百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

制作 : Gabriel Garc´ia M´arquez  鼓 直 
  • 新潮社
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本棚登録 : 4092
レビュー : 328
  • Amazon.co.jp ・本 (492ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105090111

感想・レビュー・書評

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  • 孤独にこれほど多彩な種類があること、物理的な距離と精神的な距離が必ずしも一致しないことを改めて痛感させられた作品です。

    マコンドという架空の土地を開拓したブエンディーナ家の第1世代の勃興から第7世代の滅びまでの100年間を幻想的かつ奇天烈な要素を交えながら、一族の誰一人として逃れられなかった「宿命的な孤独」の描写を軸に描いています。

    一族は皆で一つ屋根の下に暮らして一緒に食事を摂っているのに、誰一人として互いを本当に理解し支え合っているわけではなく、それぞれが抱える「宿命的な孤独」に逃げ込み、まるで溺れるように浸りながらそれぞれの形で生を終えていきます(他家から嫁いできた女たちですら例外ではない)。

    一族の最後の生き残りである第6世代の「アウレリャーノ」が死を迎える瞬間、その「宿命的な孤独」の総てが或る一人の男によって描かれていた予定調和であったことを知るシーンは圧巻のラストでした。

    ちなみに…この本は1972年版で図書館で借りたのですか、中のガーゼ調の糸が見えるぐらいボロボロで、外も中もテープで補強されまくっていました。40数年の間にいったいどれだけの人がこの孤独の吸引力に魅せられてむさぼり読んだんだろうと思うと(私もその一人になったわけですが)、マルケスの示唆どおり、孤独って本当に本質的なものなのかと怖いほど痛感させられます。

  • Cien anos de soledad(1967年、コロンビア)。
    内容もさることながら、キャラが強烈に濃い。途方もない巨根を持つ男、予知能力を持つ大佐、土をむさぼり喰う少女、空中浮遊する神父、生きたまま昇天する絶世の美女など、個性溢れるにもほどがあるというか、ほとんどびっくり人間コンテストの様相を呈している。また、人が生まれたり、死んだり、死んで生き返ってまた死んだり、死んだのにその辺をうろうろしていたりと、とにかく忙しい。

    天才には違いないのだが生活にはまったく役に立たない能力ばかり開花させている初代ホセ・アルカディオ・ブエンディアと、肝っ玉母さんウルスラのコンビが、南米版「夫婦善哉」みたいで好きだ。だから、話の進行上しかたがないとはいえ、ウルスラの衰えとともに物語もトーンダウンしてしまうのが少し残念。

    それでも、とてつもない奇想天外さは最後まで変わらない。恋人たちが激しく愛し合うあまり家が崩壊してしまうなど、「ありえんだろー!」という突っこみ所が最後まで満載。本当は哀愁を感じるべき物語なのかもしれないが、あまりにも疾風怒濤なエピソードに圧倒されて、読了後は哀しみを通りこして唖然としてしまった。まさに魔術的読後感。脈絡とか善悪とかリアリティとか、そんなものは完全に超越している。南米文学、恐るべし。

  • 日本のような土地に生まれ育ったものには到底解らない物語であるような気がする。それは文化の違いというよりも自然環境の違いに起因することと思うのだ。例えば人がどのように時間の長さを感じるかによって判るか判らないかが決定的に分けられてしまう物語と言ってもいいのではないかと思う。

    いわゆる中緯度地帯に暮らしていると、寒暖の差や日の長さ、更には収穫の季節の再来などによって、人は生の長さを刻んで数えることができる。その無意識の拍子取りに気付くには低緯度地帯に暮らしてみるのが手っ取り早い。そこでは昨日と同じ時間に陽は昇り、昨日と同じ時間にスコールは降り、いつの間にか日は巡り、いつの間にか歳を取る。カレンダーを見なければ今が何時なのか言い定めることも覚束なくなる。あの出来事は一年前に起きた事だったか、それとも三年前だったか、毎日同じような繰り返しの中で暮らす内に判然としなくなる。

