言語はこうして生まれる: 「即興する脳」とジェスチャーゲーム

  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105073114

作品紹介・あらすじ

言葉は、今ここで発明されている。認知科学が明かす、まったく新しい言語の姿。相手に何かを伝えるため、人間は即興で言葉を生みだす。それは互いにヒントを与えあうジェスチャーゲーム(言葉当て遊び)のようなものだ。ゲームが繰り返されるたびに、言葉は単純化され、様式化され、やがて言語の体系が生まれる。神経科学や認知心理学などの知見と30年におよぶ共同研究から導きだされた最新の言語論。

感想・レビュー・書評

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  • 普遍文法への真っ向勝負。 
    言語は文化的な産物なのだという主張は、近年の言語生得説に対する見方とは違う観点を学ばせてもらいました。

    最後のAIへの知見は、シンギュラリティ到達に戦々恐々としている私としては安心材料の補強になりました。ChatGPTが世間を賑わせていますが、無数のデータの蓄積を統計的に紡ぎ合わせているだけで人間的な相互関係を加味したやり取りにはまだ至っていないのだという。でも、ニューラルネットワークの底力はムンムン感じますよね。

    後は、「3000万語の格差」についての言及で、子どもに単に単語数を稼いで浴びせまくるのではなく、家族との会話に引き入れて相互作用を組み入れることが肝要だという。これは、元々聞き及んでた内容のアップデートでしたね。

    世界7000語の多様性を前にしたら、全言語に当てはまる普遍文法の探求なんて可能なのかしらと訝しんでしまう素人ですが、ここいらに関連した書籍を読み進めてみようと興味が高まりましたね。

  • 人間の言語はどうやって生まれたのか、それはジェスチャーゲームのようにその場にいる相手に情報を伝えようとする動きが言語につながったのではないかというのが、この本の内容である。

    少し前まではチョムスキーの言語本能が有力な説とされていたが、言語は本能的なものでなく文化的なものであると著者たちは言っている。

    子供が言葉を覚えるのに必要なのは、言語体験の繰り返しであってただテレビを見ていれば覚えられる訳ではない。
    人間の会話は文脈やその会話の背景から判断をしていることが非常に多く、通常の会話は正しい文法に則って話せている訳ではなく、最後まで話さないまま話者が交代したり、繰り返したりすることがほとんどである。

    チャンク(フレーズ)を覚えて使い回す中で間違いを修正したり、適切な言い方を発展させることで言語を使えるようになってゆく

  • 自然言語を身につけることの、なんと不思議なことか。
    そしてこれはAIでは乗り越えられないハードル。

  • 会話はジェスチャーゲームだ。
    音声だけでなく、仕草や身振り・手振りなど、両者の創造性の工夫に支えられている。
    互いの共同作業のもとに、即興に即興を重ねて共通の理解を構築していく。

    「コミュニケーションは、会話の参加者全員の創造性を協調させながら、全員が共有している知識と直観と過去のゲームの記憶を総動員することで成り立つ」

    ベースにあるのは共感で、相手の視点でものを見なければならない。
    同調するためには、相手の考えを読み合い、理解の程度を知らねばならない。
    瓶詰めされたメッセージの伝達ではないし、単なるメッセージの送受信でもない。

    意味は、単語と不可分で自明なのではなく、お互いに注視され解釈されて初めて固まる。
    メッセージ・イン・ア・ボトルのように、途中で横取りされたとしたら、文字どおり伝わらなくなってしまうものなのだ。
    言語の体系的なパターンも、無数の即興のやりとりの産物で、集合的に、まったくの偶然によって出来上がる。

