未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命 (新潮選書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106037054

作品紹介・あらすじ

天皇陛下万歳!大正から昭和の敗戦へ-時代が下れば下るほど、近代化が進展すればするほど、日本人はなぜ神がかっていったのか。皇道派vs.統制派、世界最終戦論、総力戦体制、そして一億玉砕…。第一次世界大戦に衝撃を受けた軍人たちの戦争哲学を読み解き、近代日本のアイロニカルな運命を一気に描き出す。

感想・レビュー・書評

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  • ゾクゾクするような論理展開。持たざる国である日本を軸に第二次世界大戦に突入し、玉砕覚悟の総力戦に至る思想に迫る。

    「明るくなったろう」お札を燃やして灯りを点す。有名な教科書の挿絵、第一次世界大戦の特需に沸いた成金が出発点だ。日露戦争による巨大な外国債務により日本経済は青息吐息。企業の倒産が相次いでいたところに、第一次世界大戦が長期化した事で、ヨーロッパ諸国日本から軍需品を輸入し始めた。戦争特需に加え、ヨーロッパからの輸入品が来なくなり輸入に頼っていた物資が不足。鉄、硫酸、アンモニア、化学染料、薬品、ガラスなどなど。これらが派手に値上がりしていく中、国産にすることで儲けようと言う投資が活発化。日本は局地的に参加した青島戦で、物量や兵器の近代化、血対鉄の力学を学ぶ。持たざる国を脱却しなければならぬ使命感が増す。

    銀河鉄道の夜、ジョバンニの台詞を引く「ぼくたちここで天上よりもっといいとこをこさえなけぁいけないってぼくの先生が云ったよ」法華経の教え。天上彼岸に行って救われようとするキリストや親鸞とは違う、現世で立場を変えるのだ。

    田中智学の造語である八紘一宇。共感したのが石原莞爾。目指すは満州。満州により、日本を持たざる国から変えようと。更に日本古代の書、開戦経。勝ち負け生き死ににこだわらずひたすら闘い続けるのみという真鋭の観念。生きて虜囚の辱めを受けず、バンザイ突撃に通ず。最高のまことは、みこと。すめらみこと。玉砕こそ持たざる国の必勝兵器。こうして、精神論を成就させ天皇の軍隊は散りゆく御霊へ。

    全てが意識的に繋がるものではないが、通底する論理展開。至上命題であった持たざる国の克服が導く歴史の壮絶さ、然り。

  • 数年前から全体主義について、ボチボチ読んでいるところ。きっかけは、トランプ大統領の就任とか、移民問題とか、ヨーロッパでのポピュリズム的な動きとか。

    まずは、全体主義が一番徹底していたと思われるナティスドイツを学んで、その後、共産主義国を経由して、日本にたどり着く予定だったのだが、ナティズムを読むなかで、アーレントにハマって、アーレントの翻訳書をかたっぱしから読んだり、ホロコースト関係の本はヘビーなので時間がかかったりして、日本にはたどり着かない状況。

    でも、コロナ後の世界で、もう一度、全体主義を学ばなきゃという意識が高まり、また日本のオリンピックやコロナ対応を通じて、あらためて性差別、人種差別、ジェンダー意識、人権軽視、そして優生思想などなどのディスコースが明らかになり、まだまだナティズムもよくわからないなかではあるが、日本型の全体主義も読んでいこうと思って、手にとってみた。

    日本のファシズムに関する本で最初に読むにはちょっとニッチかなと思いつつ、帯の「日本人はなぜ天皇陛下万歳で死ねたのか」という言葉にひかれて読んでみた。

    多分、これまでの解釈だと、「日露戦争くらいまでは日本は欧米諸国にまけないように、植民地化されないように、謙虚にがんばっていた。だが、日露戦争に勝って一安心して、慢心してしまった。また、乃木大将の旅順攻略における精神主義的な(?)戦術で結果として勝利したことが、その後の精神主義的な傾向を強めることになった」みたいなものかと思うけど、この本は、そこに異論を唱える。

    日本軍、しかも(精神主義が強いと思われる)陸軍は、日露戦争を通じて、物量の重要性をちゃんと教訓として学んでおり、それを活かして第一次大戦時の青島攻略では、当時の欧米諸国より進んだ新しい形の戦争を実行していたのだ。

    さらには、第一次大戦時には、ヨーロッパの国に多くの優秀な人材を派遣しており、そこで、新しい形の戦争をじっくりと学んでいた。そして、彼らが学んだのは、これからの時代の戦争は、総力戦であること。平時の経済力、生産力が、戦時に、戦争にむけての生産力に転換されるということ。ゆえに、経済力を高めること、そして、それを戦時に集結できる仕組みが、これからの戦争の勝敗を決めるということを身に染みて学習していたのだ。

    にもかかわらず、どうして、陸軍は精神主義になってしまったのか?

