あなたを選んでくれるもの (新潮クレスト・ブックス)

制作 : Miranda July  岸本 佐知子 
  • 新潮社 (2015年8月27日発売)
4.12
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  • 本棚登録 :618
  • レビュー :61
  • Amazon.co.jp ・本 (245ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901196

作品紹介

アメリカの片隅で同じ時代を生きる、ひとりひとりの、忘れがたい輝き。映画の脚本執筆に行き詰まった著者は、フリーペーパーに売買広告を出す人々を訪ね、話を聞いてみた。革ジャン。オタマジャクシ。手製のアート作品。見知らぬ人の家族写真。それぞれの「もの」が、ひとりひとりの生活が、訴えかけてきたこととは。カラー写真満載、『いちばんここに似合う人』の著者による胸を打つインタビュー集。

あなたを選んでくれるもの (新潮クレスト・ブックス)の感想・レビュー・書評

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  • 『世界の端っこをめくって中をのぞきこみ、その下にある何かを現行犯でつかまえようとしつているーーその、"何か"は神ではなく(「神」という言葉は問いであると同時に答えでもあって、だから想像をふくらませる余地がない)、それに似た何かべつのものだ』ー『 アンドルー 』

    岸本佐知子フォロワーでいることとは、一風変わった作家と付き合うということ。ニコルソン・ベイカーしかり、ジュディ・バドニッツしかり。ポール・オースターは柴田元幸翻訳であるべきだと思うけれど、少し薄暗いところのある作家を柴田さんが翻訳するとスマートに柔らかくなり過ぎる。例えばミランダ・ジュライのような。

    ミランダ・ジュライは翻訳が待ち切れずに苦労しながら原文で読み始めてしまいたくなる作家。もちろん読解力に問題はあり、ニュアンスを掴み損ねてしまうことは承知の上で。「It choose you」も一応読み通したし、それなりに楽しめた筈と信じたい。けれどやはり掴み損ねているものは大きくて、例えばタイトルのニュアンスだって、原文では少し宗教的なニュアンスを感じていたのだけれど「あなたを選んでくるるもの」と訳出されるとミランダ・ジュライ的存在論の響きがきちんと伝わる。岸本さんの訳はホントにいいね。

    『なぜならドミンゴは今まで会った誰よりも貧乏だったから。もっと不幸だったりもっと悲惨だったりする人は他にもいたけれど、いっしょにいて、彼ほどいやらしい優越感をかき立てる人はいなかった。わたしたちはわたしのプリウスに乗って帰った』ー『マチルダとドミンゴ』

    ミランダ・ジュライのどこがそんなにいいのか、他人に伝わるように説明するのは難しい。何故ならば、読みながら自分自身が混乱してしまうから。そしてその混乱した感じが楽しいから。でもそれは単なる混沌ではなくて、自分が知らない何かを納得しようとするためのじたばたとした足掻き。自分自身の中にはそれを説明出来る言葉を持たないのに、何とか自分の知っている概念を組み合わせてそいつを一つ処に納めようとする努力。足掻いている内にはっきりと答えが出る訳ではないけれど、何となく今までとは違う理解が急に湧いてくる。そのことにとても共感できるから楽しいのだと思う。もちろん本書はドキュメンタリーなので、映画「君とボクの虹色の世界」のように直接的にミランダ・ジュライの精神性が見え易く、そういうじたばたした有り様は直接的に言葉に置き換えられているけれど、彼女の短篇集「no one belongs here more than you」はフィクションだけれど、やはり同じような感慨は湧いてくる。例えばそれは保坂和志の面白さや、柴崎友香を読む楽しさと通じるところがあると自分は思う。但し、繰り返しになるけれど他の人が同じように面白がるのかどうか、自分には分からない。

    その頭がぐるぐるする感じは原文で読んでも同じように感じるのだけれども、その後に付いてくる自分自身の悩みに落ち込むスパイラルは、岸本佐知子の翻訳を読むと一層深くなる。日本語だと読む行為と考える行為がある程度同時平行的に進むので、目線だけか先へ先へと進んでしまって頭が置き去りにされ何度も戻って読み直すということになる。それは自分にとって最も楽しい読書の在り方なのだ。早く「My first bad man」も訳して下さい!