    なんで言語を有しているのは人間だけなのか?
    何らかの特殊な神経機構を進化させない限り、言語能力なんて持てるはずがない。
    きっと進化の過程で人間は、言語に特化した生物学的な適応を得たのだ、遺伝的な言語能力が進化したんだ、と。
    これまではこのような考えが定説だった。
    例えば、人間の脳が言語に適応して普遍文法をもたらしたとする、チョムスキーの普遍文法説。
    世界中で7000もある言語も差異は些末で、元は1つの言語パターン、普遍文法から生じていて、その知識は遺伝子に組み込まれている、と。
    それに対して著者は、言語に特化した遺伝子や脳領域はなかったし、言語にルビコン川はない、つまり決定的な変化の一線などなかったと反論する。
    あるいは、単一集団によって局所的に生物学的な適応として始まったという、ピンカーらの言語適応説も以下のように否定する。
    それならなぜ言語はこれほど多種多様なのか、同じ言語をしゃべっていてもおかしくないはずじゃないか、と。
    そもそも言語が変化するペースの方が、生物学的な適応のペースよりずっと速いため、遺伝子レベルでは到底追いつけないのだ。

    発想の転換が必要だ。
    人間はどうやって言語を獲得したのかではなく、言語はどうやって人間に適応したのかを問うべきだ。
    問題の主体を人間から言語に変え、言語それ自体を進化する体系だと捉える。
    言ってみれば、人間の進化ではなく、言語がどうやって進化したかに問題を掏り替えている。
    つまり、生物学的な進化がなくても、言語の進化はありうるのだと主張する。
    言語をジェスチャーゲームと捉えると、最初から完成形でポンと生まれるのではなく、自然発生的に相互絡み合いながら自生し秩序だっていくものなのだ。
    言語能力は、必要に迫られて、すでに進化していた既存の脳のメカニズム、学習や記憶や社会的コミュニケーションのための機序に便乗して進化した。
    言語も生物と同じもの、宿主である人間と共生的な関係を築いている。
    人間と腸内にいる微生物との関係のように、言語とも相利共生関係にあるのだ。

    なぜ子供は、複雑で入り組んだ言語パターンを、たった数年でゼロから身につけることができるのか?
    しかも、周りの大人たちが口にしているのは、不明瞭で不完全で、総じてまとまりのない話ばかりだというのに。
    耳学だけで、乱雑きわまりない日常語から、整然とした文法規則がどうやって頭の中に入っていくのか?
    同時に歩き方を覚え、数え方を覚え、箸の使い方まで覚えなくちゃならないのに。
    チョムスキーなら、子供は普遍文法を持って生まれてくるから習得が早いのだと説明していたが、すでにその説は否定している。
    鍵は言語のパッチワークにある。

    その前に、言語のボトルネックを説明せねばならない。
    そもそも注意力や記憶力の限界から、言語の澱みない流れは停滞しやすい。
    とんでもなく狭いボトルネックに言語を通そうと思ったら、その場その場で処理していかないと忘れてしまう。
    数個以上の単語の猛襲や、マシンガントークに対して、なぜ人間はついていけてるのか、そっちの方がよっぽど不思議なのだ。
    耳に届いた音も、5つ以上の順位付けとなると、短期記憶の限界を超えてしまう。
    それでよく長い文章を把握できるよなと思ってしまうが、子供の言葉の覚え方を見ていくと、なるほどと感心させられる。

    ママやパパに意図したメッセージを効果的に伝えるために、子供は手元にある言語資源を総動員する。
    正確さなど関係ない。要は伝われば十分。
    特定の単語をパッチワークのように組み合わせて構文をつくり、それを徹底的に使いまわす。
    だんだんと利用できる構文を増やし、バリエーションのレパートリーを豊かにしていくのだが、それまではシンプルな構文パターンにしがみつき、徹底的に繰り返す。
    親が子供に話しかけるときも同じチャンクを繰り返し使う。
    are you hungry?
    are you sleepy?
    are youがチャンクだ。

    パッチワークのように頭だけ変え、あるいは後だけ変えるなどして、何度もリサイクルする。
    子供が、たやすく言語ジェスチャーゲームを遊べるのは、言語自体が子供に学習されるように進化してきているから。
    学習は、各世代の子供が同じようにして学んだその足跡を辿るような、文化的なものだ。

