通常なら、医師は「どうしました」と声をかけ、症状を訊こうとするだろう。教授の木村敏の場合は、患者にわからないドイツ語を使って、後ろに並ぶ研修医たちに説明しながら診察していた。ここでもまた、中井は違った。患者が黙っているならば、自分も黙っていた。
    十分ほど経った頃、中井はやさしく患者に語りかけた。
    「しゃべるのが苦手みたいね」
    「…はい」
    患者は初めて口を開けた。
    「いいよ、そのままで、いいよ」
    中井がそういうと、再び、沈黙となった。
    さらに十分ほどして、患者はようやくなぜここに来たのか語り始めた。
    「…先生、ぼく…、みんなに嫌われてるんですよ。ぼく…、いてもいなくても同じなんですよ」
    「そうか、それ以上、今あわてて言葉にしなくてもいいよ。そのままでいいよ」
    診断のための質問は一切しない。立ち居振る舞いから、一目瞭然、統合失調症の患者であることはわかるからだ。

    ・沈黙に耐えられない医者は、心理療法家としてダメだとぼくは思います。―山中康裕

    ・日本語で、「精神障害の診断と統計の手引き」と訳されるDSMは、第三版以降、これまでの精神医学の分類を塗り替え、現在、世界標準として君臨している診断基準である。第三版というからには第一版、第二版があるわけだが、第三版がこれまでの版と違うのは、公式の診断基準として初めて操作的診断基準を採用したことだった。それまでの診断では、たとえば、気分が沈んでいても内分泌系の異常でなければうつ病とは診断されない。気分が沈む原因は、内分泌系以外にもいろいろ考えられるからである。

    ・たとえば、“これはDSMでは精神病症状を伴う統合失調症だけど、使う薬の適用を考えると、保険病名は統合失調症で出しておこう。しかし、たぶんこれはパーソナリティ障害だけどなあ”という具合です。

    ・中井の理想とするのは、7床あたり一人の医師である。この本が書かれた1982年の基準は、50床に一人だった。現在はどうかというと、内科や外科などを有する百床以上の総合病院や大学病院の精神科で16床に一人、それ以外は48床に一人である。医師の数は1998年からの10年間で2割増え、個人クリニックの数も増加しているが、患者数の増加には到底追いつかない。

    ・「途中でどっちいくか、あっちいくか、というためらいが出てくると、かなりよくなってくるのです」
    「そうなんですか」
    「患者さんには、どう、この前より描きやすかった?と尋ねるといい。アセスメントは自分でいったほうがエンパワーされるのです」

    ・「絵画や箱庭が治療的だとされるのは、そこに物語が作られるからなのでしょうか」
    「物語を紡ぐのは非常に重要なんですが、忘れがちなことが僕はあるような気がします。一見話が飛ぶようですが、判決文ですね。あれは裁判官が物語を紡ぐわけですが、親しい弁護士によると、被告人が納得して刑を受けるような名判決というのはなかなかできないのだそうです」
    「そうなのですか」
    「物語を紡ぐということは、一次元の言葉の配列によって二次元以上の絨毯を織る能力ですからね。そこに無理もあるのです。言葉にならない部分を言葉のレベルまで無理に引き揚げることですから」
    「ええ」
    「言語は因果関係からなかなか抜けないのですね。因果関係をつくってしまうのはフィクションであり、治療を誤らせ、停滞させる、膠着させると考えられても当然だと思います。河合隼雄先生と交わした会話で、いい治療的会話の中に、脱因果的思考という条件を挙げたら大いに賛成していただけた。つまり因果論を表に出すなということです」
    「ええ」
    「箱庭も、あれは、全部物語を紡がない、ということも重要なのでしょう。河合先生はよく、ふーんって関心してしていればいいとか、私はなにもしないことに努力しているのです、といっておられた。あれは、そういうことを念頭においておられたんでしょうね」

    ・よく学生たちにも言うんですけれども、われわれに一番大事なのは感心する才能ですね。「はあー」とか「うわー」とか、ともかく感心するんです。そうするとつくる気が出てきますから。それを、「これは何ですか」とか、「ここがあいてますね」なんて言うのは一番下手なやり方です。

