- Amazon.co.jp ・本 (127ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106021930
作品紹介・あらすじ
没後10年を過ぎたいまも愛され続ける須賀敦子のエッセー。彼女の目や心に刻まれたものを、撮りおろし写真と貴重な証言でたどり、その作品世界に迫ります。
感想・レビュー・書評
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須賀敦子は、全集の1巻と2巻を読んでいる。1巻・2巻には、作品としては、「ミラノ 霧の風景」「コルシア書店の仲間たち」「旅のあいまに」「ヴェネツィアの宿」「トリエステの坂道」が収載されている。
ブグログに書いた全集第1巻の感想にも書いているが、「コルシア書店の仲間たち」は、ウンベルト・サバという人の、とても印象的な詩で始まっている。
【引用】
石と霧のあいだで、ぼくは
休日を愉しむ。大聖堂の
広場に憩う。星の
かわりに
夜ごと、ことばに灯がともる
人生ほど、
生きる疲れを癒してくれるものは、ない。
【引用終わり】
本書は、須賀敦子がその著作の中で語っている場所や絵画等について、文章と写真で紹介したものである。須賀敦子の作品をより良く味わうためのものであるが、特に写真がとても綺麗であり、作品で読んだ、すなわち、須賀敦子が見たミラノやヴェネツィアやフィレンツェがどのように印象的な場所なのかであることが、少し理解できたように思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
須賀敦子さんのエッセー集「コルシア書店の仲間たち」(文春文庫)を読了。
エッセーとは言いながら、極上の連作短編集のようで、至福の読書時間となりました。
こんな重要な作品を読んでいなかったなんて……。
それどころか、自分はこれまで須賀さんを完全にスルーしていました。
本読みとしては猛省しなければなりますまい。
というわけで、図書館で本書を借りました。
須賀さんをもっと詳しく知りたいと思ったのですね。
「彼女の目や心に刻まれたものを、撮りおろし写真と貴重な証言でたどり、その作品世界に迫ります」
というのが本書の趣旨。
イタリアの町の写真がとにかく美しく、見惚れてしまいました。
特に、「コルシア」の舞台となったミラノね。
「コルシア」を読んでから、本書に収められたミラノの写真を見ると、いろんなものがこみ上げてきました。
今年は須賀さんの没後20年に当たります。
これも何かのめぐり合わせ、少し追いかけてみようかな。 -
須賀敦子さん。1929年生まれ。聖心女子大学卒業。24歳で初めてイタリアを訪れ、29歳からの13年間をイタリアで過ごす。61年ペッピーノと結婚。日本文学の伊訳多数出版。6年後に夫が急逝。71年帰国。慶応上智等で講師をしたのち、56歳でイタリア体験をもとにした文筆活動を開始………
この本は、生前彼女と交流のあった松山巌氏と編集部が彼女の訪れた地を訪ねたときの記録。松山氏から須賀敦子さんへのレター。
80~81頁の「須賀敦子のイタリア地図」がものすごく好き!素晴らしい企画。
私も彼女のエッセイを再び読んで、この本を片手にイタリアに行きたい。
そのためにはイタリア語を勉強しなくちゃいけませんね…。 -
写真がたくさんあって、簡潔な文が添えられている。ビジュアル・ムックという形式である。この形だから伝わる、こうでないと伝えられないというものがある。
同じシリーズの『モディリアーニの恋人』では、愛人ジェンヌが、天才画家の陰の女などではなくて、才気溢れるひとかどの女流画家なんだと見せつけられた。それは、彼女自身が描いた絵を見れば、「彼女の才能は」という凡百の文句より一見に如かずであった。
『洲之内徹絵のある一生』では、洲之内が「盗んででも」と焦がれた一枚が、美術館でいつも私の足を止めさせる一枚であったことに鳥肌ものの衝撃をうけた。「彼の稀代の審美眼は」という文だけではこうはいくまい。
