- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784105900526
作品紹介・あらすじ
凍てつく川。薄明りの森。北の果ての村に響く下手くそなロック。笑えるほど最果ての村でぼくは育った。きこりの父たち、殴りあう兄たち、姉さんのプレーヤー、そして手作りのぼくのギター!世界20カ国以上で翻訳されたスウェーデンのベストセラー長篇。
感想・レビュー・書評
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舞台はスウェーデンはパラヤ村。最初に地図が載っていて、パラヤ村は北極圏の少し北、フィンランドと境を接しているみたいだ。なんてったって著者ミカエル・ニエミ氏がそこで暮らし育った、その思い出なのだ。南に住んでいる作家が北を舞台に書いたのとは違うのだ、と期待が膨らむ。
・・一体何を想像していたのだろう、サーミ族のテント暮らしなのか? いやいや、ミカエルは姉が手に入れたラジオでエルビスを聞き、そしてビートルズを聞き、一番の親友ニイラとロックバンドを結成して、村人の前で演奏するのだ。・・北極圏でも日本と違わない青春、音楽があったのだ、という驚き。この先入観。しかしミカエルの鋭い観察が記される。首都のある南部が基準の国で生きる北のルンド村。
著者ミカエルは1959年生まれ、家の前の道路が舗装されたのは60年代初め、道路がローラーで舗装される音を聞いた。ミカエルの住む地区はフィンランド語でヴィットライェンケとよばれていた。フィンランドとの国境の川トーネ川流域でトーネダーレン地方と呼ばれる。これは「おまんこ沼」という意味で、きっと子供が多かったせいだろうという。親たちは1930年代あたりに生まれていて、隣国フィンランドが冬戦争と内戦で疲弊しているあいだに、こちらスウェーデンはドイツに鉄鉱石を売って豊かになっていた、そして親たちは自分たちだけで住める家を手に入れた、とある。とするとその前は一族で一軒の家に住んでいたのか?それは分からない。
ミカエルの一番の親友ニイラは母親がフィンランド人でスウェーデン語が得意でないためあまりしゃべらず、しかし母親はニイラを本物のスウェーデン人にしたかった、とある。
しかしニイラ村に対してのミカエルの表現は興味い。小学校に入ると、南からやってきた担任は、僕らをスウェーデン社会でやっていけるように情熱を注いだ。そして地理では南のスコーネ地方が最初に出て来て、最後に僕たちのノーランド地方が出てくる。スコーネ地方は豊なので地図帳は緑だが僕たちの所はツンドラを示す茶色に塗られている。・・スコーネ地方、あの刑事ヴァランダーがいるところですね。
そして少しずつ理解した。ぼくらが住んでいるあたりは本物のスウェーデンではないのだ。たまたまくっついているだけで、ちゃんとしたスウェーデン人であるはずがなかった。ぼくらは違っていた。やや劣っていて、やや教育が低く、やや頭が鈍かった。このあたりにはシカもハリネズミもウグイスもいないし、有名人もいなかった。大邸宅も無いし大地主もいなかった。あるものといえば大量の蚊とトーネダレーン地方のフィンランド語の悪態と、共産主義者だけだった。
さらに続く。ぼくらの子供時代は奪われていた、物質的にではなく、奪われていたのはアイデンティティだった。南からやってきた教師は、僕らの名字を綴れないし発音もできなかった。
独力で食べていくのは難しく、国からの補助に頼らざるをえなかった。自作農家が破産し、畑が下映えの植物に覆われ、氷の解けたトーネ川では河川による運搬が禁止される前の最後の木材が流れてゆくのを見た。40人の木こりで運んだそれが1台のスノーモービルにとって替わられるのを見た。父親がキルナ鉱山に出稼ぎに行くのを見た。
僕らの学校は学力テストでは全国最低だった。テーブルマナーなどないし、室内でウールの帽子をかぶった。キノコ摘みをしたこともないし、野菜は食べないし、夏の風物詩とかいうザリガニ・パーディもないし、詩の暗唱や贈り物を美しく包むことも無かった。歩く時は外股だった。フィンランド人ではないのにフィンランド訛りで話し、スウェーデン人ではないのにスウェーデン訛りで話した。
ぼくらはなんの価値もなかった。
