わたしのいるところ (新潮クレスト・ブックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (166ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901592

作品紹介・あらすじ

「孤独はわたしそのもの。孤独に動かされてわたしは書いてきた」――ジュンパ・ラヒリ。歩道で、仕事場で、本屋で、バルコニーで、ベッドで、海で、文房具店で、彼の家で、駅で……。ローマと思しき町に暮らす45歳の独身女性、身になじんだ彼女の居場所とそれぞれの場所にちりばめられた彼女の孤独、その旅立ちの物語。大好評のエッセイ『べつの言葉で』につづく、イタリア語による初の長篇小説。

感想・レビュー・書評

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  • 「わたしたちが通りすぎるだけでない場所などあるだろうか? まごついて、迷って、戸惑って、混乱して、孤立して、うろたえて、途方にくれて、自分を見失って、無一文で、呆然として(傍点四七字)。これらのよく似た表現のなかに、わたしは自分の居場所を見つける。さあ、これがおまえの住まいだ。この言葉がわたしを世界に送り出す」

    原題は<Dove mi trovo>。直訳すれば「私はどこにいますか」。四十六篇の掌編小説で構成された連作短篇小説のように思えるが、これはジュンパ・ラヒリがイタリア語で書いた最初の長篇小説である。四十六もある各章のタイトルが「歩道で」「道で」「仕事場で」というふうに、表題に対する応答になっている。

    「わたし」は四十代後半の女性。ローマと思しきイタリアの街に独りで暮らす。仕事は大学教師。父とは早くに死に別れ、母は地方の町でやはり一人暮らしをしている。神経質であることは自認している。出不精で観劇という唯一の趣味の他には金を使いたがらなかった父、とそれに不満を感じながらも我慢をし、その分娘に対して厳しくあたった母の影響で、「わたし」という人物が作られた。「わたし」は他者に対して、そう易々と胸襟を開けない。

    しかし、心の中では周囲の人々や自分の暮らす街について思うところはある。というか厳しい批評眼を駆使し、気のついたことを日々手近にあるノートや紙にメモを残している。この本は、バールやトラットリアその他「わたし」が立ち寄る先で目にする人々の印象のスケッチであり、親しい友人のポートレートだ。気に入った若い人々や、気分のいい日の記録には心あたたまる言葉が並ぶが、好きになれない人々や気分がすぐれない日にはネガティブな感情や言葉があふれている。

    『停電の夜に』をはじめ、英語で書かれた小説にはベンガル系移民という出自がついて回る感があったが、それら自分ではどうにもできないものから自由になるために、彼女はイタリア語で書くことを自ら選び取った。母語のことを<mother tongue>と呼ぶが、ラヒリにとっての英語は「継母」<stepmother>だったからだ。継母から自由になることで、小説の内容も変化することになった。舞台となる土地にも登場人物にも名前が与えられない。すべては抽象化し、より本質的なものにじかに触れるようになる。

    そのエッセイ風なタッチは、堀江敏幸の小説を思わせると同時に、人との距離感や都市に対する愛着には『不安の書』において、フェルナンド・ぺソアが見せるリスボンという都市に寄せる愛着に似たものがある。血縁や顔見知りと始終顔を突き合わせていなければならない田舎とちがって、都市では気ままな独り暮らしが許される。人と顔をあわせたくなければ、自分の部屋に閉じこもることが許される。家族のいない独り者ならなおさらだ。

    その一方で、一人暮らしの日々において、人がいつも相手をしなければならないのは孤独である。「わたし」は、親しい女友だちがつまらない夫や無神経な子どもに時間をとられていることを疎ましく感じている。それでいながら、自分の親しい友人と結婚した男と会った日には、もしかしたら、二人で暮らせたかもしれないなどと想像し、際どいところで距離を保ちながら、その出会いを楽しみにしてもいる。