  • 『ザ・フューチャー』と同時期に読みたかった!
    2013年の公開時に観たきりなので、ディティールを忘れてしまっている。ところどころ印象に残った場面を自分の都合のいいように勝手に解釈して、「好きな映画」としてカテゴライズし、しまい込んでいた。「生みの苦しみ」のようなものを強く感じたことを覚えている。作品発表の翌年、2012年にミランダが出産していたことを知って、意味もなく(これまた勝手に)納得したことも覚えている。

    ミランダ・ジュライの長編第2作目となる映画『ザ・フューチャー』。脚本があともう一歩でできあがるという段階になって「ぐずぐず」に陥ってしまったミランダは、ふと誰に課されたわけでもなく、好奇心に押されて自らに「ミッション」を与える。本書はそれを追ったフォト・ドキュメンタリーなのだ。その「ミッション」とは、『ペニーセイバー』というポピュラーなフリーペーパーに「売ります」広告を出している人たちに片っ端から電話をかけ、インタヴューを依頼するというものだった。怪しさ全開!な依頼だけど、OKしてくれる人がいるんですね。それで、彼らに会いに行くんだけども、この人たちがまたとても濃ゆい。

    「わたしがこの映画に手こずっているあいだに、好景気は塵と消えてしまった。一年前には大乗り気でわたしと会ってくれていたスポンサーが、どこも急に、ナタリー・ポートマンが主役でなければ金は出せないと言いだしていた。それがわたしの中のライオット・ガール魂に火をつけた。わたしはビバリーヒルズでのお行儀のいい話し合いを終えて会議室を出ながら考えた ーー素っ裸で、お腹に黒マジックで完璧なメッセージを書いて、もう一度ここに戻ってきてやろうじゃないの。でも彼らの理路整然とした、隙のない冷たさに対抗できる完璧なメッセージとはいったい何だろう。わからなかった。だからわたしは服を脱ぐのを思いとどまり、彼らとはちがってわたしの申し出を無条件でOKしてくれた人の家に車を走らせた。インドの衣装を一つ五ドルで売り出している女の人の家に。」(p28)

    普通に暮らしていたら、きっと交わることのない人たち。パソコンを持たずインターネットをしない。彼らの共通項は、@のついたもう一つの名前を持っていない、ということ。「自分の名前をググって、わたしがいかにウザいかについて書かれたブログの中に暗号化されて埋め込まれているかもしれない答えを探しつづけ」ている、ネットの世界にどっぷり浸かった著者とは、まったく異なる世界に暮らす人たちなのだ。自意識過剰なネット住民であるミランダ(と、自分で明かしているところがまた愛らしいというか、面白いんだけど)とは対称的に、彼らはみなどこか無防備で、あけすけだ。

    ネットというフィクションの世界を出て、「巨大で不可解な本物の現実世界」にガッツリ向き合っていくミランダ。映画とは一見何の関連もない、それどころかむしろ「映画からの逃避」でしかなかったインタヴューが、結果的に様々なひらめきをもたらし、エピソードを生む。ミランダは脚本を完成させ、スポンサーを見つけ、撮影に入る。


    私はといえば、インタヴューを読みながら、彼らの物語の中に引きずり込まれそうになる。写真の使い方がまた効果的で、彼らがより「リアル」に迫ってくるのだ。彼らはみんな、なんだかせつなくて、哀しくて、小さな存在で、そして時に目を背けたくなるほどの「生の過剰さ」を露呈させる。私も同じだよ。彼らと一緒に濁流にのみ込まれて、「自」も「他」もない混沌の中へと押し流されそうになる。「行ってはだめ」という本能の声に引き戻され、かろうじて踏みとどまるも、疲労感と安心感、そしてなんだか自己嫌悪。だって「私」と「彼ら」は「同じ」ではないという分別をつけることで、小さな自分を守っているのだもの。自分以外愛せない、私の強大なエゴ。