    著者は、経済的な国力の差が重要だと分かれば、分かるほど、日本は戦争できない「持たざる国」であるということが身に染みて、ある種の絶望に陥った、と主張する。

    そこで、あるものは、自分より弱い国を相手にした戦争しかしないとか、強い国との場合は限定的な戦争にして短期決戦に持ち込むしかないと考えた。また、あるものは、近隣の資源が豊かな地域(=満洲)を占有し、数十年かけて経済力が高めるまでは戦争はしないようにすると考えた。

    が、いずれも「戦争はしない」とか、「戦争をすると負ける」とは、軍事上、言えないので、「精神主義的なディスコース」をとりあえず、公式には語っていたという。

    しかしながら、軍は、政府ではないので、経済政策を担当するわけではないし、戦争をするとか、しないとかを決定することもできない。「戦争しろ」と命ぜられたら、戦争するしかない。また、自分はしたくなくても、敵が攻めてくることもある。

    ということで、当初は「外向けの建前としてのディスコース」だったものが、支配的なディスコースになって、玉砕賛美、天皇陛下の神格化を哲学的?に基礎付ける方向での理論化が進んだというのだ。

    なんと。。。。。

    この本は、陸軍における「戦争思想」とでもいうものの変遷をまとめたもので、陸軍以外の軍や政府、国民などの意識の変化のなかで考える必要はあるのだが、これはこれまでにない新しい視点で、長年のなぞの一部が解けた気がした。

    現実を明確に理解したがゆえに生じる精神主義。これはかなり痛い視点だな〜。

  • 勝てるはずのない戦争に突入したのは、日本軍の過剰な精神主義が原因、との通念に違う角度から光を当てる本。

    ヨーロッパが焦土と化した第1次世界大戦。日本は日露戦争の教訓を生かし、兵士を無駄死にさせない最先端の砲撃戦を実践していた。本来は物量戦が望ましい。それはわかっている。しかし「持たざる国」日本では徹底的な突撃しかない(皇道派)。あるいは国家主導の経済強化で「持てる国」になるしかない(統制派)。いずれにせよ、勝てるようになるまで戦争はできない、それが軍部の(隠れた)意向だった。

    古代の政治の理想である「しらす」(天皇自らは決めず、いろいろな意思の鏡となり、人々はそれを仰ぎ見てしらされる)、の思想のもと、あえて権限を持たない機能の寄せ集めとして明治憲法は制度を設計した。それは維新の元勲の密室政治を前提とした仕組みであり、ファシズムなど目指したくても目指せる代物ではなかった(欽定憲法を改正するなどという主張はできるはずもなかった)。日本のファシズムは未完であった、という。

    権限の集中による総力戦体制も作れないまま、それを補うための神がかり的な玉砕が礼讃される。明治維新、大正デモクラシーと時代が進むほど、むしろ精神主義は加速した。

    大きな敵に小さな力で挑む、これを応援するのは日本に限らない。では小さきものの武器はなにか。工夫や手練手管か。はたまた「根性」か。別の話といえばそれまでだが、かつて松井選手への5連続四球を国を挙げてバッシングしたことを私はどうしても思い出してしまうのだ・・・

  • 戦術思想史を日露戦争から第二次世界大戦に至るまでの変遷を概観した快著。
    ・青島の火力に頼む近代戦
    ・ドイツフランスに輸出された日露戦争の勇猛果敢な突撃戦術
    ・ネタがベタになった短期決戦・包囲殲滅ドクトリン

  • 第一次世界大戦に衝撃を受け、総力戦を徹底的に知り尽くした陸軍軍人たちが資源のない「持たざる国」=日本が「持てる国」と戦争するにはどうすればいいか。精神力で補うしかない。この認識から生まれた軍人たちの戦争哲学を解き明かした内容。




    第一次世界大戦で戦争の形態が変わった。
    戦場で兵士が闘うだけでは勝てない。経済・社会・政治を巻き込んだ総力戦というものでになった。総力戦ではなにより、物量が勝敗を決める。そこでは火力が重要であり、最新の武器が必要であり、物を補給する力が勝敗を決める。国家総力戦となった。そこでは資源を持つ「持てる国」が勝つ。

    皇道派である小畑敏三郎や荒木貞夫は、日露のような肉弾戦のような戦い方では、これから戦争には勝てない。日本は資源がない。持たざる国だ。この徹底した認識。第一次世界大戦を観察し、洞察し、知り尽くした軍人たちは、そう認識した。


