マリアが語り遺したこと (Shinchosha CREST BOOKS)

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  • Amazon.co.jp ・本 (139ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901134

感想・レビュー・書評

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  • 「キリスト教の聖母」ではなく「一人の子の母」として、処刑される息子の無惨な死の瞬間をなす術もなく見つめるしかできなかった女・マリアによる独白小説。
    マリアの語り口は静かで物悲しいのに、悔恨と怒りが全篇とおして滲んでおり、時には攻撃的。
    それが生身の人間の凄惨な体験としての臨場感を生み出し、やり場のない悲しみとして胸に迫ってきます。

    一人息子を喪ってから長い時が経ち、年老い、自らの死期に思いを馳せるマリアのもとには、息子の弟子だったふたりの男が頻繁に訪れる。
    彼らは息子を何としてでも神格化しようという作為に満ちており、そのために、母のマリアに、暗に偽証を求め続ける。
    けれどマリアは頑として応じず、自分が体験した真実だけを語り、彼らを苛立たせる…。

    マリアが切々と語る聖母でも何でもない自身の姿には、本当に胸が締め付けられます。
    家族全員に先立たれて死を待つ孤独な老女としての姿。
    変わってゆく息子に不安を感じ、その凄惨な死に苦しみ、彼がまだ幼く何の不安もなかった過去の静かで満ち足りていた時に思いを馳せてしまう無力な母としての姿。
    自らが害される恐怖に怯えて逃げる生身の人間としての姿。

    役者あとがきによると、2012年に本書が発表された当時、厳粛な美を湛えた文学性が高く評価された反面、マリアの書き方が冒涜的だとして、一部の宗教者から非難もあったのだそう。

    喧嘩どころか殺し合いまで平気でしちゃう八百万の神を当然のものとしている日本人の私としては、ちょっと信じられないけれど、一神教の絶対性や神聖なイメージってそれほどまでに代え難いものなのでしょうか。

    遡ること日本では、昭和の末には、家族からみたら薄情な男でしかないイエスを描いた「キリストの弟」(塩野七生著、1983頃?)があり。
    平成の末には、イエスとブッダという宗教開祖の二大巨頭が東京某所で同居するというギャグ漫画「聖☆おにいさん」(中村光、2006〜)が人気を博していたというのに。

    ただ「聖☆おにいさん」は私が大学生の頃に流行っていて友人間でまわし読みをしていたのだけど、それを知った西洋史の堅物教授が、「キリスト教国の指導者に見られたら物理的攻撃されでも仕方ない…」と少なからずひいていたのだとか(某友人談)。

    キリスト教徒でない人の方が、文学として純粋に楽しめるかもしれません。
    個人的には、美しいのに、決して修飾的ではなくむしろ生々しさすらある特徴的な文体に一読の価値があると思いました。

  • 老いたマリアの口から語られる、息子イエスの生涯。しかし作中でイエスという名前は一切登場しない。彼は「わたしの息子」でしかない。

    マリアは夫と息子を愛するごく普通の女性だった。大人になった息子の周りに人々が集まり、彼が神の言葉を語り始めると、彼女は不安を抱き息子を自分の元に取り戻そうとする。やがて捕縛、そして磔刑。
    彼女の息子の話を聞きに、老いたマリアを弟子たちが日々訪れる。しかし彼女の語ることに彼らは満足しない。彼女は記憶の中の真実と幻想とを行き来しながら、自分のしたことが正しかったのか今も問い続ける。

    聖書を題材とした小説としてそこまで斬新な切り口というほどではない。素顔の母マリアの人物造型も想像の範囲内。ただ、十字架降架を見届けずマリアが逃亡するに到り、不思議な切実感が生じる。彼女は行動を共にするマグダラのマリアと一緒に息子の復活の夢を見る。その夢こそ彼の弟子たちが彼女に要求するものだった。真実が夢に飲み込まれていくのを感じ、彼女は手遅れになる前にそれを残したいと願う。そのための語りである。

    わたしはクリスチャンではないしキリスト教の知識も乏しい。昔オーバーアーマガウのキリスト受難劇を見た時、ドイツ語で「お父さん!」と悲しそうに叫ぶイエスの姿に胸を打たれたけれど、人間としてのイエスやマリアは文化を異にする者にも力強く迫ってくる。本書の感銘はあの劇ほどではなかったものの、このマリア像にも一片の真実を感じた。

  • イエスキリストの母、マリアが晩年の日々を一人称で語っている。
    イエスを「神の子」としてその神秘性を広めたい(おそらく)ヨハネとパウロが始終マリアを訪れ、マリアからイエスの奇蹟を聞き出そうとする。しかし、マリアにとってはイエスは「息子」でしかない。

    十字架にかけられる時にも、なんとか助けたい、でも自分の身にも危険が及ぶかもしれない、その狭間で葛藤し、結局何もできなかった自分を責める。

    教会の微笑みをたたえたマリア像とは相いれないその独白。
    それが作者の狙いなのだろう。神格化されたマリアではない、人間マリアがここにいる。

  • キリストが実際に聖人だったのか、神の子だったのかは問われず、ただただ、自分の手を離れて行った息子への苛立ちと悲しみが語られる、実に人間的なマリアの一人語り。

    長じるにつれ自分の理解を超えたことを語り、振る舞うようになっていく息子と、息子をあがめつきまとう周囲の男たち、そして息子の身に、自身の身に起きた全てのことに対しての母マリアの苛立ちと嫌悪、悲しみ。

    ひとりの女性、母としての感覚に、ただの日本人のわたしも共感できてしまう。

    作者がクリスチャンなのかどうか知りたい!

