- Amazon.co.jp ・本 (306ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106001017
感想・レビュー・書評
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東山魁夷は、原田マハさんの小説で知った。
文庫版『生きるぼくら』の御射鹿池と白馬の画のカバーイラスト、『常設展示室』の作中に登場する東山魁夷の『道』という作品に惹かれ、どんな方なのか知りたくなり、こちらの本を読むことにした。
美しい画を描く人は、美しい文章を書くのだなぁ、と思った。言葉に偽りがなく、心にすっと入ってくる。
彼の人生は最初から順風満帆な訳ではなかった。戦争、母の死、日展の落選、その直後の弟の死…
様々な苦しみや悲しみに直面しながらも、自分を見失わず、流行りに流されることなく、自然と対話し続けることで、作品を生み出していった。
そして、世界を旅しながら、自分の心と向き合い、最終的には日本の美を探究していった。
なんて素直で、謙虚で、誠実な人物なんだろうか。人格が素晴らしくて、尊敬してしまう。
本書には、彼の作品がたくさん載っているのだが、小さくて白黒で…それでも心惹かれる作品ばかりだった。ぜひとも画集も観てみたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
東山魁夷の作品が大好きなので、
著作も読んでみたいと思い、手に取る。
成功した画家であり、穏やかなイメージがあったので、順風満帆の人生なのかと思っていたけど、戦争で肉親を全員亡くされていたりと辛い事も経験されていて、それであの作品が生まれたのかなと言う事を知れて良かった。
なんとなく東山魁夷の作品に孤独を感じる時があったので、肉親を失った喪失感とかが反映されているのかなと思ったり。
作品を作る際に考えている事も知る事ができたので、また作品を鑑賞する際にはそういった背景も思いながら見る事ができそうで良かった。 -
東山魁夷といえば、昭和に活躍した近代の日本画家で、唐招提寺の障壁画などで有名である。私は芸術に明るいわけではないが、特に気に入っている画家の一人である。最初に東山魁夷の存在を知ったのは、中学生の頃に祖父から買い与えられて読んだ妹尾河童の『少年H』だったと思う。当時は有名な画家なのだな、という程度だったが、特にその名前の異質さのせいで覚えていた。
自分のお気に入りの画家だ、と思ったのは大学の頃、サークルの旅行か何かで香川県の坂出に行ったとき、東山魁夷せとうち美術館に行く機会があったからだった。作品名を忘れてしまったが、いくつかある緑深い森の中に白馬がぽつんと佇んでいる絵がある。ネットで調べれば長野県の信濃美術館に所蔵されている「緑響く」という作品があるが、もう少し白馬が近かったように思う。ただただ深い森の中の厳かさ、美しさと不気味さを感じる作品に、30分ほどその作品の前で過ごしたことを覚えている。
上述したように大して芸術に明るくない自分であったので、特にその後に東山魁夷のことを調べるなどはしなかった。次に出会ったのが、数年前にたまたま仕事で2ヶ月ほど滞在した盛岡の岩手県立美術館で行われていた東山魁夷の特設展だった。ここでも多くの作品に触れ、心打たれたことを覚えている。このときに、美術館の売店で購入したのが本書であった。
長い間積ん読状態で放置されていたのだが、今回読むにいたったきっかけは2つ。一つは専門外の本を読む機会を増やそう、と思い立って思い出したこと。もう一つは、東山魁夷が晩年北欧を訪れ、風景画を描く旅をしていたという事実を知ったからだった。そして、私が出会った緑深き森の作品は、北欧の森をモデルにしたものだと知った。私は現在ノルウェーに住んでいる。北欧に憧れたわけではなかったが、何の因果かここで仕事をさせてもらっている。個人的に勝手に運命的なものを感じて読むに至ったのだ。
ようやく本書についてである。まず感銘を受けるのは、その表現の豊かさである。絵画に限らず、音楽や映画などのタイプの芸術は、言葉で伝えられない感情・概念などを伝えるものであるように思う。映画評論で博士号を取得しようとしている私の友人も、「映画には言葉で伝わらないものが伝えられる」と言っていた。それは納得なのだが、芸術家である魁夷は言葉でも様々なものを伝えることに長けている、ということがわかる。本書は基本的には著者の自伝であるが、各章は各々の時期に描かれた絵の解説をはさみながら、人生を振り返っている。どのような思いで書いたのか、どういった感情が反映されているのかがわかるのである。そこには、偉大が日本画家としてではなく、苦悩と挫折と戦いながら生き抜いていく人間の姿が描かれている。
本の終盤では北欧旅行の各絵画にまつわる短い話が並んでいる。おそらく私が出会った絵画はフィンランドの湖沼地方の森らしい。ノルウェーでは、フィヨルドや森を描いている。オスロからベルゲンへ、そこからフィヨルド沿いの小さな町ウルヴィックへ。さらにヴォスを通ってフロムへ向かう。聞いたことのある街の名前に、約50年前に訪れた魁夷の足取りを想像するのは感慨深い。そして、自分が見た風景を同じ風景を見たであろう魁夷が、その風景を素晴らしい言葉で表現しているのに感動する。風景とはここまで言葉で表現できるのか、と驚く。
現在では、きれいな風景はすべて写真にとってすぐSNSにアップし、すごい!きれい!といった言葉であっても詳細を共有できてしまう。しかし、かつてはその表現を伝える手段は限られており、絵画と言葉で表現するしかなかった。魁夷のその表現力は、まさにタイトル通り「風景との対話」で培われたものなのだろうと感じる一冊である。 -
