両方になる (新潮クレスト・ブックス)

制作 : Ali Smith  木原 善彦 
  • 新潮社
3.30
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本棚登録 : 346
レビュー : 10
  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901523

感想・レビュー・書評

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  • 読み終わって気になることがあり、書棚の展覧会の図録や画集の並んでいるスペースの前に立った。ルネサンスに関する本を片端から手にとってみるのだが、記憶に残っている一枚になかなかたどり着けない。最後に手にとったのが中山公男監修の『初期ルネサンスの魅力』だった。そしてやっと見つけた。フランチェスコ・デル・コッサ画「男性の肖像」。黒い帽子をかぶった男がじっとこちらを見ている。

    その意志的な眼もだが、特徴的なのは窓枠と思われる縁をこえてこちらの方に突き出された指輪をつまんだ左手だ。二次元の絵画からそこだけ三次元になったように突き出して見える。なるほど、これがバルトか。そういわれてみると、そのような気がしてくるから不思議だ。もちろんフィクションなのだから、そんなことはあり得ないのだが、本作の主人公の一人がフランチェスコ・デル・コッサその人なのだ。

    この本には「第一部」が二つある。まちがいではない。聞くところによれば、流布されている本の中には、二つの「第一部」の順番が入れ替わっているものがあるとか。手許の本の場合、フランチェスコ・デル・コッサを主人公とするクワトロチェントの画家の物語は後半に置かれている。どちらが先でも構わないということらしい。なかなか面白い趣向ではないか。

    それでは前半に置かれた「第一部」はというと、舞台は現代のイギリス、オックスフォード。主人公は十六歳の少女ジョージ。女なのにジョージはおかしいだろう、と思うのは当然だ。実は、60年代にヒットしたザ・シーカーズの『ジョージー・ガール』にちなんで、母がつけた名前なのだ。懐かしい!元々は同名のイギリス映画のタイトル曲で、実は主人公のジョージィは、男っぽくてあまりさえない女の子に描かれている。自分の大事な娘にそんな名前をつける母親ってちょっと変わってる。

    男の名を持つ女の子、というのが『両方になる(How to Be Both)』という本のテーマに関わってくる。もう一つ、実在するフランチェスコ・デル・コッサという画家が、この本の中では女性とされている。当時女性の画家はいなかった。その腕を惜しんだ父親の機転で、男性として絵を描く仕事に就いたのだ。先に触れたバルトは子どものころからの親友で、女であることがばれて一時疎遠になるも、後にまた友人となる。肖像画は結婚して父の跡を継いだバルトを描いたものということになっている。

    二つの物語は、フランチェスコ・デル・コッサの描いた絵を間にはさんで、表と裏、前と後ろの関係になっている。邦訳はジョージの物語から始まるので、かいつまんで紹介する。ジョージは母親の喪に服している。美術史を学び多方面で活躍していた母が突然病死し、父は酒浸りとなり、ジョージは笑わなくなった。生前、母がジョージと弟をつれ、訪れたのがフェラーラの宮殿に残されたフランチェスコ・デル・コッサの描いたフレスコ画だった。

    当時の母は、友人リサとの間がこじれてすさんでいたが、その絵の前では生き生きして見えた。母は政治的な活動にも参加しており、一度現役政治家を揶揄したことで当局に目をつけられていた。郵便物も開封されていたらしい。リサは互いに惹かれあう関係となった同性の友人だったが、その正体が知れないところがあり、関係を断っていたのだ。ありていに言えば当局のスパイではないかと疑ったわけだ。その後母は急死している。

    いじめにあったのがきっかけでジョージに心の許せるやはり、同性の友だちができる。二人は協力してフランチェスコ・デル・コッサについて調べたことを発表しようと決める。つまり、もう一つの「第一部」は、二人が創作したクワトロチェントの画家の生涯についての物語、というふうにも読めるわけだ。もちろん、そう読まねばならない理由はない。というのも、フランチェスコ・デル・コッサの方も、ジョージを見ているからだ。当然生きてはいない。突然現代のイギリスに空から舞い降りた形になっている。実体はない。姿は見えないし声も聞こえない。まあ、幽霊のようなものと考えてもらえばいい。

    フランチェスコが降り立ったのが美術館。目の前には自分の描いた絵を見る少年がいた。15世紀の画家の目にはジョージは少年に見えたのだ。ジョージは美術館でフランチェスコ・デル・コッサ描くヴィンチェンツォ・フェレーリを見ている問題の母の友人リサを見つけ、後をつける。引きずられるようにフランチェスコもその後を追う。後半の物語は、画家が語る自分の生涯と現代でジョージが行うリサの監視を話者として物語る構成になっている。

    タイトルの意味は、男と女、友人と恋人、母と娘、その他数多ある組み合わせの「両方になる」ことを意味しているようだ。前半に埋め込まれたいくつもの伏線が、後半の物語の中で回収されていくわけだが、その逆もある。DNAの二重らせん構造のように二つで一つの物語になっている。後半の物語にはフランチェスコ・デル・コッサと同時代の画家、コズメ・トゥーラや、弟子のエルコレなど、クワトロチェントの画家が、多数登場するのも美術好きにはたまらない。画集などを引っ張り出してきて、いちいちあたってみるのも愉しい。

  • 読み終わったときに(そしてある"仕掛け"を知ったときに)まさに「両方になる」ことを体感できた。そもそも一つの出来事に対して抱く感情はひとつだけとは限らない。というか、ほとんどあらゆる全てのことに対して、相反する気持ちを同時に抱くのが人間なんだろうな、と感じた。嬉しいんだけど悲しい、とか。満たされているけど不安、とか。傷つくと同時に深い安堵感、とか。どれかひとつだけを”正解”として選ぶ必要はない(それでもついジャッジしてしまいがちなんだけど)、なんだかよくわからないけど全てが正解なんだ、と思えるような懐の深い小説。ネタバレしたくなくてこんなぼんやりした感想に。

