すべての見えない光 (Shinchosha CREST BOOKS)
- 新潮社 (2016年8月26日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (526ページ)
- / ISBN・EAN: 9784105901295
作品紹介・あらすじ
ラジオから聞こえる懐かしい声が、若いドイツ兵と盲目の少女の心をつなぐ。ピュリツァー賞受賞作。孤児院で幼い日を過ごし、ナチスドイツの技術兵となった少年。パリの博物館に勤める父のもとで育った、目の見えない少女。戦時下のフランス、サン・マロでの、二人の短い邂逅。そして彼らの運命を動かす伝説のダイヤモンド――。時代に翻弄される人々の苦闘を、彼らを包む自然の荘厳さとともに、温かな筆致で繊細に描く感動巨篇。
感想・レビュー・書評
-
すばらしい小説だと、多くの書評から知ってはいたが、積読していた本書を読むきっかけになったのは、Netflixでのドラマ化であった。
一刻も早くドラマを見たい!
小説を読んでから映像を見るか、
映像を見てから小説を読むか?
私は前者が好きなのです!
なので、とうとう読みました。
で、予想を裏切らない傑作でした。アンソニー・ドーアはこんな懐の深い小説を書く人なのですね。「シェル・コレクター」も読まなければ!
1994年のある日と、そこに至るまでの数年前が交互に描かれる構成と、マリー・ロールとヴァルナーの視点が交互に描かれる構成が巧みで、まるでパズルが解かれていくような面白さ。
そして、2人の視点に、もう1人の視点が加わり、錯綜していく。その構成が延々と続くかにみえるのだが、ヴェルナーが不毛な営みだと絶望していたささやかな生の営みの美しさに気づいた時、ヴェルナーが関わった全ての人間の視点が一つになる瞬間が来る。
この瞬間に痺れた。
さて、Netflixを今から見ます!詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ナチスドイツの技術兵となった少年と、パリの博物館に勤める父のもとで育った目の見えない少女をラジオがつなぐ。戦時下のフランス、サン・マロで交差する二人、つかの間の邂逅。
マネック夫人の気骨。エティエンヌの愛情。ヴェルナーの迷いと決断に至るまで。ユッタに襲いかかる暴力。父親を待ち続けるマリー。
ずっと気になりつつ、なんとなく、読めずにいたのだが、、読んでよかったとおもう。
アメリカ人である作者がなぜという疑問があったのだが、訳者あとがきに、この物語を書くことになった経緯が書かれている。
フレデリックが、キセキレイを見て、ヴェルナーに話す場面が印象に残っている。
”たいした鳥に見えないだろ。せいぜい五十グラムちょっとの、羽毛と骨の塊だ。でも、あの鳥はアフリカまで飛んで戻ってくる。虫と、ミミズと、欲望に動かされて。”
“千年前。あの鳥は何百万羽もここを通っていった。この場所が庭だったとき、端から端まで果てしないひとつの庭園だったとき”
-
Twitterなどで流れてくる本書の感想に、ときどき「読み終わるのが惜しい」という言葉を見たが、たしかに読み終えるのが惜しい、けれど読み進められずにはいられない本だった。
「物語の力」という言葉はよく聞くけれど、これこそがその力なのだろう。
父親や周囲の大人たちに深く愛され、盲目ながら世の中というものを信頼しているフランス人の少女。両親に先立たたれ貧しい孤児院に身を寄せながら、同じく院の先生と妹からの愛をよりどころに、厳しい軍事訓練を耐えて前線に出るドイツの少年。
彼らにはどうしようもないところで誰かが始めた戦争が、じりじりとそれぞれの生活を侵食していく。