    ここ最近、「家庭の収入レベルの違いで、生後3年のあいだに400万語の格差ができる」とか、「高収入家庭の子供は低収入家庭の子供より2倍以上多くの単語を知っていた」など報じられているが、 慌てて子供にオーディオブックを聞かせても無意味だから。
    言語はジェスチャーゲームなのだから、おのずと引き込まれる楽しい双方向性の会話が必要不可欠。
    重要なのは、子供が参加した会話の順番交替の回数で、親が子供に語りかけた単語の数や、子供が発した単語の数ではない。
    会話も量より質で、一方的なものは時間の無駄でしかない。

    概ね著者の主張に同意できるが、納得できない点もいくつか。
    子供が言語をどうやって学び、それがどのように文化的に受け継がれるかなど、言語進化の過程は詳しいが、言語の誕生についての記述が少ない。
    なぜ言語でないとダメなのか、言語獲得の背景説明が足りない。

    「言語は遺伝的青写真に従って発展するのではなく、文化的進化を通じて出現するもの」と繰り返し述べているが、初期言語がどのように生まれたかについては語られていない。

    この点は、ロビン・ダンバーの方が説得力がある。
    なぜ人類は、言語を持っているのか?
    スキンシップのため。
    毛づくろいでも十分なのだが、コミュニティの拡大とともに、編み出したもの。
    ゆえに、事実を伝えるためではなく、社交的な機能を果たすためにも発達した、と。
    1対1の行為を、時間収支の観点から、同時に複数人で行えるものに変えた。
    言語でないとダメな理由がよくわかる。
    しかもダンパーの説では、なんで世界中で言語がこんなに千差万別に異なり、しかも方言まで無数にあるのかの説明にもなっている。
    つまり、情報交換が目的なのではなく、排他的な共同体構築が目的のためだからだ、と。

    そう、この言語ジェスチャーゲーム説のもう一つの納得いかない点は、言語の多様さの説明にある。
    独特な言語音が多く、不規則で複雑な文法形態を持つパプアニューギニア島のイェレ語と、言語音は少なく、単純な語形変化しかない英語を比較すると、言語ジェスチャーゲームだけからこの多様さを説明するには無理があると思えてしまう。
    名称の多様さは文化の違いで説明できる。
    それぞれの言語で、必ずしも相当する単語がないなんて言うのはザラだから。
    ただ「いまだけボトルネック」の狭い出入口を通過できるように、日常よく使う手持ちの言語をチャンクして、ジャストインタイムでつなぎ合わせてお喋りする、という説明ではなかったか?
    しかもこのチャンクは再利用されるので、繰り返しの使いまわしが効くものが選ばれる、と。
    壮大な伝言ゲームだとすると、複雑な凝ったものより、記憶しやすい単純なものが選ばれるはずではないだろうか?

    そもそも島民の数が限られ、会話ゲームのシャワーを浴びる機会も少ないのに、なぜ先進国と同じような言葉の使い手になるのかという疑問には、彼ら土着民の食事時間の会話はそれだけ濃密なんだと苦しい説明をしている。

    また、例えばデンマーク語では、母音が多すぎて単語の区切りが悪いため、次の単語の開始を見分けるのにも難儀する。
    当然、子どもの習得も遅い。
    発話が非常に曖昧なので、意味を判断するためには、文脈からの情報に依存する。
    子どもにとって学びやすく、使いやすいものこそ、言語的ジェスチャーゲームの真髄だろうに、それがない。

