快楽の活用 (性の歴史)

  • 新潮社
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本棚登録 : 200
レビュー : 6
  • Amazon.co.jp ・本 (337ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105067052

作品紹介・あらすじ

一夫一婦制、同性愛、近親相姦、生殖、愛欲性、純潔性…。古代ギリシャ・ローマにおける性の実際と道徳を詳述する。

感想・レビュー・書評

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  •  認識は進歩するという。言説がそれを指示するという。知を構成する言説を実践してみた。どんな形式で実践はあるか。理論上の立場を移動し、それら諸形式を問い、結果を得た。権力の行使は構成であるという。多様な諸関連であり合理的な技術であるという。開かれた戦略とは何かを問い、結果を得た。自己と関係する形式様式を問うべく立場の第三の移動を企てる。

    『この(『どのような真理の働き(働き、にゲーム、とふりがながふってある。ちなみに真と偽の戯れでは、戯れ、にゲーム、とふりがながふってある──引用者)をとおして人間は、自分特有の存在を一心に思索するのか? 自分を狂人として知覚するときや、自分を病者と見なすときや、生命のある、話し働く存在だと自分を判断するときや、犯罪者として自分を裁き自分を罰するときの、そうした自分の存在を。どのような真理の働き(働き、にゲーム、とふりがながふってある──引用者)をとおして人間存在は、自分を欲望本位の人間だと認識してきたのか?』13頁──引用者)ようにこの問題(『つまり、自己の自己との関係における真理の働きと、主体としての自己自身の構成とを研究し、《欲望本位の人間の歴史》とでも呼びうるものを、準拠の領域ならびに探究の分野とする、ということであった。』13頁──引用者)を立てることで、しかも以前に私の慣れ親しんでいた地平からかくも遠くの時代について、その問題を念入りに立てる(『はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。』15頁──引用者)ことで、なるほど私は当初の計画を放棄していたものの、しかし長年にわたって提出しようと努力している問いかけを、私は以前にもまして精密に検討(『他方、大変な苦労をし、始めてはまたやりなおし、試行し、過ちをおかし、完全にすべてをやりなおして、ふたたび一歩一歩まよいながら進む手だてを見出す、要するに慎重な態度を保って不安に駆られながら仕事をするのは辞職に値する、と考える人々についていうなら、そうした連中と私とは同じ星の仲間ではない、それは明白だ。』14頁──引用者)していたように思われたのだ。よしんば、この研究方法のせいで余分に数年間、勉強(『それは好奇心だ──ともかく、いくらか執拗に実行に移してみる価値はある唯一の種類の好奇心である。つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めるていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。』15頁──引用者)しなければならなかったとしても、である。』13頁

    さまざまの変更

    MICHEL FOUCAULT
    L'USAGE DES PLAISIRS (Volume 2 de HISTOIRE DE LA SEXUALITÉ)
    田村俶

  • 「生の美学」というのが、フーコーの最後のメッセージなのかな?

    「性の歴史」第1巻は「知への意志」(1976年)で、いわゆる「生政治」という刺激的な概念を打ち出したきわめて刺激的な本だったのだが、8年間をおいて、フーコーの死の直前にだされた「快楽の活用」(1984)は、淡々とした静謐な感じの本でその差にあらためて驚く。

    出版当時は、フーコーも最後はボケてたんじゃない?病との戦いでつかれてギリシアの世界に逃避してるんじゃない?みたいな受け止めもあった気がする。

    今となっては、第1巻と第2巻の間の8年間は沈黙の時期ではなく、本としては出版されなくても、「生政治」の詳細な分析、そしてさらにそこから倫理性の問題への転換、そして真理の勇気と先鋭的な思索が続いていた極めて活動的な時期であったことがわかっている。

    第1巻では、現代の「性(への抑圧?)」を議論するのを「ビクトリア朝」的ブルジョア道徳(とそこからの「解放」)から始めるのではなく、キリスト教的な性・身体・告白を起点に分析していくという方向性が示されていた。