    「この世界には無数の物語が同時に存在していて、ジョーとキャロリンもその一つに過ぎないのだと思えば胸が苦しかった。きっと、だから人は結婚するのだろう ーー物語るに足るフィクションを作るために。登場人物を誰もかれも入れることができないのは、なにも映画にかぎったことではない。他ならぬわたしたちがそうなのだ。人はみな自分の人生をふるいにかけて、愛情と優しさを注ぐ先を定める。そしてそれは美しい、素敵なことなのだ。でも独りだろうと二人だろうと、わたしたちが残酷なまでに多種多様な、回りつづける万華鏡に嵌めこまれたピースであることに変わりはなく、それは最後の最後の瞬間までずっと続いていく。きっとわたしは一時間のうちに何度でもそのことを忘れ、思い出し、また忘れ、また思い出すのだろう。思い出すたびにそれは一つの小さな奇跡で、忘れることもまた同じくらい重要だ ーーだってわたしはわたしの物語を信じていかなければならないのだから。たぶんわたしは人生の最後の独りの時間を、自分の小さな穴ぐらで、スープを飲んで黒い服を着て過ごしたりはしないだろう。夫なしで、夫といっしょに作りあげたものに囲まれて生きていくだろう。悲しくないわけではないけれど、ただ不幸なだけでもなく。」(p230)

    さいごにジョーとキャロリンに出会えてよかった。いや、みんな出会えてよかったんだけど、ジョーとキャロリンとの出会いは、とくに奇跡的なものがある。ミランダは「現実に」彼らに出会い、私はミランダをとおして彼らに出会った。哀しいのだけれど、救われた気持ち。
    映画の中のジョーのことは、忘れてしまっていた。本書を読んで、ぼんやりと、ああ、そうだった、と思い出して、映画の場面を自分の記憶の中でまた都合のいいように思い描いていた。

    やっぱりもう一度『ザ・フューチャー』を観なくては。

  •  人に歴史あり。人生は語ることに満ちている。

      "わたしが記者でも何者でもないのを知っていながら、まるでこのインタビューがとても大きな意味をもつかのように、自分について語りはじめるのだ。でも、とわたしは気づいた。誰でも自分の物語は、その人にとってはとても大きな意味をもっているのだ。"(p.36)

     あらすじは、私物売買の案内広告などを掲載する無料情報誌『ペニーセイバー』を見たミランダ・ジュライが、広告を載せた売り手に電話をかけてインタビューを申しこみ、相手の許可が出れば自宅を訪問して話を聞いていく、というもの。
     著者がインタビューするのは、概して社会の主流ではない人たちだ。ネットに均されずに環境や習慣に強化された、強烈な個性の持ち主でもある(とはいえ自覚がないだけで、われわれ一人ひとりにもきっとそういう側面があるのだろう)。そんな生(なま)の生(せい)の生々しさに、引きつつも惹きつけられ、惹きつけられつつも引きながら、話は進んでいく。

     作中では「エア家族」なるものが登場する。

      "ティーンエイジャーのダイナは、雑誌の黒人女性の写真をスクラップブックに貼りつけていた。それはみんな彼女の空想上のお姉さんなのだった。わたしが会う人会う人、なぜだかみんな紙の上のエア家族を持っているようだった。"(p.174)

     そこでふと、ある言葉を思いだしたりもした。

      "人には誰か相手が必要だ。自分のまわりに誰もいないのなら、誰かをでっちあげて、あたかも実在する人物のようにしてしまえばいい。それはまやかしでもなければ、ごまかしでもない。むしろその反対のほうが、まやかしでごまかしだ。彼のような男が身近にいることもなく、人生を生きていくことのほうが。"(チャールズ・ブコウスキー『くそったれ! 少年時代』p.191、訳:中川五郎)

     読みすすめながら貧しさや孤独に同情したりするけれど、そうは言っても遠方に住む赤の他人であり、じっさいに助けようとするわけでもなければ助けられるわけでもない。この同情も結局は一時の感傷にすぎず、そう考えると何やら悪趣味な気もしてくる。
     著者は言う。

      "何かの埋め合わせのように、わたしはふだんより多めの金額を彼に払ってしまった。なぜならドミンゴは今まで会った誰よりも貧乏だったから。もっと不幸だったりもっと悲惨だったりする人は他にもいたけれど、いっしょにいて、彼ほどいやらしい優越感をかき立てる人はいなかった。わたしたちはわたしのプリウスに乗って帰った。もし自分と似たような人たちとだけ交流すれば、このいやらしさも消えて、また元どおりの気分になれるのだろう。でもそれも何かちがう気がした。結局わたしは、いやらしくたって仕方がないしそれでいいんだ、と思うことに決めた。だってわたしは本当にちょっといやらしいんだから。ただしそう感じるだけではぜんぜん足りないという気もした。他に気づくべきことは山のようにある。"(p.161)

