土曜日 (新潮クレスト・ブックス)

制作 : Ian McEwan  小山 太一 
  • 新潮社
3.61
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本棚登録 : 229
レビュー : 24
  • Amazon.co.jp ・本 (351ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105900632

作品紹介・あらすじ

ある土曜日の朝4時。ふと目が覚めた脳神経外科医ヘンリー・ペロウンは窓の外に、炎を上げながらヒースロー空港へ向かう飛行機を目撃する。テロか?まさか?弁護士の妻、ミュージシャンの息子、詩人となった娘…充足しているかに見えるその生活は、だが一触即発の危機に満ちていた-。名匠が優美かつ鮮やかに切り取るロンドンの一日、「あの日」を越えて生きるすべての人に贈る、静かなる手紙。ブッカー賞候補作、ジェイムズ・テイト・ブラック記念賞受賞。

感想・レビュー・書評

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  • 社会的な地位も財産もあり、家族に恵まれた働き盛りの男が過ごす、とある休日の一日を細大漏らさず繊細で怜悧な筆で描ききった極めて現代的なリアリズム小説である。一昔前に脳外科医が主人公の外国製TV番組があった。『スーパーマン』とか、『ローン・レンジャー』といったマッチョな英雄に替わり、凄腕の脳外科医がヒーロー視される時代が来たのだ、ともちろん当時はまだ子どもだったから、そんなふうに分析はしなかったけれど、見馴れないものを見るような気持ちで、それでも毎週楽しみにしていたものだった。

    イアン・マキューアンが『土曜日』の主人公に据えたのも手術の巧さに定評のある脳神経外科医。三階からシャンデリアが吊り下がるジョージア様式の邸宅に住み、愛車は音もなく走るベンツSクラス。法廷弁護士である妻との間に二人の子を持ち、姉はオクスフォード出の新進詩人、弟はジャック・ブルースに師事するブルース・ギタリストだ。あまりの設定に「幸福な男の一日を描いて何になるんだ」という批評が出たそうだ。連続TV活劇ではない。リアリズム小説である。恵まれすぎた人物を主人公にするのはどうかというその気持ちは分からないでもない。

    傍目から見れば羨ましいような男だが、その一日の中には、たしかに快適ではあるが、同盟国であるアメリカとの関係でテロの影に怯えざるを得ないロンドンという街の置かれた現在の状況(この小説の現在時は9.11の事件後約一年半と推定される)がある。施設暮らしの認知症の母親の問題、岳父であるオクスフォードの学匠詩人と若くして栄誉ある賞を取った娘との確執、ストリートに溢れた麻薬中毒の若者がちらつかせるトラブルの予兆と、大はイラク戦争から、小は今夜のささやかな晩餐の買い物まで、頭を悩ませる問題はつきない。

    故知らぬ多幸感から夜明け前に目覚めたヘンリーは、偶然開いた窓の向こうに翼の付け根にオレンジ色の炎を纏った飛行機が空を横切るのを見つける。しかし、ヒースローは管轄外で自分は手術明けの非番。まだ起きていた息子と見た4時のニュースでは何も報道されていない。再びベッドに戻ったヘンリーは、土曜日というのに仕事に出ていく妻と名残を惜しむようにセックスし、麻酔医の友人との恒例のスカッシュに向かう。

    BMWと接触事故を起こすのはその途上だ。相手の風貌から暴行を予測した主人公は、リーダーらしい若者が見せる微細な徴候に相手がハンチントン病であるのを察知する。預言者めいた指摘に相手が躊躇したすきに難を逃れたのだが、その影響かスカッシュでは冷静さが保てず苦戦する。このあたり、相手の見せる微かな肉体的な徴候から、疾患を読み取り、病歴から現在置かれている状況まで推測する能力の凄さはほとんどポオのデュパンかドイルのホームズ並みで、優れた脳外科医が皆こんなだったら犯罪は激減するだろう。また、スカッシュの試合の描写ときたら、一球一球の打ち込まれる場所から落ちてくる位置まで予測と結果、次の予測へと克明に記録していく記述といい、病的なモノマニアックさである。

    詩人の娘に世界文学のレッスンを受けながら、『アンナ・カレーニナ』と『ボヴァリー夫人』から何の感銘も受けず、当時の風俗に詳しくなったことくらいしか評価の対象にしない主人公は、世俗的なリアリストを自称している。戦争には反対だが、サダム・フセインの専制政治を排するためには武力行使もやむを得ないという立場を貫き、歴史的な反戦デモを横目にスカッシュの試合にベンツを走らせる男である。

    世界の置かれた現実をひとまず肯定し、問題点は外科手術的に摘出すればよいという考え方は、現代社会の中でそれなりの地位を占め、権力を行使できる人間には相応しい。あまり小説には向かないタイプの人間だが、こういう生き方を支持する向きもあろう。しかし、真っ向から反対する立場の人間もいる。娘の意見がそれで、アメリカのイラク戦争に反対する。二人の口論は当時の世論を代表する二派の代弁である。プルーストの『失われた時を求めて』におけるドレフュス事件のように、マキューアンの『土曜日』も、何年か後に当時の論争を窺う恰好の資料になるだろう。