    その感慨は他所の土地から来たものの感慨であることは間違いない。その土地に暮らす人々は別のやり方で生の長さを刻んで拍子を取っているのだろう。だが、太陰暦で暮らすことによって一年の周期が太陽の周りを巡る周期とずれてしまってもそのことが大きな問題とならないように、低緯度地帯に棲むものにとって時間の区切りはもっと自由に定めることができるものなのだと思う。この物語は、そんな時間というものの軛から解放された人々の物語なのであろうと思う。

    作家は、登場人物にあり得ないような長い生を与える。ウルスラに代表される女性には歳として具体的な長さを、そしてホセ・アルカディオに代表される男性には年齢という仕組みを無視した抽象的な長さを。あたかも歳を取ることを忘れたか、数え損ねてしまった結果であるかのように時を超越して存在し続ける彼らに、周囲も何の不思議さも感じていないように物語は描かれる。その事が徐々に読むものの時間の進行を妨げる。そして執拗に繰り返される二つの名前。アウレリャノとホセ・アルカディオ。じわじわと時が永遠に一つところの周囲を回り廻っているだけであるかのような感慨に縛られてゆく。何処へも行けない、渦の中に囚われたもののように結局のところ、中心に向かって落ちてゆくだけ。

    そこに熱帯のむっとするような温度と湿度が絡みつく。じわじわと足下から蔓性の植物が這い上がる感覚に襲われる。その事が無気味でありつつ、本能的には元来そこに戻るべき場所に強制的に連れ戻されているだけとの想いもよぎる。

    熱帯での種の多様性は、生のリズムの多様性も意味する。自然が強くビートを打ち鳴らさなければ、全ての生物は好き勝手な周期で世代を繋ぐ。その多様性は熱帯というしぶとい生命体の根底を支える仕組みなのかも知れないと思いつつ、困惑も同時にもたらす。全ての周波数帯を含む電波がホワイトノイズと呼ばれるように、その生命体の営みには全てが入り交じった結果なにも突出したところが見当たらない。雑然としたもの以上の何かを読み取らせることを拒否するかのようである。個が失われ全体のみが存在する世界。

    そんな恐怖に囚われつつ読み進めると、やがて預言者の言葉の成就する時が訪れる。陽は昇り、陽は沈み、やがて花が咲き、物語の始まりと終わりが一つになって、輪が閉じる。一端閉じてしまった輪にはもはや入り口もなく出口もない。この地上から切り離される。ここでふと漱石の夢十夜の物語の一つを思い出すのだが、百年後に花と出会って百年が経ったことに気付く物語からは解脱というような仏教的な表象が立ち上がるのに対して、ガルシア・マルケスの百年の物語には宗教的なイコンではなくもっと混沌とした原初の本能に突き動かせれたもの、つまり思考とはかけ離れたものを感じる。そう考えてみて初めて自分の中にある孤独という概念すら、この物語の中では通用していないことに気付かされる。

    それが生命体の本質あるいは自然の本来的な姿なのかも知れない。とは思いつつ、その輪環に捕えられることへの恐怖は振り払うことができない。そんな貧弱な精神には厳しい本だと思う。

  • マジックリアリズムの古典だということで手に取った。
    怒涛の百年の物語。
    情報量が物凄く多い。様々な人間関係を描いた百年間。
    蟻、バナナ、熱気、ハンモック……目を閉じると熱帯の中の蜃気楼の町が浮かぶようだ。
    アウレリャノとホセ・アルカディオの名前は一生忘れられないだろうというくらいインプットされてしまった(笑)