心のつらい時、自然に目を向けると救いが見つかるのかもしれない。自然は懐が深く、自分が生きていることもまた、自然である。
日本画家が美術への思索を深める意図で書かれた随想だが、自然や芸術との対話は真理とも思える記述が多く見られ。読み応え充分だった。 -
とても明解に、分かりやすい言葉で綴られている。とてもすんなりと心に入ってくる文章。
旅の中で風景を求めている時は五感を使い、それを絵画にするときは理性的に構図や色調を決めていたのかな。
忙しすぎて自分を見失っている、というところの文は共感しかなくて笑ってしまったし、コペンハーゲンに行きたくなった。
京都と北海道を交互に見る、というのも面白そう。 -
何を見ているのか。何が見えているのか。何を見ようとしているのか。風景だとしても、思念だとしても、写実的であっても、印象的であっても、自らを通して、投影されるものしか、作品にはなりえない。芸術という行為は、ほかの振る舞いと違わず、抽象化の端末であって、ただし、自分ではないだれかへ、また新たな投影を呼び起こす力をもったものになるという点で、「作品」という地位を与えられるようになる。
作品であろうとする意思が、芸術的行為とそうではないものを隔てている。
その意思は、定められたものを表そうという振る舞いではなく、少なからず、いまのところ見当たらない存在を取り出そうという試みになる。つまり、答えを描くということではなく、自らが答えを作り出すという、創造という意味を実現する営みを起こすことになる。それは結局、自らと向き合う、自らに入り込み、自らに表れてくるものを掴み取るという、自身の姿かたちを見出すことと同じになっていく。
芸術を試みるひとは、つまり、自分と向き合えるひとのことではないだろうか。向き合い続けるひと、向き合うことを求めるひとと言い換えてもよいかもしれない。それは、考えることをやめない人であるということだ。
魁夷という歴史に名を残す大家が、随想で、自らの芸術という行為をきちんと言葉に置き換えていることは、当然のことかもしれないが、考えるという下敷きの上に、芸術が作品になるということを覚えさせてくれる。創造という抽象的振る舞いは、もっとも人間らしい、人間だからこそ表れてくる、思考がはじけた、泡沫をこの世界に固定化し、残そうという強い希望だからだ。
いってしまえば、印象でしかない。感覚でしかない。
それでも、それに真剣に向き合い、徹底的に自らというものを通した出力に仕立てようとしたならば、それは表現になる。芸術的行為とはそういうものだ。当たり前のことだが、建築的行為にも少なからず、その感覚はあるもので、むしろ、なければ成り立たない。なくても成り立つものは、それは建築といっても、そういう建築だとみなすことしかできない。 -
写真歴について。趣味の写真歴は35年間である。映画鑑賞が趣味だったこともあり写真など簡単なものだと思っていたがなかなか自分の思うような写真が撮れなかった。そんな時に出会ったのが、東山魁夷著「風景との対話」という本である。それ以降この本がわたくしの作品作りのバイブルとなった。東山芸術の特徴としてシンプルに整理された構図と高い表現技術があげられる。青をテーマにした作品が多く、青だけで600種類以上もの絵の具を使用して作品作りに取り組んでいるそうである。素人だったわたくしは風景絵画を描く際に絶景を探して、そこにキャンバスを構えて描いてゆくものだと思っていたがどうやら勘違いのようであった。絶景を探しに北欧まで旅行に行くこともやっていたが、作品の制作は自宅のアトリエで行なっているそうである。東山魁夷の作品は非常に美しいが花や紅葉だけを描いている訳ではない。習作であるが「樹根」という作品がある。大地にがっしりと根を張った武骨な形を描写した作品である。この作品を観た時に東山芸術の精神を垣間見たような気がした。何を感じたかというと風景との向き合い方が自分と違うことに気が付いたのである。一本の木を描く時に春の美しい花、秋の美しい紅葉だけが被写体ではないことに気が付いたのである。当たり前のことであるが、木には地面の下に根っ子があり幹があり枝がある。花々や紅葉は枝の先にあるのである。東山魁夷が描写するものは表面的な美だけではない。わたくしはこの作品を観て「目から鱗」という経験をした。写真の被写体を探す際に自分が「綺麗な写真」や「上手い写真」を追い求めていたことに気が付いたのである。この本により風景との向き合い方が大きく変化した。この本は名著なので是非とも一読することをお勧めしたい。
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写真哲学について。わたくしの写真のバイブルは東山魁夷著「風景との対話」なので風景が主な被写体である。風景に自分の心の原風景を投影しているのである。もっと幅の広い芸風にしてゆくべきかも知れない。太古から日本人は風景を信仰の対象にしてきた歴史がある。これは非常に日本人的である。当たり前のことを実は奇跡のような凄いことだと感じる感性。日常にありふれた素朴な感動を大切にしているのである。「生きる」のではなくて「何者かに生かされている」という意識が存在する。これは日常を超えた何者かの存在を感じるということである。これを称して「神」と言う人もいるだろう。こうなってくると宗教哲学的な思索の世界になってくる。「形而上学的世界観」と言えば格好はいいが、思想が「空中楼閣的」なのが特徴と言えば特徴であろう。 -
東山魁夷がこんなに文章を書く人とは知らなかった。しかも西洋画に興味があったとは・・・
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東山魁夷は、文章でも作品を描けるのだ。