接点などないはずの二人が、いつどうやって出会うことになるのか、そこまでの道のりを、私たちは時に息をのみ、小さな喜びにほほえみ、そして涙しながら一緒にたどる。
ページをめくるだけの私の指先にも、盲目のマリー・ロールが感知するにおいを、感触を、空気の動きを察知させるその文章の見事さよ。
彼女を疎開先で受け入れるマダムが素敵だ。物資の少ない戦時下で手に入るもので美味しい何かをこしらえては、近所の弱った人たちに配り歩く。不安に震えるマリー・ロールの顔を温かな両手ではさみこむ。想像の中で、昔むかし私が下宿していたリスボンの大家さんが彼女の姿に重なる。
戦場ゆえのつらくむごい場面も容赦ない描写で私たちに見せるし、決して大団円のストーリーでもない。それでも温かなものが胸に深く残るのは、人の善意のうつくしさと尊さをゆるぎなく伝えているからに違いない。 -
「エティエンヌ、知っていますかね」マネック夫人は台所の反対側から言う。
「沸いているお湯にカエルを入れたらどうなるか」
「答えを教えてもらえるわけだな」
「カエルは飛びでてくるんですよ。だけど、冷たい水の鍋にカエルを入れて、ゆっくりと沸かしていったらどうなるか知っていますか?そのときどうなるか?」
マリー=ロールは待つ。ジャガイモから湯気が出る。
マネック夫人は言う。「カエルは煮えるんですよ」 -
先に読んだ短篇集『記憶に残っていること』で初めてアンソニー・ドーアという作家の存在を知った。記憶に誤りがなければ、自然に対する畏敬のようなものを感じさせる作品を書く作家との印象を持ったが、それから間もなく彼が書いた本書のレビューの評価が高いことを知り読み始めた。
盲目の少女が戦時下をどのようにして生き抜くのか、最初の数ページでは不安で重苦しいストーリー展開を想像したが、全くの杞憂。周囲の大人達の愛情溢れる暖かい支えに、五感を使って前向きで好奇心旺盛な少女へと成長していく過程は、少女の将来を思い描かさせてくれる。
対称的にドイツの少年兵は、戦争が大義名分のため人間を変えていく世界を生きる。選民思想の危うさや、人間が潜在的に持っているだろう自己保身のための弱い者いじめなど、人間の負の本質をついているゾットする表現もあり、後に少年兵の妹ユッタが当時のドイツの人々の感情を代表して描かれたところも興味深かった。
ただ私自身、第二次世界大戦下のフィクションである本作に、作者は何処まで事実に基づいて表現しているのか、という点を気にしながら読み続けてしまった。読み終えた直後、向井和美氏著『読書会という幸福』のあとがきだったか、『テヘランでロリータを読む』の一節を引用する形で「どんなことがあっても、フィクションを現実の複製と見なすようなまねをしてフィクションを貶めてはならない。私たちがフィクションの中に求めるのは現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である」そう、これこそが文学の力だ。… というくだりにハッとした。今後も肝に銘じ読書しなければと痛感した。
ともあれ、著者の詩情豊かで印象派の作品を想い起こさせるような文章や、ラジオを通して少女と少年兵が一瞬邂逅する演出のための巧みな構成、涙が出るほど美しい光の世界を感じさせる表現に、深く心揺さぶられた。第二次世界大戦下という悲惨な時代背景の物語だが、絶望的なものにしない。 本書はあらゆる人にお勧めしたい本です。
-
短編小説が積み重なったように綴られる、静かな物語である。
物語の主な舞台は第二次大戦下のフランスの港町、サン・マロ。
戦火で壊滅状態になった街にわずかに残った建物の屋根裏で、盲目の少女が息を潜めている。パリから逃れてきた彼女は、今、ひとりぼっちだった。階下に侵入者がやってくる音がする。見つかったら命はない。