    「いまだけボトルネック」の説明も、別の見方ができる。
    注意力や記憶力の限界で、その場その場でチャンキングして処理していかないと端から忘れてしまうというのだが、キャパのせいではなく、脳の無意識な自動化プロセスが働いているだけだと思う。
    マーク・ソームズの説が参考になるのだが、私たち生物の理想的な状態は、欲求を最大限に高めることではなく、最小限にとどめることで、すべての欲求が感じられる前に、自動的にすでに満たされてる状態が良いはずなのだ。
    欲求が自動的に満たされるということはつまり、何も感じないことが理想なのだと。
    脳は、無意識な自動化プロセス、単なるアルゴリズム、ある種のゾンビ状態と化したいと望んでいる。
    すべての学習の理想は、新しく獲得した予測を自動化し、反射や本能のように振る舞わせることにある。
    つまり、できるだけ意識的な状態から、無意識の状態に移行させること、深い固定化により信頼性を高めることが学習の理想であり、その意味でゾンビ状態が理想なのだ、と。
    脳の負荷を減らす、無意識の自動運転、平和なゾンビの状態が理想なのだから、言語処理も同様の処理をするはずだ。
    精緻な予測や意識を盛大に働かせるのはできるだけ避けたいもの。

  • 我々が日常使っている言語は、どのようにして生まれてきたのか?我々はなぜ言葉を習得できるのか?そして、世界にはなぜこれほど多様な言語があるのか?言語にまつわるこれらの謎を、言語が生成していく仕組みという観点から解き明かしていく本。

    言語は、即興の身振り手振りで自分の伝えたいことを相手に伝える「ジェスチャーゲーム」の蓄積から生まれてきたというのが本書のアイデアである。そして、このアイデアが、脳内での情報処理の方法、言語の意味論、文法論、言語学習のプロセスなど、様々な観点からみて説得的であるということを検証している。

    言語にまつわる様々な学問が取り上げられており、多様な学問が言語の生成というテーマを通じて繋がっていく様が、非常に面白い。


    そもそも言語は世界に7,000以上あると言われるが、そのどれ1つを取ってみてもその言語が生まれた瞬間というものは誰も見たことがない。しかし、大航海時代の西洋人と南太平洋の民族との最初のコミュニケーションや、視覚や聴覚が失われた人と周囲との間でコミュニケーションの手段が編み出される瞬間など、人が新しいコミュニケーションの手段を生みだす瞬間やそれが複雑に発展していくプロセスについては、いくつもの記録がある。

    それらを見てみると、言葉の意味を生みだす共通の基盤となる規則も、体系的な文法などはなく、むしろ何かを指し示すジェスチャーの交換から始まるということがわかる。そして、それが徐々に発展し、語彙が蓄積され、より複雑な内容を表現できる構文などが編み出されていく。

    つまり、実際のシチュエーションの中で伝えたいメッセージをジェスチャーによって伝えるという経験が蓄積されていく中で、言語という体系が組織化していくというのが、筆者らの主張である。

    これは、人間の遺伝子に言語的な規則や情報体系を操る遺伝子や脳の構造があり、それが言語を生んだという考え方や、世界中の様々な言語にはその祖となる古語があり、そこから多様な言語が枝分かれしてきたという考え方を否定する考え方である。

    また、言語には構造があり、その構造を理解することでどのような言語でもその意味論や統語論を体系化できるという考え方も、否定される。構造は先にあるのではなく、ジェスチャーゲームの蓄積の結果として徐々に生みだされてくるものだからである。


    まず印象深かったのが、人間の認知のあり方と、ジェスチャーゲームを通じて生みだされる言語という概念の親和性である。

    人間の脳が一度に処理できる情報の量は非常に限られており、ほんの数個(4個前後)の情報しか短期記憶には保持できない。しかし、日常の会話においても我々は一連の会話の中で数百語の単語を交わし、それらを通じて何らかのメッセージを伝えあっている。

    このようなことが可能なのは、我々が自分の中にある考えを小さなチャンク(かたまり)に分割し、それらを順次口に出しているからである。逆に、我々が相手の言葉を聞くときにも、逐次入って来る相手の言葉を、ある程度のチャンクにまとめ、それをさらに少し大きなチャンクへと再度組み上げていくという流れを経て、意味を理解する。

    従って我々は伝えたいメッセージの全体を言葉に変換してから話し出すわけではなく、相手の言葉を理解するときにも、とりあえず受け取った言葉から徐々に意味を組み立てていく。

