べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

制作 : Jhumpa Lahiri  中嶋 浩郎 
  • 新潮社
4.05
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本棚登録 : 320
レビュー : 36
  • Amazon.co.jp ・本 (136ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901202

作品紹介・あらすじ

「わたしにとってイタリア語は救いだった」ローマでの暮らしをイタリア語で綴るエッセイ。子供時代から、家では両親の話すベンガル語、外では英語と、相容れない二つのことばを使い分けて育ったラヒリ。第三の言語、イタリア語と出会ってから二十余年。ついにラヒリは家族を伴いローマに移住する。初めての異国暮らしを、イタリア語と格闘しながら綴ったひたむきなエッセイ。イタリア語で書かれた掌篇二篇も付す。

感想・レビュー・書評

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  • 自分が探していた何かが見つかった。今まで自分でそれを探していたことにすら気がつかなかったけれど、見つけて初めて、こんがらかっていたホースがピンとなった。今、その中を水が通っている感じがする。素敵だ。

  • イタリア語に魅せられ、イタリアに移住したジュンパ・ラヒリがイタリア語で書いたエッセイ、というので、勝手に、もっと日常的な軽いエッセイを想像していたのだけれど、そういう部分もないわけではないけど、やはりジュンパ・ラヒリなので、軽く読むような感じではなく、一語一語丁寧に読むべき本、といった感じだった。わたしは丁寧に読めなかったな、と自覚があるのでいつか再読したい。。。

    ラヒリが、両親が話すベンガル語と幼少時に習得して今では完璧に身につけた英語と、大人になってから学んだイタリア語のあいだでの苦しみみたいなものが伝わってきた。出自と、欧米人に見えない容姿のせいで、英語もイタリア語も、完璧だとしてもそうは思われず、育ちのせいでベンガル語も完璧とは思われないという。。。

    あんなふうになにかひとつの言語に魅せられるっていうのはどういう感じなのかなあと思う。わたしなんかが英語をマスターできたらいいなとか思うのとはまた違うような気がする。

    • meguyamaさん
      私ももう少ししたら読む予定で、すごく楽しみにしている本です。期待を裏切らない内容みたいでうれしいな。
      私ももう少ししたら読む予定で、すごく楽しみにしている本です。期待を裏切らない内容みたいでうれしいな。
      2015/10/25
    • niwatokoさん
      わたしはもうちょっと軽い感じを期待してたんですけど、やっぱり日本の小説家のエッセイとは違って、エッセイといえども深いというか。でも読みごたえ...
      わたしはもうちょっと軽い感じを期待してたんですけど、やっぱり日本の小説家のエッセイとは違って、エッセイといえども深いというか。でも読みごたえがあったし、よかったです。「低地」読んでないので読まないと、と思いました。
      2015/10/25
  • 母国語でも母語でも、仕事で使うためでもなく純粋にある言語に惹かれてやまない気持ちを短編小説や様々な比喩で描いている語学好きにはたまらない一冊です。使うあてもないものだけれど、なぜか惹かれて触れ続けてしまう。言語に限らずなぜか心惹かれるものがある人。学んでも学んでもゴールが見えないと思いつつ取り組むものがある人にオススメしたい一冊。

  • ベンガル語、英語、そしてイタリア語… イタリア語への情熱が印象的。「変身」がよかった。あまりほかに類を見ない、実験的なエッセイ。気まぐれでもあり、自分のアイデンティティを求める旅でもある。書くことや読むことと生きることが不可分な、作家の性というか業というか。とても印象的な本。

  • どうしてイタリア語の習得にそんなに熱心になるのか、最初は理解できずに読みすすめた。(途中で説明してくれたので、そこでわかった)そんな感じで、共感はあまりできないのに、文章には、自然にひきこまれてしまった。そこはラヒリの筆力のなせるわざだろう。
    ことばのはしばしから、ラヒリの謙虚さ、率直さ、ひたむきさが伝わってきて、素敵な方なのだろうなあと思う。
    そして、エッセイとともに収められている短編2編がこれまた秀逸で、うなった。エッセイのテーマとも重なる異国や旅や不在などを描きながら、あらがえない自分の変化と変わらなさを伝えていて、こちらは、すごくよくわかる感覚。エッセイでは、個人的な体験・感覚をひたすら掘り下げているのに、小説(創作)では、それを普遍的なものにしてしまう。やっぱり作家ってすごいよなあ、と感嘆せざるをえませんでした。

