- Amazon.co.jp ・本 (522ページ)
- / ISBN・EAN: 9784105067083
作品紹介・あらすじ
二十世紀の文化人に大きな衝撃を与え、いまなお人々を魅了する革命的思想書を改版・新装版で。ベラスケスの名画「侍女たち」は、古典主義時代における人間の不在を表現している。実は「人間」という存在は近代に登場したものであり、いずれ終焉を迎えることになるだろう――。西欧思想史を厳密に分析批判したうえで、今日の人間諸科学の冒険的試みを統合し、画期的認識論をうちたてたフーコーの名著を新たな装いでお届けする。
感想・レビュー・書評
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知の歴史について、16世紀ルネッサンス、17〜18世紀古典主義、19世紀以降の近代の認識(エピステーメー)が異なることを考古学的手法で示す。主に古典主義時代の知の転換について触れ、言語に関する一般文法、自然に関する博物学、貨幣に関する富の分析が、同じ分類学的手法に基づいていたことを指摘する。後半では、三者を横断しながら、古典主義の表設定の目論見が解体し、体系組織内部の分析に移る近代への知の変遷を浮かび上がらせる。そこでは、労働、生命、言語の歴史性が示され、無意識的なものの体系分析としての人文諸科学(心理学、社会学、歴史・文化と神話の分析→精神分析、文化人類学、純粋理論としての言語学)につながる。無意識的体系の統一は、対象としての人間というものを固有の有限性の実在へと解体し、終焉に導くことを示唆する。
印象としては、デカルト的主体、カント経験的=先験的主体、ヘーゲル歴史性、ハイデガー存在論・時間性、ニーチェ超人が念頭にあり、外堀を埋めるように知的活動の歴史を時間をかけて分析しているように映る。文章が長く日本語だと否定語が最後にくることや、長い括弧書きによる留保で、論旨が追いにくい。また、まとめに入ると文学的な表現で何度も換言されるので、かなりくどい印象を受ける。ただ、膨大な資料の中で共通項を見出し、人文知の本質をプロットしていく様は、他の書物では得られない刺激がある。
・序
言葉の秩序と、実在の物の間には差異があり常に変動しているが、その中間的領域に属する認識・批判的役割を行うのが文化である。文化、すなわち場としてのエピステーメーが16世紀以降どのような変遷を辿ったかを示す。それは歴史というよりは、考古学に近い。[中世・ルネサンス期(16c)以降に、]古典主義(17c中頃)、近代(19c初頭)にその断絶がある。
・侍女たち
画家の視線と見えない画布により、観客はその絵のモデルではないのにその位置にいるという、不可視的な主体になる。不在のモデルは部屋の奥にある鏡に映される。オランダ絵画では、鏡は二重化の役割を果たすが、現すイメージは枠の外にある。同じく絵の外にある窓から差す光が画家と不在の主体を照らす。奥の部屋から覗き込む男は、アトリエの外部を示唆する。
主体の省略は、古典主義的な表象関係を分散し、純粋化する。
・世界という散文
16c末までの知は、類似の、主に四つの形式に分かれる。適合、競合、類比、共感。
適合は、接(近)していることによる類似。霊魂と肉体。次から次へと連結する。
競合は、鏡の反映のように答えあう類似。太陽と月。
類比は、一部の適合から対置させ、競合させることで関係を問う。植物を動物として見る(根を口と見るか、花を顔と見るかで上下反転したとしても、どこに共通点があるかを見るだけで矛盾しない)。そして、その支点になるのは人間である。
共感は、同化し個別性を消滅させる類似。火は空気、雲となって水と同化する。その同一性は、反感により補正される。共感と反感の絶えざる均衡運動の空間として適合、競合、類比がある。
類似は外徴(人の目につく特別の標識、しるし)なしに存在しない。そのため、記号を必要とする。記号の意味を発見する知識と技術を解釈学、記号同士の連鎖法則を認識する知識と技術を記号学と呼ぶ。特に16cは両者を相似の中でで捉えていた。そしてその認識は、合理的な知、魔術的概念、古代のテクストの混淆で構成されていた。