    ・箱庭療法はやりにくくなっています。絵画療法もそうです。箱庭や絵画のようなイメージの世界に遊ぶ能力が低下しているというのでしょうか。イメージで表現する力は人に備わっているはずなのですが、想像力が貧しくなったのか、イメージが漠然としてはっきりしない。内面を表現する力が確実に落ちているように思います。ストレスがあると緊張は高まって、しんどいということはわかる。だけど、何と何がぶつかっているのか、葛藤が何なのか、わからない。主体的に悩めないのです。
    最近多いのは、もやもやしている、といういい方です。怒りなのか悲しみなのか嫉妬なのか、感情が分化していない。むかつく、もない。むかつく、というのはいら立ちや怒りの対象があるということです。でも、最近は対象がはっきりせず、もやもやして、むっとして、そしてこれが一定以上高まるとリストカットや薬物依存、殴る、蹴るの暴発へと行動化、身体化していきます。でも、なぜ手首を切りたくなったのか、その直前の感情がわからない。思い出せない。1、2年ほどカウンセリングを続けて、そろそろわかっているだろうと思っていた人がわかってくれていなかったことがわかる。それぐらい長く続けてもわからないのです。悩むためには、言葉やイメージが必要なのに、それがない。

    ・ユングにしろ、フロイトにしろ、彼らは自分の心の探究を徹底させて理論を作ったわけです。でも、それはたとえば、ニュートン力学の法則とは違うわけです。ニュートンが作った力学の法則はどんな物体にも適用できる。ところが、ユングが作った法則は適用してはいけないんです。適用不能なものなんですね。そやけど、何にも役に立たないかというと、そんなことはなくて、あなたが自分の心を考え始めたとき、ユングの理論はあなたにとってものすごく“有用”なときがあるんです。それは、しかし、あなたにとってですよね。すべての人にとってではないです。
    ユングの理論をあなたに“適用”するとか、フロイトの理論をあなたに“適用”するというのは間違ってるというのが、僕の考え方なんです。でも、それをやるサイコロジストがすごく多い。それでみんな迷惑するわけ。―河合隼雄

    ・歴史的な発見や発明をした人物が発達障害だったのではないかとはよく指摘されるが、そんな天才でなくとも、昔の職人のように、人とのコミュニケーションがあまりうまくなくても自分の仕事に没頭し、人生をまっとうできた人たちは多くいた。特定のものへのこだわりや収集癖があっても、それが彼らの個性とみなされた。家族関係においても、それぞれの役割分担が明確だった時代には、その役割に徹すればよく、とりたてて主体性を発揮する必要も必然性もなかった。
    ところが、近代に入り、「主体の確立」が要請されるようになって、それに応えられない人たちが出てくるようになった。第二次産業化が、それに適応できない人たちを統合失調症としてはじき出し、第三次産業化が、発達障害を生み出した。つまり『これまで物を相手にしていたらよかった人たちが、仕事で人を相手にすることによって破綻していった』ことが、近年の発達障害増加の背景にあるのではないか。

    ・このときクライエントは三学期より登校を決意していたが、そのような決意に伴うかなしみの感情を、この夢はよく示しており、そのような点についても二人で話し合うことができた。治るためには必ずといってよいほど、かなしみを味わわねばならないようである。
    …人が回復するときのかなしみというのは、僧の大きな鼻が小さくなってしまったときの、なんともいえぬさみしい気持ちと似ているのではないかと思うのです(芥川龍之介の鼻を引いて)。

    ・自分はこう見てしまうというバイアスや、相手にこういうことをしゃべらせたいという自分なりのストーリーを自覚するということでしょうか。

    ・パソコンと大きなテーブルが医師と患者を隔てており、そもそも患者の話を聞こうというレイアウトになっていない。もっと直接向き合って話を聞いてほしかったのに、もしかしたら人生の分かれ目になるかもしれないと覚悟してやってきたのに。肩を落として診察室を出ると、待合室にずらりと患者が並んでおり、ああ、これもやむをえないことなのかと思い直す。

    ※付随して読みたい本
    カウンセリングの実際問題 河合隼雄
    心理臨床の実践 村瀬嘉代子 (図書館あり)
    カウンセリングの技術―クライエント中心療法による 友田不二男
    仏教が好き! 河合隼雄×中沢新一
    精神病者の魂への道 シュヴィング
    発達障害への心理療法的アプローチ 河合隼雄他
    ユング心理学と仏教
    新版 心理療法論考 河合隼雄

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著者プロフィール

1963年生まれ。ノンフィクションライター。関西学院大学法学部法律学科卒。科学技術と人間の関わりや異文化コミュニケーション等を主なテーマとする。著書『絶対音感』『青いバラ』『星新一』他多数。

「2021年 『特別授業3.11 君たちはどう生きるか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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