     相手との断絶や非対称な関係、自分のいやらしさを認めつつ、それでも「自分と似たような人たちとだけ交流す」ることに安住するのをよしとはしない。
     むろんそれも自己正当化的ではある。しかしそれだけでもないのだ。

     インタビューをするたびに、こうしたさまざまなことが次第しだいに浮き彫りになっていく。表出するのはむしろ著者自身のことだ。他人と向き合うことで自分と向き合うという構図である以上、必然的にそうなるのだろう。それを読んで考えをめぐらすうちに、読者も自分自身と向き合うことになる。

     私はといえば、「わかる」と思いながら読んでいたものの、一方で「簡単にわかった気になってはいけない」とも感じていた。人類はわかりやすいとしても、個人はあまりにはかりがたいからだ。
     そもそもコミュニケーションは、どこまでいっても推測でしかない。それぞれに想像力を駆使して、「わかった」「わからない」「わかってくれた」「わかってくれない」などと勝手に合点しつつ、喜んだり嘆いたりしているにすぎないのだ。その最たる例がこのレビューだろう。
     うんざりするほど月並な表現ながら、個人はもともと理解不能なものだという前提で、それでもできるだけ理解しようとするのが大切なのだと思う。わかった気にならないことと、わかろうとすることが。人間に与えられた時間や能力は有限であり、知りうることなどたかが知れていると知ったうえで、それでも知ろうとするように。
     それは人生に打ちのめされて諦観へとたどりつき、そこからなんとか立て直して再出発することにも似ている。

     諦念を起点とする、一種ネガティブなポジティブさ。そうしたポジティブさは、私が長患いのなかで自然と身につけたものであり、ジョーの話を読んでいるときに改めて意識したことでもある。
     世界を救うことなどできはしないとしても、自分自身と身近な人を少しだけ救うことならできる、ということをジョーは体現していた。そうすることで世界は、ごくわずかであれよくなっていくのだろう。

  • 読み終わってからもういちど「The Future」観たくなった!
    はじめはキワモノな人を集めた話なのかな?と思って、でも人の暮らしの気配の濃厚さに押されつつ読んでいたけど、ラストのジョーとの出会いのあたりから一気に泣きそうになった。
    ペニーセイバーに「これ売ります」の広告を出している彼らのほとんどはインターネットをしていない。検索では彼らと会うことはできない。自分で電話して赴かなければ知ることができないのだ。脚本が進まず煮詰まる著者が、彼らのことを取材することで、逆にさらに自分の書く話がつまらなくなっていく、偽物に感じてしまう、というのもわかる。生身の人間は濃すぎるのだ。

    著者は結婚して数か月。35歳という出産までの肉体的なリミットが視界に入る年齢。これまでの時間とこれからの時間。ビオトープを作っている高校生の取材のあとに「40過ぎたら残りの人生は小銭だ。ほんとうにほしいものを手に入れるには足りない」と悲観したりしていたが最後にまるごと肯定されたように時間の経過を受け入れる様は胸がいっぱいになる思い。登場する人物がだれも感動的な人生を送っているわけではなく(訳あり人生だらけだけど)、ただ生きてるだけで、私たちをこんなにも心震わせる。

    世界には無数の物語が同時進行で存在しているが、会える人は無限ではないこと。だから愛情を注ぐ相手を選び物語を作っていく。自分もそのひとかけらになっていること。
    なんかよくわからなくなってしまったけど、胸がじーんとして、流れ続けるいくつもの時間とそれぞれの物語を想像してめまいがした。

  • 胡散臭い自己啓発本みたいなタイトルだけど、中身はインタビュー集に近い内容。

    自身の人生設計に悩みはじめた35歳の女性ライターが、状況を打破する答えを探すために見ず知らずの人たちにインタビューを行い続けるというもの。

    著者は映画監督マイク・ミルズの嫁。インタビュー相手を冷静に観察し、そこから得たものを元に、自分自身にフィードバックしていく様子は正直で人間臭くて良かった。

    執筆時の筆者と年齢も境遇も重なるところがあるので、このタイミングで読めて良かった。人生において残された時間が少なくなるなかで、自分は何を指標にし、どこに進んでいくべきなのか。中年を目前にして焦ることもある。そんな気持ちを少し冷静にしてくれる一冊だった。

