「V.」
レビューを書く前に一瞬、ピンチョンに関する論文を読もうか迷ったのも事実。読んだら手っ取り早いかもしれないけど、なんか攻略本みたいで嫌だと思った。論文を書く人を否定してるわけじゃなくて、ピンチョンは、ややこしくも、かなりきちんと語ってくれているので、彼のテクストに当たるのが一番だと感じたということです。だから、私のこの文章も、読む人にとっては鬱陶しいだけだろうと理解しつつも、自分が忘れない為に書きました。
私が初めて読んだピンチョンは、旧訳での「重力の虹」だったのだけど、この「重力の虹」の前に、面白いから読んでご覧と言われた最近日本でベストセラーだという小説を読んだのだけど、文体も酷いし、ちっとも面白くなかった。
仕掛け混じりのミステリー的な要素が流行っていた要素らしいのだけど、線を辿って行くことにしか目的がなくて、文章そのもののキラメキも皆無で、読み終わって「は、だから?」と酷い気分になったから、「重力の虹」の冒頭を読んだだけで、やっと呼吸が出来たような、なんかものすごくホッとした。
結局、重力の虹はチンプンカンプンのまま読んで、次に「LOT49」を二度読んで(こちらは私の知識不足もあって不十分ではあるものの、ある程度理解出来たという手応えは得た)、そして「V.」を読み始めた。
ピンチョンは、無目的にぱっと読んだだけでも「ただ者じゃない」んだけど、「V.」を手に取ってから、「何か感じるところがあってくれればいい」なんていう曖昧な読書ではすまされない、いくつもの主義主張が渦巻いているのを感じたから、気になるところは線を引き、理解する為の手がかりとして書き写し、結局三度読むことになってしまった。
それほどまでに主義主張があるなら、何故もっと分かりやすい、論文調で書けないのか?と思われる方も多いかもしれないけれど、この不完全なレビュー書こうとして、一筋の文章化するにあたってどうするか考えようとする度に「彼がどうしても小説で書かなくてはならなかった理由」をまざまざと痛感させられた。一本の論文で、一つのテーマを冠して書かれたとしたら、この「V.」は一体何本の論文になるだろう。そして、いくつの「断定」と、彼の憎悪する「二項対立」が出現するだろう。
◎意図的な肩すかし
エジプトのシーンは、ステンシルの特異な「人格憑依」によって語られる(体験される?)文脈だし、「モンダウゲンの物語」にしても、本来モンダウゲンによって30分足らずで語られたものが、ステンシルの口を通じるとあれほどまで長大になるのだから、ステンシルが追いかけるのは、父の残した「V.」という言葉から想像された、壮大な幻想なのかもしれない。
でも「幻想である」とも断言できない。ステンシルが、V.の義眼を追いかけてマルタを後にした後に続く、「エピローグ・1919」では、ステンシルの認識から外れた事象が出て来るからだ。
ヴァレッタにて、ステンシルとマイストラルが「我々は兄弟かもしれない」と言うけれど、それは「1919」を読めば勘違いであったことが明らかになる。ステンシル父は、マイストラル母と会話はしているけれど、会話内容は「マイストラル父を解雇してくれ」という懇願だし、この時点でマイストラルと思しき「子供」はお腹の中にいる。それに、残酷趣味なイギリス兵磔刑像の櫛も、ステンシルの幻想だけに留まらない。「マイストラルの告解」で悪坊主が子供たちによって「解体」されるシーンにも出て来るし、最後にパオラが現物を持っているシーンも出て来る。大事な物だ、という注意はあるものの、いとも容易く譲渡されてしまうけれど…(そして、マイストラルの告解の文章によれば、悪坊主が解体されるシーンには、知った子供はいなかった=パオラはいなかった、ということになるけれど、では何故パオラがこの櫛を持っているのか? ①同じデザインの違うものだった ②誰かから貰った ③パオラは子供の頃から、パオラの特徴である姿代わりをしていたから父親が認識出来なかった、と三つくらい原因を考えられそうだけれど、この3つのうちどれかだったとして、一体何の意味があるだろう。やっぱり単に、この櫛によってV.なる女性の存在がリアルに近付くけれど、ピンチョンは決してそれが事実だったと断言したがらない、というところだろうか。
V.のみならず、人物それぞれについても読みながら安易に「この人はこんな人」と決定しようとすると、それがまたはぐらかされる。例えば、この物語の中には、地の文、会話文、何人もの人物の発言の中で、「ストリートと温室」という言葉が出て来るから、ついプロフェインはストリートの人物、ステンシルは温室の人物、なんて決めてかかりそうになるけれど、これは壮大な間違い。