言語は、空や大地を語ると共にそれらの模像である。話された言葉ではなく、聖書などの真の「書かれたもの」が特権化する。ついで行われるのは、語に対する注釈であり、解釈である。この終わりなき語りは、自然物の認識に対する類似による関連づけの網目と同じ体系をもつ。これが[16c中世・]ルネッサンス期の特徴である。
古典主義時代(17c以降)には、書かれたものの物質的要素は奪われ、言語そのものの空間(言説)を生み出す。物と語は切り離され、能記と所記の結びつきとして二元化され、ルネッサンスにおけるような物を含む三元的な混淆した世界は姿を消す。文学が、固定化された言語を補正する反言説として現れるのはこの意味である。
・表象すること
ドン・キホーテは、彼自身が記号であり、書物の同一者としての英雄だ。書物の中の類似を現実で体現しなければならなかった。二部で自らが書物の主人公であると自覚し、言語の中で関係は閉じられる。言語と物を分離し、狂人は文学として逸脱する意味で近代的である。ドン・キホーテは、書物と現実の類似(同一性)しかみない。つまり、書物と現実の相違を認識しないことで、現実から相違した者として扱われる。詩人もまた、相似を見出す。相似は知の形式ではなく、むしろ錯誤となる。ベーコンの幻像イドラ、デカルトの比較による普遍化がその発端である。比較は、量・数の単位と、単純から複雑への秩序によりなされる。軽量は秩序にむかう。単純なものから複雑なものへ、同一性と相違性で分析され分割・秩序立てられた。合理主義、自然の科学的秩序への組み込み、知そのものが変様した時代である。すなわち、類似は分析に、無限の相似は完全な列挙に、蓋然性は確実性に、同一性は相違性の探究に取って代わった。しかし、自然と計算の対立と見るだけでは不十分で、自然とライプニッツ的「マテシス」(単に代数学という意味ではなく、記号の秩序的な体系)との関係が古典主義のエピステーメーである。ルネッサンスは「解釈」、古典主義は「秩序」。古典主義の記号は、自然の中の標識ではなく、認識の内部においてのみ確実性を担保する。記号の体系は、全ての知を一個の言語に近づけ、既存の言語を置き換える。古典主義における記号は、思考の全てであり、表象作用全体、そして意味作用そのものである。ソシュール一般記号学が心理主義的にうつるのもこの二元的性格の再発見による。しかし、比較や分析・秩序の認識には、類似・相似という想像力の表象作用が必要である。想像力・自然のいずれかの不完全さを前提としても、物の認識を補うもの(ただし単なるきっかけ)として類似性がある。単純なものはマテシスの代数学(的人為記号)で、複雑なものはタクシノミアの(経験的)記号で分類する。複雑から秩序が成立する「発生論」も古典主義由来である。マテシスと発生論の間の、分類=表空間には、博物学、貨幣価値理論、一般文法が生まれる。タクシノミア→発生論→(分類=表空間)→マテシス。17〜18cの知の中心は、表タブローに他ならない。
・語ること
表象⇔言語=思考⇔自己。言語は、ルネッサンス期には絶対的な第一義テクスト・標識に対する註釈だったが、古典主義時代には表象作用のみの批評に取って代わった。批評は、語、文法、譬喩、表象しているものに対して行われる。批評は、解釈のように原典を言い直すのではなく、言説そのものの目的や真理を明らかにする。他方、文学は第一義テクストとしての効力を未だ持ち続けているので、解釈は文芸批評の形で残っている。
言語は、幾何学に対する代数学の位置に立つ。同時的比較に対して、継起的順序が必要だ。一般文法とは、同時的に表象されるものとの関係における言語の順序についてだ。それは思考の反省的分解である。文法との関係で志向される普遍的言語は、バベル以前の復活ではなく、新たに作られる統一標識である。他方、普遍的言説は、単純から複雑へと至る認識の順序。農業戦争現実政治→詩芸術→哲学。哲学的反省は、判断規則=論理学、言説規則=文法、欲望規則=道徳。あらゆるものから普遍性を探る志向が、百科事典の発想を生む。言語=認識という観点から、文明や民族の分析的歴史が書かれる。ルネッサンス的テクストから古典主義的言語へ。