抜け出す方法はただひとつ。どこか別の土地で生きるしかない。ぼくらはここから出ていくことを望むようになった。ルンドで、セーデルテリエで。
南から戻ったのは、死んだ連中だけだった。自動車事故、自殺。のちにはエイズ。
ミカエルの語り口は軽妙だ。映画「サーミの血」の主人公はスウェーデンのサーミ族の少女だったが、そこでは同じ北部でサーミ人とそうでない人がいた。ミカエルはサーミ人だとは一言も書いてない。しかし北部は南部からは遅れている、とみなされていたのか。
2000発表 スウェーデン
2006.1.30発行詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
北極圏の村ヴィトラを舞台にした二人の思春期の少年マティとニイラの日常と、鬱屈とした長く暗い冬の日々を間歇泉的暴力の噴出で晴らす人たちを描いた物語。アフリカの司祭の話すエスペラント語の通訳をするニイラ、暴力的なニイラの父イーサック、ミズーリから来た従兄弟に貰ったビートルズのレコード「ロックンロール・ミュージック」、テレビに映るエルビス、祖母の亡霊に取り憑かれるニイラ、ドイツ人の作家と鼠退治、黒いボルボの少女、バイサイクリストの音楽教師等々、二人の前に出現する多様な人物との強烈な体験が陸続と語られる。
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スウェーデンはフィンランド国境付近の村の子供時代。どれだけ田舎だろうと、たくさんの輝きがそこにはある。
予想ほどビートルズとかロックンロールではないけれど、これはこれでよい話。
最後がちょっぴり切ないけれど、それも人生の苦楽。
そうして読み終わった私は、ビートルズの〝in my life〟を聞くのです。 -
露骨な描写に驚く個所が多い。ヨーロッパの小説はこんな感じのものが多い印象。
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Rock ’n’ roll meant it was real; everything else was unreal. (John Lennon)-ロックンロールだけが本物で、あとはすべてウソっぱちだった。 (ジョン・レノン)
ビートルズの名が付いた邦題だから、ロックの名曲とか数々のロックミュージシャンへのリスペクトが次から次へと出てくるような展開を当初は期待していた。
確かに12ページ目にさっそくELVIS PRESLEYがいい感じで登場する。-「ギターを弾くハンサムな若者が描かれているつやつやのレコードジャケット」という記述や「これが未来だ。未来っていうのは、こういう音がするんだ。道路工事の機械のうなりに似た音楽」という記述から、たぶん、“Blue Suede Shoes”のことだろうか?
この箇所は、この作品のなかでも特にいい描写だ。主人公はエルビスの歌に衝撃を受け、道路工事の機械のうなりに似た音楽と例え、そのまま外に目を向け、当時未舗装だった地元の道路が次々と舗装工事が進められていくのを目の当たりにする。そこで見えるのは、「黒く光る革のようなアスファルトではなかった。油で固めた砂利だった。」というクールな表現に続く。つまり、自分たちのまわりにできあがっていくものは、新しいものに見えるけど、実は「バッタ物」なんだってこと。
そのなかで、ビニールのシングル盤に写し出されたロックンロールだけが、本物をそのままパッケージしたものだったって思えたこと。単なる青春小説じゃない、屈折した感性が十分感じられる。
…ここまではよかった。でもここからしばらくロック的な話は全くおあずけ。
いよいよ74ページで、主人公の友達の祖母の葬式があって世界中に散らばっている親戚連中がやって来ていて、アメリカ在住のいとこがロンドンに寄ったとき買ったというビートルズのシングル盤を見せる。
でも、ここで私の頭のなかは??だらけになった。なぜかって?だって祖母の葬式に行くのに、いとこのためにビートルズのEPを買っていくって普通に考えたらそんなことありえないって思わない?主人公の友達はレコードプレーヤーすら持ってないんだよ?よくよく考えたら、このビートルズのレコードとの出会いのエピソードは“ホラ話”なんじゃないの?