    海外文学は読みにくい訳のせいでページが進まないことが多々あるが、これは読みやすかった。原文自体も読みやすいのだろうか。

    この物語においては、女たちに同情的にならざるをえない。
    働き者のウルスラやサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエラ、愛情深いピラル・テルネラやぺトラ・コテス、聖なる二人のレメディオス、悲劇のアマランタとレベーカ、メメ。陽気なブエンディア家に影を差すフェルナンダでさえ、彼女の立場を想えば気の毒だ。
    それにひきかえ男たちは、面倒ごとばかり運んでくる。とはいえ彼らのロマンチシズムや旺盛な好奇心、放蕩、恋に悩む姿は魅力的ではあるのだが。
    ホセ・アルカディオ・ブエンディアやアウレリャノたちはメルキアデスの遺産(錬金術や真理探究)に魅せられるのだが、人生の初めから終わりまで一貫して夢中になるわけではなく他の大義や恋によって中断されることもリアルだ。
    それにしても、この小説では「気が狂った」人間が真実を見通している。生活の些末なことを飛び越えた遠くのものを見通しているせいなのだろう。

    恋と愛について。この小説では明確に区別されているような気がする。恋=性欲を中心とした一過性の情熱、愛=必ずしも性欲を必要としない落ち着いた感情、といったところだろうか。だからあんなに狂おしくレメディオスに恋したアウレリャノ・ブエンディア大佐が愛を知らない人間だというのにも矛盾はないのだろう。
    愛のあるカップルは老いた後のアウレリャノ・セグンドとぺトラ・コテス、そして最後のアウレリャノ・バビロニアとアマランタ・ウルスラくらいか。

    最後に豚のしっぽをもつ子供が生まれたのにはやられた。最初から何度も張られていた伏線だったのにもかかわらず、驚かされた。物凄くうまい物語の閉じ方だ。

    孤独を宿命づけられた一族の百年の物語。
    愛は、孤独を救えたのだろうか?
    心変わりにしても死によってにしても、愛はいずれ失われるものであるというのに。

  • とにかく読んですごい本だから、といわれて

    うん読むよ、と答えてから二年以上が経ったのかしら、
    こうなってくると逆に手を出しづらくなってきて、せきたてられるように
    読みました。
    まあこれが読みづらい読みづらい。
    二日くらいで読み切ろうとしたんですが、根気が必要です。
    文体もフラフラ、同じ表現の多用。もっと抒情的に描いてくれれば
    感情移入もしやすかったんですが、そうしないところがこの小説の特性上のキモなんでしょうね。

    『予告された殺人の記録』が「キライ」と言ってもいい出来だったので
    ちょっと不安だったんですが、
    最後まで読み終わって溜息が出ました。

    これは、どんな作家も一度は目指す、一つの終着点であり
    完成形です。

    「面白いか」と言われるとわたしはあいまいに微笑むしかないですが、
    「すごいよ、読んだ方がいい」とは間違いなく言えます。
    そういう作品です。

    あらすじとしては、豚のしっぽを持つ子供が生まれることを恐れるあまりに
    村を出てマコンドという村をうちたてた
    ホセ・アルカディアとウルスラにつらなる一族の物語、としか
    説明のしようがないのですが

    マジックリアリズムとどうも言われているようなんですが
    メルキアデスと呼ばれているジプシーが死後も普通に出てきたり
    レメディアスはシーツにくるまれて昇天したり
    ウルスラさんは120歳くらいまで生きていたり
    なんでもトランプ占いで予言できるピラル=テルネラだったり
    「えっどういうことですか?詳しく」と言ったら負けというか
    あ、そういうことですか、はいはい、と受け入れていくうちに
    いったいこの物語をどういうスタンスで読めばいいのか
    感情移入なんてできるはずもなく、俯瞰したところから、ふわふわと
    酩酊したような気持ちで、きまぐれに人生をのぞきみる神のように
    この本を読む羽目になるわけです。

    そんな私は、アウレリャノ=ブエンディアが大佐になろうが
    好きにしたまえよ、革命のために死ぬのも君の自由だよ、等と
    クールなスタンスで読んでいたのですが
    レベーカとピエトロ=クレスピの婚約からはじまる
    アマランタの「どうしてそこまで!」という嫉妬と狂気に
    ページをめくる手が早まりました。

    レベーカがホセ・アルカディアと結婚したのはまあ
    「あっ、君の気持ちってそういう感じ?まあ・・・よかろうね」と
    スルーしようとしたものの
    アマランタとピエトロ=クレスピがだんだんいい感じになってきたのも
    「まあこれで丸く収まれば万々歳ですよ」と思っていたものの
    そこでまさかのアマランタによるクレスピの拒絶!自殺!完!