  • 聖母としてではなく、人の子イエスの母としてのマリアを描いた小説です。物語は全編、死期が間近に迫った老女マリアの独り語りで進行します。
    わが子が自分の理解の及ばぬ成長を遂げ、多くの信奉者と共に、より多くの敵を作り、最期は無残で残酷な死を遂げたことに対して、何もしてやれなかったことが、晩年に至るまで彼女の悔いとなり、トラウマとなっています。
    彼女の世話係として通ってくる二人の男は、後に福音書となる記録文書を書き記すために老女の話を聴きたがります。あなたの息子は、人々を救うために十字架に架けられた救い主であるという男たちの主張は、アリアに取って真実味を持たない絵空事に過ぎず、胸に響くものではありませんでした。彼女の人生は、わが子を見捨てたという苦悩に満ちたものでしかありません。できることなら、息子が家を出て放浪を始める前の幸せな頃に時を巻き戻してほしいと願う彼女の切実な望みが、ひしひしと伝わってくるお話でした。
    こんなことを書いて平気なのだろうかと心配しながら読みましたが、解説を読むと、案の定大きな問題を引き起こしたようです。とはいえ作者はカトリック教徒で、教会を否定するような人物ではないようです。
    マリアの視点でゴルゴダの丘に立ってみるという、特異な追体験ができる読み物でした。


    べそかきアルルカンの詩的日常
    http://blog.goo.ne.jp/b-arlequin/
    べそかきアルルカンの“スケッチブックを小脇に抱え”
    http://blog.goo.ne.jp/besokaki-a
    べそかきアルルカンの“銀幕の向こうがわ”
    http://booklog.jp/users/besokaki-arlequin2

  • 原題は“The Testament of Mary”。「マリアによる聖書」とでも訳せばいいのだろうか。マリアは頭に「マグダラの」とつかない方のマリアである。ブッカー賞の候補に挙がったそうだが、冒涜的だという批判の声が上がり、候補にとどまった。作者コルム・トビーンはアイルランド人。カトリックの国でこういう本を書くのは勇気がいることだろう。特に宗教批判をする意識はなかったようだ。もし、扱われているのが、「あの方」の母親でさえなければ、一人息子を亡くした母親が、息子の死んだ日のことを何度も聞きに来る二人の男を煩わしく思う気持ちに何の不思議があろう。たとえ、その二人がヨハネであり、パウロであったとしても、だ。

    知っての通り、キリスト教という宗教が世界宗教になったのは、キリストの死後のことである。自分が腹を痛めて産んだ子が周りに群れ集う輩に「神の子」と呼ばれ、崇め奉られる契機となった磔刑を目にした母の様子は聖書にも詳らかでない。福音書を書いた四人の弟子がすべて男だったからかもしれない。

    年老いて死を前にしたマリアが、あの日々を追憶する。気持ちのいい若者だった息子が、エルサレムに行ってからというもの、少しずつ物言いが変化し、人の出入りがふえるにつれ、話が講話じみて身ぶりが大げさになってゆく様子に、母はなじめなかった。その言動が不穏視される息子のことを心配してくれる人がいて、呼び戻すために訪れたカナンの婚礼の席で、息子は知らない人を見るようにマリアを見、葡萄酒が足りないという声を耳にすると、壷に水を入れて持ってくるように命じた。

    聖書が語る奇跡がその場にいた平凡な一人の母の目から見るとどう見えるか。作者は大仰な書き方を避け、穏当な筆遣いで淡々と起きたであろう事実を記す。一度書かれてしまい、多くの人々によって承認されたものは規範となり、批判を受けつけない正典となる。世俗の歴史書然り、聖書また然り。キリストと呼ばれる前の男はマリアにとってはただの息子であったが、使徒たちにとっては師でありカリスマである。彼の死後その言動は福音書の記述となって世界中に広がっていく。

    仮令そこに悪意はなくとも、正典となったものは人を縛る。世の中は絶えず動き続け、かつては弱者であったり、少数者であったりした人々がそうではなくなる日が来る。女性がそうであり、同性愛者を含む性的な意味での少数者がそうだ。ところが、時代の移り変わりに抗して変わらないものがある。宗教もその一つである。預言者が男性であるからか、男性優位の教義を持つ宗教が圧倒的に多い。この作品におけるマリアは、イエスの母でありながら、福音書記者からは明らかに冷遇されている。それだけでなくつまらぬ発言などせぬよう隠微な監視を受けてもいる。