    だから、「持たざる国」が「持てる国」と闘うにはどうすればいいか。
    そこで皇道派の小畑は考えた。戦争は短期で、包囲殲滅作戦で、さっさと終わらせること。武器・弾薬、など足らない物量や戦力は精神力で補うこと。短期決戦- 包囲殲滅-精神力。これでなんとか闘う。決して強い持てる国と闘ってはいけない。



    これを明記したのが「統帥綱領」であり、「戦闘綱領」だ。しかし2・26事件で小畑・荒木皇道派が粛清人事で軍から追放されると、統帥綱領に記された本当の意味を理解するものが軍からいなくなり、文字に記された精神性だけが一人歩きし、暴走し始める。



    一方の統制派も皇道派と同じ認識を共有していた。代表格の石原莞爾。彼はこう考えた。「持たざる国」が持てる国と戦争をするにはどうすればいいか。外に資源を求め日本を「持てる国」しよう。そう考えた彼が進めたのが満州事変。ここから満州国建国という歴史の流れが生まれる。



    最も戦慄するのが工兵の中柴末純。彼の神がかった玉粋思想。持たざる国が戦争するには、兵士が喜んで、死んでいくこと。これが作戦である。
    玉粋こそ作戦である。兵士が喜んで死んでいく。敵は気味が悪いと思う。相手を怖じ気づかせられれば勝ち目も出てくる。そのために、日本人がどんどん積極的に死んでみせればいい、と考えた。これで「持てる国」も怖じけづく。持たざる国・日本にも勝ち目が出る。狂人だったわけではない。彼は工兵だ。軍のなかでも合理的思考ができないと勤まらない。中柴は合理的に考えて、戦争思想を突き詰めていった。



    今までイマイチ分からなかったことが腹に落ちた。陸軍の皇道派を自分は勘違いしていたかもしれない。ただの精神主義に凝り固まった頭の悪い軍人だと。昭和の陸軍軍人がなぜタンネンベルクの戦いに魅了され、短期戦・殲滅作戦に固執したか。石原莞爾が満州にこだわった動機。
    第一次世界大戦という日本近代史の空白地帯から、陸軍軍人たちの戦争思想を解き明かす。その鮮やかな手腕と斬新な視点は見事でした。
    お薦め。

  • 先日、「米軍が恐れた「卑怯な日本軍」」という書籍を読んで、玉砕までをも含む旧日本軍の戦術と、それに対応した米軍の戦闘マニュアルについての感想をあげたところ、本書を薦めていただいたので、読ませていただきました。
    本書は、日本軍の戦術の規範が、なぜ極端な精神主義に偏り、玉砕に突き進むようになったかを、第一次世界大戦以降の日本、そして日本軍人の描写を通じて解説しています。
    日露戦争で、肉弾による突撃を主とする戦法は、既に機関銃、重砲を備えたロシア軍の前では、既に時代遅れのものであり、きわめて大きな犠牲を払うこととなった。
    日露戦争の犠牲を踏まえ、長期間にわたった第一次世界大戦の動向を学んだ日本軍は、すでに第一次世界大戦以後の戦いが、大量破壊兵器同士の戦いになり、そしてその戦いを勝ち抜くには、大量の物資を必要とする物量作戦であることを、十分認識していた。
    だからこそ、日本軍は青島の独逸軍と戦った際に、いたずらに突撃を繰り返すのではなく、十分な砲撃を踏まえた、一気の突撃により、驚くほど短時間でドイツ軍を撃破することができたのだった。
    その、物量作戦を指揮した軍人が書き起こした「統帥綱領」や「戦闘綱領」は、その物量作戦を知ったうえで、運用すべき戦場のルールであったのにもかかわらず、第二次世界大戦に突き進む我が国では、いつのまにかルールに書かれたこと至上主義となり、モノより精神、武器の足りないところは鍛錬で補い、良く敵を殲滅するという方針だけが形成されていく。
    玉砕戦術しか指揮できない参謀本部、旧陸軍の高級将校たちは、やはり無能ではなかった。しかし、当初、このルールを策定した実戦経験を踏まえた先輩軍人たちの知恵を活かすことができず、ただ、ルール至上主義で破滅に向かって進まざるを得ない状況になっていたのかもしれない。