  • ルネサンス時代の画家と現代の女の子、2つのパートからなる物語でした。2つのパートが、複雑に入り組んでいるのが楽しい作品でした。
    とはいえ、この本は読み手の好き嫌いがはっきりと分かれそうな作品です。そういう意味でも、"両方になる"という本のタイトルは深いなあと思いました。

  • 変わった造りの本である、ことが先行してしまった。
    じゃあもう1パターンはどうなるんだろう、が頭にあるの。

    =============
    "目の章"から

    あとがきを読むまで、"目の章"を登場人物による創作とは捉えられなかった。
    そう言われても、違和感なく、ことば遊びの端々をなるほどと納得できる。

    「サイヴァード(ゲリラ広告)」すること、を意識してもう一度読み直したい。

    または時間をあけて、逆パターンを。

  • 翻訳家泣かせなのか翻訳家冥利につきるのか微妙だが、非常にご苦労された後がうかがえる。文節文節、読んでて楽しいのだが、全体像、つまり二つの物語の連結ポイント。を捉えるのはけっこう難しかった。その壮大な試みは訳者あとがきを読んで判った次第でそこまで含めて、読んで良かったと思えました。実験的な小説。

    • トミヲ(oıɯo⊥ ıʞɐzɐʎıW)さん
      文学的表現に溢れておりセンテンスは読んでて楽しいが、全体を捉えると技巧がありすぎて理解しにくさが多少あった。
      訳者あとがきを読んで色々と納...
      文学的表現に溢れておりセンテンスは読んでて楽しいが、全体を捉えると技巧がありすぎて理解しにくさが多少あった。
      訳者あとがきを読んで色々と納得。読んでよかったと思った。
      2019/01/10
  • 画家をやっているといろいろなものの感触が分かるようになる だって、想像上のものであれ、昔のものであれ、動物であれ、人であれ、あらゆるものには本質が備わっているからだ 薔薇や硬貨、家鴨や煉瓦を絵に描くときには、まるで硬貨に確かに口があって自分の気持ちを語ってくれているかのように感じるし、薔薇は画家に直接、花びらの正体を打ち明け、まぶたよりも薄くて敏感なその皮膜に潜むしっとりとした柔らかさについてささやき、家鴨は水に触れながら根元の乾いている羽毛について語り、煉瓦はごつごつした肌触りの口づけについて教えてくれる。


    世界は思っているよりずっと広い だって全然違う方向へ向かうように見えていた2本の道が、どちらもずっと真っ直ぐに続いていたはずなのにいつの間にかまた1つに交わっていることがあるからだ … 死を除けば何も終わりではないし、変えられないものは何もない 死そのものでさえ、語り方によっては、多少の融通が利く p.80


    ただし例外がある すなわち、見知らぬ者同士として公正な取引をした瞬間のきらめき、あるいは、友人同士として認め合い、同意するときだ。
    それを除けば、私たちが生きているのは昆虫と同じ匿名の世界で、私たちは色の粉にすぎない 刃のような葉、鬱蒼とした夏の葉に落ちたかすかな光に向かって短い間、翼を羽ばたかせるだけの存在だ。
    私が人生の中で10分間だけ知り合った相手に見られ、入られ、理解された話を聞いて欲しい。私が道を歩いていると、畑一面に異教徒の労働者が働いているのが目に入る 皆、白い服を着ているので、肌の黒さがさらに際立つ 彼らは畑を耕し、作物を植えている 私は何事もなく、その脇を通り過ぎる。

    私が少し先へ進むと、男が後ろから声を掛ける 私の知らない言葉だ。
    それは切迫していると同時に優しい言葉だ そこにある何かが私を引き留め、後ろを振り向かせる。

    その言葉の意味は?と私は言う。
    ”同時に2つ以上のものである人”という意味だ、と男は言う。”期待を越える人”に対する呼び掛けだよ。
    …道端の木立の中で、私は男に口づけをする そして詩神の1人、エウテルペが木の笛を吹くように男の性器を楽器に変える
    p83-84


    さて、と彼は言った。こっちのカップに入っているのが”忘却の水”だ。こっちに入っているのは”想起の水”。先にこっちを飲むんだ。そして時間をおいて、こっちを飲め。
    p120


    Hが十一時に帰っていったとき、ジョージは文字通りそれを体感する。家はどんよりとする。まるで家の中のすべての明かりが、十分に温まる前の電球のように微妙に暗い状態で止まってしまったかのように。家は家のように目が見えなくなり、家のように耳が聞こえなくなり、家のように乾き、家のように硬くなる。ジョージは寝る前にすべきことをすべて済ませる。体を洗い、葉を磨き、昼間に着た服を脱ぎ、夜に着るべき服を着る。
    p75

  • 〈監視カメラ〉パートと〈目〉パートの二つのバージョンがあり買ってみるまでわからない。私は目のルネサンス期のイタリア人男性画家パートから読み始めた。
    ところどころで女性と男性、過去と現在、白人と有色人種、領主と人、快楽と美などいくつもの二項対立を無化する方向へ。
    カメラパートは、現代イギリス、母を亡くしたばかりの神経症的な女の子の物語。絵画を眺めるように二つの時間を誰かが見ている。
    現実と虚構がわからなくなる。2つの物語はあらゆる仕掛けがあるようなのでどんな仕掛けがあるのかは、本そのものには書かないでという作者の希望があるようなので『実験する小説たち』でこれから確かめてみたいと思う。

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