古典主義においては、言語は時系列的な歴史性ではなく、文法の語順の自由度の低さによって古さを規定する。一般文法は、個々の言語における、言説の表象的機能を示すことを目的とする。言説は、記号ではなく命題の集積。特に「ある」というときに命題が生じる。存在を指示するその一語の力が、言語を基礎づけ、肯定を保証し、過去や未来をもち、他のものとの共存関係をもたらす。語ることは、記号で表象し、動詞の綜合的形式を記号に与える。言語は、実体と品質の二重的表象である(人間的、白さ)。名詞、形容詞、ついで付属的品詞・文法が生まれる。文法分析は、文法が分解され、機械化されるが、古典主義時代には付属的品詞等は、民族の習慣としてしかみなされず、抽象可能性にとどまった。のちに統辞法として文法機能が、固有の命題を規定するのは18c末を待たねばならなかった。
元初における命名は、判断と指示を兼ねていたことから、起源を明らかにする必要がある。言語は、自己から分離した記号によって、自己を表象するときに生まれる。例えば、一定の発声を、同じ動作に結びつけることで、感情を表すなど。その記号と動作には類似性はないが、他者との合意によって形成される。自然法則とは、身体的声=語と物の相違であって、約束規則とは、語と語との類似(=声と音など)である。動作から約束への言語の移行。起源は語根にある。語根の決定が語源学。
象形文字の記号の分化は比喩にあり、一部を取り出す提喩、意味で置き換える換喩、見た目で置き換える濫喩の三つがある。類比に頼るため進歩はない。表象の変化や歴史を受け入れない。東方西方の違いにも通ずる。語と符号が必要になる。アルファベットは表音であるため、象徴の影響を受けず、組み合わせで文字記号自体を分析できる。この分析とは、文字表記が類似の比喩表現で意味が転移していくことで、空間の広がりを作ること。言語は、16cで言われたように「語る」のではなく、「分析する」。
命題⇔分節化⇔指示作用⇔転移と対立し、四辺形で図式化できる。分節化と転移は機能面、命題と指示作用は名指すという面で対角関係にあり、交点は名=名詞がある。古典主義の観念学、唯名論はこのことに基づく。古典主義における言説は命名「物に名を付与し、この名において物の存在を名指すこと」である。古典主義文学は比喩から命名へと向かう(孤独な散歩者の夢想第五の散歩)。言語とは、「ある」という動詞を基礎とし、分節化された指示作用、「名」によって示される類似(=同一性と相違性)の命題的体系の中に収めるものである。
・分類すること
生物分類は、ルネッサンス期に博物学として始まるが、神学-生気論(生命に気が宿る)が、単に古典主義時代の観察科学的なデカルト機械論と対立するのではなく、技術的に補強し修正する形で生物学として変化する。その過程で、「自然を対象とする」記述となることであり、記録やお伽話といった意味論=語が除かれる。博物学とは、「言う」ことができるであろうものを「見る」可能性である。記述は、自然物それ自体を対象とした、全ての言説の集積から、誰にでも確認可能な客観的実在のみへと移行する。その要素は、形態、数、相互関係、大きさ。一見して分かるもののみを求めるため、呼吸や体液のある動物よりも、植物学が先行した。
特徴を設定するには、比較を繰り返し相違から浮き出る同一性の群を分類する「方法」と、限定した特質を選び全ての個体に適用する「体系」とがある。ルネッサンス期には他のものとは無関係だった個体の固有性は、古典主義時代において、「あらゆるものと比較して分類できる可能性を持つ」ということとなった。
自然を連続で捉えることと、表に分類することは、対立しない。分類学が認識のために暫定的に類や属を設定するため、連続した自然の時間を内的に捉えるか外的に捉えるかの違いでしかない。
言語と博物学の古典主義時代における関連は、記述と秩序である。比較分析、記号設定、名を与える。言語と博物学では、連続性の捉え方が異なるが、言語は比喩表現の想像力による類似、博物学は自然の中の限りなく小さな相違。博物学は生命の連続性ではなく、鉱物、植物、動物のような生物として捉えていた。博物学は生命ではなく、むしろ言語と交錯している。自然と言語は批判関係にある。のちにその批判をヒュームは因果性から、カントは綜合へと変化する。