    はあああああああああああああああ?
    なにやってんのこの女?バカなの?死ぬの?
    ってリアルに声に出ました

    この小説は登場人物たちの心理描写がほとんどないので、
    行動だけで推し測るしかないんでしょうが、私はこの瞬間から
    アマランタを許せないなあ、と思ってしまったのです。

    だから正直な話、ここから先の世代の彼らがどうなっても
    わりと冷めた目で読んでいたというか
    もうどうでもいいやこの一族的な思いがあったことは否めません。
    同じ名前つけすぎだし。

    世代をこえて同じ名前を与えられると、だんだん
    名前は記号にしかなりえなくなってきて、
    ホセ=こういう人、 アウレリャノ=こういう人 という
    どんどん個人を逸脱した観察になっていき
    いち個人の人生を語った第一世代から、読者は気付いたら
    遠いところに置かれているわけです。

    でも個人的に第四世代は好きです。
    女王様フェルナンダと、
    明るいが学のないアウレリャノ・セグンドと、
    小町娘レメディオスと
    聖母のような献身の情婦、ペトラ=コテス。
    この奇妙な関係はとてもよかったです。
    ペトラ=コテスが実に格好いいのです。
    与えて与えて与えて与えて与えているうちに憎しみを忘れる人というか。

    まさかのウルスラおばさまが大往生し、
    一族のはじまりのことなど誰もおぼえていない頃合いになると、
    アウレリャノとアマランタ=ウルスラが子供をもち、
    希望に満ちた夜明け、かと思いきやのそこからの急降下。

    何と言ったらいいんでしょう、蜃気楼のような、
    群像劇を見せつけられて、これは・・
    物語としてどう、ということよりは、「小説」としてはすごいんです。
    章立てもしてあって、章ごとの起承転結も意識してあって、
    ダレない。(が、山場もない。)

    うまく言葉にできないですね。
    ただこの感覚、夢か幻をみせられたような、なかば以上は
    ドキュメンタリー映画をみせられたような、そういうまじりあった感覚、
    これはなかなか味わえるものではなく、忘れがたいとも思います。
    この小説にかわる小説はどこにもないでしょう。
    そういう意味で、まごうことなく傑作です。

    時間の都合で、急いで読んだのでもったいなかったかもしれません。
    二日で一章くらいのペースで、きちんと個人個人と血筋を追っていけばまた違う感想になったかもしれないとは思うので、
    数年後くらいにまた読みたい作品です。

  • ガルシア=マルケスがその想像力と語る力を大盤振る舞いする滑稽で哀しい物語。細部がとにかく鮮やかで突拍子もなくて圧倒される。何度も休憩を入れて読んだ。

    登場人物みんなが何かに夢中になって苦しい思いをして、でもたいていは努力の甲斐も穏やかな安らぎも訪れない。あたりを見回すとか人に相談するとかする機能が付いていない。愛と孤独と情熱がこんな風に共存できるものなのか。

    ブエンディア一族はみんなが違う方向を向いていてそれぞれに孤独だったけれど、だからといって彼らの百年が空しいとも思われない。目指すものがあってそれに懸命になれたのだったら、それだけでもう十分だという気がした。外野ののんきな感想かもしれないけれど。