  • 『停電の夜に』で、衝撃的なデビューを果たした後も、『その名にちなんで』、『見知らぬ場所』と確実にヒットを飛ばし、つい最近は『低地』で、その成長ぶりを見せつけていたジュンパ・ラヒリ。その彼女がアメリカを捨て、ローマに居を構えていたことを、この本を読んではじめて知った。単に引っ越したというだけではない。英語で書くのもやめてしまい、今はイタリア語で書いているという。ずいぶんと思い切ったことをしたものだ。もちろんこの本もイタリア語で書かれている。もっとも読んでいるのは当然のことながら日本語に訳されたものであるわけなのだが。

    コルカタ生まれの作家の両親はアメリカに来てからも家ではベンガル語を話しつづけた。ロンドン生まれで幼い頃アメリカに渡ったラヒリは、小さいころは両親の使うベンガル語をつかっていたが、幼稚園ではまわりの子とまじって英語を話すことを強制された。ずいぶん居心地の悪い思いをしたことだろう。その当時の気持ちは、ここに所収の言語習得に関する自伝的エッセイにくわしい。しかし、成長するにつれ、英語で話したり書いたりすることがあたりまえになると、今度は両親と話すときにだけつかうベンガル語が疎遠になったと感じるようになる。そのへんの喩えを、メタファーの名手であるラヒリは、実母と継母の喩えを用いて説明している。無論、英語が継母である。

    しかし、この実母と継母は仲が悪かった。コルカタに帰れば、周りはベンガル語を話す人ばかりで、今や英語で書く作家になったラヒリにとって、そこは父母の祖国ではあっても自分の祖国という気にはなれない。では、アメリカが祖国かといえば、それもちがう。そのあたりのことを作家はこう書いている。

    「ある特定の場所に属していない者は、実はどこにも帰ることができない。亡命と帰還という概念は、当然その原点となる祖国を必要とする。祖国も真の母国語も持たないわたしは、世界を、そして机の上をさまよっている。最後に気づくのは、ほんとうの亡命とはまったく違うものだということだ。わたしは亡命という定義からも遠ざけられている。」

    そう感じる作家には、「べつの言葉」が必要だった。しかし、イタリア語との出会いはそんなふうに理詰めに進んだわけではない。その美しい出会いについては、本文中に、時系列に沿って、水泳や雷の一撃といった的確かつ美的なメタファーを使用しながら詳しく書かれている。すごい美人ではあるが、どうみてもオリエンタルな印象を与える彼女の外貌のせいで、買い物をした店でイタリア語の発音の流暢さを、スペイン語訛りのイタリア語を話す夫に負けてしまう悔しさなど、笑ってはいけないのだが、つい笑ってしまうようなエピソードもまじえながら。

    いくら好きでもラヒリがイタリア人でないのはその外見だけではない。歴史や土地との結びつきそのものがネイティブとは決定的にちがうのだ。パヴェーゼが『ホメロス』の訳について書いている書簡の内容に触れて、その深さ、広さに到底追いつくことのできない限界を感じながら、それでも言葉を覚えはじめたばかりの少女のように、目を輝かせて、新しい世界に飛び込んでゆくことの感動を語るジュンパ・ラヒリにまぶしいほどの感動を覚えずにはいられない。それと同時に、人間というものと言葉との結びつきの深さにも今一度再考させられた。

    「小さいころからわたしは、自分の不完全さを忘れるため、人生の背景に身を隠すために書いている。ある意味では、書くことは不完全さへの長期にわたるオマージュなのだ。一冊の本は一人の人間と同様、その創造中はずっと不完全で未完成なものだ。人は妊娠期間の末に生まれ、それから成長する。しかし、わたしは本が生きているのはそれを書いている間だけだと考える。そのあと、少なくともわたしにとっては、死んでしまう」