    「わたし」は生まれ育った土地に住んでいながら、ほとんど人と一緒に食事することがない。昼食はトラットリアで済ませ、夕食はツナ缶か何かをフォークで突っつくだけだ。たまに人に招かれると居合わせた客と言い合いになり、周囲の人々の顰蹙を買う。人と人とがいっしょに何かをしようとすれば、自分には無価値であっても、誰かにとっては大事な、無難でつまらないものが間に入ることも必要悪だが、「わたし」はそれに我慢できない。

    孤独な「わたし」もかつては男と暮らしていたことがある。近くに住んでいて、たまに会うこともあるが、その切り捨て方は冷徹で、過去に愛したほとぼりのようなものを一切欠いている。とりとめもないような日常性に包まれているようなタイトルがつけられた章が並ぶ中に「精神分析医のところで」という章が現れる。ひやりとさせられる瞬間だ。特に何か病んでいるわけではないようだが、夢について話す場面は真に迫っていてかなり怖い。

    子どもの頃の思い出に、適当な間隔を置いて木の切り株を並べた遊具を飛ぶ話が出てくる。小さかった「わたし」は、今いる切り株から次の切り株へと飛び出す勇気を持てないでいる。これがトラウマなのだろうか。今いる街を出て、新しい暮らしを試みるときが来ているのに、暮らし慣れた街や一人暮らしの気楽さを捨てる勇気が出ない。しかし、自分が煮詰まっていることは自分が一番よく知っている。お気に入りの文房具店も店を閉じ、スーツケース屋に変わってしまった。これは啓示なのか? 

    それまで、およそ小説らしくない日常性の中に埋没しているように見えた「わたし」の前に自分そっくりの女性が現れる。ドッペルゲンガーだろうか? 「わたし」は、街角を颯爽と歩いて行くその女性の後をつけるが見失う。「そっくりさんの後ろ姿を見てわかることがある。わたしはわたしであってわたしではなく、ここを去ってずっとここに残る。突然の震動が木の枝を揺らし、葉っぱを震わすように、このフレーズがわたしの憂鬱を少しのあいだかき乱す」

    ドッペルゲンガーを見た者は死ぬ、という説がある。たぶんこの街にいた「わたし」は、ここを去ることでなくなってしまう。しかし、生まれ育った土地を離れても、わたしはわたしだ。ここにいた「わたし」は、橋の上ですれちがう男友だちやパニーニ職人の記憶の中に留まって、この街に住み続けるのだろう。切り株と切り株の間の距離は思っていたより近かったのかもしれない。

  • 『わたしのいるところ』読了。
    ジュンパ・ラヒリの本は初めて読む。ツイッターのフォロワーさんのツイートで知り、いつか読もう〜〜…(そして忘れる)ぐらいに思っていたら、偶然にも図書館のおすすめ本コーナーにあったので即行で借りて読んだ。
    洋書はなにかと敬遠しがちなんだけど、すごく読みやすかったです。
    舞台はローマと思しき場所で40代の独身女性がいろんな場所や季節の中で淡々と語るような内容。
    孤独であることを肯定してくれるような感じで、寂しさや虚しさが常に付き纏う日常をどう折り合いをつけているかが文章から伝わるんだけど、独特で面白かった。なんとなく自分も無意識でやっていそう…笑
    家庭環境も非常に似ていて、いつか私もこんなふうになるんだろうな…と読みながら思った。
    それでも、後半から何かが起こったのか急に衝動的に外に出ようとする「わたし」。ふとしたきっかけが「わたし」を変えることがあるんだな…そう思うと、多分大丈夫なような気がする…うん。

    2021.11.18(1回目)

  • わりと自分と属性が近い主人公が基本的にあまり楽しくなさそうなので、なんでこんなに憂鬱そうなのだろうと考えながら読んでしまった。自分は憂鬱な時期が長かったので、憂鬱=抜け出すべき状態ととらえて必死に抜け出そうとしてしまう。

