オルフェオ

制作 : Richard Powers  木原 善彦 
  • 新潮社
3.65
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本棚登録 : 213
レビュー : 24
  • Amazon.co.jp ・本 (428ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105058753

作品紹介・あらすじ

耳に聞こえないメロディーは、聞こえるメロディーよりさらに甘美だ。微生物の営みを音楽にしようと試みる現代芸術家のもとに、捜査官がやってくる。容疑はバイオテロ? 逃避行の途上、かつての家族や盟友と再会した彼の中に、今こそ発表すべき新しい作品の形が姿を現す――。マーラーからメシアンを経てライヒに至る音楽の歩みと、一人の芸術家の半生の物語が響き合う、危険で美しい音楽小説。

感想・レビュー・書評

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  • 愛犬フィデリオの異変にあわてたピーター・エルズは緊急サービスに電話した。それが事をややこしくしてしまった。やってきた二人組の刑事は、大量の本やCDで埋まった書棚、犬の死体、素人には不似合いな化学実験器具から何かを察知したのか、翌日別の二人組が現れ、実験器具やありふれた細菌である培養中のセラチナなどが没収される。帰宅途中、自宅に立ち入り禁止のテープが巻かれているのを車から見たエルズはとっさにその場を離れた。どうやらエルズにバイオ・テロの疑いがかけられたらしい。

    引退した音楽教師であるエルズは、もともと化学専攻だった。不眠症対策も兼ねてネットで購入した実験器具や試薬を使いDNAの塩基配列を操作する、どこにでもいる日曜遺伝子工学者にすぎない。だが、時代が悪かった。9.11以後、炭疽菌が政府機関に送りつけられる事件があり、米政府はテロに神経を尖らせていた。このままでは無実を言い募ってもテロリストにされかねない。エルズは逃げることに決めた。幸い知人の山荘が空いていた。借りたスマホのナビを頼りに逃避行が始まる。

    こう書くと、いかにもバイオ・テロを主題にしたサスペンス小説のようだが、その実態は全くちがう。エルズは小さい頃から音楽の天分に恵まれていた。継父が音楽専攻を認めなかったため、化学を専攻したが、クラリネット奏者として学内の楽団で演奏し、現代音楽を作曲する才能ある音楽家だった。逃亡中のエルズが、自分の置かれた状況を刻々と知るサスペンスを文字通り「宙吊り」にし、現在時と過去の回想が錯綜する。時間軸に沿って描かれるエルズの半生とは、友だちや恋人との出会いと別れなのだが、そのすべてに音楽が纏わりついている。

    いわば、これはサスペンス小説の形を借りた、一人の挫折した音楽家の人格形成小説(ビルドゥングス・ロマン)である。聴衆より演奏家の方が人数が多いと揶揄される現代音楽は、その実験性、前衛性が災いして、大衆向きではない。それに携わる者は、当然のことながら有名な作曲家でもなければ飯が食えない。エルズは純粋に音楽を追求したいだけなのだが、結婚し、子どももできるとさすがに愛する妻でさえ、定職をもたない夫の作曲活動に理解を示そうとしなくなる。お定まりの離婚、失意による定めのない生活、という転落の人生。

    起死回生をねらった友人リチャードの演出によるオペラの作曲だったが、宗教家による革命を描いたそれは、現実にそっくりの事件が起きたことにより、賛否の渦が巻き起こる。公演続行を主張する友人とそれを認めないエルズ。対立は避けられず、無二の親友とは絶交してしまう。その後昔の仲間の紹介で音楽教師の職につき、ようやく幸せな生活を得る。娘から贈られたレトリーバーのフィデリオとの暮らしを楽しんでいたエルズだったのだが…。

    レコードが紙ジャケだった頃、裏面や同封の冊子にライナー・ノーツなるものがあり、それを読みながら、楽曲の主題や動機についての解説をたよりに、なるほど、と肯きながら聴いたものだ。自身が楽器に堪能であるらしい作家が持てる知識や薀蓄を総動員して、マーラー、メシアン、ケージなどの音楽を分析、解説を試みる部分はまさにそれ。通常のペダンティックという域を超えてしまっている。どちらかといえば、音楽を言語化するのが目的で、それを可能にするために、この設定を借りたのではないかとさえ思えるほど。音楽にさほど詳しくない評者でも、メシアンの『時の終わりのための四重奏曲』は改めて聴いてみたくらいだ。

    小説そのものの裏で現代音楽の歴史をたどる構成になっている仕掛けだが、特にジョン・ケージのハプニングについての場面は現場にエルズと恋人のマディー、それに盟友リチャードを配し、実況風に描写していて、アメリカ現代音楽の実態を知る上でも興味深い。さらに、もうひとつの仕掛けとしては、ヴェトナム戦争やウッドストック・コンサートから9.11に至るアメリカ史が、エルズの回想の背景に収まっていることだ。当時のポピュラー・ミュージックもバック・グラウンドに流されていて、ああ、あの頃のことなんだ、と野暮な説明抜きで伝わってくる。