    二人の新旧詩人の確執を収め和解の場となるべき晩餐に招かれざる客が闖入するところがクライマックスになる。ネタバレになるので詳しく書けないが、ナイフを持った相手に立ち向かおうとする外科医が、自分やギタリストである息子の負傷を判断材料にいれないのが不思議といえば不思議である。どちらも腕とは言わない神経の一本が切れても復帰の難しい商売なのだ。

    マシュー・アーノルドの詩が窮状を救うところや最後の手術の場面など見せ場も多く、たった一日の出来事の中にイギリス中産階級の暮らしぶりやロンドンという都市の持つ魅力と危うさ、医療現場の見せるスポーツや音楽演奏にも似た緊張と弛緩、挑戦とそれをやり遂げた後の達成感など、よくもこんなに突っ込めるなと思うほど素材をぶち込みながら、見事なまでに調理してしまう作家の腕の良さには拍手するが、リサーチの結果か執拗なまでに頻出する医学用語に見られる衒学者ぶりには、感心しつつ呆れてしまった。このモノマニアックさは、視点人物のリアリストぶりを強調する意味合いがあるのだろうと思いながらもひょっとしたら作家自身の持ち味なのかとも訝った。いずれにせよ、退屈しないことは保証する。

  • 2月12日読了。
    とても良い作品。田尻芳樹先生の論文も読了。

  • 途中放棄 2013.09図書館

  • 冬のロンドンの朝4時半、脳外科医ヘンリー・ペロウンの土曜日は始まりました。静かな朝と、幸福感につつまれた彼の目覚めが、精緻に描かれていきます。

    未明の窓の外を眺めるうち、流星かと目をとめた光は意外なものの光で、不吉な一日を予感させます。
    そんな風にはじまるペロウンの一日をつぶさに描いた作品です。

    ぺロウンと大人になった娘や息子との不安定な会話のやりとり、同じ詩人であるがゆえ、確執をもつ義父と娘の再会、家族が集まったぺロウン宅に突然訪れる来訪者。

    舞台は9.11後で、米国をはじめとする多国籍軍がイラク侵攻を企てる直前。眼前にあるデモ集会。
    価値感の見直しが迫られていた時期に、登場人物ひとりひとりがその時代との折り合いを模索しています。

    冷静で緻密で分析的な筆運びは、指折りの脳外科医ペロウンそのものです。同時に不安定な時代と家族をいたずらな誇張なく描きだします。
    たった1日のできごとは、読み応え十分でした。

  • 静謐な文章の中に、不穏さを孕んだ物語。主人公が幸福な人間というのが、マキューアンにしては珍しい。

  • 「ああ、恋人よ、せめて我々は
    互いに忠実でいよう!
    眼前の世界は夢充てる地のごとく
    広やかに美しく、新しく見えるけれども、
    本当は、喜びも愛も光もなく、
    確かさも、平和も、苦痛を和らげるものもない。」


    参考資料として巻末に、作中で使われた詩が載ってたのがグッジョブ。


    なんだか上手く説明できないけど
    広い世界の大きな出来事も
    身近な、他人にとってはとるにたらない些事も
    全部世界を構成する要因であって
    全部繋がってて
    そんでもってそれらを営む人間は
    脳みそが動かしてて
    それは普段意識しないけれど物質が支配してる

    理論派の脳神経外科の主人公
    弁護士の妻
    芸術家の卵の子供二人
    それから、いろいろな人々


    金曜日でも日曜日でもなく
    土曜日

    場面や背景を説明するのにマキューアンが持ち出すアイテムは
    他の人だったら触れないようなことだったり
    そこに無いものだったりするのだけどとても的確な気がする
    それじゃなきゃいけないような、それ以外考えられないような

    それからはったりにも似た
    物事の結論はSっ気があって惚れそう。

  • 遠くにぼんやりとしていた不安が、恵まれた中流家庭に少しずつ近づいてくる。そして事件。たった一日の出来事をすごく緻密に描写していて素晴らしいけど、ほんの少し退屈でした。

  • 格の地位を誇る英文学界の手練れマキューアンが贈る最新作、全英ベストセラー。
    突発的なテロ、見知らぬ若者の激発、親友との仲違い。なにが起こっても起こらなくとも不思議ではないその日、ヘンリーの周囲は危機の予兆に満ちていた。そう、世界はあの日以来変容してしまったから――。果たして安息の日曜日は訪れるのか

  • サスペンスタッチはなりをひそめていますが、登場人物たちをちょっと突き放したようなマーキュアン調は健在でした。ただなかなか物語に入り込めなかったです。もう少し老成してから再読したらいいかもと思いました。

  • 少し、気取った文体で、前半少しめげそうになってしまったが、後半に向けて物語が展開していくと、すこしずつのめりこんでいけます。

    無理にお勧めする本ではないけど、悪くないと思う。

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