べつの言葉で (Crest books)

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  • Amazon.co.jp ・本 (136ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901202

感想・レビュー・書評

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  • ベンガル語を話す両親に、幼少期からいたアメリカでは英語があふれ、イタリア語に絆や情愛のような『雷の一撃』をおぼえたジュンパ・ラヒリ。

    私だったら環境の過酷さに腐ってたかもしれないのに、アメリカで小説家として偉大な賞を獲得しているだけでも、その心の強さ、あるいは凄さを感じられるのだが、その後の出来事で、真の『生きる』ということを実感するという、彼女の人生の先の読めない面白さ、怖さに、なぜか共感じみた親しみを感じた。

    なぜ、そう感じたのかは、私の場合、先に「わたしのいるところ」という、このエッセイより後に発表した、初のイタリア語で書いた小説を読んでいることもあり、彼女の孤独の部分に深い共感を覚えているからだと思う。

    このイタリア語で書かれた初のエッセイでも、『わたしは一人ぼっちだと感じるために書く。書くことは世間から離れ、自分自身を取り戻すための方法』とあり、小説家であることは、彼女の存在意義のためには必要不可欠であることが分かり、また『言語の壁を壊し、自分を純粋に表現するために書く。書いているときは、わたしの顔かたちや名前は関係ない。偏見やフィルターなしに耳を傾けてもらえる』ともあり、言語の壁に今でも苦しんでいる彼女の姿が垣間見える。

    また、単純にエッセイとして、すごく励まされた。

    『無知なことが何かの役に立つことは分かっている』や、『不完全であると感じれば感じるほど、わたしは生きていると実感する。もし、すべてが可能だったら、人生に何の意味があるだろうか?』など、彼女のイタリア語として紡ぎ出されると、妙に説得力がある。

    このエッセイ集には、彼女のイタリア語の言葉ひとつひとつを摘み集めていく、喜びと共に、苦難に満ちた日々に、生きているということを実感している姿が、真摯かつ丁寧に描かれていて、イタリアに興味がなくても、新しいひとつの人生論みたいなものを感じられるので、私的には、下手な日本人が書いたエッセイよりも遥かに共感出来た。おそらく、真面目な方なんだろうなといった雰囲気が、文章の端々に漂っている。翻訳の中嶋さんもすごいのだろうと思う。

    表紙の女の子が溝を飛び越える写真も、ラヒリの挑戦する気持ちと重なって見えて、すごくこの作品に合っていて良い。

  • 属してるのか属していないのか分からない微妙な境界線。入り込もうとしても完全には入り込めないもどかしさ。言語が変わることで弱くなってしまう自分自身。

    ただ外国語を勉強するだけじゃない、その場所に芯から溶け込もうとして初めて湧き出てくる感情、そして所属することの難しさ。色んなことを思い出した本だった。

    外国語で書くと母国語で書くのとはどうしても変わってしまうように感じるけど、最後の一篇でラヒリらしさが出てた気がして、根底は変わらないんだなと改めて。

  • 彼女とイタリア語は、出会うべくして出会った。運命だったんだろうな。狂おしいほどに熱狂し、葛藤し、日々こころを揺さぶられている。自分というアイデンティティの一部を担うまでの何かに出会えるって、すごい。奇跡だと思う。

  • 素晴らしかった。

    ラヒリ曰く、外国語を学ぶことは湖を泳ぐこと。考えてみたら言葉を生業とするひとが、別の湖畔を目指したくなるのは至極自然なことなのかもしれない。水で繋がっているのだから。

    そして、その探求の始まりは、二重のアイデンティティからの逃避だと言う。生まれたときから英語を話す一流作家が、見た目から英語を母国語だと思われない。深いテーマを内包した秀作エッセイ。

  • 母国語でも母語でも、仕事で使うためでもなく純粋にある言語に惹かれてやまない気持ちを短編小説や様々な比喩で描いている語学好きにはたまらない一冊です。使うあてもないものだけれど、なぜか惹かれて触れ続けてしまう。言語に限らずなぜか心惹かれるものがある人。学んでも学んでもゴールが見えないと思いつつ取り組むものがある人にオススメしたい一冊。

  • 『停電の夜に』で、衝撃的なデビューを果たした後も、『その名にちなんで』、『見知らぬ場所』と確実にヒットを飛ばし、つい最近は『低地』で、その成長ぶりを見せつけていたジュンパ・ラヒリ。その彼女がアメリカを捨て、ローマに居を構えていたことを、この本を読んではじめて知った。単に引っ越したというだけではない。英語で書くのもやめてしまい、今はイタリア語で書いているという。ずいぶんと思い切ったことをしたものだ。もちろんこの本もイタリア語で書かれている。もっとも読んでいるのは当然のことながら日本語に訳されたものであるわけなのだが。

    コルカタ生まれの作家の両親はアメリカに来てからも家ではベンガル語を話しつづけた。ロンドン生まれで幼い頃アメリカに渡ったラヒリは、小さいころは両親の使うベンガル語をつかっていたが、幼稚園ではまわりの子とまじって英語を話すことを強制された。ずいぶん居心地の悪い思いをしたことだろう。その当時の気持ちは、ここに所収の言語習得に関する自伝的エッセイにくわしい。しかし、成長するにつれ、英語で話したり書いたりすることがあたりまえになると、今度は両親と話すときにだけつかうベンガル語が疎遠になったと感じるようになる。そのへんの喩えを、メタファーの名手であるラヒリは、実母と継母の喩えを用いて説明している。無論、英語が継母である。