  • 物語の奔流、怒濤の人間劇場!蜃気楼の街マコンドを開拓した一族それぞれの「孤独」を百年間描く物語。いわゆる大河小説(読んだことない)を濃厚に圧縮したような作品で、どの世代の物語にも魅力が迸る。どのページを開いてもグイグイ引き込まれること請け合いで、まさに「無人島に持っていきたい一冊」だ。この小説はきっと僕の愛読書になるだろう。

  • 今年のはじめに作家の訃報をきき、そういえばあまりにも有名だけれど読んだことが無いなぁと手にとった本。
    とても長い物語ですが、どんどん惹き込まれます。鼓直さんの翻訳が素晴らしいことはシロウトの私にでもわかる。新潮社の抽象的で過不足ない装丁もすごく好きです。

    血筋という業、繰り返される運命、愛と孤独。読みながら震えます。死にゆく人々の描写の美しいこと。色鮮やかで、むせかえるような狂気を感じる熱帯の景色がありありと浮かんでくる。

    日本の「源氏物語」の中にも「家系の業」という共通のテーマがあるように思ったのですが、同じテーマを「南米」と「日本」で包むとこんなに表現が変わるものかと面白く感じました。どちらも好きですが。

  •  1967年発表、ガルシア=マルケス著。百年に渡る架空の町マコンドの創設・隆盛・衰退の過程を、創設者の一族ブエンディア家を中心にして語る。魔術的リアリズムの代表的な作品としてしばしば論じられる通り、現実の中に非現実が入り混じる。
     非常に濃い小説だった。個性的な挿話が大量に詰まっている。その大半は戦争の話や色恋沙汰などで泥臭いリアリティーを帯びているのだが、何より特徴的なのは、超常現象(娘が昇天したり、何年も雨が降り続いたり、赤ん坊に豚のしっぽが生えたり)が突如入り込むことだろう。そういう意味ではファンタジーと言えなくもない。ただ、それとは何かが決定的に違うことに気づく。どこか神話のような印象を受けるのだ。
     理由はやはり「語り」だろう。この小説は第三者的な視点で書かれているのだが、それがマコンドの住民の視点に引きずられているのである(それは冒頭の一文「―ブエンディア大佐は―思い出したにちがいない」からも明らかだ。本来だったら「思い出した」と書けばいいのだ)。だから例えば「娘が昇天した」にしても、「昇天した」=「昇天したように見えた」=「昇天したと言われている」という構図をとる。以上の=は、一般的には≠もしくは≒となるだろう。つまり分かりやすく言うと、この小説では「語り手」が信用できないのだ。結果、超常現象があたかも当然のような顔をして(特にこれといった説明もなしに)物語に居座ることになる。同じ著者の「族長の秋」もそうだったが、このように「語り」を利用して現実と非現実の境を消してしまうこと、それが「魔術的リアリズム」なのだろう。
     更に言えば、マコンドの設定自体も一役買っている。例えば日本が舞台だったら、一気に興ざめする気がする。ラテンアメリカのどこだか分からない未開の地という設定によって、胡散臭い話にリアリティーが生まれて、うまく雰囲気に溶け込んでくるわけだ。
     それにしても、ラストシーンは本当にすばらしい。蜃気楼の町マコンドが消えて羊皮紙の解読が終わる。町とともに消えていく物語・町人・語り手。全く隙のない小説だ。

  • 私が休暇中の読書リストを作っているという話題から、イスラエル人の上司が熱心な読書家であることを発見。彼はノーベル賞を受賞したコロンビアの作家、ガルシア=マルケスの著作は高校生のころ全て読破したと豪語していましたので、私も休暇中に読んで感想のひとつも報告したいなと企んでおりました。彼に注意されていた通り、登場人物たちがわざわざ長い名前を親戚一同で受け継いでいくために、かなり混乱しました。挑戦される方はぜひ巻頭の家系図を片手にお読み下さい。