一方、別の建物、<蜂のホテル>の地下室には、生き埋めになった若いドイツ軍兵士がいた。年若いが利発な彼は、機械を扱う能力を買われ、国家政治教育学校から軍に送られていた。孤児としては異例の「出世」だった。爆撃のために仲間と閉じ込められ、出口は見つからない。このまま飢え死にするのを待つしかないのか。
およそ異なる境遇の2人の間に、無線の音声が行き交う。その発信器は、奇しくも、遥か以前から、少女と兵士をつないでいたものだった。
物語をつなぐもう1つのものは、「炎の海」と呼ばれるダイヤモンドである。海のように鮮やかな青だが、中心がわずかに赤味を帯び、しずくに炎を宿したように見える。その宝石には不思議な伝説があった。宝石を手にする者は永遠に生きるが、それを持っている限り、持ち主の身近な人々の身には禍が訪れる。博物館に静かに眠る貴石は、戦禍を逃れることが出来るのか。
少女と兵士の過去・現在と物語は行きつ戻りつし、あるいはパリに、あるいはドイツの炭坑地に、あるいはまたサン・マロにと飛ぶ。ときには彼女の、ときには彼の小さなエピソードは、それ自体が短編小説のようでもあり、詩のようでもある。
優しい父、生真面目な妹、博物館の職員、孤児院の先生、先の大戦で心を病んだ大叔父、癌に体を蝕まれ宝石を追う将校、レジスタンス活動に身を捧げる市民、鳥を愛する心優しい少年、脂ぎった香料商、ラジオから流れる謎の「先生」の声。
少女と兵士に関わるさまざまな登場人物が物語を紡いでいく。
大半が現在形で書かれた物語は、戦争の破壊をさえ静謐に描き、深い郷愁を誘い、悲しみを湛える。
少女と兵士はサン・マロで出会うことができるのか。
すべてが過ぎ去り、記憶を持つ者もいずれ消える。
けれどどこかに、その気配は残る。
美しい、静かな強い物語である。 -
第二次世界大戦末期のお話。ドイツ少年兵のヴェルナーとフランスの少女マリーが戦争に翻弄され家族と離れても必死に生きていく話。物語終盤で、生き残った人達の邂逅も描かれています。
本も分厚かったけど、その厚さにふさわしい大河ドラマでした。戦争は何というか、戦争しようと思った人だけが人に迷惑をかけない場所と規模で勝手にやるべきで、その他の未来ある若者や一般市民を巻き込むべきでないと痛切に思いました。
読後感が切なすぎて、この本を手元に置いておくかどうか迷う。でも何年かしたらまた読みたくなるかもしれません。 -
ナチスによる侵略が始まり、パリを離れ、父親と共にサン・マロの叔父エティエンヌの家に逃げてきた盲目の少女マリー=ロール。
父親は、勤めていた博物館から、『炎の海』という伝説の石を隠し持たされていた。それが本物であるのか、ダミーであるのかも知らされていない。
ドイツ、ツォルフェアイン。妹と共に孤児院で育った少年ヴェルナーは、父親を炭鉱の事故で亡くしている。
この町にいる限り貧しい家の男の子はみな、大人になったら炭鉱ではたらくことになるだろう。
でも、ヴェルナーには才能があった。
フランスとドイツ、彼らを繋いだのはラジオ。
物語は、1944年の夏と
彼らがまだ子どもだった1934年、ヴェルナーが国歌政治教育学校に入り、マリー=ロールがパリを逃れた1940年、それらの年代を行き来しながら進んでいく。
悲しい描写を避けるとして、私が心打たれたのはサン・マロの叔父エティエンヌの存在。彼は先の戦争の後精神を病み、家から1歩も出られない。街の人からは狂人扱いされている。
でも、一番まともな神経を持ち合わせ、マリーを愛を持って迎え入れた人だった。マリーに音楽や本を与え、父親がパリへ発った後も彼女の保護者として守ってくれた。
そのエティエンヌの世話をする家政婦マネック夫人も素晴らしい人!