    このような深い省察が、二十年にわたる努力はあったにせよ、まったく自由に選び取られた言語で綴ることのできる才能に呆然とするばかりだ。ただ、その達成のために、自分を世界的に有名な作家にしてくれた英語を捨て、アメリカを捨て、ローマに移住してしまう行動力、意志力にも驚かされる。

    はじめは誰にも見せない日記からはじめたイタリア語は、やがて週刊誌に毎週寄稿するにまで至る。原稿はまずイタリア語の先生に見てもらい、その後知人である二人の作家に目を通してもらい最後に編集者の意見を聞くことになる。それを作家はローマ時代のポルティコを支える足場にたとえ、その足場にありがたさを覚えると同時に、今はまだ足場がなくては崩れてしまいそうな段階だが、いずれは足場を外しても建っているだけの文章にしたいと決意を語っている。

    イタリア語に惹かれるようになってからこれまでの経緯をつづる短いエッセイが二十一篇。いずれも、この人の手にかかると読み応えのある、しかも端正でみずみずしい筆致にあふれる読み物になっている。それに図書館で突然降ってきたかと思われるようにして書かれた短篇、というより掌編が二篇付されている。英語で書いていたころとはひと味もふた味もちがう新生ジュンパ・ラヒリがそこに息づいている。これからも、この人から目が離せない。そんな思いにさせる一冊である。

  • 昔から両親とはベンガル語で会話し、家の外では英語を使っていたジュンパ・ラヒリ。二重のアイデンティティーからの「逃避」であるかのようにイタリア語に惹かれ、20年以上もイタリア語を学び、ついにローマへ移住し、イタリア語で日記や小説を書き始める。この本は、彼女がイタリア語で書いた初のエッセイ集だ。祖国や母国語と胸を張って言えるものを持っていない寂しさや、新しい言語を習得することで自分が「変身」していく感覚は、日本で生まれ育ったわたしにはないものだ。だから読んで良かったと思う。

    p14
    何がわかるのだろう?美しいのはもちろんだが、美しさは関係ない。わたしとつながりがあるに違いない言語のような気がする。ある日偶然出会ってすぐに絆とか情愛を感じる人のような気がする。まだ知らないことばかりなのに、何年も前から知っているような。覚えなかったら満足できないし、完結できないだろうと思う。わたしの中にこの言語の落ち着けるスペースがあると感じる。

    p32
    ほかの言語で読むのは成長、可能性の状態が永遠につづくことを意味する。

    人は誰かに恋をすると、永遠に生きたいと思う。自分の味わう感動や歓喜が長続きすることを切望する。

    p57
    たぶん、創造という観点からは、安全ほど危険なものはないからだろう。

    p59
    言葉にされず、形を変えず、ある意味では、書くというるつぼで浄化されることなく通り過ぎるものごとは、わたしにとって何の意味も持たない。長続きする言葉だけがわたしには現実のもののように思える。それはわたしたちを上回る力と価値を持っている。

    p84
    だが、別離の思いがより鋭く際立つのは、すぐそばにいるのに深い裂け目が消えないときだと思う。

  • 心が震えるほど素晴らしいエッセイ。
    言語とは。母語とは。
    言葉を持つ、全ての民族の人に読んでほしい。

  • 友人のおすすめ。

    同じく母国語以外の言語に魅力を感じる者として、
    ラヒリの覚悟と努力は心強くもある。

  • 笑えたり、共感したり。作者のルーツにおける、もとい言語における孤独。私は国はひとつだけど、気持ちはよくわかる。あと、書く仕事をはじめた身としては、日々言葉に向かう苦労に共感した。表現語彙を積み上げていく、選定する、その作業。たまにイライラするけれど、世界が広がったとき、積み上げられたときの感覚が嬉しい。それを外国語でやるというのだから、すごい。言語に向かい合う態度が違う。

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