    このようなチャンクの交換によるコミュニケーションは、ジェスチャーゲームのような性格を持っている。最初から組み上がった一連のメッセージがやり取りされるのではなく、断片化されたメッセージのやりとりからそれぞれが意味を組み立てていくからである。従って、我々の日常会話も、文字に起こしてみると完全な文はあまりなく、相手の言葉を継いで途中から文章が始まったり、途中で途切れて相手に言葉が渡されたりしていることが非常に多い。

    言語が、意味論や統語論の観点で構造化された基盤を脳内に持っているのであれば、このような断片的な言葉の会話では意味を理解することはできないであろう。しかし、人間は非常に限られた短期記憶しかないにも関わらず一連のメッセージを伝えあう方法として、このような即興的で断片化されたやり取りの方法を編み出しており、それが言語というツールのあり方にも反映されているという。


    ひとつひとつの言葉の意味も、このような言語の成り立ちに起因する性格を持っている。それは、意味というのが会話の状況や文章の中における使われ方によって、非常に柔軟に変化するということである。

    これはヴィトゲンシュタインが「言語ゲーム」という考え方で提唱したことでもあるが、言葉にはそれぞれの語に固有の意味があるのではなく、文脈の中で柔軟にその意味が位置づけられる。

    これは、ジェスチャーゲームにおける「単語」と同じ性格であるといえる。ジェスチャーゲームでも、「船」を表す単語が次第に「航海」や「コロンブス」や「遠征」といった様々な意味に転用されていくことがある。このような柔軟性を持っているのが人間の言葉であり、自然言語と人工言語の大きな違いでもある。

    このことは文法の世界においても同様である。それぞれの言語には文法があるが、一方でそれが多くの例外を含んだものであるということはよく知られている。また、言葉は常に変化しており、言語の歴史を見ると構文、時制、格といった文法の諸要素は一つの言語の中でも時代によってさまざまに変化をしている。

    筆者はこれも、ジェスチャーゲームの即興的なやり方から次第に法則が編み出され、それが定着し、体系化、簡略化していく道筋であるという。そして、現代においても言葉は変化を続けているが、それは言語が完全な体系から徐々に逸脱する劣化の過程ではなく、非常に混沌に近い状況から自然発生的に秩序を生みだす過程の一断面なのだという。

    もちろん一度生みだされた秩序も、社会の変化に応じて別の秩序へと移り変わる部分もあるであろう。SNS等の新しいコミュニケーションのあり方が、新しい言葉遣いを生んでいるということも、その一例である。しかし、それらの場面においても、何らかの新しい語法や構文が生まれるという形で、コミュニケーションを成り立たせる秩序が生まれる方向に変化していくというのが、筆者の考える言語の姿である。


    本書の後半では、言語の発生の謎や人間が言語を学習する方法について、ジェスチャーゲームという発想をベースに考察されている。

    印象深かったのは、言語の学習も言語の誕生のプロセスをなぞるように、ジェスチャーゲームのようなやり取りから進んでいくということである。赤ちゃんが言葉を学ぶときには、何らかの働きかけに対して働き返すことで、相手の反応から言語のルールを学んでいく。

    これは自然の法則のように規則が外生的に与えられるものではなく、相手との間で文化的に生成する規則を身につけていくプロセスである。人間が持つ相手に強調するという性向が、言語の学習という非常に高度な作業を可能にしているということである。

    従って、言語の学習にはコミュニケーションの機会が重要である。特に、その量よりも質が重要であると筆者は述べている。テレビやオーディオブックを聞くことでも言語に触れることはできるが、短時間でも密度の濃い(やり取りの往復が多い)会話の方が、より多くの言葉や言語の規則を学ぶことが出来るという。

    このような高度なジェスチャーゲームは、人間以外の動物では見られないという。例えばチンパンジーやボノボといった類人猿でも、簡単なハンドサインや記号は使えるようになるが、それらが発展していろいろな意味や構文を生みだすことはないという。ましてや、1つの生物種で7,000種もの異なる言語を持っているという生物は、人間以外にはいない。

