- Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
- / ISBN・EAN: 9784105900601
作品紹介・あらすじ
父と娘のあいだに横たわる秘密と、人生の黄昏にある男女の濁りない情愛。ミス・カサブランカとよばれる独身教師の埋めようのない心の穴。反対を押し切って結婚した従兄妹同士の、平らかではない歳月とその果ての絆。-人生の細部にあらわれる普遍的真実を、驚くべき技量で掬いとる。北京生まれの新人女性作家による、各賞独占の鮮烈なデビュー短篇集。第1回フランク・オコナー国際短篇賞受賞!PEN/ヘミングウェイ賞受賞。ガーディアン新人賞・プッシュカート賞受賞。New York Times Book Reviewエディターズ・チョイス賞受賞。The Best American Short Stories2006収録。グランタ「もっとも有望な若手アメリカ作家」2007選出。
感想・レビュー・書評
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「さびしさ(lonely/loneliness)と孤独(solitary/solitude)は違う。さびしさはただの感情だけど、孤独は自分で選んだ状況だ。中国では地域の監視の目があってプライバシーがないような時代があったから、私はアメリカに来てから自分の孤独を楽しんだ。でも、さびしさは楽しめない。私の小説の登場人物たちは、孤独をプロテストとして使っている(They use solitude as their
protest.)」
作者が日本に招かれた際の対談会で語った言葉だそうだ。出席された方のブログから引用させてもらった。
イーユン•リーの描き出す人々の多くは孤独を身に纏って生きている。だがそれは自ら選んだ生き方ではない。叶えられなかった約束に、残酷な時代に、すれ違った愛に孤独を強いられたからだ。哀しいくらいに滑稽で、例え奇異の目で見られても他に生きる術を持たないからだ。
黄昏 after a life
人目を避けてひっそりと暮らす蘇夫婦は誰にも打ち明けられない秘密を抱えている。そして互いへの想いは掛け違い、壊れた愛と分かち合えない苦しみに取り残されている。
朝に始まり夕べに終わるたった一日の物語の中で、夫婦の葛藤や過ぎ去った時への回想が丁寧に描かれる。そしてラストの悲劇に対して夫婦は泣くことも言葉を発することもなく、ただ夫は妻の髪を撫でる。
この後に二人は愛を取り戻せるのか、致命的に失われてしまうのかは、分からない。ただ幸せだったあの日が描写されるだけである。
千年の祈り a Thousand Years of Good Prayers
離婚した娘を心配して、父は中国からアメリカを初めて訪れる。二人の言葉はもちろん中国語である。しかし娘は中国語では思いを吐き出せず、英語という新しく身につけた言語で初めて自分を表現することができる。
父は言葉が伝わらない国で、英語も中国語も解さないイラン人のマダムと心を通わせ、母国では家族にも話せなかった秘密を打ち明ける。
父娘は和解できた訳ではなく、父は古い国へ帰って行く。しかし中国の抑圧的な政治や哀しい時代背景が家族に沈黙を強いてきた過去を超えて、父娘はきっと新しい関係を築けると信じたい。
冒頭の対談(「孤独でしか描けないこと」 イーユン・リー×川上未映子」『文藝』第55巻秋季号)を読みたいが、その前に彼女の本を全て読まなければ。
素晴らしい宿題だ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