    これらのインタビューを経て完成した映画『ザ・フューチャー』も観てみたい。

  • 思いのほか、ものすごく良かった。
    作者を存じ上げなくて、ほとんど偶然のようにして手に取り、読んだのだけれど、今このときに読めた幸福を噛み締めている。
    小説と映画を物した作者が、まだ映画の脚本に頭を悩ませていた頃。
    ペニーセイバーというフリーペーパーで物を売ろうと広告?を出している方にインタビューを依頼するようになる。
    そのインタビューを受けてくれた人びとは、圧倒的な生々しい個性を持って作者の、そしてわれわれ読者の目の前に現れる。
    特にジョーはやっぱり印象的。
    映画、観たくなりました。

  • 以前、「ザ・フューチャー」という不思議感のある
    映画を観た。その監督が作家と知りこの本を読んでみた。
    内容は一言でいえばフリーペーパーに売買広告を出している人へのインタビュー集となるけれど、
    どの人物にも濃い時間が流れていて圧倒される。
    読み終わってタイトルの次のページにある
    「ジョー・パターリックと奥さんのキャロリンに」
    という言葉が胸にしみて、記憶が新しいうちに、
    もう一度映画を観ておきたいと思うので
    数日中にTSUTAYAに行きます!

  • 人に歴史あり、という言葉は良い意味で使われるけど、ここに出てくる人たちの歴史は暗くて重くて過剰で、それなのに悲惨なほど地味で、読んでいるうちだんだんと胸が苦しくなってくる。何よりも、自分の人生がまた誰かから見ればそうなのだという事実が迫ってくる。
    それでも全員が自分の過ごした時間を信じている。それが惨めで切なくて、この世界の多くの人の真実。

    突飛なインタビューをやり遂げた著者の行動力と観察力がすごい。パソコンの前から立ち上がり、身をもって体験することでしか得られないもの。「ググればわかる」という危うい思い込みを粉砕する「生身」の底力。

  • 映画の脚本づくりにいきづまった著者が、その現実から逃れるかのように始めた、無料雑誌に売り広告を出している一般の人々へのインタビュー。
    インタビューを続ける中で、あまりの「生身の人間」臭に衝撃を受けたり、作品への昇華を見出せたと思ったらやっぱりムリだったり。そして「これが最後」と決めて会った老人との奇跡とも言えそうな出会い。その後映画製作へとつながる経緯……。
    その様子と心の機微の変化を写真とともに綴ったフォトエッセイ。

    とにかく、岸本佐知子さんの訳が秀逸。人柄・人となりがよく現れた、かつ実に滑らかな訳が素晴らしい。

    「もしかしたら残りの人生は小銭なんかじゃないのかもしれない。あるいは最初から最後まで全部が小銭だったのかもしれない。数えきれないくらいたくさんの小さな瞬間の寄せ集め ーー 一つひとつの祝日も、バレンタインも、新年も、うんざりするほど同じことの繰り返しで、なのにどれ一つとして同じものはない。それで何かを買うことはできないし、もっと意味のあるものや、もっとまとまったものと引き替えることもできない。すべてはただ何ということのない日々で、それが一人の人間の ーー 運がよければ二人の ーー 不確かな記憶力で一つにつなぎとめられている。だからこそ、そこに固有の意味も価値もないからこそ、それは奇跡のように美しい」

    「きっと、だから人は結婚するのだろう ーー 物語るに足るフィクションを作るために。登場人物を誰もかれも入れることができないのは、なにも映画にかぎったことではない。他ならぬわたしたちがそうなのだ。人はみんな自分の人生をふるいにかけて、愛情と優しさを注ぐ先を定める。そしてそれは美しい、素敵なことなのだ」

    「人間は、時間を敵に回してもけっして勝てないのだ」(訳者あとがき)

  • The Futureを観終わった後、どうしても晴れなかった曇り空のような気分に、ようやく収まりどころが見つかった。もがいてもがいてもがいて、ただ自分の信念だけを信じて次の日には自信を失くして、なんとか手がかりを手繰り寄せてまた信じて、ミランダがようやく手に入れた小さな光は、びっくりするほど暖かいものだった。

    喪失の先に何があるんだろうといつも思っていた。最愛の人を亡くしたその後の人生を生きていくことができるんだろうかと、いつも恐ろしかった。それでも、誰かを信じて愛したという記憶は、なくなることはないんだと、何よりもリアルなストーリーで教えてくれたミランダとそのインタビュイーに、心から感謝を込めて本を閉じた。

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