ストリートと温室については、Ⅱ巻のp.345のくだりが最も理解しやすい説明がされているのでちょっと引用する。
「この世界に何らかの政治的意図が読み取れるとしたら、それは今世紀の人間の活動が耐えがたいほど二分化された中で行われるに至ったということだろう。右派と左派、温室と街頭。右派は過去のホットハウスに自らを密封しつつ、仕事を続ける。その一方で左派はストリートにたち、結集した群衆のヴァイオレンスを操って事に当たる。だが、夢見る未来の風景の中にしか居場所を見いだせない。現在のリアリティはどこにあるのだ。非斉次的人間、かつては誉れ高かった‘黄金の中庸’は滅びてしまったか」
よくよく考えると、この発言は二分化を批判しながら、自らも二分化で物申してるということに気が付くのだけど、プロフェインにしてもステンシルにしても、ストリートと温室という風に簡単に分ける事が出来ない。小説内で点々と定義される、温室的事柄、ストリート的事柄、で考えても、ふたりは当てはまるところもあれば当てはまらないところもある。
◎二項対立について
プロフェインは、Vの字のように見える先の暗くなって見えない「水銀灯に照らされたストリートこそ俺のホーム」と言いながらも、ストリートとプロフェインは相変わらず他人同士の関係だった(p.52)と言われる。どこに安住を感じているかと言えば、ストリートよりも、一段階地球の「ハート」に近そうな、地下鉄や下水道だ。(とはいえ、そこにずっといられるかというとそう言う訳にもいかない。地下鉄にはヨーヨーだ!とからかいに来る子供もいるし、下水道のワニもいなくなるし、下水で暮らせばフェアリング神父のように、やっぱり病気にかかって死ぬだけだろう)地球の表面をなで回しているだけでそのハートを知ろうともしない「ツーリスト」がストリートの人と分類されていることと、その逆で、土地のハートを見つけ出そうとするのが「探検者」だとすると、プロフェインは探検者に近いようにも思える。でも彼はヨーヨーしているだけの人間だし…
一方、温室の人間とされるステンシルにしても、V.を探しまわっている点では、やや探検者に近いけれど、探検者とツーリストを分ける一番重要な「ハート」であるマルタを避け続け(最後にヴァレッタを訪れるけれど、すぐに終わりなき探求へ出て行ってしまう)ているところを鑑みると、彼はかなり「ツーリスト」であるとも思える。
つまり、小説内で色々とジャンルが定義されつつも、実際の人間は単純に二項対立に当てはまらないし、対立する要素のうちどちらも持っている。まるであみだくじを見ているみたいに。ある点では二人ともYes、ある点ではYes,Noと言った感じ。
一見対立するような様々な要素があみだくじのように絡まるのも、現実世界では当たり前のことなのに、頭の中に限っては、つい二項対立しちゃう。そっちのが納まりが良くって、楽だから。
話の大筋を一本の糸のように把握しようとするのも、そっちの方が納まりが良くて楽だからだ。
小説だから出来たんだ、と改めて思う。
「クールのクレイジーの、フリップ=フロップ回路から抜け出るには、明らかに、スローでしんどいハードワークが必要」Ⅱ p.187
とV.の中で言われているけれど、まさに、二項対立の世界から抜け出るのは大変。
論旨を明確にしなくてはいけなくて、こっちもあっちもアリ、じゃ論文にならないし、なにしろ、理屈をかき口説くだけじゃなくて、体験させられるところが、小説だからこそ。パオラが何人にでも見える、なんてのも、映像じゃ出来ないし、この無限な要素を詰め込むのも、映像の中では多分無理だ。小説だから出来た。それでいて、多くの小説(文章)というものが陥りがちな、悪い意味で不自然な「明解さ」というものを、徹底的に排除しているところは本当に、なかなか出来る事じゃない。
普通の小説を読んで、共感したりするのも、ひょっとしたら「コミュニオン」の一種かもしれない、いやそうだろう、と思うと、V.の中で度々否定的に語られる「コミュニオン」をピンチョンが避けるのも当たり前かと思える。
ちなみにコミュニオンが出て来るのは、国境を越えるカトリック教会、ツーリズム、戦争、あとそういえば、形成外科の待合室…。
とはいえ、当時25歳だったピンチョンを、「頭の良すぎる人のことはなんだか分からない」と言ってしまうのも、簡単だ。確かに頭の出来は私とまるで違う。それでも、彼は必死に読み解かれることを願って、対話を試みている。色々断言しちゃえば、繋がりを明確にしちゃえば、もっと聞いてもらえる人は増えるかもしれないのに、そこは譲れないとしながら、それでも必死なのは分かる。だから、ここで「分からない」と言ってしまうことが、あまりにも酷い断絶のような気がしてしまうのだ。