イーユン・リーのデビュー短篇集。第一回フランク・オコナー国際短篇賞を受賞した、その完成度の高さに驚く。どれも読ませるが、読んでいて楽しいと感じられる作品が多いわけではない。むしろ苛酷な人生に目をそむけたくなることのほうが多いのだが、読み終わったあとの索漠とした思いの中に、真実だけが持つことのできる確かな手触りと哀しい明るさのようなものが残っているのを感じる。誰の人生にも人それぞれの秘密が潜んでいて、周りが考えるほど単純なものではない。リーの筆は、ときに厳しく、ときには優しく、人々によりそって、固い殻に覆われた外皮の奥にある核を明るみに出す。全十篇のどれも捨てがたいが、親と子の結婚観をめぐる考え方のちがいが対話を通して浮かび上がってくる作品が少なくない。
「市場の約束」も、その一つ。三十二歳になる、三三(サンサン)は、大学を出てからずっと生まれ育った町の師範学校で英語を教えている。夫も恋人も親しい友人もいない。母親はそんな娘を心配し、幼なじみで結婚してアメリカに行った土(トウ)が離婚したから、結婚したらどうか、と学校までやってくる。母は旅の客相手に屋台で煮玉子を売っている。他の店とはちがい、茶葉と香辛料をふんだんに入れたそれは絶品だ。
三三と土は結婚の約束をしていた。天安門事件の頃、大学に美人で評判の旻(ミン)という同級生がいた。学生運動のせいで就職がふいになった旻のために、土と偽装結婚して渡米する策を授けたのは三三だった。ところが、二人は三三を裏切り、本当に結婚してしまう。そのことを知らない母は結婚しない娘の気持ちが分からない。母を悲しませていることを知る娘もまた悲しい。そんな三三の前に一人の男が現れる。男の商売は、金を払った相手にナイフで体を切らせることだった。映画のような幕切れがひときわ鮮やかな一篇。
「死を正しく語るには」は、リーの子どもの頃の実際の思い出が生かされていると思われる。武装兵士に警備された核工業部の研究センターに勤務する父と教師の母を持つ「わたし」は、リーの出自に重なる。その「わたし」は、夏と冬の一週間だけ、ばあやの住んでいる胡同(フートン)にある四合院で暮らすことができた。胡同の子どもたちの暮らしは、秘密のベールに覆われた研究所の子どもたちのそれとはまったくちがっていた。原爆を落としたトルーマンや失脚した劉少奇の名前が、遊び唄の中に出てくるのだ。
地主階級だったせいで、親が決めた甲斐性のない男と結婚してしまったばあやは、その不甲斐なさを詰りながらも夫を愛していた。同じ四合院に住む北京の庶民階級に属する人々が、夕涼みに出てくる中庭での会話や、鶏をつぶして煮込み料理を作ったり、君子蘭を大事に育てる様子など、おおらかで、開けっぴろげで、それでいてつつましやかな、昔と変わらない中国の人々の飾らない暮らしぶりを、今は成人した女性の回想視点で綴っている。文化大革命や天安門事件といった大文字の歴史の裏に隠された日の当たらない庶民の暮らしぶりを描くとき、リーの筆はあたたかくやさしい筆致をしめす。無頼を気取る宗家の四兄弟でさえ、懐かしく思い出される対象となるほどに。
表題作「千年の祈り」もまた、心の通じない父と娘の関係を描いている。結婚してアメリカに暮らす娘の離婚を聞きつけた石氏は、なぜ離婚したのかを娘の口から聞きたくて、観光を理由に渡米する。結婚したら夫婦は何があっても共に暮らすものだと昔気質の父は考えている。ロケット工学者だった石氏は、秘密を漏らすことを禁じられ、家族にも無口で通してきた。両親が不仲であったことを娘は知っていた。会話のない家庭は上手くいかない。夫と別れたのも、父と会話ができないのもそのせいだ。
石氏はアメリカに来てから公園で出会ったイラン人女性と通じない言葉で度々会話をしている。言葉の通じない他人同士の方が、血のつながった家族より気持ちが通じ合えるという皮肉。実は石氏には秘密があった。彼と家族の間に壁が築かれていったのはそのせいだ。しかし、妻も娘も周りの噂で気づいていた。隠しおおせていると思っていたのは父親だけだったのだ。アメリカを去るにあたり、石氏はマダムと呼んでいるイラン人女性にだけは、真実を打ち明けなければと思い、隠されていた秘密を語りだす。