    最後に、全篇にわたって場面が切り替わるところに、枠で囲まれた短いエピグラフ風の断章が挿入されている。初めはそれが何のことだか、さっぱりわからないまま読み進めるのだが、最後の方になると、その意味が解き明かされる。現代生活にあってはありふれた媒体なのだが、何年か経った後でこの小説を読む読者は、ああ、そういえば当時はこういうものが流行っていたらしい、などと思うのだろうか、といらぬ想像をしてしまった。付録として作中に登場した曲の原題と邦訳が併記された曲目リストがついているのが親切。

  • 核酸を増殖するPCR(polymerase chain reaction)の過程をこれ程まで詩的に記載された文章はあっただろうか?!僅か2ページの出だしの文章に、いきなりやられてしまった。
    音楽の物語、否、音の物語。音は楽器から奏でられるものだけではない。あらゆる物、あらゆる言葉、あらゆる事象の中に音は内包されている。例えば、朝焼けには朝日のメロディーが、夕焼けには夕日のメロディーが、降雪も雪の種類により各々のメロディーが内包されている。この世は音に溢れている。世界中から音が聴こえ、それを譜面に著わそうとするピーター。それが高じてDNA塩基をkeyとしてメロディーを作ろうとする。それが周囲の誤解を招いて…。決してハッピーエンドではないが詩的な文章で、まるで音が聴こえてくるような素晴らしい物語でした。

  • パワーズ4冊め。現在形の短い文章を重ねる文体がだんだん読みづらくなってきて、ちょっと苦労した。そのせいか、他の3作ほど夢中にはなれなかったかな。芸術家あるあるに、歴史や世相を非常に巧みにからめる描きぶりは、さすがって感じで最初面白く読んでたけど、巧みすぎて、可愛げないぞと思ってしまった。パワーズは理知的な部分とエモーショナル成分の配分が絶妙だと思うんだけど、今作はエモーショナル部分がちょっとばかり過剰気味? last resort的なものがお嬢さんだったってのは、そりゃそうだろうし、私もいつも思ってることだけど、ちょっと身も蓋もないというか。いや、普通の小説なら感動して泣いちゃったりするかもしれないところだけど、パワーズには期待のハードルが高いというか。
    時代にともなう音楽や通信のツールの変化が再三描かれるのだが、この本自体が、出てくる曲をスマホ片手に検索・再生しつつ聴ける、そんな作りになっているのはとても面白いと思った。「何て小さな思考が人生の全体を満たすのかHow small a thought it takes to fill a whole life」が繰り返される世にも美しい場面は『Proverb』を流しながら読みました。音楽の歴史や技法に詳しかったらば、文章からもっとリアルに音楽を感じられたかな。印象的な場面や表現が多く、それらが時間をおいてふいに頭に浮かんでくるような、そんな小説になる予感もある。これはネタバレになりますが、最後のツイッターへの連投(←わかったときには『何者』かよ!と思った)によって、彼の求めた理想は成就されたってことなの?ガードレールに残された落書き、名もなき人々の言葉こそがこの世の音楽、とかそういう安易なオチではないよね?そこのところはちょっとよく理解できなかった。私の固定観念では、ツイートは音楽とは違うだろ、と思ってしまって。

  • 2016/3/30購入

  • 主に20世紀の音楽の変容を感じることができます。この小説の翻訳を引き受けた新潮社の勇気には感謝しますが、これは売れないでしょう。読む人に相当な努力を要求する小説です。リチャード・パワーズですもんね、毎度ですよね。すごく読み応えのある本でした。YouTubeのおかげで登場する知らない音楽の多くを知ることができる、そんな時代だからこそ生まれた本なのかもしれません。

  • リチャード・パワーズは以前から友人のひとりに読め読めと言われ続けていたのだが、なにしろ長大で難解な印象があり(事実そうなのだが)、読書会というきっかけがなければこのままずるずる読まずにいたと思う。その点で読書会に感謝、そしてまた、リチャード・パワーズという小説家、『オルフェオ』という作品に出会えたことを心から感謝する。

    結論から言うと、本書『オルフェオ』は2015年の個人的ベスト級の作品です。今現在『グールド魚類画帖』のフラナガンとパワーズによる、熾烈なWリチャード首位争奪戦が繰り広げられている次第。ちなみにわたしは音楽的な知識は絶無なので、本書に出てくる曲の十分の九は名前すら聞いたことがないし、音楽学のタームについてもなんとなく雰囲気で理解したような気になっているだけなのだが、そんなことはまったく問題にならないおもしろさだった。