しかしホラだからってこの作品の価値が落ちることにはならない。なぜならこの作品全体が、もうホラまみれだから。むしろホラ話を笑って楽しむくらいでないと、真の良さはわからない。
ピンときたのは、ある結婚式で新郎側の一族と新婦側とが「どっちがすごいか」って話になって、酒の勢いもあってどんどん話が大きくなっていって収拾がつかなくなるシーン。もうホラか本当かなんて誰もどうでもいいと考えるくらい話の内容が膨らむだけ膨らんでいったって話を読んで、「ああ、こんな感じで作者も面白~く話をぼくらに提供するのに、ビートルズをこんなふうに設定に借りてきたんだな」って思えた。自然な流れだし、面白いから十分OK。
でもホラ的展開を許せた最大の理由は、ラストがすごく良かったこと。最後の第20章では、主人公の祖父の古希祝いに親戚縁者近所の人などが一堂に会する。
主人公たちは手に手に電気楽器を持って登場。彼らのバンドは自分たちなりに演奏に自信もつきかけてたころ。集まっていたすでにほぼ酩酊のムース猟師たちがセッティングの場面を不安そうに見守る中、ニイラが「三拍子のリズムでギターを鳴らしはじめると、ほっとしたようすになった。みな、なんの曲かわかったようだった。」
バンドが演奏したのは、トーレダーネンの古くからの愛唱歌だった。ビートルズやエルヴィスの歌なんかじゃなかった。
「みなグラスを置き、座ったまま聞いていた…『ああ、エンマ、ぼくの恋人になるって約束してくれたときのことさ…』」たぶん、現地の地の言葉によるロックの演奏を聞くのは、みなはじめてだっただろう。バンドも聴衆も、今なにが一番演奏されるべきかって言わなくてもわかってたんだ。
この物語で長々と少年から大人へのモラトリアムの通過儀礼が語られていたけど、ここでようやく大人への仲間入りを名実ともに認められたっていう感じ。
最後にバンドのメンバーが「十字路のまんなかの、車道の中央に体を横たえた。あお向けになって体を伸ばし、星空を見上げた」というラストのラストも、ありきたりかもだけど、いいシーンだ。十字路の先にはビートルズのいたイギリスや、エルヴィスのいたアメリカがある。またスウェーデンの都市のストックホルムにも続く。しかし、この地に残る道もある…
“答え”なんてない。誰にもわからない。地元で幸せそうに一生を終える人もいるだろうし、つまらないと恨みをこめて一生を終える人もいた。大人になるのと引き換えに、ロックで生きようと、地元のルールで生きようと、誰もがぶつかる人生最大の難題からは逃げ得ないってこと。
そんなこと知ってるよ…だけど、ここまでユーモアたっぷりに書かれたら、青臭い思い出とともにフフンて鼻を鳴らしながら、昔の古いロックンロールを聞きながら、甘酸っぱい思い出にひたるのも、そう悪くはない。
…ということで、本物が実は本物じゃないって現実を次から次へと知らされるのが大人になるための儀式ならば、ジョンが言うように、ロックンロールとの出会いは人生にとって決して無意味なことなんかじゃない。
(2015/6/20) -
舞台は1960年代、スウェーデン北部の小さい村。
主人公の僕と親友ニイラのおかしくてほろ苦い青春の日々が描かれてます。
小さな子供時代の2人が巻き起こす珍騒動の数々が素晴らしい。
ユニークすぎる出来事を真面目に語っているところが、また妙にツボにハマってしまうのです。
「プクク…」と含み笑いしてしまう箇所がたくさん出てきて、最後はしんみりとしてしまう。
どんな年代の方にもオススメしたい、極上の青春小説です。 -
900万人しかいないスウェーデンで75万部売れたという、スウェーデンの田舎の村の青春小説。いや青春小説ってのはダメだ。そんな軽薄な作品じゃない。自伝的小説らしいので、作者の子ども時代がずっと描かれていて、外国の子どもの微笑ましく、またうらやましい感じで話が進むんだけど、ある意味マジックリアリズム的なところ(まあ、俺はマジックリアリズムがなんだか知らんのだが)がある。それはスウェーデンのフィンランド国境付近の村の自然と風習とが、いい味を出してるから。でも、煙に巻かれる感じは全然しない。それは、語り口もあるのかも。最後ににやりとさせるような一言で締めくくるから、むしろ作者像が出てくる。とにかく、田舎のガキがバンドでもやったんだろ、スウィングガールズみたいなやつだろ、とか思うのはやめなさい。むしろ、俺のイメージではファンタジー系の冒険小説(エンデのジム・ボタンみたいな)に近い。それを一人称語りで文学にしている感じ。いやーうまく言えないなあ。とにかく俺は子どもを主人公にした小説にやられるってことがよく分かった。これはやられる。子どもの目というフィルターを通すことにすごく興味があるんだわきっと。遠いものが神秘化されたり、手の届かないものがなぞめいたり、解釈は自分本位で、だからこそ自由。そして、気持ちが素直。とりあえず、現時点では今年のベスト候補。
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思ってたのとは違ったけど、チャーミングなお話だった。こういうのが国民的ベストセラーになるスウェーデンって、さすが『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』の国だなあ。
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2017年2月8日読了