    しかし、この実母と継母は仲が悪かった。コルカタに帰れば、周りはベンガル語を話す人ばかりで、今や英語で書く作家になったラヒリにとって、そこは父母の祖国ではあっても自分の祖国という気にはなれない。では、アメリカが祖国かといえば、それもちがう。そのあたりのことを作家はこう書いている。

    「ある特定の場所に属していない者は、実はどこにも帰ることができない。亡命と帰還という概念は、当然その原点となる祖国を必要とする。祖国も真の母国語も持たないわたしは、世界を、そして机の上をさまよっている。最後に気づくのは、ほんとうの亡命とはまったく違うものだということだ。わたしは亡命という定義からも遠ざけられている。」

    そう感じる作家には、「べつの言葉」が必要だった。しかし、イタリア語との出会いはそんなふうに理詰めに進んだわけではない。その美しい出会いについては、本文中に、時系列に沿って、水泳や雷の一撃といった的確かつ美的なメタファーを使用しながら詳しく書かれている。すごい美人ではあるが、どうみてもオリエンタルな印象を与える彼女の外貌のせいで、買い物をした店でイタリア語の発音の流暢さを、スペイン語訛りのイタリア語を話す夫に負けてしまう悔しさなど、笑ってはいけないのだが、つい笑ってしまうようなエピソードもまじえながら。

    いくら好きでもラヒリがイタリア人でないのはその外見だけではない。歴史や土地との結びつきそのものがネイティブとは決定的にちがうのだ。パヴェーゼが『ホメロス』の訳について書いている書簡の内容に触れて、その深さ、広さに到底追いつくことのできない限界を感じながら、それでも言葉を覚えはじめたばかりの少女のように、目を輝かせて、新しい世界に飛び込んでゆくことの感動を語るジュンパ・ラヒリにまぶしいほどの感動を覚えずにはいられない。それと同時に、人間というものと言葉との結びつきの深さにも今一度再考させられた。

    「小さいころからわたしは、自分の不完全さを忘れるため、人生の背景に身を隠すために書いている。ある意味では、書くことは不完全さへの長期にわたるオマージュなのだ。一冊の本は一人の人間と同様、その創造中はずっと不完全で未完成なものだ。人は妊娠期間の末に生まれ、それから成長する。しかし、わたしは本が生きているのはそれを書いている間だけだと考える。そのあと、少なくともわたしにとっては、死んでしまう」

    このような深い省察が、二十年にわたる努力はあったにせよ、まったく自由に選び取られた言語で綴ることのできる才能に呆然とするばかりだ。ただ、その達成のために、自分を世界的に有名な作家にしてくれた英語を捨て、アメリカを捨て、ローマに移住してしまう行動力、意志力にも驚かされる。

    はじめは誰にも見せない日記からはじめたイタリア語は、やがて週刊誌に毎週寄稿するにまで至る。原稿はまずイタリア語の先生に見てもらい、その後知人である二人の作家に目を通してもらい最後に編集者の意見を聞くことになる。それを作家はローマ時代のポルティコを支える足場にたとえ、その足場にありがたさを覚えると同時に、今はまだ足場がなくては崩れてしまいそうな段階だが、いずれは足場を外しても建っているだけの文章にしたいと決意を語っている。

    イタリア語に惹かれるようになってからこれまでの経緯をつづる短いエッセイが二十一篇。いずれも、この人の手にかかると読み応えのある、しかも端正でみずみずしい筆致にあふれる読み物になっている。それに図書館で突然降ってきたかと思われるようにして書かれた短篇、というより掌編が二篇付されている。英語で書いていたころとはひと味もふた味もちがう新生ジュンパ・ラヒリがそこに息づいている。これからも、この人から目が離せない。そんな思いにさせる一冊である。

  • 初めてジュンパ・ラヒリの本を読んだ。とても素晴らしい小説。ラヒリは英語をベースとしながら、ベンガル語、イタリア語を扱う。イタリア語があることによってベンガル語と英語の関係もやや安定した。ただ彼女の中ではベンガル語は両親がいることによって成立している言語であって、両親が亡くなったら消えてしまう恐れもある。またイタリア語は今ローマに住んでいるから日々学び流暢さも増しているのだと思うけれど、別の国に行ったら消えてしまう言語かもしれない。
    あいにく私は日本語以外に確固たる言語を持たないのでそこまで強い感覚を持たないが、イタリア語での読書は英語より内省的な読書体験であるといったようなラヒリの感覚はわかる気もする。日本語では読み飛ばしてしまう箇所を外国語であるが故に引っかかりより深く理解しようとする体験は同じだと思う。
    しかし、イタリア語で書いているにも関わらず、その文体内省の深さはさすがで、英語の彼女の本も読みたいと思った。本書の最後に収録されている短編「薄暗がり」はとても美しく静物描写と心理描写の重なり具合が均整が取れていて非常に心地よい。詩人のような作家という印象を持った。
    外国語の読書へと誘う一冊。

  • 何と、勉強中のイタリア語で書いたエッセイ+小説とのこと。
    作者にとっては、言語と自己アイデンティティーは深く結びついていた。なので、自己アイデンティティーと全く関係のないイタリア語との出会い、そしてその勉強は、「不安」と「好奇心」が混然一体となって表れる体験だったということが、随所ににじみ出ている。

  • ベンガル語で育ち、4歳から英語で生活しはじめ、大人になってイタリア語を愛して学び小説を書きはじめた作者の本。

    言語が人ととても密接に結びついていること。母語が無い人は帰る国が無い、亡命すらできないということ。
    淡々と語られていく。

  • 言語の行き来が興味深い

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