    『オルフェオ』という物語には、大きく分けてふたつの核があると考える。

    ひとつは、主人公ピーター・エルズの逃走をめぐるもの。

    バイオテロ容疑をかけられたエルズは当局の手を逃れるためにアメリカ各地を転々としていくわけだが、その逃走劇において彼が向き合うのは、過去に破綻した恋愛であり結婚であり友情であり、とりわけ父子関係である。作中、エルズが自身を「青二才」と評すシーンがあるが、実際エルズという男はその人生の終わりがけにおいても失敗した過去にしがみつき、永遠の音楽を追求するという気宇壮大な夢にとりつかれた、文学の世界においてもちょっとめずらしいレベルの青二才といえる。『オルフェオ』とは、そのエルズが自身の人生を通り過ぎていった、そして自ら捨て去ろうとした過去と向き合い、その過去を現在の自己のなかに取り入れ同一化することによって成長していく(というよりは失われた過去と折り合いをつけようとする)物語である。

    要するに『オルフェオ』という物語は、遅咲きのビルドゥングス・ロマンといえるのだが、そこに本書でも大きなテーマのひとつとなる<好み>の問題が介在してくる。

    本来ビルドゥングス・ロマンとは人格的に白紙状態の少年あるいは青年を主人公とするものだから、読者もまたその成長を「さようですか」という感じで、比較的肯定的に受け止めることができる。とはいえ『オルフェオ』の場合、主人公はいい年をした爺さんなので、いい年をした爺さんが過去を思い返してめそめそするのは、そもそも昔の女を思い出して手慰みに耽るような男は、どうしても好きになれないよ!という人が一定数存在することは、『オルフェオ』擁護派のわたしといえども認めるにやぶさかではない。ピーター・エルズはだめんず文学界の試金石として貴重である。

    もうひとつの核は、エルズが求めた永遠の音楽とはなにか、というもの。

    この問題についてはパワーズ先生は親切なので、いろんなところにヒントを書いている。
    それはたとえばこんな具合。

    <私が書いた全ての曲が目指していたのは、現在という壁を突き破り、永遠へと抜けるトンネルを作ることだった>(119)

    <個人個人の好みを超えた場所まで連れ出す。人々を殻から連れ出し、外にあるものに触れさせる>(143)

    音楽にかぎらず、すべて芸術作品には<好み>が存在する。芸術家がその<好み>とどのように折り合いをつけるかというのはやはり大きな問題で、それを無視すればピアノの裏をハンマーで叩くような実験的な作品になるだろうし、それに合わせようとなら大衆的な作品ということになる。要するにエルズという男はここでもどっちつかず、というよりむしろ二兎を追っているのであり、彼が求めている音楽とは換言すれば、<これまでになく前衛的でありながらなおかつ万人を感動させる=惹きつける音楽>のことである。しかもそれが未来永劫残ることまで望んでいるからすごい。

    で、エルズがどうするかというと、これはもうある種必然だと思うが、既存の音楽の外にあるもの、つまりわたしたちが普段それを音楽であるとは認識しないものに向かう。すなわち小さいものの世界(犬、鳥、カエル、赤ん坊、そして遺伝子)であり、結果としてエルズは病原菌に音楽を組み込もうとする。しかしその音楽を単に遺伝子に組み込んだだけでは、万人を感動させるという目的は達成されない。それにはパフォーマンスが必須であり、エルズとボナーの最後の共謀は全世界に向けた恐怖の拡散、そして狂気のDIY遺伝子工学者のドラマチックな死というかたちをもって幕を降ろす。

    と、いくらでも語り続けたいくらい随所に仕掛けが施された精緻な小説で、再読の愉悦をここまで味わわせてくれた小説はナボコフの『ロリータ』以来といえる。

    しかし実のところリチャード・パワーズの本質はかなりメロドラマ的なのではないかとも思えて、それが特に顕著にあらわれるのが、遺伝子に組み込まれた音楽が最後に明らかになるくだり。
    あとはまあ、「ボルヘス・ソング」に大笑いしたり、公園ナンパシーンで目を細めたり、クララに電話をかけるシーンで号泣したりなんだりしたんですが、あんまり自分のエモーションにつなげたことは言いたくないのでそこは省きます。とにかく傑作!でした。

  • 151130図?

  • 音楽家の苦悩を感じつつ、音楽を分子生物学に持ち込もうとする発想に驚愕の叫びを発したくなるストーリー。
    現在の主人公に起きている出来事、主人公の生涯、二十世紀音楽史という3つのストーリーラインを精妙かつ緊密に編んでいて、もう少し音楽に詳しければより楽しめたと後悔をしながら読みました…

  • 音楽を通して描かれる逃亡劇と半生記。音楽に詳しい人ならもっと楽しめそう。怒涛のラストは圧巻でした。

  • 20151016

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著者プロフィール

1957年アメリカ合衆国イリノイ州生まれ。イリノイ大学で物理学を学ぶが文転し、同大で修士号を取得。 本書でデビュー後、革新的な著作を発表し続けている、アメリカ文学最重要作家の一人。

「2018年 『舞踏会へ向かう三人の農夫 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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