それでこの『須賀敦子の歩いた道』である。
私を捉えた写真が二枚あった。まず表紙だ。
須賀敦子とイタリア人の夫ペッピーノのツーショットだ。60年代のある年の冬なのだろう、「オーバー」というのが相応しい分厚いコートを揃って着ている。彼女はベージュ、彼は紺のいかにもイタリア仕立てのものだ。
かつてはともかく今日の日本で、こういう毛布でできたような分厚いコートは探しても見つからない。店を覗いても、高くとも4万円ぐらいとコストはひと昔前の半分以下だが、触ってみると薄っぺらなものばかりだ。しかも、ブランド名だけはヨーロッパデザインを装っているが仕立ては例外なく中国製だ。試しに同じサイズのものを計量したとしたならば、今店頭に並んでいるウールやカシミアのコートは、10年前のものの2割か3割目方が少ないはずだ。1着6千円とかのユニクロの製品と競合しなけりゃならないのだから仕方がないのだろうが、淋しくお寒い限りである。
夫の急逝により終わった須賀敦子の結婚生活はわずか6年。それを知る者にとり、貧しい書店員だったのに、温かそうなオーバーを着て笑顔を見交わす二人の姿は救いであり、でも、やはり切なくもある。
もう1枚は、ミラノの≪コルシア書店≫跡地に残る別名の書店の入り口の1枚だ。店名以外は往時と変わらぬドアを挟んで、コリント様式の立派な円柱が二本たっている。ローマのコロッセウムでも、パリのパンテオンであろうとも、この壮麗な円柱が訴えているのは、「吾こそは古典古代から連なる西欧文明の正当な継承者なり」というアッピールだ。
須賀の代表作『コルシア書店の仲間たち』で描かれた仲間たちが、如何に権威に抗い、その権威の再構築に挑んだとしても、この場所は西欧文明の根幹たるローマカトリックの教会の敷地の一部であったのだ。だから、書店の創設者だった二人の聖職者は追放され、仲間たちは退去の憂き目に遭う。その経緯を知る読者の眼には、冷厳にそびえる柱はカトリックの権威そのものに見えてしまう。
写真ばかりではない。ひとつの≪文≫も私を捉えた。ブッタギ来日の折の対談での須賀さんの発言である。須賀さんは彼の主著の翻訳者だ。「よく、自分は何語で死ぬんだろうと思う。死の床にある私に誰かがイタリア語で話しかければ、私もイタリア語で返事するでしょう」、死ぬわずか四カ月前の発言である。
発言を紹介しているのはイタリア人の早大教授。須賀の教え子である彼は、「先生、何語で旅立たれたのですか、と今でも、心の中で問いかけています」と文を締めくくっている。
ふう、と私は本を閉じた。その時私は出勤途中のバスの席に座っていた。気づくと目の前に若いカップルが立っている。いつ乗って来たんだろうか、「魚らん坂下」あたりからだろうか。魚らん坂下は、バスのルートが白金・広尾エリアに最も接近する地点だ。それは須賀敦子が幼少の一時期を過ごし、女学生時代を生きたエリアでもある。見ると二人は、今どき珍しい上質なダウンジャケットを着ている。女はベージュ、男は紺の。女の方はフード付きでフェイクではない本物のファーが付いている。腕のエンブレムをみると「モンクレール」ではないか。
慶應義塾大学正門前。
バスのアナウンスが告げる。須賀敦子が院生として、嘱託職員として無名時代の何年間を過ごした大学だ。
「先生、何語で旅立たれたのですか」
私はそのひとことを反芻した。
バスが、ラーメン二郎が元あった角を左に曲がるとき、かたん、と、少し揺れた。目の前の女の親指が1センチだけ動いて、同じ手すりのすぐ上を掴んでいる男の子指にちょっと触れた。男の薬指にリングがある。
二人は秘かな笑みを見交わす。
ばか野郎。決まってるじゃないか。須賀敦子の死の床に誰が迎えに来たのか。そして彼女が何語で答えたのか。わかりきってるじゃないか。こみ上げてくるものと、溢れてくるものを、私は堪えることができなかった。
二人が驚いてこちらを見る。
「次は慶応大学東門前、東門前です」
アナウンスが告げた。