    このことは、鳴き声や臭いや身振りなど様々な形で行われる動物のコミュニケーションのなかでも、人間の言語というものが特異な存在であるということを示している。

    人間にだけこのようなコミュニケーションの手段を生みだすことが出来た理由について、本書では確定的な理論を提示しているわけではないが、筆者らは言語が人間の行動な認知能力を生んだのではなく、逆に人間の高度な認知能力の副産物として言語が生まれてきたのではないかと、述べている。道具を発明するにも集団で狩りをするにも高度な認知能力を必要とするが、それらと同じく言語も何らかの進化の過程で得られた人間の認知能力の副作用であるという考え方である。

    もちろん、ひとたび言語が生まれると、それは人間の思考に影響を与える。数の発明は数量に対する人間の認知能力を大きく発展させた。色に関する語彙の豊富さは、その文化に属する人の色に対する認知能力に影響を与えている。

    従って、現在の人間は、言語との間の複雑な相互作用の下にあると言っていいだろう。


    最後に、AI(人工知能)と言語の関係性について、筆者は触れている。会話や翻訳をするAIの発展が著しいが、それらはいずれ人間の言語能力を超え、新しい概念を生みだすようになるのだろうか?

    筆者は、言語というものが本質的に人間の頭の中にある概念をチャンク化し、それを相手とのジェスチャーの交換によって伝えていくものである以上、AIのように意味のある概念をそのシステムの中に持たないものには、基本的にインプットされた情報の処理から出てくる以上の概念は出てこないと考えている。

    この点は、AIの今後の進展やその使い方を考えるうえでも、重要な点であると思う。会話の本質がジェスチャーゲームであり、AIが行っているのはそうではなく与えられた問い(インプット)に対して統計的に適合度の高い情報を返すだけの動作であるとするならば、それらの間には本質的な違いがあるということである。

    ジェスチャーゲームと統計的な推論の間にある違いについては、より深く考えてみる必要があると思うが、視点としてこの差異に着目するということは、コミュニケーションや創造力の本質について考えることにもつながると思う。

    人間が単独でメッセージを生みだしたり無から何かを想像したりするのではなく、相手との相互作用の中で創造力を発揮してきたということが、言語の誕生に関する本書の探求を読むことで改めて分かった。

  • 図書館でそのうち借りて読もうかと思いつつ、けっきょく買ってしまった。積まずにすぐ(春休みのうちに)読もう。

    …といいつつ、けっきょく読み始められないまま新学期に入ってしまって積読の山にうもれかけたが、web考える人の今井むつみ✕高野秀行の対談に登場してて、これはやっぱり早く読んだほうがいいと掘り出してきた。(5月末)

  • 今ある言語は、どこかにある理想形をなぞるのではなく、その場限りのジェスチャーゲームを繰り返すことで生み出されているとする本。

    第1章:言語はジェスチャーゲーム
    シャノンらによる情報伝達モデルの否定。これは、コミュニケーションをメッセージ符号化-解読という一連の動きとする考え方だ。しかし実際のコミュニケーションは、互いに相手の反応を観察し、推察しあうことで成り立っている。

    第2章:言語のはかなさ
    人間の音声言語認知と保存にはボトルネックがある。そのため単語や文でチャンキングを行いながら理解しなければならない。

    第3章:意味の耐えられない軽さ
    個々の単語の意味は固定せず、文脈や背景により常に揺らいでいる。ただしブーバ・キキ実験から分かるように、人間の情動を介した音と意味の結びつきは薄っすら存在する。意味に基づく論理的言語の理想として、ウィルキンズの人工言語、ライプニッツの普遍的記号法が唱えられたが、共同作業により生まれる言語のカオスを克服することはできなかった。