    でも主人公は語っていないときにはふつうにしているのかもしれない、だってこんなに辛気臭い書きっぷりなのに、晩御飯に読んでくれたり一時帰国中にわざわざ会おうとしてくれる友達がいて、なんとなくいい雰囲気の既婚の男友達がいて、(これがびっくりしたのだが)恋人だっているのだ(でも語り手さん恋人より男友達のほうが好きじゃない?)。真に受けてどうしましょうと思ったりする必要はないのだ。というか彼女は自分の憂鬱をどうにかしようと思っていないんだから、放っておいてあげよう。

    ということでおそらくわたしはこの本の良い読者ではなかったのだけれど、イタリアの古い都会は一人でマイペースに住むには楽しそうな場所だった。そしてほんとうはいない同世代の神経質な女のひとの独白を興味深く聞いた。彼女のようなひとにとってはわたしは雑過ぎて、眉を顰められて終わるのだとは思うけれども。

  • 『孤独でいることが私の仕事になった。それは一つの規律であり、わたしは苦しみながらも完璧に実行しようとし、慣れているはずなのに落胆させられる』―『自分のなかで』

    読み始めた途端に思う。これは「べつの言葉で」に続くエッセイなのだろうか。確か長編小説と帯にはあった筈だけれど、と。

    イタリア語で書かれたジュンパ・ラヒリの「べつの言葉で」は、本当にべつの言葉で語りかけられたようだった。静謐な語り口にそれまでの作品との本質的な違いはない。ただ日本語のニュアンスは少し異なる。それが言語の違いに由来するものなのか、翻訳家の違いに由来するものなのかは、定かではないけれど。それが前作の印象だった。

    しかし今度は同じ言葉で語られながら、英語で書かれた小説とは全く異なる心象を残す作品を読んているのだと、頁を繰る内に理解する。こんなにネガティブなジュンパ・ラヒリの語りは聞いたことがない。

    エッセイのようだと読んでしまうのは、もちろんその日記のような文体に起因する。しかしエッセイとは異なり、一つひとつの短い文章の塊はやんわりと繋がり、確かに小説としての物語がとてもゆっくりと立ち上がる。やんわりと、と言ったのは、文章の前後関係を指し示す符丁がほとんどないからだし、登場人物に誰も名前が無いから。

    特定の場所を指し示す固有名詞も出てこない。うっかりしていると(そして何故だかこの本のジュンパ・ラヒリは、人の意識を遠くに誘う)語っている一人称の人物が同じ人物であるのかも怪しくなる。時にラヒリの横顔がしっくりくる文章があったかと思えば、どうしてもイタリア人の女性(例えばそれは誰の顔を思い浮かべるのが適当なのだろう?)を想定せざるを得ない文章もある。そして、イタリアに住むアメリカ人的な価値観が垣間見えるような文書もある。

    もちろんこれは虚構なのだけれど、何処かでラヒリの記憶と強く結びついているには違いない。だからこそ、この主人公にラヒリの横顔を貼り付けても違和感がないのだし、思わず、いつの間にジュンパ・ラヒリは離婚したのだったか、と勘違いして調べたりもするのだ。

    「停電の夜」の文章が余りに印象的で、短篇こそがジュンパ・ラヒリの言葉を最も響かせる形式なのだと思っていたけれど、極端に固有代名詞を削り、訥々と日常生活の中で沸き起こる感情の起伏を書き記したものを断片的に集めて一つの物語にするというこのスタイルこそ、ラヒリの体得した言語を越えた世界観や価値観を書き表す為の様式なのかも知れない。

  • イタリア語で書くと、どんな感じなのかなと思いつつ、翻訳されたものを読む自分にはあまり関係ないかとも思う。
    拙い言葉がもしあったとして、翻訳者がそのニュアンスを加味して訳すわけでもないから。

    何度もそんなことを思いながら読んだ。

    ともあれ、ジュンパ・ラヒリのファンとしては、彼女の書くものを読めるだけで幸せ。
    ずいぶん長いこと、本棚に飾ってあったが笑

  • 【あらすじ】
    生まれ育ったローマと思しき町にクラス45歳の「わたし」。どんななじみの場所にでもついてくる、道連れのような孤独。自ら選んだイタリア語で書かれた、初めての長編小説。