    が、8年後にでた第2巻の分析対象は古代ギリシア時代と大きな計画の変更が生じている。

    とはいえ最初のプランが全くなくなったわけではなく、おそらく西欧社会の最初まで戻って、そこを起点にキリスト教的な身体・告白というもともと第1巻時点で想定していた分析を踏まえて、現代社会に戻ってくる構成であったのだが、第4巻の「肉の告白」にたどり着く前にフーコーはエイズでなくなったということのようだ。

    「知への意志」で示された権力理論はきわめて刺激的なのだが、精緻な議論であるがゆえに、ちょっと出口がない袋小路で、「生政治」の分析をいくらやってもなんかの希望がでてくる感じではなかった。

    袋小路感を一番感じていたのはフーコー自身で、その乗り越えを目指して、西欧社会の起源ともいうべき古典ギリシアまで戻ってみたのだろう。ギリシアといえば、同性愛に寛容な社会なので、そこになんかヒントはあるのでは、みたいな?

    が、それにしても、この本の淡々としたトーンは驚く。内容的にも、単純に「同性愛が普通だった」みたいなことにはならず、「養生術」「家庭管理術」「恋愛術」など、ギリシアの古典等の分析を踏まえて、中庸を大切にして、自分自身をしっかり修養しましょうね、みたいな話になっている。

    「性の歴史」の当初プランが変更になったことを説明してある序文がなければ、ギリシア時代の「性」についていろいろな文献を整理した「普通」の歴史書にしか読めないかもしれない。

    80年代のフーコーの講義もギリシア〜ローマ時代を中心になされているのだが、そこでは、テーマや分析対象の時代の変化はあれ、いつものフーコー的なスリリングな議論展開がある。フーコーがなくなった84年の講義「真理の勇気」もきわめてスリリングなものであったことを思い起こせば、この「快楽の活用」の穏やかさの尋常ではない感じはさらに強まる。

    当時のいろいろな事情をわかった上で読んでもこう思ってしまうので、出版当時にこれを読んだ人たちはさぞや驚いただろうな〜、とあらためて思った。

    そして、きっとこの意図された穏やかさのなかに、フーコーのある種の希望のメッセージがあるのだろう。わたしはまだそこを発見するには至ってないのだが。。。。

  • 配置場所:摂枚保存書庫2
    請求記号:135.9||F||2
    資料ID:28712497

  • フーコー最期の思索群に踏み込んで、その先には何があるんだろう? というか、なぜじぶんはそうするんだろう? わかってるような、わかってないような。

  •  『性の歴史』第二巻。一巻とはうってかわって古代ギリシャ・ローマを中心に論述が始まる。
     ここでは、古代ギリシャ・ローマ時代の性に対する言説を俯瞰していくことで、「主体」への配慮がどのように形成されてきたのか、また両性というカテゴリへの考え方はいかなるものであったのか、ということが問われている。
     今日の我々が考えるようなジェンダー的概念、そして一巻で中心的に論じられていた快楽の知への意志が、近代特有のものであり、古代にはそれとまったく異なる視座があったのだということが示される。性を新しい視点から捉えなおすための具体的な史的検証であり、フーコーがそれを示そうと苦心している様がうかがえる。

  • 性に関する、「古代ギリシャではこう考えられていた」という情報の集積。もし私が西洋人だったら、自分の性的欲求や社会的抑圧のルーツを発見できたりして面白く読めたのかも知れないが、いかんせん扱っている情報と自分との距離がありすぎて、あまり興味が持てなかった。基本的に男性同士の恋愛が前提となっていて、女性は主体ある存在として語られないし。もともと二巻は「キリスト教的な肉体」という表題が考えられていたというが、むしろそっちが読みたかったなぁ。

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著者プロフィール

1926年フランス・ポワティエ生まれ。高等師範学校で哲学を専攻、ヨーロッパ各国の病院・研究所で精神医学を研究する。1969年よりコレージュ・ド・フランス教授。1984年没。主著に『精神疾患とパーソナリティ』、『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』、『知の考古学』、『監視と処罰』、『性の歴史』がある。

「2019年 『マネの絵画』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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