彼女と街の女たちの行動力には本当に励まされ、夢を見させてもらいました。「奴ら(ドイツ人ども)の世界を動かしているのは私らだよ」といって、女たちで何かしようと企む。そしてそれは本当に小さなことから危険なラジオの暗号放送まで、《老婦人レジスタンス団》により、実行に移されたのです。
その最初の1歩が、本当に洒落ていた。5フラン紙幣に〈今こそ自由フランスを〉と書く。それを使うことで、ささやかなメッセージが、ブルターニュ中に広がると。
不思議な石の力のせいなのか、運命は引き寄せられていきます。
暗い影も。ドイツ人上級曹長フォン・ルンペルは、『炎の海』を探している。
ヴェルナーの妹の正義、マリーを励ましたたジュール・ヴェルヌの本、『海底二万里』盲目の娘への父の愛。鍵。
どれも詩のようでした。
ヴェルナーの忘れられないことば、
「もう何年も生きていない。でも、今日は違う。今日はそうした(自分の人生を生きた)かもしれない」
作者のアンソニー・ドーアはアメリカ人。サン・マロを訪れたときに、この町がアメリカ軍の爆撃で破壊されたことを知り、この町を舞台に小説を書くことになったようです。
アメリカの目を通して描かれたことがこの物語を公平にしている、つまり、ドイツ人もフランス人もユダヤ人も同じ心を持った人間だということを描いているけれど…
ロシア人の描き方だけは否定的だったように私には写りました。皮肉なことです。
今この小説をよむのはかなりつらかったですが、私もヴェルヌを読みたくなりましたし、
サン・マロのおばちゃんたちみたいに、私にも何かできることないかしらと、考えました。
日本版の装幀が素敵ですが、戦争写真家のロバート・キャパの写真だというのは、もちろん偶然ではないですよね…。
-
ストーリーとしてはありふれた域を出ていない気がするし、果たして宝石は必要だったのかと思わないでもない。
ではあるが、科学に深い興味を抱くドイツの孤児の少年ヴェルナーとフランスの盲目の少女マリー=ロールが、戦争の苛酷な潮流に翻弄される境遇を断片を積み重ねるかのような手法で追い、やがてドイツ占領下のフランス、サン・マロの町でのほんの束の間の交感に収斂させる展開には脱帽。
対象と距離を置いた叙述は気安い共感や同情を抑制させるが、それでもヴェルナーとユッタの兄妹には視界が滲んだし、静かに胸に打ち寄せてくる。
細部への行き届いた描写、鳥や貝、小さな生き物達への眼差し、草花、風や光、海辺の町やドイツの寒々しい鉱山町、その空気感が素晴らしい。
何というか、映像的、映画的な小説に感じられた。 -
ドイツ人の少年兵ヴェルナーと、目の見えないフランス人少女・マリー=ロール。第二次世界大戦の只中、日常が激流に流されていく荒れ狂った日々の果てに、ふたりはたった一瞬だけ、かけがえのない邂逅を果たす。
そのほんのわずかな出逢いと別れまでは、戦争がもたらした無慈悲な日々が淡々と連綿とつづられていく。少年兵の訓練学校では苛烈な苛めが、ドイツの占領下のパリの街では迫りくる戦火と隣人の密告におびえる日々が。戦況の変化によりそれぞれの環境もみるみる変化していき、戦争がもたらす悲惨を兵隊や市政の人々の細やかな様子により抉り出していく。
その辛さとともに、温かな人々のやり取りも描かれる。戦争を起こして悲痛を呼び起こすのが人ならば、その状況に苦しむ人を救うのもまた人でしかない。少女の眼の代わりとなり尽くしつづけた父親、彼女を匿う気丈な夫人、ひきこもってしまったやさしい叔父。少年兵には、心のよすがとなりつづけた妹、共に戦の道程を歩むことになる巨体の戦友、訓練校で体と心を壊された鳥を愛する少年。彼らのたどる運命には悲痛も伴うけれども、存在は確かに温かく、言葉は台詞となって読み手の心に残り、物語の重さを和らげてくれた。
物語の構成そのものは、まるで父親の作る家の模型のように緻密で計算されつくしていて、ミステリ的な要素を備えている。謎めいた伝説を持つ宝石の存在、時代を前後させて綴られることでなかなかわからない「現在の彼ら」の置かれている状況に、物語の先を、真実を早く知りたいという思いを嫌にでも加速させてくれる。