    この作品におけるマリアは、一人の母であるとともに一人の女でもある。神の子の母と見られることを忌避しこそすれ、聖母などと呼ばれたいとはつゆほども思っていない。人並みに恐怖心もあれば、後先考えずに走りもする。後の福音書でどう書かれようが、そんなことは知っちゃいない。だいたいすべてはあの男たちが考え出したことではないか。一説ではマリアはキリスト降架後エフェソに移り、晩年を過ごしたとささやかれる。本書でもマリアはエフェソで暮らしアルテミス女神を信仰するなど、反パウロ的色彩が強い。

    歴史はことが起きた後に力を得たものに都合のいいように記される。神話がそうであり、経典もまた同じである。神の名によって人を縛るものが、実は神ではなく権力を持った人であり、正義の名において人に命じるのが時の権力者であることは少なくない。多くの人に信じられた「正義」や「大義」の名によって、死地に赴くわが子を見送らねばならない母にとって、聖書に書かれたマリアの姿は果たして満足のゆくものなのか。

    ことはキリスト教やジハードを奉じるイスラム教に限らない。多くの日本人のように信仰を持たない者にとっても「正義」や「大義」は存在する。意義深いと考えられることに我が身を投じる息子を、誇らしい、と語ってみせる必要は必ずしもないだろう。世間がどう思おうが、「あなた」は母である前に女であり、その前にひとりの人間である。何も女性に限らない。多数者や声高に語る人々がよくは思わない人々が、ありのままに生きることを許さない、不可視の大きな「力」に、このマリアは抗しているのである。冒涜の声が上がることは作者も想定内であったろう。それでも書く。発表する。刊行する。世界の国がそれを翻訳する。私が読む。あなたが読む。それでいい。

  • これはどうなんだろう? 受難の物語をこのように語り直すことの意義が、自分には今ひとつ見出せない。訳者あとがきにあるように、『メディア』『アンティゴネー』などのギリシア悲劇に想を得たと言われれば、なるほどとは思うものの、それはただの趣向でしかなく、それにより著者は何を読者に伝えたかったのか。受難の物語を大切に思う人々の中には、この作品を快く思わない人もいるに違いなく、そのリスクを犯してまで伝えたいこととは? あるのか?

  • 老い先短いマリアから見たイエスを語る視点で描かれた作品。
    今まで確かにマリア視点で息子イエスを描いた作品を読んだことがないし、聞いた覚えもない。
    長らくキリスト教に触れていないため、思い出しながらの読了ではあったが、処刑シーンに関しては胸に迫るものがあった。
    そして、マリアの後日談的な要素も含まれており、聖書にはない部分を存分に堪能できた。

  • 一人の母として息子イエスのことを語るマリア。老後に息子の死に対する悔いと怒りを抱き、訪ねてくるヨハネとパウロが福音書で過去を曲げようとするのを疎ましく思い、その率直さがイエスを神格化しようとする彼らにも疎まれる、そんな「聖母」。作家の着想源がティントレットのキリスト磔刑だそうだが、カナの婚礼、ラザロの蘇り、十字架降下もが新たに語り直され、絵画好きとしても刺激的だ。「あのシーン」が書き換えられる。そう、受胎告知でさえ、あからさまには言わないまでも、このマリアは自身の処女性を否定し夫の存在を明言している。
    人間イエスを描く試みは、様々な分野で行われてきたと思う。しかし、欧米では、私が面白がるのとは別の次元で信者から強烈な反応があるのだろう。大胆で勇気のある小説だ。

  • イエスの母、マリアが語るマリアとイエスの思い出。
    そうだよね、マリアも母なんだよね。
    キリスト教徒の書く母としてのマリアの思い出、もっとキリスト教の知識があれば、深く読めるのかも。

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著者プロフィール

コルム・トビーン(Colm Tóibín)
1955 年、アイルランド東南のウェクスフォード州エニスコーシー生まれ。1975 年University College Dublin 卒業。新しい視点から発信する詩、劇、フィクションは衝撃的で、映画「ブルックリン」の原作小説などで知られる、いま最も人気のあるアイルランドの作家の一人。アイルランドおよび外国でジャーナリスト、文学批評家としても精力的に活躍中。Aosdána(アイルランド芸術家協会)のメンバー。Stanford University、The University of Texas at Austin、Princeton University、Colunbia University そのほかで教壇に立つ。彼の作品の主要テーマ:アイルランド社会、海外生活、創作過程、ホモセクシュアリティのアイデンティティなど。
おもな邦訳書:『巨匠 ヘンリー・ジェイムズの人と作品』(伊藤範子訳、論創社)、『ヒース燃ゆ』(伊藤範子訳、松籟社)、『ブルックリン』(栩木伸明訳、白水社)、『ブラックウォーター灯台船』(伊藤範子訳、松籟社)、『ノーラ・ウェブスター』(栩木伸明訳、新潮社)、『エリザベス・ビショップ 悲しみと理性』(伊藤範子訳、港の人)、『母たちと息子たち アイルランドの光と影を生きる』(伊藤範子訳、行路社)など。

「2024年 『マジシャン トーマス・マンの人と芸術』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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