    舞台はさんさんと太陽が降り注ぎ、乾いた砂埃の舞う〈マコンド〉という中米の小さな村。具体的な地理は「村の東には険しい山脈がつらなり、そのむこうには古都リオアチャを抱く」とありますから、コロンビア北端の豊穣な自然を誇る、しかし科学の恩恵からはことごとく取り残された辺鄙な半島のいずれかという設定でしょう。長編「百年の孤独」は、その新天地を開拓し住み着いた〈ブレンディア〉一族の百年をかけた生滅の物語です。

    幽霊あり、呪いあり、精神病あり、戦争あり、革命あり、世代交代あり、何もかもが大自然と時の流れの下でなんとなく溶け合っている世界観が圧倒的でした。〈ブレンディア〉家の男たちが革命に明け暮れたり科学に魅せられたりしている間、女たちは淡々と家を守ります。自尊心や好奇心の赴くままに華々しく邁進する男と、ただただ家庭を運営するために日常を切り盛りする女の戦いが対を成しています。諸行無常の響きあり、夏草や兵どもが夢のあと、ではないですけれども、百年という年月が飲み込んでしまったものの普遍性が、ここに記されているように思えました。

    物語の始まりは〈ホセ・アルカディオ・ブレンディア〉と〈ウルスラ・イグアラン〉。何代にも亘って縁戚関係を結んできた両家の血の濃さを恐れる親族の反対を振り切り、二人は駆け落ちして〈マコンド〉に住み着きます。結局その子は百年かかってこの世に生を受け一族の幕引き役になるのですが、まずは息子が生まれ、孫が生まれ、曾孫が生まれ、曾々孫が生まれ、それまでの話が延々と続くわけです。一方で開拓時代に主人公だった二人から順番に老いて死んでいきます。登場人物たちが死に直面するシーンの厳粛な筆致が息を呑むほどに美しかった。生も死も、太古の昔に大地を覆っていた獰猛な植物たちのように荒々しく神聖に描かれていました。

    例えば。族長〈ホセ・アルカディオ・ブレンディア〉が老衰し、最後は寝たきりになります。その朦朧とした意識の中で、彼は自分の寝ている部屋が鏡のごとく無限にドア越しに連なっている空想の世界に入り込みます。昼も夜もなくドアからドアへあてもなく彷徨うある日、彼は永遠に続く空間の出発地点まで戻らず、たまたま居合わせた寝室に腰を据えてしまいます。現実世界では家族がこの老人の体をゆさぶり声をかけますが、彼は目覚めません。その時、家族は小さな黄色い花が雨のように町に降り注ぐのを見つけ、族長が二度と目を覚まさないことを受け入れるのです。

    〈ウルスラ〉は視力を完全に失っても、それを家族の誰にも悟らせることなく働き続けます。根気よく部屋にある物と物の距離や他人の声、立ちのぼる臭いを覚え、次第に針に糸を通したり、ボタン穴をかがったり、ミルクが煮立ちはじめる頃合いを見極めるようになります。それでも彼女は、自分の死期を受け入れていました。彼女が死ぬ時、まるで自然が彼女に手向けたメッセージであるかのように、四季の花々が突然匂いを変え、床に落ちた豆の粒が幾何学的な模様を描いて海星のかたちに並んだり、オレンジ色に光る円盤が空を飛ぶのが目撃されたりします。

    そして終盤になって、開拓時代に村を訪れたジプシー〈メルキアデス〉の羊皮紙の謎が解けます。サンスクリット語で記され、更に手の込んだ暗号によって組まれているこの紙切れは〈ブレンディア〉家代々の男たちに取り憑き (解読に心血を注いでは魂がすっかり抜けおちてしまった彼らが、死んで亡霊になってまでも書斎を漂うほどに) 一族を惑わしてきました。その正体は百年前に〈メルキアデス〉によって編まれた一族の歴史だったのです。入りくんだ血筋の迷路のなかで父と母となるふたりが互いを探りあて、家系を絶やす運命をになう怪物を産むまでの長い長い物語。そう、そこに記されていたのは本書「百年の孤独」そのものだったのです。

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