・交換すること
経済学がなかった古典主義時代にあったのは、「富」の領域である。経済学に対する富の分析は、文献学と一般文法、生物学と博物学の関係に等しい。物価変動と、貨幣の名目価値と実質価値の差が問題となる。富の標識としての価格。尺度と交換物が用いられる。16cルネッサンス期には改鋳、悪質貨幣の流通などから、価格は固定ではなく、交換に用いられる貨幣も金属という一つの商品で価格を持つと考えた。貨幣記号を認知するために、類似の観点から、金属の価格という基礎が必要だった。また、金属と自然物と等価、星と同数とし、小宇宙=人間世界と大宇宙=神世界を相似で捉えた。
ルネッサンス期に貨幣の金属を「貴重なもの」として、尺度・交換機能を内在的価値に求めたのに対して、古典主義時代には「代替物」としての機能からその価値特徴を定義する逆転が起こった。重商主義は、富の表象として貨幣を利用した。それは、君主の象徴・標識である。流通と交換の機能の確立によって、貨幣は国家にとって人体における血の隠喩となった。言語表象が同一性・相違性を分析し表を設定するのと同様に、貨幣が富の相等・不相等を分析する記号となる。正当な価格というものはないが、交換可能な全ての物は、貨幣による価格の指示を受ける。貨幣の流動は、人間に進歩の概念をもたらし、さらに進歩の可能性条件である時間を記号と表象に付加する。時間は富の微分=増減傾向。
価値は、交換される可能性があってはじめて決まる。価値が交換行為にあるのか、交換という前提条件にあるのかは、言語における本質が命題=動詞にあるのか、原初の指示=名詞にあるのかに対応する。価値における前者が心理学的理論=効用主義者、後者が重農主義にあたる。
物々交換の場合、財の消費が交換の目的なので、価値・富は交換の瞬間に限られる。重農主義はそれを考慮に入れない。工業であろうと農業であろうと、価値は消費によって決定される。
交換は、有用性によるものだけでなく、評価価値を生じさせる。自分にとって不用なものは、相手にとって有用なものに変化させることで、有用である。新たなものが生み出されれば、価値の秩序において、有用であると評価を受け変化する。
"あらゆる富は土地から生じ、物の価値は交換と関係があり、貨幣は流通状態にある富の表象として価値をもつ"といった点で重農・効用両者一致し、重農主義は自然の土地生産に限界があることから土地所有者を代表し、効用主義は加工による有用性の増加から商人や企業家を代表する。
富の分析における、表に当てはめ価値を名指す構造は、博物学と同じである。交換と価値は、一般文法における動詞と名詞の関係に等しい。貨幣の価値は、一般文法の指示と転移、博物学の特徴。言語の指示作用、転移、分節化、主属辞定立が博物学と富の分析に見出される。しかし、言語の比喩表現の転移のような開かれた構造になく、それぞれ、特徴の設定、価格の変動によって記号と物の関係は閉ざされている。古典主義では、存在の連続性を捉え損なったため、その後の文献学、生物学、経済学がその空間に成立する。哲学的には論理学と存在論、意味論と時間、解釈の問題が浮かび上がる。
古典主義の秩序と名のエピステーメーの終焉は、表象からの解放をもたらした。サド『ジュスティーヌ』『ジュリエット』に始まる欲望の力が出現する。それらは『ドン・キホーテ』第二部に照応する。主人公が表象の対象となる。サドはあらゆる欲望を名指す普遍的特徴記述で、古典主義の限界に到達した。以降、人間は、表象の底の連続面に言説、自由、思考を見出しはじめる。
・表象の限界
古典主義の「秩序」は、19c以降「歴史」に取って代わる。
アダムスミスは、労働量とくに分業数を交換価値に転移させ、計量単位を明らかにしようとした。それまでは使用価値や必要に応じて価値が定まるとされていた。労働と生産の比率によって、消費も価格も変動する。交換の実定性ではなく、商品に対する表象の内部にある労力と時間で規定する。貧困と富裕から、資本と生産の時間へと移行する。