父と娘のような近しい関係にある間どうしであっても、何かが邪魔をして、心と心が通じない状況に陥ることがある。それはいつの時代のどこの国であっても起きることかもしれない。しかし、大きな悲劇をもたらすものが、神でも運命でもなく、国家であったり、党であったりする時代、社会というものがあるのだ。人と人との自由な話し合い、語らいが許されない時代、社会状況がどんな悲劇を生むか、リーは声高には主張しない。話者は諦念を秘めた静かな声音で語りだす。聞く者は耳をすませて、その語るところを聞かねばならない。いかに嗚咽の衝動に迫られようとも、その口が閉じられるまで、じっと口を閉じ、耳を傾けねばならない。
リーは、これらを英語で書いている。中国語でなく、英語で書くことで、かえって書けるのだという。自由な考えや思いをそのまま表現することを禁じられ、封じてきた国の言語でなく、自分の思いは口に出して他者に伝えなければ何も始まらない土地に来て、ほとばしるように物語が出てきたのだろう。そのみずみずしい水脈は尽きることを知らない。近くて遠い国が、この作家の登場により、一気に近づいてきた印象を受けるのは評者だけではあるまい。 -
中国人の書く小説は面白い。厳密にいうと、「自分が中国人である」というアイデンティティや、自国に対する愛情と疑念を持った作家が、中国では発行できない内容を描いた作品が面白い。
小説の中で出てくる文化大革命の様子や天安門事件にまつわるエピソードはそれだけでディストピアだし、作家の根幹にある郷愁とはまた違った感情が伝わってくる。
これだけ短いページ数に登場人物一人ひとりのバックグラウンドを、丁寧に描き切り、中国で暮らしたこともない自分に共感を抱かせてしまうからイーユン・リーはすごい。
文革時代を振り返った男性の「あの頃は、そんな哀しい時代でした。そう、あの時代に相応しい言葉は哀しい、であって、若い人たちがよく言う、狂った、ではない」という言葉が何よりも胸に響いた。 -
中国の人はみんなこうなのか、
それともこの人物たちがみんなそうだからなのか。
熱くて、なんというか皆何かにとても執着している。
自分が心を懸けている対象に対しての、愛情の注ぎ方が半端じゃない。
愛している人への遠慮がない。
度を過ぎて親切。
日本人は遠慮しちゃうんじゃないか、もっと。と思った。
そんな熱さが私にはすごく新鮮だった。
とはいえ、なんだか中国てそうなんだなーとかそんな感想を持ったわけではなくて、こうして個人の物語として受け取れることに意味がある。
物語は個人を伝えるメディアであれる。
その人に寄り添える。
そうでないやり方なら理解できないだろうあれやこれやを、私たちは物語という受け取り方をすることで理解することができる。
物語はやっぱり必要なんだ。
言葉にできないものを描く。
そりゃ難しいよ。だって、言葉にできないことを書くのだから。
でも、それが物語が存在する一番の所以ではないか。
言葉にできないから、物語るしかないのだ。 -
現代日本と比較して想像できないくらい厳しい中国の生活。イーユン・リーのクールな文章がとても好きです。淡々と、でも温かい。
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“中国”という地域の素材には、どこかに悠久たる「河」「江」の香りがする。
短編集『千年の祈り』は2005年刊行、2007年には新潮クレストブックスより日本語訳で発刊。
作者は中国北京生まれ、現在はアメリカ国籍でオークランド在住、これまでいくつもの短編や長編が刊行されているが、すべて英語で創作されている。
親と子、男と女、自分と周りの人など、狭い範囲での人間関係に基づく感情の揺れ動きを、突き放しているようでいて、淡々と見守るような文章で描いている。
ジェンダーやマイノリティなどはどこにでもありそうかもしれないが、底辺にあるものは「文化大革命」「天安門事件」など現代中国の社会的矛盾、それを覆い被さるようにしてしたたかに生きる人たちであり、そのため随分と「匂い」が違う。
お気に入りは「死を正しく語るには」。
“胡同”という狭い世界の中、登場人物ひとりひとりに物語があり、短編でありながらスケールの大きさを感じる。