    作者は、あとがきをこう締めくくる。「この国のいったんの滅亡がわれわれに与える歴史の教訓とはなんでしょうか。背伸びは慎重に。イチかバチかはもうたくさんだ。身の程をわきまえよう。背伸びがうまく行ったときの喜びよりも、転んだ時の痛さや悲しさを想像しよう。そしてそういう想像力がきちんと反映され行動に一貫する国家社会を作ろう。物の裏付け、数字の裏打ちがないのに心で下駄を履かせるのには限度がある。そんな当り前のこともことも改めて噛み締めておこう。そういうことかと思います。」

    ただ、根拠のない安全をよりどころに、人間が制御できていない原子力発電に手を出して、万一のことには思い至らず、無視し、一時の利益のみに群がり、しゃぶり尽くす。そんな現代の日本人は、多くの犠牲を払って日本人が獲得した知恵を活かしているとはいえないのではないだろうか。
    そして、ルールルールとそれだけを拠りどころにし、そして言葉巧みに利用して自らの正当性を主張する、どこかの政治家は、その法が作られた意図を理解しているのだろうか。
    なるほど、この書籍は現代日本に読み替えても、なかなか示唆に富んだものだといえるだろう。

  • ・P214:和辻哲郎の苛立ちと長谷川如是閑の達観
    しかし、座談会に臨む和辻の基調はやはり怒りです。何に怒っているのか。戦時下の日本の実情にです。

    対英米戦という世界的大戦争が始まって、国内では「挙国一致」の類のスローガンだけは盛んに叫ばれている。けれども実のところは政治も社会も経済も文化も細かく割れているばかりだ。国家社会のあらゆる局面で縄張り争いが甚だしくなっているのではないか。団結し、強いリーダーシップに従い、一丸となり、総力を挙げて事に当たろうという姿勢がちっとも見えてこない。明確な展望もない。そその辺に我慢がならない様なのです。

    如是閑は、本気で意見が一致してひとまとまりになり誰かの指導や何かの思想に強烈に従うことは、いついかなる時でも、たとえ世界的大戦争に直面して総力を挙げなくてはならない時でも、日本の伝統にはないのだと主張します。

    幕末維新は尊王派も佐幕派も攘夷派も開国派も居たからこそ、かえってうまく運んだ。色々な意見を持つ人々が互いに議論したり様子を見合ったりして妥協点を探る。一枚岩に慣れない。常にギクシャクしながら進む。その結果、自ずとなる様になる。複雑で一致しない多くの力の総和や相乗や相殺として、常に日本の歴史は現前する。それをいけないとはあまり思わず、むしろよしとして放任するのが日本の伝統だ。

    無理に力ずくでまとめようとすればするほど、この国はうまく行かなくなる。てんでバラバラになりそうなところをみんなが我慢し、表向きは妥協しながら、結構勝手なことをしている。そのくらいで丁度良いのだ。和辻は間違っている。如是閑の意見はそんなところでしょう。

    ・P216:「しらす」と「うしはく」
    「うしはく」は強権政治をピッタリと表す言葉でしょう。押して掃く。力ずくで従わせる。苛烈なリーダーシップで統率する。和辻哲郎が、大戦争に直面しながら統率が利かず一枚岩になれないこの国は何なのかと憤るとき、そこには「うしはく」への憧憬がちらついているでしょう。

    「しらす」は知らすである。上に立つものが己を鏡として、下の者たちのありのままを映し出す。よく映し出すことがよく知ることである。下の全部が見えて映せるのは上にある鏡だけ。知ることは上に立つものの特権である。上に立つ者は知ったことを改めて下に知らす。それが日本の政治だ。「しらす」の政治だ。

    ・P223:「持たざる国」のファシズム
    明治憲法の仕組みは、天皇が大権を保持し、しかも天皇の統治行為は「しらす」でなくてはならず、下々は分権というわけですから、これでは論理上、誰もリーダーシップをとれないという結論になってしまいます。

    しかし、実際はそうではありませんでした。明治時代は元老政治だと歴史の教科書にも書いてある通りです。つまり明治維新の元勲、元老たちが居るというのがあくまで前提条件になっていて、維新の経過から見ても、彼らがリーダーシップを取るというのが政治の基本でした。その上で明治政府も明治憲法もできてくる。

    ところが維新の元勲とか元老は、内閣や議会や裁判所、三権の何処かに属するポジションではありません。憲法上の規定もない。それなのに力がある。要するに黒幕みたいな者ですが、しかし元老たちは幕の後ろに隠れずに、日本の顔として表に出ていました。表舞台にいるのです。とはいえ法的には何者でもない。跡継ぎの決め方も、何人居ればいいかも、何も決まり事がない。ということは、跡目がどこかで絶えて、いずれは居なくなってしまうかもしれない。そういう人たちがリーダーシップをとってはじめて機能しえたのが明治のシステムだったのです。