博物学は、可視的な特徴ではなく、内的な原理、組織が特徴として位置づけられるようになった。特徴は、恒常的で区別に適する階層的秩序が設けられ、その機能=特に生殖器官の重要度、機能の本質である生命、不可視であった組織の比較による分類と名の解体。有機物と無機物、生命と死の区別が明らかになる。
言語は、指示と存在様態の関係から、諸言語の比較へと移行する。古典主義が重視した語根ではなく、屈折(語形変化)が共通であることがわかった。ここから音の変化を分析する音声学が出現する。表象と意味ではなく、変様が比較される。メカニズムが歴史を支える。
近代においては、物の中に沈澱している法則が、表象の外部に自己の内的空間を規定する。感覚を基礎に表象の法則を明らかにする観念学と、表象内容の前提条件としての経験的判断・確認を示すカント批判哲学。両者は、内部法則について、表象の相互関係を分析する点について同じである。観念学は、表象に新たな法則を取り戻し、表秩序を再構成しようとした古典主義最後の哲学である。他方、カント批判哲学は、知としての表象を限界づける。
その意味で、近代はカント批判哲学の影響があるが、内部法則と異なる点がある。カントは主体の先験的(アプリオリ)に求めたが、労働・生命・言語は客体の側、後験的・帰納的(アポステリオリ)にある。そこから実証主義、客体の形而上学が生まれる。数学的演繹と経験的不可能性が分離する。カント以降、知はマテシスを利用できない。知の先験性について、フィヒテ的に経験を形式主義的な反省によって基礎付けるか、ヘーゲル的に経験の全体性の解明の奪回作業とするかに分かれる。のちにフッサールは両者を結びつけようとするが、それは限界があった。つまり、認識・経験を無理矢理形式主義で純粋化するか、主観・人間存在・有限性に基づく反省が反哲学性を帯びるか。
・労働、生命、言語
リカードは商品に労働の価値が付与されるだけでなく、労働が価値の源泉となると考えた。交換は労働に基づき、流通に生産が先行する。それによって3つの帰結がある。①因果性。富の表体系ではなく、労働と生産の時間的連鎖因果性によって価値が決定される。②必要性。土地の生産余剰ではなく、人口増加による生死をかけた食物の希少性にかかる人間の有限な労働で決定される。人間学的な効用主義もここから生まれる。③歴史性。土地、労働には限界があり、それによって歴史は止まる。それは、人口限界で価格も労働も固定化されるか(リカード)、資本を拡大していく歴史を抹殺するか(マルクス)である。マルクス主義は当時の認識論的配置を得ただけで、変質する力を持たない子供の遊ぶ盥の中の嵐にすぎない。ニーチェは歴史の終焉と回帰の無限から、弁証法と人間学を重ね、歴史の方向を変えた。
生物学は、キュヴィエが外見ではなく組織の機能に着目し、共存関係、内在的階層秩序、依存関係を浮かび上がらせる。古典主義的な特徴外見は機能上変化しやすいため、内部の共通関係で分類する。生命が自然の一部としてではなく、生命が生物として区別される。生命の同一性から特徴の相違性へと派生する。生気論はこの生命の綜合的概念による。そうした生物諸存在の連続性からラマルクは生物変移説をとなえる。生物に歴史性が導入された。生命が死によって自然に帰り、新たな生命を繋ぐ。労働が歴史の終焉に向かう一方で、生命は無限を告知する意味で両者は対立している。
文献学は、内部特徴化、音韻化、語根分析、諸言語比較の四つによって実定性をもつ。言語は、古典主義的に語根から原初言語に遡るのではなく、近代において文法的な諸言語の機能の比較から、のちに発音的な屈折=語形変化が比較され、その結果音素に分解される。古典主義の能記-所記の関係ではなく、音声学的音韻分析へと移行する。「ある」は、動詞ではなく、人称と時制の付与で、形容詞の語根の動詞性に付け加えるだけにすぎない。言語は、名指すものではなく、行為・意志を翻訳するもの。物の認識ではなく、民衆の精神、活動、歴史性として位置づけられる。最古はインド語でヨーロッパ語は後に派生した。生物は個体に終わりがあることからその外部に生命の歴史性を求める必要があるが、言語はそれ自体が歴史性を帯びる。