なんて言いながらも、謎のようなものはまだまだ沢山あって、お風呂の中とかでふと「アレってどういうことだったんだろう」と思いついちゃうと、もう一回頭から読まなくちゃいけない感じがして、結構追いつめられて来る。モノ、岩、風、顔、太陽に小便…。
次作の「LOT49」でも、男たちによる多様な人生の逃げ方のようなものを避けて、現実を見る事(だからと言ってそれで何か得があるということは決して言われないんだが)が大事だというようなことは繰り返されているけれど、目を凝らし続けるのは、本当に大変。
◎V.について
末筆になってしまったせいで何となく雑になりそうな予感だけど、一応書いておくと、「V.」というのは、ある一人の女性のことでもあるけれど、彼女に帰結するわけではない。V.が一人の女の人だと仮定しているのは、ステンシルだけにすぎない。
「大きな陰謀」と想定され、外務省が警戒した「V.」とは、探検家・老ゴドルフィンが見た「ヴィーシュー」の略だ。でもその「ヴィーシューが何であるか」を知っているのは、ヴィーシュー後に南極点に達し、そこであるはずのない七色のクモザルを発見した老ゴドルフィンだけだ。老ゴドルフィンの解釈だと、外務省が恐れているのは、究極の真理が「nothing」で、それが世間に出回ったらパニックが起きるだろうということ。とはいえ、これはただちょっと聞いただけでは「?」となるのは、この話を聞かされた友人がピンと来ていないのからも明らかで、もしかしたら、これは本当の探検家、ハートを求める人でないとショックを受けないのかもしれない。ハートを求めず、皮膚を撫で回して世界中を駆け回って満足するツーリストには無関係な問題なのかもしれない。ただ「ヴィーシューの先に待ち受けている真理」よりも、過剰の世界である「ヴィーシュー」そのものに振り回されることを望むのかもしれない。例えばV.を求めて、終わりなき旅を続けたがるステンシルのように。そ(あるいは、そのステンシルの旅に着いて行ってしまう読者もまた…)
「ヴィーシュー」には、「場所」と「ヴィーシュー的出来事」の二つの意味がある。老ゴドルフィンが辿り着いた場所としての「ヴィーシュー」と、ステンシル父によって言われる「ヴィーシューというのは一つの徴候だよ」Ⅱ p.353 という言葉から導き出される意味。
「ヴィーシュー」は元々は場所の名前だけど、「ヴィーシュー的な状態」のことも「ヴィーシュー」と呼ばれるようになったと考えればいいだろうか。実際の場所を指し示すのでない「ヴィーシュー」の用法のほうが、小説内で主流のように感じられた。
ややこしいのだけど「ヴィーシュー」と「極点」は別物で、ヴィーシューは、七色の色に変わるクモザルのいる、異常な「過剰さ」の世界だ。世界大戦を経てもヴィーシューを求めるV.への、老ゴドルフィンによれば言葉を見ると、ヴィーシューは、第一次世界大戦でもあったと言えるかもしれない。異様な豊かさの中にある、フォプルの屋敷での狂乱の中でも、V.と呼ばれる女性自身が「ヴィーシュー」の気配を感じている。だけど、めまぐるしい騒乱の先にあるのは、やっぱり生命なきものの世界、無の世界なのかもしれない。
一方、「極点」は、南極点、別に具体的に極点でなくても、回転木馬の天頂にいるかのように、静止して全てを見渡せる場所および瞬間のことだろう。
レイチェルが形成外科の待合室で漠然と感じたように「世界には観照の場がいくつも」あるのだとも思える。
◎モノについて
生命なきモノとは滅法相性が悪い、なんて言いながらも、モノを過剰に愛するレイチェルやサラダ係の男たちよりも、ぎりぎりモノと言えるSHROUDや、下水道のワニと殆ど対話のようなものを行ったり、モノに当たると仕返しをされるという、プロフェインは一体何なのだろう。そもそも本来使う為のモノに対して「相性」なんて言葉を持ち出す時点で、何か次元がずれているのか。
逆に「フェティシズムって知ってる?」と言って靴下留めという名前を持つ女の子と恋愛関係になったV.は、そのモノである女の子を失い、自分の体として取り込んだはずの、義眼も義足も、スターサファイアも、ずっと大事にしていた櫛も、全て奪い取られ、解体され、モノから切り離されてただの肉体となって死んで行った。
「岩」というものを、モノの間でも何か特権視しているように思われるけれど、それはモノのイデア的存在とされているからか? 「モノ」を過剰さへの欲求として考えれば、わりと納まりが良いようにも思えるけれど。