    第4章:カオスの果ての言語秩序
    言語はカオスのようだが、文法はやはり存在している。かつてはヘブライ語がすべての言葉の土台とされたり、普遍文法が人間の脳に内蔵されているというチョムスキーの説もあった。しかし本書では、たまたまよく使われる語順が、最もよく通じるので定着し、文法として標準化していったという説をとる。

    第5章:生物学的進化なくして言語の進化はありえるか
    言語進化には、人間の身体的制約や、意思疎通が成立するかという制約がある。その上でどの音声やサインを選ぶかには無数のパターンがある。
    生物学的進化よりも言語進化の方が圧倒的に速く、後者は前者に合わせることになる。その逆ではない。FOXP2遺伝子や脳の言語野の存在は特定の生物学的特徴が人間の言語能力進化に関わったように見えたが、いずれも他の機能にも関わっていた部品が流用され、学習による強化で言語に特化していったもの。

    第6章:互いの足跡をたどる
    自然界を理解するN学習と、文化的な世界を理解するC学習。言語学習は後者に含まれる。C学習では他の人との協調が正解となるため、フォーカルポイント(人と行動を一致させようとする際、互いの予想が一致する点)が重要。人工言語を使った実験では、言語体系が自然発生する。
    子どもの言語学習では、当人の参加する会話の量が脳の活性化に影響する。しかし大人が子どもに話しかける量が少なくとも、共同体のルールや文化的慣習に触れる機会があり、その上で会話に参加することで効果を得られると考えられる。

    第7章:際限なく発展するきわめて美しいもの
    言語の柔軟性と多様性。デンマーク語は発音がきわめて不明瞭で、ネイティブの幼児さえ学習に苦労する。ただしそれゆえに音声以外から得る情報の活用に長けている。

    第8章:両循環-脳、文化、言語
    サルはジェスチャーゲームをしない。多少サインを使いこなせるボノボでも、言語を組み合わせて新しい表現をすることはできない。言語は知識の蓄積や保存を可能にしたばかりでなく、人間の思考の形成にも影響を与えている。
    サルの実験の話は下記1つめの本にも出てきた。色や空間の認識に言語が及ぼす影響は下記2つめの本に詳しい。
    ・『言語の本質-ことばはどう生まれ、進化したか』[ https://booklog.jp/item/1/4121027566 ]
    ・『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』[ https://booklog.jp/item/1/4150505861 ]

    終章:言語は人類を特異点から救う
    会話を出力できるAI(人工知能)のGPT-3に言及。AIは知能を持つのではなく、言語を理解しないままタスクを実行している。

  • 言語をジェスチャーゲーム、つまりその場その場の約束事の積み重ねとして捉える視点は大層面白く、説得力も十分あった。「正しい言葉」を求めてやまなかった人々の話も身につまされる。
    また3.0のころではあるが、ChatGPTが引き合いに出され、AIが言語の背景をまるで理解していないことが示されるくだりはなるほどを膝を打った。

  • コミュニケーションについて興味、関心があれば読むべき本。認知科学者二人による。事例による例示が多い。
    私自身の興味分野でもあり、かつ、かなりの分量、結論→説明の順でない、などの体裁により読むのには一苦労。1日かかってしまった。
    ヴィトゲンシュタインな哲学論考、言語ゲーム。コミュニケーションの基本となるジェスチャーゲーム。ノーム・チョムスキーの生成構文。などが本書のキーワード。
    本書における筆者の主張。そのひとつが言語に正解はないということ。また、法則があるようで実は例外もたくさんあるということ。生活や文化的な背景によりその言語の利用が制限されてしまうということ。
    言語に対する絶対視。正解を求めがち。これは教育の負の側面のあらわれだろう。コミュニケーションが苦手な理系の科学者。即興劇、インプロビゼーションをやらせたところ、改善したという事例がある。なるほどだ。
    これらの状態をゲームと呼んだヴィトゲンシュタイン。そしてジェスチャーゲームから着想を得た本書。
    言語やコミュニケーションの思い込みをアンラーニングするのに役立つ。

  • 人間が人工知能に勝てるゲームがあった!ホッ。

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