    【感想】
    歩道で、バールで、本屋で、駅で、どこにいても孤独はつきまとう。でも、孤独はある種の人たちにとっては拒絶すべきものではない。主人公である「わたし」は本質的に一人の時間を愛している。それは選択された孤独と言ってもいいかもしれない。そして、本当の孤独とはどんなに近しい人とも考えを共有することができない、ということだと「わたし」は思っている。昔から確執のあった母親は、孤独とは「欠乏」以外のなにものでもないと考え、その隔たりはわたしに本当の孤独を覚えさせる。この本には愛すべき静かな孤独と、心をかき乱す隔たりとしての孤独が散りばめられている。
    私もきっと、静かな孤独を愛している一人なんだと思う。
    今年読んだ本の中で一番好きな本だ。

  • もうちょっと歳を重ねたらより深く気持ちがわかるのかな。誰かと触れ合いながらも孤独を感じ、だけどその孤独とともに生きていく、抽象的な「わたし」。それは私でもあり、あなたでもある。

  • 「生まれや母語や名前は、自分で選ぶことが出来ない、押し付けられたものである。」

    訳者あとがきに、作者のコメントとして書かれていたものだが、作者は、ロンドン生まれ。両親とも、カルカッタ出身のベンガル人で、これまでの英語やベンガル語ではなく、自ら選んだイタリア語で初めて書いた
    この小説のテーマは「孤独」である。

    どちらかというと、私も孤独を感じることは多く、それは、一人でいるときだけでなく、知人といるときでも感じたりして、辛いなと思ったこともある。その理由は、人それぞれ違うとは思うが、ここでは、両親との距離感が一つのポイントになっている。

    理由はともかく、孤独とは、悪いネガティブなイメージを個人的に持っていたのだが、この小説での、自分で選んだ言葉で書くことで、「押し付けられたもの」を取り除き、抽象的に書くことで、いろいろなものの意味が広がるといった、作者の思いに、私は救われた気がした。

    名前が無いのなら、逆に捉えれば、孤独だって、どこでも誰にでも起こりうる、一般的、普遍的な出来事なんだよと、言われている気がして、これだけでも、この小説を読んだ意味はあったなと、すごく思えました。

    最後に、この小説で、最も印象的だった一文を。母に対する娘の思い。

    「わたしに愛着を感じてはいるが、わたしの考え方には関心がない。その隔たりがわたしに本当の孤独を教えてくれる。」

    この一文には、打ちのめされた。確かにその通り。

  • 著者とも作中の人物とも人種や生まれ育った土地、教育、家族、経験、キャリアなどの背景が全く違うのに、読んでいると不思議なくらい寄り添える感じがする。
    大学で教えている独身の中年女性の孤独な生活が淡々と描かれるだけなんだけれど、どこか温かみが感じられるので救われるし、「ああ、わかる」と思う。自分の中身もClearになって、静まるような気がした。

  • 「わたしはわたしではなく、わたしが去った後もわたしが残る。駅に道端に公園にお店に……」

    この小説は、とても奇妙で、とても身近で。
    「わたし」は主人公で、読者自身で、それでいてだれでもなく、性別すら不要かも。
    書かれているのはイタリアでも日本でも、どこのことでも置き換わる。
    そう、それがだれでどこなのかは、さして重要ではない。

    目に留まる景色、人々のしぐさ、会話、それらを通して再び戻ってくる自分の感情……。
    孤独ではあるも、決して何もないことではない。

    この本のあと、いつものバスからの景色、すれ違う人の「ここ」にいたる物語を想像してみる。
    ひと時に映るどれにも、きっと「ここ」までにあり、この先もあるだろう。
    悲しみ、怒り、苦しみ、喜び、楽しみが……。
    それは、眺めている自分にもあるように。

    きっと、人の感性を呼び戻す読書になる。

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