詩的な比喩がちりばめられた文章は、センテンスそのものが短いので意外と読みやすいし、書き留めたいほどの美しい表現も多い。とはいってもこの長大なボリュームは気軽に読み切れるとはいえず、なにより戦争の話だから親しみやすいとも言えない。
それでもなお、戦争がやまない現代において、戦争の愚かしさと悲惨さを静かに確実に語ったこの物語は、広く読まれて欲しいと思う。誰しもこの話を読めば、「この少年と少女は時代を違えて生きていれば、戦争が無い世の中に出会えていたら」と願わずにいられないからだ。その願いこそが、戦争を押しとどめる、ほんの小さな、けれど大切なひとかけらになると、思いたいからだ。 -
「ヴェルナー、きみの問題はさ」とフレデリックは言う。「きみがまだ自分の人生を信じていることなんだ」
自分のままではいられない、誰もが怯えて「何か」にならなければならなかった時代のある場所で起こる、とんでもなく回り道をした先の、一瞬の邂逅と、その後の話。戦後のドイツ人が、欧州でどんな風に息を潜めて暮らさなければならなかったのか、この本を読んで初めてそのことに思い至った。誰もが無傷では済まないが、それでも時代は続くのだなと感じる。感動作、とはとても言えないが、読み返す度に味わえる箇所は増えていくようにも思える。
-
第二次世界大戦に巻き込まれた一人の少年と一人の少女の人生が不思議な繋がりで交わるストーリー。
本編520ページ程の大作である。読むにはそれなりの体力を要するが、残り150ページに差し掛かると物語の疾走感は一気に加速し、登場人物達の線が次々と重なり合うその展開は爽快とも言える。
大変細かな情景描写で、やや長ったらしく感じることもあったが、邦画で風景の長回しを観ている感覚に近く、個人的に嫌いではなかった。
1944年から本はスタートするが、すぐに1934年に物語は遡る。視点が少年、少女、ときおりその他の人物に切り替わりながら、時間も行ったり来たりする。しかし、全体としては緩やかに本のスタート地点である1944年に近づいていく。
翻訳本ということもあるのだろうか、決して読みやすいと言える文体ではなく、ストーリー展開も派手でスピーディーということはない。
しかし、不思議なほど登場人物一人ひとりに共感できる。描写が細かいおかげだろうか。
これだけのページ数の中で、主人公の少女、マリー=ローズと、ヴェルナーが交わるのはほんの一瞬だが、そのシーンは大変美しい。
一言では語り尽くせない深みのある一冊であった。 -
美しいストーリー、細かい積み上げで、それぞれの登場人物を愛してしまう。
こういう小説に出会うのが、本を読む醍醐味かと。 -
見えなくとも私たちが見ようとすれば、光は遍在しているのだ…。
すべての登場人物に注がれるその光はあまりに優しく、そしてはかなくもろい。が、確かにそこにある。 -
何から書けばいいだろうか、再現不能な色んな感情が押し寄せてきて、とにかく慎重に言葉を選びたい。
一様では言い表せない種類の、深度の、色彩のものがたり。
味でいったら五味の全てと、その名前のついたカテゴリーに至る隣同士のグレーゾーンの全て、といった感じの、全五感に働きかけてくる言葉の数々。情景。
ドイツ人少年とフランス人の少女と、関わる全ての人が物語の中できちんと生きていて、短い段落の集積があのような壮大なうねりとなり、時間も場所も超えて集約を遂げる。これは真に文章だから成せるワザなのでは、こういうのを小説と呼びたい、とまったくの素人ながら唸ってしまう本だった。
容易に映像化してもらいたくない物語。
単行本は厚みがあって、ポッケには俄然入らないが、ぜひ読んでもらいたいオススメの本。
(翻訳ものが苦手なのだが、詩情ある文章が、それ特有のまどろっこしさを緩和して、読みやすく、どんどんページ捲らせる。この本、訳者が素晴らしいな、と思ってプロフィールを見たら、ほぼ同世代で!
思わず仰け反った!
あ=、なんて仕事をしている同世代がいるんだろう!)