言語の水平化は、媒介、批評、文学としての言語という3つの代償を負う。言語は、超越論的概念から研究の客体として、言説が現れるメディアとして扱われるようになる。そしてそれに対して詳細な分類と普遍的論理学への2つのアプローチがある。言語への批評的価値とは、ふつう人は、言語の歴史性に従属して思考しているにも関わらず、固有の表現をしていると思い込んでいる。そこで言説に捉えられていない思考に遡るために、マルクス、ニーチェ、フロイトのような、語られぬものの釈義が必要となる。また、文学は文献学、言説、文法に相対する形で、古典主義的な観念的価値から身を引き離し自己完結性に閉じこもり、書くという純粋な行為で法則をもたない言語として顕現した。
・人間とその分身
言語を語るのはだれか、それを問い続けたニーチェと、それは言語だとしたマラルメ。言語は解体され、単一の存在を求めるのかそれとも諸形態をそのまま承認するのか。
ベラスケス『侍女たち』の王は、不在かつ、主体であり客体である。古典主義の「人間」は、自然を分類し表を作成するエピステーメーの中で、主体であり不在である。自然と人間、表象と存在、我思うと我ありの交叉に言説があって古典主義の言語を成立させた。
近代の人間は、『侍女たち』における鏡、主体であり客体である。人間は、表象に起源的価値を求めることをやめ、物そのものの内部法則に秩序を見出した。
人間は手段である労働と生命と言語に必要とされ、支配され、そのもののうちに実存を見出している。有限であるがゆえに、人間と相違性のある生物の死など他のものから反復を受け取って自らの死などの同一性を見出し、実定性を成立させる(有限性の分析論)。近代はその有限性から経験的に反復できない無限の形而上学を、幻想、疎外とイデオロギー、文化の挿話と告発する。有限性と実存から、思考の対象となる「人間」が出現する。
そして分析は、実証主義的自然型分析と終末論的歴史型分析に分割される。二者択一ではなく、コントやマルクスのように二重化していく。その中間項として体験がある。マルクス主義、現象学などの両者の接近は、人間が経験的=先験的二重体であることによる。
その二重性は、デカルトのコギトのように透明な統一体でもなければ、カントの自然学的客体に求められるものでもない。真実、自然、認識、哲学から存在、人間、誤認、経験への転移が問題となる。思考するために払い除けたものを、思考し直す。言語、労働、生命に支配されるわたしのその行為がわたしであると言えるか。現象学は体験と存在論であり、無意識、即自、疎外、非充実態は人間の中に他者を置く。
自らの内の不連続的相違性の他者に、一点の同一性を形成するような、円錐体の虚の頂点としての起源。起源から歴史性をもたらすのではなく、歴史性が起源を必要とする。人間が起源の価値を思考できるのは、常に既に始められたものを下地としてである。科学の実証性に対し経験の権利回復を求める終末論(ヘーゲル、マルクス、シュペングラー)、回帰論(ヘルダーリン、ニーチェ、ハイデガー)二通りの思考がある。いずれも無の中に歴史や存在を再発見しようとつとめる。起源への思考の力は、人間固有の存在の力である。
近代の分析「有限性、経験的=先験的反復、思考されぬもの、起源」は、古典主義の分析「動詞「ある」、分節化、指示、転移」に対応する。有限性は「ある」における人間の存在の外部と固有の経験を、経験的=先験的反復は分節化の二重性を、思考されぬものは指示されきれない表象を、起源は転移の方向を示す。言語の存在と人間の存在は、表象の解体と有限性によって非両立性におかれる。古典主義の同一性から形作る相違性の秩序ではなく、近代の相違性を前提とした同一性への終末・回帰へ。古典主義は継起的時間から同時性の空間を基礎付けるが、近代は経験的空間から終末・回帰への時間の思考を可能にする。
人間が客体となり人間学が生まれるが、デカルト独断論から、カント経験的=先験的二重性に嵌まり込む。ニーチェが人間学を破壊し、神の死が人間の消滅を告知し、超人を提起する。
・人文諸科学
