両方になる (新潮クレスト・ブックス)

  • 新潮社
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本棚登録 : 445
レビュー : 22
  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901523

感想・レビュー・書評

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  • 言葉遊びと独特な世界観に早いうちから「わからん…」と挫折しそうになったけど、面白い、と言われている理由がどうしても気になって知りたくて読了。いや、面白かった…。
    「仕掛け」に関しては、どっちから読んだところでこの話への印象がそんなに変わると思わないので、一度忘れたい!とはならない。難解な語り口にくじけそうになっても、多少読み飛ばしてもいいのでとりあえず進めていってほしい。大まかに流れを把握できたらちょっと戻って、とやっていけば、紐解いていくように「小説」としての形で楽しめると思う…。個人的には、「目」のストーリー(画家の過去の生涯の話が)とても好き。

  • 読み終わって気になることがあり、書棚の展覧会の図録や画集の並んでいるスペースの前に立った。ルネサンスに関する本を片端から手にとってみるのだが、記憶に残っている一枚になかなかたどり着けない。最後に手にとったのが中山公男監修の『初期ルネサンスの魅力』だった。そしてやっと見つけた。フランチェスコ・デル・コッサ画「男性の肖像」。黒い帽子をかぶった男がじっとこちらを見ている。

    その意志的な眼もだが、特徴的なのは窓枠と思われる縁をこえてこちらの方に突き出された指輪をつまんだ左手だ。二次元の絵画からそこだけ三次元になったように突き出して見える。なるほど、これがバルトか。そういわれてみると、そのような気がしてくるから不思議だ。もちろんフィクションなのだから、そんなことはあり得ないのだが、本作の主人公の一人がフランチェスコ・デル・コッサその人なのだ。

    この本には「第一部」が二つある。まちがいではない。聞くところによれば、流布されている本の中には、二つの「第一部」の順番が入れ替わっているものがあるとか。手許の本の場合、フランチェスコ・デル・コッサを主人公とするクワトロチェントの画家の物語は後半に置かれている。どちらが先でも構わないということらしい。なかなか面白い趣向ではないか。

    それでは前半に置かれた「第一部」はというと、舞台は現代のイギリス、オックスフォード。主人公は十六歳の少女ジョージ。女なのにジョージはおかしいだろう、と思うのは当然だ。実は、60年代にヒットしたザ・シーカーズの『ジョージー・ガール』にちなんで、母がつけた名前なのだ。懐かしい!元々は同名のイギリス映画のタイトル曲で、実は主人公のジョージィは、男っぽくてあまりさえない女の子に描かれている。自分の大事な娘にそんな名前をつける母親ってちょっと変わってる。

    男の名を持つ女の子、というのが『両方になる(How to Be Both)』という本のテーマに関わってくる。もう一つ、実在するフランチェスコ・デル・コッサという画家が、この本の中では女性とされている。当時女性の画家はいなかった。その腕を惜しんだ父親の機転で、男性として絵を描く仕事に就いたのだ。先に触れたバルトは子どものころからの親友で、女であることがばれて一時疎遠になるも、後にまた友人となる。肖像画は結婚して父の跡を継いだバルトを描いたものということになっている。

    二つの物語は、フランチェスコ・デル・コッサの描いた絵を間にはさんで、表と裏、前と後ろの関係になっている。邦訳はジョージの物語から始まるので、かいつまんで紹介する。ジョージは母親の喪に服している。美術史を学び多方面で活躍していた母が突然病死し、父は酒浸りとなり、ジョージは笑わなくなった。生前、母がジョージと弟をつれ、訪れたのがフェラーラの宮殿に残されたフランチェスコ・デル・コッサの描いたフレスコ画だった。

    当時の母は、友人リサとの間がこじれてすさんでいたが、その絵の前では生き生きして見えた。母は政治的な活動にも参加しており、一度現役政治家を揶揄したことで当局に目をつけられていた。郵便物も開封されていたらしい。リサは互いに惹かれあう関係となった同性の友人だったが、その正体が知れないところがあり、関係を断っていたのだ。ありていに言えば当局のスパイではないかと疑ったわけだ。その後母は急死している。