    このように、明治の政治システムはいわば超法規的な、異常なものでした。憲法の仕組みとその背景にある「しらす」の思想だけ見ると、誰も力を持てない形で出来ているけれども、実際は、誰も力を持てないシステムを作り出した維新の元勲、元老たちの手で回せる様になっている。でも、彼らの寿命が尽きたら、憲法だけ残ってあとは知らない、という事になる。事実、そうなってしまったのが大正から昭和なのでしょう。

    このような流れを強調すれば、たとえば丸山眞男流の、日本の政治の無責任は古代以来の超歴史的なものだという見解には疑義が生じます。あるいは司馬遼太郎のように、明治まではよかったが日露戦争の後の日本の政治家や軍人はヴィジョンもなく指導力もない者ばかり、と考えることもできなくはありませんが、しかし実は一番悪いのは明治のシステム設計だったとも言えるのです。明治が一番悪く、そのツケを後世が高く支払わされた。そう考えてもいい。その高いツケが、「皇道派」と「統制派」双方の総力戦思想の行き詰まりにも、如実に見て取れるのではないでしょうか。
    〜中略〜
    結局、ファシズム的に統合しようとしたらファッショはダメだとかいうことで、みんなに攻撃されるというのが第二次世界大戦中の日本の現実だったわけです。それに対して、言論統制や思想統制くらいは法的にもやりやすかったから、反対派を黙らせることはできた。この様な統制・弾圧の歴史的事実を持ってして、東条独裁だった、日本はファシズムだったという通念が、戦後の日本に根付いていったように思われます。

    しかし、ファシズムが資本主義体制における一元的な全体主義の一つの形態だとすれば、強力政治や総力戦・総動員体制がそれなりに完成してこそ日本がファシズム化したと言えるわけでしょうが、実態はそうでもなかった。むしろ戦時機の日本はファシズム化に失敗したというべきでしょう。日本ファシズムとは結局のところ、実は未完のファシズム謂であるとも考えられるのではないでしょうか。

  • 玉砕する軍隊こそが、「持たざる国」の必勝兵器だったのです。

    世界大戦時の歴史に無知すぎるので勉強。
    第二次世界大戦の日本といえば、物資がない国なのに、長期戦争する、過剰な精神論、命と補給の軽視、アジアを広範囲に侵略、戦争のゴール設定がない、ファシズムといいつつ誰が束ねていたのかよく分からない…と、あとから見ると全く理論的に見えないのだが、この本によると、意外と当時の軍人は他国の戦争を視察したり、物資がないから物資「持てる」国との戦争は無理だね…等、その時その時で現実的な考察をしていたことに驚いた。そしてあまりにも「持たざる国」である点を見つめた結果、もう精神論しかないから玉砕で勝利するしかない、補給が必要なほど長期間戦争しないから大丈夫(でもゴール設定がないから長期間になって餓死)という恐ろしい方向性に次第に傾いていったと解説している。
    現実を直視した結果、非現実的な精神論に至る…一見変なようにも見えるけれど、総理大臣が育休中も休みだからリスキリングできるよね?少子化対策は社会の”雰囲気”を変えることだよね、と発言する等、最近も起きてる気がするのがなお怖い。

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    内容(「BOOK」データベースより)
    『天皇陛下万歳!大正から昭和の敗戦へ―時代が下れば下るほど、近代化が進展すればするほど、日本人はなぜ神がかっていったのか。皇道派vs.統制派、世界最終戦論、総力戦体制、そして一億玉砕…。第一次世界大戦に衝撃を受けた軍人たちの戦争哲学を読み解き、近代日本のアイロニカルな運命を一気に描き出す。』

    『未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命』
    著者:片山 杜秀(かたやま もりひで)
    出版社 ‏: ‎新潮社
    単行本 : ‎346ページ
    発売日 ‏: ‎2012/5/25

  • 日本が持てざる国だったからこそ、たどった歴史の筋道を丁寧にたどっていく。思い描いていたようなファナティック一色では無く、理性的、合理的な人もいたことに驚きでした。国柱会の面白い主張にも惹かれました。力作です。

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著者プロフィール

1963年生まれ。政治思想史研究者、音楽評論家。慶應義塾大学法学部教授。著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』(いずれもアルテスパブリッシング、吉田秀和賞およびサントリー学芸賞)、『未完のファシズム』(新潮選書、司馬遼太郎賞)、『鬼子の歌』(講談社)、『尊皇攘夷』(新潮選書)ほかがある。

「2023年 『日本の作曲2010-2019』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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