人間学とも言える心理学、社会学、文化史、思想史、科学史を人文諸科学と呼ぶ。心理学は「産業社会が個人を強制すること」、社会学は「ブルジョワジーの社会体制」に対し生じたが、個別発生ではなく近代的認識全体として形成された。近代的エピステーメーは3つの次元に分かれる。明白な秩序の数学物理学、因果関係の経験諸科学(言語、生命、生産)、反省の哲学。前者2つの間の平面に言語学生物学経済学があり、後者2つの間の平面に生命疎外象徴の哲学があり、数学と科学の間の平面に思考の形式化がある。人文諸科学はこれらの領域の間にある。人文諸科学が不安定なのは、対象が複雑であることよりもむしろ、3つの次元の移入による。
心理学的な機能と規範、社会学的な葛藤と規則、文学と神話の研究的な意味作用と体系は、それぞれ横断しながら人間についての認識領域をおおう。そして、機能、葛藤、意味作用を後退させ、規範、規則、体系が重要になる。つまり、異常の分離をせず、集合体に組み込み分析する。無意識的なものの体系が人文諸科学の領域であるが、それは表象なしには語りえない。内容と形式を意識に回復させようとする投企。人文諸科学は科学ではないが、科学的モデルを借用している。人間の科学の対象となりえない存在を成立させた。
歴史は、古代から大きな物語として形成していたが、生物学経済学言語学などから自然物各々に固有の歴史があることがわかる。人間の時間継起が非歴史化される。人間に固有でその存在のなかふかく刻みつけられた歴史性こそ、人間の歴史を可能にする。しかし個別分析すればするほど物語としての歴史は解体する。無論、時間や地理の文化的、祖国的なものでは語りえない。歴史主義は、生物理解、コミュニケーション、解釈学を利用し、限定的な全体性に達する。反対に、有限性の分析は、具体的存在様態において実定的領域を望む。
精神分析は、有限性の無意識へと進み、死・欲望を含んだ法則を暴くが、それは個別的な実践の内部にあるため、人間の一般理論や人間学としては困難がある。同様に文化人類学も、共時的な諸文化の比較によって相関関係を示すが、諸民族の個別的な文化史に属することから一つの歴史性に帰着させることはできない。二つは無意識に到達することではなく、人間の外から意識に与え、あるいは逃れるものは何かの実定知に特権がある。精神分析と文化人類学は人文諸科学の全領域を通覧する。認識の意識から無意識に向かう意味で、反科学的でもある。両者の共通性は、個人と社会の関係ではなく、所記から能記の無意識の体系を規定すること。二つの上に言語の純粋理論としての言語学が現れる。
→ハイデガー歴史性を乗り越えるソシュールバルトデリダ言語学記号学文字学
精神分析・文化人類学と同じく、人間そのものについて対象としない言語学は、その体系化により歴史性と結びつき、人間を生誕、祖国、終焉に導く。物が実在に接近するのは、物が能記の体系の諸要素を形成できるときである。同様に、人間の無意識的側面を体系化し、統一するとき、実在としてあるのは固有の有限性のみになり、人間というまとまった概念はなくなる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「言葉と物」は1966年にフランスで出版され、その難解さとは裏腹に「まるでフランスパンが売れるように」大ベストセラーになったという。
おそらくそれは訳者あとがきでも語られるように、当時の出版業界をにぎわせていた一種のムーヴメントと合致し、読者の知的欲求を満たすほどの質が本書に備わっていたからと考えることができよう。また、「人間の終焉」というセンセーショナルな締めくくりが耳目を集めるのに十分な機能を果たしたとも言える。
「言葉と物」はそれまでの思想史や科学史全体を揺さぶる、強力な投擲そのものだったと捉えられがちだ。フーコーが語るのは、ルネサンスから近代まで、変化を続けた知の枠組(エピステーメー)の系譜である。
まずは16世紀を貫いていた「類似」の世界。それは星空に人間の相貌を見出し、言葉に神々の指標を読み取る、あの時代の学問的認識を成立させた「類似」の世界である。しかしルネサンス期から古典主義時代になると、それも「表象」の認識によって締め出される。17世紀の世界は限りなく、可能な限り名指され、分類されていくのだ。そしてこのエピステーメーは3つの学問分野を形成させる。「一般文法」「富の分析」「博物学」だ。言説(ディスクール)を形成させる文法を分類・分析し、かつ物と言葉との透明さを目指す「一般文法」、交換と富の様態を理解する「富の分析」、物と自然を記述してその特徴を分類・体系化させる「博物学」は、近代に至るまで古典主義時代の認識を貫き続けた。