また、「市場の約束」は、ほとんど「母」と「娘」の二人劇で、お互い譲らない頑固さが市場の情景と合わせて映像化される。
良い意味で、期待通りの短篇集。 -
すばらしきイーユン・リー再読月間。これがデビュー短編集とはねー。「優しさ」などを読み返してから再読すると、まだこう…構成などに、理想の不消化や甘さがあれど…文革下、文革後で寄るべき社会構成も因習も失った中国都市の人々の孤独がヒシヒシ…それはでも、現代人すべてが抱えるものへと通じるんだなー。ひしひし。
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あまりもの
黄昏
不滅
ネブラスカの姫君
市場の約束
息子
縁組
死を正しく語るには
柿たち
千年の祈り
どの短編も、孤独な人間の哀しみが静謐で抑制された文章で書かれているのだけど、そこに「凄み」が加わっているのは登場人物が持つちいさな狂気が微熱のように潜んでいるからじゃないかと感じる。そして、その狂気はどこから生まれるのか考えると、やはり、長きにわたる清朝下で、近代では列強勢力による支配と中国共産党による現在に至るまでの人間性を抑圧するシステムの中に、本来は多様であってしかるべき人間性が抑え込まれていた結果に他ならないのではないかと思い当る。庶民や農民は諦めの中で、そして権力者たちはその身の丈に合わない力の中で、狂いを生じさせられる。けれど、本人たちはその狂いや歪みに無自覚であるがゆえ、いっそう悲劇となる。皮肉なことに、自覚的になったらなったで、生きていくことがまた困難になるのだ。
作品の中には著者と同じようにアメリカに渡る若者が出てくるものがいくつかあって、母国の閉塞感とアメリカの自由な空気が対照的に描写される。それは制度だったり言葉だったりするんだけど、主には母国しか知らない親と、新しい世界を知った子どもとの確執というかたちで描かれる。国の方針には逆らわず、親の決めた異性と結婚し子をもうけ、いい親になっていずれは恩返しとして年老いた自分の親の面倒を見るのが、何よりも健全な生き方という価値観を持つ年寄りたちは、新しい価値観にとまどい、理解できず、気持ちは子に寄り添おうとするも諦めたり諦められなかったり。子は親から、もしくは古い価値観から、離れたいと思いつつ、断ち切れずさまざまなかたちで苦悩する。「愛」とも「執着」ともいえない、めんどうな関係性だ。不条理だけれど、これも生まれ育った時代と場所に無縁ではいられないアイデンティティによるもので、『ネブラスカの姫君』の中で陽が「いいところなのはどこだってそうさ。ただ時代がよくないんだ」というセリフの中に、中国とアメリカの間に身を置いているイーユン・リー自身の母国や時代への思いを見る気がした。
この100年のあいだに(半世紀でも)めまぐるしく変化し続けてきた中国では、世代ごとのジェネレーションギャップって半端ないんだろうな、と想像する。
イーユン・リー自身も渡米して、英語を用いたからこそ自由に書けたと言っていて、中国語に翻訳されるのは嫌で、なぜなら母親に読まれたくないからだって言ってるそうだ。母親に読まれるかもしれないと思うと自由に書けないというのは、日本の女性作家、村山由佳も語っていたような気がするけど、どの国に限らずとも男性よりも女性の方が、身を削って文章を書くということが重いのだと思う。性愛という領域に踏み込んでいる場合はとくに。そしてアジア圏ではさらに。で、中国は日本よりもたぶん。
文革のさなかの1972年生まれ。天安門も経験している。父親は中国共産党で核開発に携わるエリートエンジニアだ。いまアメリカから母国をどんな思いでみつめているのかと想像しながら作品を読む。
次は長編を読んでみたい。
まだ若いけど、それに、日本語のwikiすら存在しないけど、いつかノーベル賞を取るような気がする。 -
下北沢古書ビビビで購入
朝の通勤読み始めにはきつい、死が多い短編集
どうしようにも抜け出せないところにいる人たちの、日常のさざ波を書く、というか。
とてもよかったのだが、もう一度読むまでには体力をつけないときつい。