    いじめにあったのがきっかけでジョージに心の許せるやはり、同性の友だちができる。二人は協力してフランチェスコ・デル・コッサについて調べたことを発表しようと決める。つまり、もう一つの「第一部」は、二人が創作したクワトロチェントの画家の生涯についての物語、というふうにも読めるわけだ。もちろん、そう読まねばならない理由はない。というのも、フランチェスコ・デル・コッサの方も、ジョージを見ているからだ。当然生きてはいない。突然現代のイギリスに空から舞い降りた形になっている。実体はない。姿は見えないし声も聞こえない。まあ、幽霊のようなものと考えてもらえばいい。

    フランチェスコが降り立ったのが美術館。目の前には自分の描いた絵を見る少年がいた。15世紀の画家の目にはジョージは少年に見えたのだ。ジョージは美術館でフランチェスコ・デル・コッサ描くヴィンチェンツォ・フェレーリを見ている問題の母の友人リサを見つけ、後をつける。引きずられるようにフランチェスコもその後を追う。後半の物語は、画家が語る自分の生涯と現代でジョージが行うリサの監視を話者として物語る構成になっている。

    タイトルの意味は、男と女、友人と恋人、母と娘、その他数多ある組み合わせの「両方になる」ことを意味しているようだ。前半に埋め込まれたいくつもの伏線が、後半の物語の中で回収されていくわけだが、その逆もある。DNAの二重らせん構造のように二つで一つの物語になっている。後半の物語にはフランチェスコ・デル・コッサと同時代の画家、コズメ・トゥーラや、弟子のエルコレなど、クワトロチェントの画家が、多数登場するのも美術好きにはたまらない。画集などを引っ張り出してきて、いちいちあたってみるのも愉しい。

  • 読み終わったときに(そしてある"仕掛け"を知ったときに)まさに「両方になる」ことを体感できた。そもそも一つの出来事に対して抱く感情はひとつだけとは限らない。というか、ほとんどあらゆる全てのことに対して、相反する気持ちを同時に抱くのが人間なんだろうな、と感じた。嬉しいんだけど悲しい、とか。満たされているけど不安、とか。傷つくと同時に深い安堵感、とか。どれかひとつだけを”正解”として選ぶ必要はない(それでもついジャッジしてしまいがちなんだけど)、なんだかよくわからないけど全てが正解なんだ、と思えるような懐の深い小説。ネタバレしたくなくてこんなぼんやりした感想に。

  • 友情と家族愛に満ちた不思議でどこか切ない物語。現在と過去、男性と女性、正義と不正、父と母…。この本は対立概念の両方になる物語だと思う。
    両方になることは両方を手にすることではなく、むしろそれぞれの概念からの解放なのかもしれない。

    私はこのように受け取ったけれど、読む人の数だけ解釈があるんだろう。しかも、全く異なる解釈が。それがこの本の素敵なところ。

  • 多分作者は自己顕示欲が少ない人なんじゃないかなあ。わかってもらえない人にわかってもらう努力をするより、その世界観の存在を守ることをしたい人だと思う。この本が訳され世の中に出た頃も、やれ仕掛けが、読んだ人にしか味わえない、とかの煽りにうんざりしたけども。個々がそれぞれ自分で味わえばそれでいいと思う。映像作品と違い、読書に共感は必要ないと思っている。独りで歩き、独りで対峙する。そのことの一つが読書だと思う。

  • 難しいなぁ。

  • む、難しかった…
    再読したら良さが分かるのかもしれないけど、読み返す気力がない。
    読後即考察を読んで、小説に張り巡らせられている「仕掛け」は理解した。が、2つの第一部それぞれが意味不明で読むのがつらい。
    あーーーー文学的素養のなさがつらい!!!

  • 「両方になる」https://shinchosha.co.jp/book/590152/ 読んだ。超絶よかった!題名ままの内容でテーマが深い。性別も時間も生死も虚実も創作の過程も、そしてこの本そのものも、どちらか一方で完結することはない。カメラと眼もそゆことなんだな。なお自分がどっちを読むことになるかは開いてみてのお楽しみ(おわり

  • 「両方になる」https://shinchosha.co.jp/book/590152/ 読んだ。超絶よかった!題名ままの内容でテーマが深い。性別も時間も生死も虚実も創作の過程も、そしてこの本そのものも、どちらか一方で完結することはない。カメラと眼もそゆことなんだな。なお自分がどっちを読むことになるかは開いてみてのお楽しみ(おわり

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