しかし18世紀末になると、その「表象」も打破されざるをえなくなる。ベラスケスの「侍女たち」において、あらゆる人物を表象し尽くそうとしたものの、重要人物であるはずの王が不在であったように、古典主義時代には「主体」が完全に欠落していた。それを埋め合わせるようにして、「一般文法」「富の分析」「博物学」も変容せざるをえなくなる。「一般文法」は言説(ディスクール)から言語(ランガージュ)の分析となり、語られたことから語ること、諸民族の言語の起源へとその視線を変転させ、ついには「文献学」となる。「富の分析」もまた交換の分析から価値のあらゆる源泉として労働を見出し、「経済学」を形成する。「博物学」も、生物の不可視的領域から機能および内在的な死を発見し、「生命」を理解して「生物学」となる。
こうした諸条件が揃った瞬間、近代においてある経験主体が姿を現した。「人間」の誕生である。近代以降、「人間」は有限の存在として、また経験的=先験的二重体として探究されるべき対象となる。それはカント以降の批判哲学や、現象学の示した意味での、主体であり客体でもある存在としてだった。
「人間」は、ゆえにここ300年前程度に生まれた存在にすぎない。そしてまた、この人間を取り囲むように、「文献学」「経済学」「生物学」のに関わるようにして生まれた人文諸科学もまた、その程度の射程しか持ち得ない。マルクス主義、現象学、実存主義、心理学、精神分析、文化人類学………。
フーコーはこれら諸学問が今や言語学や文学など、さまざまな場所で解消されはじめているのではないかと考える。早くはニーチェから、そしてマラルメやアルトーやルーセル、バタイユやカフカを経由して、いつか訪れるひとつの終焉を指し示す。最後にフーコーは言う。
「そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。」
長い解説になってしまったが、初読で理解できた箇所といえばこの程度だ。ある程度の誤謬があるにしても、それでこの本で展開されたすべてを見誤るということはあるまい。
読んでいる最中に思ったことといえば、これだけの揺さぶりをフーコーは行いながら、あくまで我々の感覚に対してはほとんど強いショックを与えていないということである。たしかに、冒頭に示されるボルヘスの紹介はひとつの笑いを催すことはあるだろう。しかしそれ以降に書かれるあらゆる認識の断層、ずれはあくまでも現在を生きる我々にとって不服でありながらも承認できるものであるように思える。たとえばルネサンスの「類似」の認識は今でも我々の生活のそこかしこに存在しているし、「表象」でさえ物を理解するさいの可能な方法として、思考のある部分を占めている。
つまり、フーコーは決して我々の思考の足元を切り崩し、倒壊させ、無化させたわけではない。むしろ近代以降等閑にされてきたさまざまな知の経験に改めて目を向けて、照らし出したのにほかならないのだ。セルバンテスが「ドン・キホーテ」において狂気として示したものが、今では本書を通してひとつのありえた思考の形式として振り返られる。
こうして、フーコーが「言葉と物」で示すのは我々の自然な思考や認識の在り方である。ひとつの思考に囚われて、別様の側面を無視することを彼は拒む(かといって「類似」の時代に戻れ、と言っているわけではないが…)。何かを語るときに、常にそれ以外の可能性を示すこと、フーコーが生涯を通して探究してきたのはこれだ。本書「言葉と物」は地に足のつかない高邁な哲学書ではない。読者は、ここから違う世界の、違う可能性を模索すふことができるのだ。ベストセラーになり、20世紀の偉大なる書物として記憶されるようになったのも、もしかしたらこのような理由があるのかもしれない。 -
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